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神の花  作者: はなぶさ


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3/3

3

後に「師匠」と呼ぶことになったその人は、つまり私の育ての親であった。

優しかったかと問われれば「否」であり、冷たかったか言われればそれもやはり「否」である。

けれど、特別な人間であったかと問われればそれに答えることはできない。

ある意味では特別で、それでいて、彼はごくごく普通の人間だった。

かつては我が国最強と謡われた人間でもあったけれど、優しくもあり冷たくもある両面を兼ね備えた、ただの人間だったのだ。

そんな男がなぜ、私を引き取ることになったのか、その経緯は知らない。

子育てなど経験もないだろう男に赤ん坊を預けるなど、何も考えていない証である気もしたけれど。

良い風に捉えるなら、王女様の盾として多少は使える人間にしておく必要があったのだろう。

だけど、そこは深く追求しないことにした。

師匠が何かに耐えるように俯く姿を、よく目にしたから。

恐らくそれは、聞いてはいけないことなのだと悟っていた。


私とその男は、離宮の片隅に建てられた小屋のような場所で生活していた。今はもう誰も住んでいない離宮は、何代も前の側妃のものだ。彼女のために王陛下があてがった建物だと聞いている。

既に役目を終えた建物ではあったけれど、当然、放置されていたわけではない。

王宮の持ち物としてきちんと管理され、老朽化することもなく住み処としての用途は果たすことができた。

だから、本当は離宮で暮らすこともできたのだけれど、師匠が「私には身分不相応です」と辞退したのだそうだ。

そして、「恥知らずの子を育てるのに、離宮である必要はありません」と吐き捨てたとも聞いている。

何せ、当時の私は赤ん坊も同然であったから、それが真実かどうかは分からない。

だけど、概ね合っているだろうとも思っている。


師匠はいつも言っていた。

『神を欺くなど、私こそ、恥知らずだ』と。


私の目を覗き込むようにして、刀傷の入った頬を引きつらせた。

そうだろう?と私に同意を示すように促すその顔を覚えている。

彼の相貌は決して恐ろしいものではなかったけれど、それを口にするときだけはひどく醜く見えた。

直視できずに逸らした目線の先に、本棚に並んだ童話の背表紙が映りこむ。

たった数冊だけ与えられた童話の本に出てくる悪鬼そのものだった。

こくりと小さく息を呑んで、「はじしらず」と鸚鵡返しすれば彼は満足げに肯く。

そして、私の後頭部を撫でるようにその大きな手で包み込んで、


『罰を受けなければ』と呟いた。


結局、私たちはたった数年を一緒に過ごした後、師匠の死によって離れ離れとなったのだ。

粗末な小屋は、師匠が亡くなったその日に取り壊されて更地となり、跡形もなく消え去った。

残骸を呆然と眺めている私に、様子を見に来た宰相が嘲るように言う。


お前の居場所などどこにもないのだと。

寄生虫には、土の中がお似合いだと。


私は、土の上でのたうつミミズに視線を落として思っていた。

宰相の言うとおり、寄生虫ならどれほど良かっただろうかと。

寄生できるほどの「何か」があれば、これほどに心もとない思いをすることもない。

土でもいい。木でも花でも……草でも良かった。

縋りつくことのできる何かがあれば、私ももう少しまともな人間に育っていたかもしれない。

まるで大木がしおしおと枯れるようにやせ細っていった師匠。

彼は私を育てておきながら、一度も私自身を見ることがなかった。

ただ「恥知らずの子」を育てていると、そういう感覚であったのだろう。

いつもどこかに罪悪感を抱えていたのだ。そして、それを吐き出すようにぽつりと呟く。

罰を受けなければと。

何が罪で、何が罰なのか、幼い私には理解できなかったけれど。

彼の抱える罪悪感の全てが己のせいだということは知っていた。

だからこそ、師匠が最期に呟いた言葉を忘れることができないのだろう。


『……これが、罰なのか』


師匠はその死後、その身を老木に変えた。

しおしおと枯れていくように皮膚が干からびて、骨が縮んでいった。

たとえなどではなく、実際、そうだったのだ。

指先から枯れ枝に、細い腕が木の幹に変わり、顔だった部分には悪臭を放つ赤い花が咲いた。

薄汚れたベッドに沈んだ体が、切り落とされた巨木に変わり腐れ堕ちて灰となっていったのだ。


神の庭に咲く花が、人間の身に宿る世界であるなら、きっとそういうこともあるのだろう。


残された灰を両手に抱えて小屋から外に持ち出した。

せめて風に乗って、ここではないどこかへ行ければいいと思った。

名残惜しむようにぐるりと円を描いて青空の向こうへ消えた私の師匠。

彼が何を思っていたのか、ついに理解することはできなかった。

小屋を取り壊すための人間が現れたのは、そのすぐ後のことだ。


