20話
信じられない光景に、私は目を疑った。
ナタリーさんが、一番近くにいた中年の男を投げ飛ばした。
いや……これは……投げ飛ばしたって言っていいのか……?
普通、人を投げるには柔道のように組みついて投げる、というのが私の中での常識。
それなのにナタリーさんは、片手で相手の腹を掴み、持ち上げ、軽々と放り投げた。
それだけでも異常なのに、投げ飛ばされた男は放物線を描くワケでもなく、とんでもない速度で水平に飛んでいき、勢いよく壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなってしまった。
し、死んだんじゃないの……あれ……。
呆然とする私と、明らかに動揺が広がっていく男達。
好戦的だった態度は影を潜め、後退りしていた。
想像していたのと違っていたのだろう……タカシとナタリーさんを見る目に、怯えの色が混じる。
「お、お前! こ、こっちに来い!」
「きゃあ!」
一人の青年が、お酌をしていた同期の菫さんに飛びかかった。
逃げられないように首に腕を回し、ナイフを突き立てる。
「コ、コイツがどうなっても────」
「良くねぇよ」
一瞬で距離を詰めたタカシが、青年の両手首を掴み込み、菫さんを解放するように、ゆっくりと腕を広げていく。
「ごめんね。ちょっと離れててくれる?」
「は、はい……!」
そそくさと腕をすり抜けて脇へ逃げる菫さん。
タカシがそれを見届けると、両手首をへし折り、凄まじい速さで往復ビンタをかました。
破裂音が響き、目と鼻と耳から血を吹き出しながら、青年が崩れ落ちる。
顎も外れたようで、歯が何本か抜け落ちていた。
私の知ってるビンタじゃない。
「か、勘弁してくれぇぇぇ! 勘弁してくれぇぇぇ!! た、助けてくれぇええええええ!!!!」
タカシに目を奪われていると、今度は初老の男の叫び声が聞こえてきた。
目を向けると、ナタリーさんが男の足を掴み、引きずって歩いている。
そのまま壁の近くまで移動した彼女は、片手でジャイアントスイングのように、男を振り回し始めた。
「ち、ちょ、ちょ、ちょ、や、やめ、やめ、た、たす、助けてぇぇぇ!!」
悲痛な悲鳴が漏れるが、悲しい事にそれで終わりではなかった。
ある程度勢いがついてきた所で、ナタリーさんは男を壁に向かって叩きつけ始めたのである。
何度も、何度も、ボロ雑巾のように壁へ体を叩き込まれていく男。白い壁が、赤く染まっていく。
文字通り血だるまになっていく様子に、その場にいた全員が絶句した。
人間の力じゃ無い……ゴリラ? ナタリーさんがゴリラに見える……。
凄惨な光景に、男達はついに発狂した。
「うわああああああああ!! うわああああああああああ!!」
「ゆ、許して下さい!! ご、ごめんなさい!! ごめんなさい!! ごめんなさい!!」
オシッコを漏らしながら、泣いて懇願する男達。
最早、最初の威勢なんてどこにもない。
必死で床に頭を擦り付けていた。
「バッチぃなぁ……なに漏らしてんだよぉ……」
うんざりした様子で、ナタリーさんが侮辱の視線を向ける。
掴んでいた初老の男は、誰が見ても分かるくらい、虫の息になっていた。
「ゆ、許して下さい!! 申し訳ありませんでしたぁぁぁ!!」
「なんだよ急にぃ〜。さっきまでの威勢は何処行ったんだよぉ〜」
「勘弁して下さいぃぃ!! ごめんなさいぃぃ……うわぁぁぁぁぁぁぁ……」
「あんまり泣くなよぉ〜。罪悪感が湧くだろぉ〜」
そう言って、泣いている男の髪を掴むナタリーさん。
さっきまで初老の男を叩き付けていた壁に、男を引きずっていった。
「まぁ、止めるつもりは無いんですけどぉ〜」
そう言って男を転がし、再び叩きつける準備を始める。
「この壁、まだまだ白い所が沢山あるだろぉ〜? 残った三人で頑張れば、綺麗な赤に染められると思うんだよねぇ〜。模様替えといこうぜぇ〜」
無邪気な顔でニコニコ笑う。
軽い口調で恐ろしい事を言う彼女に、男達が喚き叫んだ。
「うわぁぁああああ助けてぇえええええ!! ゆ、許して!! 許してぇぇえええ!!」
「お願いします!! 勘弁して下さい!! 自首します!! 自首しますからぁぁぁ!!」
「うぇぇぇぇん…………うぇぇぇぇぇぇん………」
泣き叫ぶ男を無視して、ナタリーさんが「あの辺が白いな……うっし、やるぞぉ〜」と意気込む。
私は思わず止めに入った。
「ナ、ナタリーさん! も、もういいんじゃない? こんなに謝ってるワケだし」
「え? 凛子ちゃんはこの壁気にならないのぉ? こんな中途半端だと、かえって目立つと思うんだよねぇ〜」
ナタリーさんの目的が、男達を止める事から、壁を如何に血で染めるかって事に変わってしまっていた。
