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後世の歴史家による日記

 いみなとは忌み嫌われる名なのかもしれない。

 その為、日本皇国の皇女帝が代を重ねる度に、この国に言葉の変化を臣民達に強いて来た事は紛れも無い事実と言えよう。

 そして、日本皇国の高祖の諱は未だに謎とされて来た。

 日本皇国における「高祖の諱は現在に至るまで、『不明』とされていたが、高祖の諱は『〇〇』ではなかったのか?」と不敬極まり無い珍説が今月に開催された歴史学会にて発表された。

 その研究所チームに所属するエリート達の研究発表会において、その珍説が発表された時、

 

──〇〇陛下万歳! 万歳! 万々歳!──

 

 と、歴史学会は熱狂の渦に飲み込まれた。

 

 しかし、別の世界線においては、日本皇国史上破天荒の九千歳の称号を与えられ、暗姫帝の正一品、官職永世夜伽大夫。

 暗姫帝が御崩御あそばされし日に、帝室官位官職に就いた者達が喪中の為に総辞職した際、全ての位階を追贈された人物。

 神原三相国筆頭、神原家19代当主、一品永世夜伽大夫神原翔准皇夫の「妹君の御名も『〇〇』であったのではないか?」ともされている。

 但し、神原相国家の家系図においては妹君が居られた事は史実として認められているが、ただ、「傾国の佳人」とだけ史料として残されている。

 

 日本皇国を最盛期に導き、若き頃は暗愚を演じ、帝位ていい禅譲ぜんじょうと共に自分におもねる側近達を処分し、その時に自らを諫言かんげんした人物達を身分の隔て無く抜擢した暗姫帝は日本皇国の中興の祖と称えられたにも関わらず、自らの贈名おくりなを遺言により、「暗姫帝」とするように高臣達に残されてから、御崩御あそばされた。

「聖祖」の贈名を頑なに拒否し、「暗姫帝」に拘りあそばされたのかは多くの謎を残している。

 蛇足ではあるが、「暗姫帝」の御母上であらせられた「逢土琉帝」も日本皇国が誇る名君の一人に数えられている。

「逢土琉帝」の意味は「愛しき人と逢瀬を重ね、自らはやがて土に還り、時代は緩やかに流れて行く」と言う意味である。

 この二代に渡る名君に恵まれた日本皇国は正に黄金時代であったと言えよう。

 以下は「暗姫帝」の遺勅いちょくである。

 

──我夫わがつま……は何を遊ばされておられますのや……ちんの見舞いにも来て下さいませんのか……ほんに、一途な御人……朕は全てを我夫に捧げて参りましたのに……薄情で……でも、お優しゅうて……とても、大切な御方であらせられた……もしも、生まれ変わる事が出来るのであれば、また朕と結ばれて下されませ……──

 

 その言葉を聞いた貴族諸家、高臣達の全てが嗚咽おえつを堪えきれずに涙した。

 その理由は単純にして明解である。

 「暗姫帝」の我夫である一品永世夜伽大夫神原翔准皇夫は「暗姫帝」よりも一月程前にお亡くなりになっていたからだ。

 少しずつ記憶力が低下し、自らの病を悟った神原三相国筆頭、神原家19代当主、一品永世夜伽大夫神原翔准皇夫は自らの死期を自らがお決めあそばされた。

 親しき人々との間に別れを告げ、「暗姫帝」から禅譲を受けた「光輝帝」より自裁の許可を得ると、安楽死を選択したのだ。

 醜く、老い衰え、親しき人達に迷惑を掛けて生き続ける事に耐えられる程の心の強さを持ち得なかったと言えよう。

 最後は眠る様に息を引き取り、その後に密やかに御葬儀が執り行われた。

 

──臣民が国葬を望むならば、それをするが良い。私の国葬で各国の首相達が集まってくれるならば、それは決して無駄な税の使い途とはならぬであろうからな。私が愛した全ての人達よ。私の為に泣いてくれる事はこれより黄泉へと旅立つ私の何よりの供養となる。但し、死んで行く人間よりも、今を生き抜く者達の為にその力を奮って欲しく思う……。ああ……とても、安らかで良い気分だ。幸せな人生を皆のおかげで歩めた……眠くて堪らぬ……少しだけ……休ませて貰おう……さん……く……──

 

 以上が神原三相国筆頭、神原家19代当主、一品永世夜伽大夫神原翔准皇夫の御遺言である。

 祐筆の記した史料故に、信用に足る御遺言ではある。

 されど、最後の「さん……く……」の解釈において歴史学会は諸説が入り混じる状態であったが、今から10年前に発見され、全世界中を震撼させた歴史的事件。

 当時の歴史を知る「特級史料『ななしの喪女日記』」がほぼ完全な状態で発見された事により、御遺言の最後の御言葉は「サンクス」とされたのが今における定説である。

「サンクス」と表現していた人物は「ショタコンネキ」──神原三相国筆頭、神原家19代当主、一品永世夜伽大夫神原翔准皇夫のみが使用した御言葉であり、当時の「サンガツ」を独自に変化させた物として考えられている。

「サンクス」の意味は「軽い感謝の気持ちを表す意味」として、現代日本皇国の古典辞典に必ず記載されている物である。

 

 余談ではあるが、「ななしの喪女日記」は新たな神器に指定され、皇女帝継承の儀にのみ、出庫が許可されており、普段は如何いかなる手段を用いても、目にする事は出来ない。

 されど、帝室により、写本の制作許可が御下賜され、日本皇国のみならず、翻訳本が世界各国で販売されている。

 

「ななしの喪女日記」は当時の歴史を知るだけでなく、「分からおせっせっ」、「ラブラブおせっせっ」、「古来より神事として機能していた占いの新手法である『安価は絶対!』」、「新ヤル性書」、叡智男子──龍造寺宰相神家、龍造寺家始祖である三品宰相、褥指南役龍造寺雫の正夫による「革新的な男性護衛サービス」等々……。

 因みに大園ひろきには筒井七瀬と言う側室の存在が確認されている。 

 彼を陰に日向に支えた事も「烈女伝 悪鬼羅刹七瀬」により疑いようが無い。

 あらゆる武術の免許皆伝の腕前と類稀なる博才の持主で、世界のギャンブラーにとって、「今七瀬」は最高の称号とされている。

 要するに「ななしの喪女日記」は現代迄に影響を与えた文化史史料としての価値も特級とされているのだ。

 当時を研究する者達からすれば、「あの時代を生きる事が出来たならば」と夢想せずにはいられない。

 では、◯◯が何であったかの研究を私も続ける事にしよう。

 22◯◯年 6月 14日 神原子孫による日記


 自信を持って言います(笑)

 ★★★★★下しゃい。

 だって、絶対に今までに無いもん(笑)


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 登場人物紹介や、IFエピソード載せております。

 フォローお願いしますね(笑)

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 途中までとても良いお話だったのに……wwwww でも面白い、好き。 ちゃんと★★★★★入れ……なん……だと?もう既に入れていただと!? [気になる点] 結局○○はなんだったんだろう?? …
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