さあ温泉へ
しばらく景色を見ていると、ヘレンさんが手を叩いた。
「さて、それじゃあそろそろ温泉に行きましょうか!」
「「はーい!!」」
相変わらずルリとユリアはまるでシンクロしたような言動をして、準備を始めた。
「温泉……かぁ」
ファルは初めて温泉に入るということで、声音から内心わくわくしているのが伝わってきた。
それにしても、温泉に入るなんていつ以来だろうか。
子供の頃何回か入ったことはあるけど、毎回母さんが『アルは女湯に入れる年齢だから女湯に来なさい』と言って女湯に連れていかれていたため、今回初めて男湯に入ることになる。
ちなみに父さんが『いや、別に女湯に行かなくったってアルは俺と男湯に入ればいいんじゃ……』と提案したときの母さんの鬼のような表情は今でも脳裏に焼き付いている。あの母親は俺に何度トラウマを焼き付ければ気が済むんだよ。
と、内心で文句を言っていると、後ろから肩をトントンと叩かれた。
「アルくん、聞いてる?」
「うぇっ!?」
周囲への注意が散漫になっていたせいで、思わず声をかけられたことに驚いてしまった。
俺に声をかけてきたのはヘレンさんで、驚いた俺を見て呆れたような表情になり、
「『うえっ!?』って……やっぱり聞いてなかったでしょ」
「す、すみません。考え事してて……」
「ふふっ。気にしてないわよ」
ヘレンさんはそう言ってクスリと笑うと、
「それで、さっき言おうとしたのは部屋の鍵についてなの」
「部屋の鍵……ですか?」
「うん。実は部屋の鍵が今私が持っている1個しかなくて、それで、アル君に持っていてもらおうかなって」
「俺に……ですか?」
「ええ。だって、偏見かもしれないけど男の子の方が女の子よりお風呂は短いでしょ? だから、私達の誰かが鍵を持っていたらお風呂から出たアル君が部屋の前で待ちぼうけになっちゃうかなって思ったの」
「なるほど……」
確かに俺は長風呂するタイプじゃないし、多分ヘレンさん達よりも先に風呂を出るだろう。
だとしたら俺が部屋の鍵を持っていた方が都合が良いな。
「わかりました。じゃあ俺が持ってます」
「ありがとう」
俺が手を差し出すと、ヘレンさんは差し出した俺の手に鍵を乗せた。
「あ。でも、私達に気を使いすぎて早目に出ようとしなくていいからね? それに、もしアル君が私達より遅くなったとしても、私達は4人でお喋りして待ってるから、気にせずゆっくりしてきてね」
「お気遣いありがとうございます」
「いいのいいの。じゃ、私達は一足先に行ってるから部屋から出るときに戸締まりお願いね?」
「了解です」
ヘレンさんは俺との会話を終えると、他の3人を引き連れて女湯へと向かっていった。
……さて、俺も準備してさっさと風呂をすませちゃうか。
えっと、着替えは旅館の浴衣があるから、それとあとは下着だけいいか。
こうして準備を終えた俺も、ヘレンさんたちに続く形で温泉へ向かおうとした、そのときだった。
ふと、廊下から聞こえてきていた足音がこの部屋の前で止まったことに気がついた。
普段なら気にしなかったかもしれない。だけど、先ほど何かがこの旅館に向かってきていたのが見えた俺は、多少警戒していた。
もしかして向かいの部屋の人だろうか? いや、だけどそれなら扉を開ける音がしないのはおかしい。
それなら母さんに特定されたのだろうか。それは有りうるが、もし母さんなら扉を蹴破る勢いで叫び出すので多分母さんじゃない。
だとしたら――。
俺は無言で扉に向けて走りだし、勢いよく扉を開けた。
「……うわっ!?」
そこに居たのは従業員の服装を来た背の高い人物で、俺が扉を勢いよく開けたことに驚いていた。というか俺も驚いてる。
「……従業員、さん? どうしてここに……?」
「え、えっと。実は当旅館のサービスで、お客様が温泉を楽しんで頂いている間に布団を敷いておくというものが御座いまして、今そのサービスをするたびにここまで来たのですが」
へぇ。そんなサービスがあるのか。
「でも、それならどうしてすぐにこの部屋に入ってこなかったんです?」
「お客様に悟られることなくサービスを行うのが我々の役目ですので、まだ室内にお客様が居ると気づいた私は、|貴方(お客様)が温泉へ向かうのを待とうと思いました」
おい悟られちゃいけないのにめっちゃ俺に喋ってるぞ。聞いたのは俺だけど大丈夫なのかそれ。
しかし、随分早くやってくれるんだな。それだけ仕事熱心ってことか。
「部屋の鍵についても私がマスターキーでしっかり閉めておきますから、ごゆっくりして行ってくださいませ」
「わかりました。そういうことならお願いします」
俺は安心すると、下着と浴衣を持って男湯へと向かったのだった。