可愛い顔して、なんて事を言ってるのよ……。
ドン引きしていると、タカシも止めに入る。
「もういいよナタリー。コイツら完全に戦意喪失してるし」
「えぇ〜……タカスィはこの壁気にならないのぉ?」
「気にならないよ。ホラー映画じゃないんだから、血に染まった壁なんて誰も見たくないって」
「えぇ〜……気になるのになぁ……ねぇ? そう思うでしょ?」
そう言って、泣きながら土下座する男達に話を振るナタリーさん。
何度も、気になるよねぇ? 気になるよなぁ? 気になるって言えよ、聞いてるのかお前ら、無視かコラ、と脅しあげる彼女に、頷くことも、答えることも出来ず、俯いて震える男達。
大の大人が、一人の少女に怯え続けるという異常な光景は、しばらく続いた。
───────────
その後、男達は、タカシの呼んだ軍の関係者によって連れて行かれた。
ナタリーさんがずっと脅し続けたからか、誰も抵抗せずに素直に連行されてった。
彼らはこれから生涯をかけて戦地の復興に勤めるらしい。恐らく日本へは二度と戻って来れないそうだ。
重い罰のような気もするが、もしもタカシ達が居なかったら今頃酷い目に遭ってたと思い、彼らに同情なんて出来なかった。
恩赦っていうのも嘘だったようだし。
自分達で蒔いた種は、自分達で刈り取ってもらおう。
ちなみに、ボコボコにされた男達は全員生きていた。
あの後、普通に目を覚ましたから回復力だけは相当なモノだろう。死んでなくてちょっとホッとする。
ナタリーさんの顔を見て、再び失神してたけど。
「今日は色々あったなぁ……」
「ホントだよ……」
軍の関係者を残して、解放された私と菫さん。
本当はタカシとナタリーさんも解放される筈だったが、駆けつけた軍の偉い人によって呼び止められていた。
なんでも、タカシ達をこのまま帰してしまったら、国際問題に発展してしまうと泣かれ、二人は渋々といった様子で現場に残る事になった。
誰が見ても分かるくらい、階級の高いおじさんが号泣してたからなぁ……流石に断れなかったんだと思う。
麗子さんや、他の事務員のみんなも大事には至らず、無事に意識を取り戻した。
ただ、男達によって軽い怪我を負わされていたので、念のため病院に搬送されている。
今回の件で被害を受けた私達には、国から慰謝料が支払われるらしい。事務所の修繕費も全て払ってくれるそうだ。
その代わり、今回の件は他言無用と言われたけど。
まぁ、こんな話、言った所で誰も信じてもらえないと思うから、別にいいんだけどね……。
「あ、あのさ……さ、さっきの男の子って……凛子の知り合い?」
ぼんやり今日の事を思い返していると、隣を歩く菫さんに話しかけられた。
同期だけど一つ年上で、普段は軽い口調で喋るギャルなのに、今は言葉に詰まりながら乙女のようにモジモジとしている。
なんだこの仕草……なんか嫌な予感がするんだけど……。
「タカシの事? アイツは私の幼馴染よ。一緒に居た白人の女の子は今日初めて会ったけど」
「あ……タカシ君って言うんだぁ……そっかぁ……」
頬を染めて、可愛らしくえへへと笑う菫さん。
嫌な予感に拍車がかかる。
「お、幼馴染ってことは凛子と同じ年齢?」
「…………そうよ……それがどうしたの?」
「そっかぁ……年下かぁ……」
何故タカシの年を聞く? 関係ないだろ。
嫌な予感が、確信へと変わっていく。
「タ、タカシ君って付き合ってる人いるのかな? こ、今度タカシ君を紹」
「紹介しないわよ」
「介して欲しいんだけど………………え?」
「紹介しないわよ」
乙女の顔から一変、絶望した表情へと変わる。
悲しそうな顔しても無理なモノは無理。
「な、なんでよぉ! 紹介してよぉ!」
「無理よ。っていうか菫さんはイケメンで、年上で、お金持ちじゃないと付き合わないって普段から豪語してたじゃない。なんでタカシなのよ」
「いや……そ、そうなんだけどぉ……タカシ君は別って言うかぁ……」
再びモジモジし始めた恋敵が、ブツブツと何かを語り始めた。
「あ、あのね……さっき人質に取られそうになった時、タカシ君が私を助けてくれたでしょ……? あの時からドキドキが止まらないんだよね……タカシ君を見てると、堪らない気持ちになっちゃうの……」
「吊り橋効果と緊張からくる不整脈ね。断じて恋では無いわ」
「たぶん……これって恋だと思うの……どうしよ凛子ぉ〜……胸が苦しいよぉ〜……」
「恋じゃないって言ってるでしょ! 絶対紹介しないから!」
そんなぁ〜……イジワルしないでよぉ〜……と縋り付く菫さん。
無理に決まってんじゃん。何で十年近く片想いを続けた相手を、紹介しなきゃなんないのよ。
私は心を鬼にして、菫さんを振り解いた。








