三
隣にたたずむ祖母は、いまだ手をあわせ一心不乱に拝んでいる。じぶんでも驚くほど冷たくなった手で、小夜は祖母のはんてんを引っ張った。
「ねえぇ、いこうよ」
こういうときほど、ものごとは上手く進まない。
いつもならそれで両手をおろすはずの祖母が、今日はちがった。目をつむったまま、こう言ったのだ。
「小夜、おまえも拝みなさい。すず姉さんが、お嫁入り先で幸せに暮らせますようにって。すず姉さんは、おまえをとても可愛がってくれたろう?」
――なぜ拝まなきゃいけないの。離れていく、薄情な姉のために。
心に棲む黒いもの――そのふちが、広がっていくのを意識する。いったいどうしたことなのか、いままでに経験のしようもないほど苛烈な閃光が、小夜の内を駆けぬけた。
稲妻だ。
これ以上ないほど忌まわしい激情が、津波のように襲い来る。祖母もすずも、幸せに見えるものすべて、ひたすら踏みにじり壊したい衝動にかられる。黒いふちはさらに広がり、小夜の拳はいつのまにか、血のにじむほどきつく握りしめられていた。憎悪が小夜を呑みこまんと、いままさにぬらぬらと口をあけたそのときだ。
ふと、殿内の御簾がゆらりと揺れた。風にしては揺らぎが大きい。まばたきをしてぼんやり見つめると、見間違いであろうか、灯火の影とはちがう影を見た気がした。幾度かまばたきをしてみる。――やはり御簾に影がうつっている。
それはまるで人のような影だった。そこに人はいないはずであるのに、御簾ごしに、たしかにその形をとっている。
呆然としていると、その影がふいに動いた。腕があがり、すう、と御簾の外へと伸ばす。じきに御簾から白い指先が出てきた。次に手の甲が、腕が、ひじが。
ほっそりした、すべらかな、まろく白い腕だった。
女だ。しかも、やんごとなきところの身分の方であると想像できた。
その女の指先がふと、小夜に向いた。こちらに向かって、ふわりふわりと手を動かす。どうやら、手招きしている――。
小夜はわれに返った。
そこにはだれもいないはずだのに、それなのになぜ。
自覚すればぞおっと背すじが凍る。
「ばあちゃんっ」
おののいて声をはりあげた小夜を、祖母はぎょっとして見やった。
「どうしたんだ」
「手が、手が」
御簾を指さす。祖母がしばしばと目をしばたいて見、首を傾げた。
「なにもないよ」
小夜が振り返ると、ゆらめく灯火に照らされた御簾が見えるばかりだった。白い腕も、影もない。気配も何もありはしない。
「見間違いじゃないかね」
祖母がのんびりと言うも、小夜は固まったままだった。
見間違いにしては気味が悪すぎるのだ。恐怖でいっぱいになり、いっそう強く祖母のはんてんをひいた。
「もう行こうよおっ」
「まだぐずを拗ねているのかい。そんなふうだからすずは安心してお嫁に行けない。もうお乳をほしがる年じゃないんだから、しゃんと立ちなさい。すずの幸せを願っておやり」
そう言って、はんてんに引っついた小夜の手をにぎりしめ、がんとして離さないものだから、小夜はなかば恐慌をきたした。
「やめてっ、はなして」
「いいや、おまえも十になるんだ。いい加減、甘えは直さなくちゃいけない。そら、小夜がちゃんと拝むまで、ばあちゃんは離さないからね」
「いやだっ」
祖母の手は、見かけ以上に強かった。あのしわくちゃの手から、どうすればこんな力がでるのか。それでいて感触は不自然に冷たい。小夜の目から涙があふれだす。恐怖と怒りが我慢の限界に達し、力いっぱい絶叫した。
「いやだっ」
気が付けば、小夜は走りに走っていた。ひきちぎるようにほどいたしわくちゃの手が、小夜の名を呼ぶ。けれど小夜の足は止まらなかった。
さて、はなしは冒頭をつかまえる。