師匠が、小屋と一緒に潰されなくてよかったと心の底から思った。


*

*


「ぼんやりして、何を考えている?」


片手に幾つかの本を抱えて私の前に現れた、王女様の護衛騎士が怪訝な表情を浮かべている。

「何も」と首を振れば、その大きな身を屈めて私の顔を覗き込んだ。

「何もないってツラはしてないけどな」

そして、流れるような仕草で私の髪を撫でる。

彼は最近、こんな風に何の躊躇いもなく私に触れる。

私のことを何者かと疑っていたのが嘘だったかのように。

戦士というのは、そもそもそういうものなのかもしれない。

死線を一緒に潜り抜けた人間であれば、相手が何者であろうと気にしないのだろう。

重要なのはきっと、同じ景色を見ているということだったのだ。


「……どうせ、王女様のことなんだろう?」


問われたところで、返す言葉などない。肯くこともしないで、ただ男の顔を見返した。

そんな私から視線を外して、溜息交じりに呟く王女様の護衛騎士。

「その忠義は、尊敬に値するよ」

その声には、ほんの僅かに罪悪感が滲んでいる気がした。

私の想いを「尊敬に値するほどの志」と例えるということはつまり、彼にはそれほどの想いがないということなのだろう。


「……だが、それがお前の身を滅ぼすことになりはしないか心配だ」

「身を、滅ぼす……?」

意味が分からずに首を傾ぐけれど、彼はただ肯くだけだ。

「ああ」と。

言葉が続かないのは説明するつもりがないということだろう。


あの日、敵兵に次々に切り伏せる私に対して王女様が何を思ったのか、知る由もない。

私には彼女の気持ちなど理解できないのだから。

ただ、彼女を失望させてしまったというのは何となく分かった。

全てを誰かに管理されている神の子である王女様。

彼女は普通の友人を欲しがっていた。そんな王女様が手に入れたはずの唯一の友は、実は貴族の令嬢などではなかったのだ。

そのことを知った王女様が嘆き悲しんだだろうことは分かる。


実際、私が恥知らずの子であることこそ知らされなかったようだ。

けれど、身分を偽っていたことは理解できただろう。普通の令嬢は、剣など握ったこともないはずだから。


「友人だと思っていたのに、実はただの護衛だったと知って王女様は泣いたそうだ」

「そう、ですか」


ぐっと喉が詰まった気がした。

気道を塞ぐ何かを飲み込んで顔を上げる。どこを見ればいいか分からなかったから、そうしただけだ。

特に意味はないのに、男は痛ましいものでも見るかのように顔を歪めた。


あれ以来、何かと私の前に現れる男は、王宮内の様々な情報を与えてくれる。

王女様に会うこともできなくなった私に、彼女が今どう過ごしているかを耳打ちしてくるのだ。

私も確かに王女様のことが心配で、あれからどうしているだろうと考えることもあった。

だけど、私にはどうしようもないことで。

誰かに聞けば教えてくれるだろうという算段もあったけれど、私がただの護衛であるとすれば、それをわざわざ口に出すのはおかしなことのような気もした。

王女様は無事だと分かっているのだから。

それ以上を気にする必要が、どこにあるのかと。そんな風にも考えるのだ。


「皇子様が、滞在を延長して付きっ切りで励ましているという噂だ。本当に仲睦ましい二人だな」


さり気無く落とされた言葉が、どれほどの威力を持っているのか、この男は知らないのだろう。

当然だ。

あの二人と私がどういう関係であったのか、気にする人間など居はしないのだから。

現段階で言えば、それを気にしているのは私だけとも言えた。

当事者である王女様と皇子様さえ、私が今、何をしているかなんて気にしていないだろう。

微笑み合う二人が、幸福でいてくれればいいとただそれだけを思う。


唯一の友を失ったけれど立ち直ろうとしている王女様と、それを支える皇子様。


そこに第三者が入る余地はない。


「……ところでお前、飯は食ったか?」


粗末なテーブルに己が持ってきた本を重ねて置いて、持ってきたらしい皮の袋をその横に並べる。

その袋の中から、パンやら果物やら、牛乳らしきものが入った瓶を取り出した。

名前さえ知らない男は、何の返事もしていないというのに、今準備してやるからちょっと待ってろと台所へ消える。勝手知ったるものだ。

そもそも盗られて困るようなものも置いていないので、自由にしてもらって構わないと言ったのは私だが。

本当に、自由にするとは思わなかった。

しかも、週に何度も顔を出すとは他の誰が想像できようか。


師匠が亡くなってから、私の家は王宮から然程離れていない場所へと移された。

ただの人として生きることは許されないのに、ただの人になることを命じられたのだ。

第四王女という名は、既に死んでいた。

だからこそ私は、王宮へも離宮へも住まうことが許されず市井に下ろされたのだった。

けれど正直に言えば、ほっとしていた。

師匠が、離宮に住まうことを頑として受け入れなかったというのに、一人になった途端、唯々諾々ながらも受け入れたのだ。その事実に、追い詰められていくような気がしていた。

幼少期に刷り込まれた、王宮は私の居場所ではないという感覚。

それがどうしても離れなかった。

私だって、れっきとした王族であるにも関わらず。

あまりに美しすぎる王宮に、どうしても、慣れる気がしなかった。

生まれた場所より、育った場所。そういうことなのだと思う。


師匠と暮らしたあの小屋はもうないけれど、ここは、あの場所に良く似ている。

あの小屋よりは、少しだけ住居としての体裁を整えているけれど、それ以上ということはない。

王都に暮らす、この国でも裕福な部類に入る一般民衆よりは粗末な家だ。

使用人なんていないし、侍女や侍従が居るはずもない。

だけど、決して悪くなかった。


「軽食しか用意できなかったが、ないよりマシだろう」


王女様の護衛騎士が武骨な手で、木の平皿に並べた白いパンと焼いたベーコンと目玉焼きを目の前に差し出す。料理などできるようには見えないが、まさしくその通りのようだ。見掛け通り繊細な作業は向いていないらしい。崩れた目玉焼きから、黄身が飛び出している。

彼のそんな一面を知っているくらいには面識があるということだ。


テーブルを挟んで向かい合わせに座れば、彼がフォークを握る。

ふと視線を上げて、にやりと唇を歪めた。「まずくはない」多分、と目尻に皺を寄せる。

彼に続くようにナイフとフォークを握った。

いただきますの挨拶も、神への祈りもなく始まる朝食は、つまり誰にも感謝を捧げない食事であった。

だけど、それが、私たちのような人殺しにはひどくお似合いのような気がした。


かちゃかちゃと、ナイフが皿にぶつかる音だけが響く。

手元に視線を落とす男の口元は緩やかだ。微笑んでいるように見えるその表情は、王女の護衛を勤めているときとは明らかに違う。

普段は寄っている眉間の皺も、今は心なし、薄くなっている気がした。


私の「何」が、この男をこんな風にするのだろう。


不思議に思ったけれど、その疑問を口にする前に男がふと視線を上げて「早く食え」と笑った。

だから結局、何も言えずに手を動かすしかなかったのだ。

最初は何だか息苦しく感じたこの空間も、さほど悪いものではない気がした。

柔らかで優しい空気が流れている。なぜか、そんな気がして。

師匠と二人で暮らしていた日々のことを何度も思い出していた。


「……そういや、宰相が顔を出すように言ってたな」


明日の天気でも読むような素振りで、私と宰相の関係など知りもしないはずの男が言う。

独り言なのか、私に言っているのか分からなかった。

そんな何気ない一言が、これまでとこれからの「全て」を変える。


「お前もたまにはこの家から出るといい。そろそろ護衛にも、復帰するんだろう?」


襲撃を受けて以来、怪我をしていたこともあり自宅に篭りきりだったのは、謹慎の意味も兼ねていた。

王女様にはそうと知られずに、役目を果たすこと。それが私に課された使命だったのだ。

それなのに、約束を果たすことができなかった。

きっと、もっとうまくやる為の手段があったのだろう。

私がもっと大人であれば、もっと完成された護衛であれば、貴族の令嬢などに扮していなければ。

もっと首尾よく王女様と皇子様を守ることができたはずだ。

それができなかったのは、私に力が足りなかったからに他ならない。

例えば、そう。

目の前に座っているこの男のように、護衛としての力を備えていたなら。

もしくは、間者のように、完全にこの身を闇に落としていたなら。


私はもっと、戦えたはずなのだ。


「―――――俺がお前を鍛えてやるから。だから、そんな顔するんじゃない」


自分の顔は、自分では見えない。

だから、己がどんな顔をしているか知らない。

だけど、王女様の護衛騎士はどこか苦しそうで。歪んだ口元は、まるで苦しさから逃れるように息を吐き出した。


そんな顔をしないで、と言いたかったのは私のほうだ。


私は平気だから、

だから、そんな顔をしないで。

思わず口にしようとして、息を吸い込んで唇を開いたけれど、とうとう音を作り出すことができなかった。













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