引っ越し
「これで全部かな?」
雄大のお父さんが発した台詞に一同が頷いて大きなトラックの扉が閉められた。ギイッと軋むドアの音に胸を締め付けられて何も言えずに立ち尽くす。
今日は朝から引っ越しの手伝いをさせてもらったのだ。ほんの少しでも雄大と過ごす時間を増やしたかったからなのだけれど、当然ながら手伝った分だけ作業は早く終わってしまう。それは同時に、雄大との別れの時間が早まる事を意味していた。自然とゆっくりになる私の作業に雄大も小父さん小母さんも何も言わず、ニコニコ笑いながら色々と気遣ってくれた。お昼ごはんも一緒に食べさせてもらって嬉しかった。でも。
「では出発しますねー」
明るく張り上げられた引っ越しスタッフの声が刺さってズキズキと痛む。勿論そんな私の心情などお構いなしに、彼は笑顔でトラックの助手席にどうぞと促した。
(行ってしまう。本当にもう、ここで……)
隣に立つ雄大と繋いだ手にぎゅっと力を込めると、彼も力を込めて握り返してくれた。
包まれて温かい筈の手は、指先に感覚がない程に冷たくなっている。この手を離したら、もう雄大に逢えないかも知れないと思うと、初夏だというのに脚までも震える。
俯いて必死で脚に力を入れる私の手がふわりと包み直された時、雄大が「あのさ」と口を開いた。
「……おれ、後から電車で行っていい?」
雄大の台詞に数秒の間を置いて小母さんが微笑んだ。
「いいわよ、18時までには乗るようにね。分からなくなったら電話して」
「ありがと」
僅かに微笑み返した雄大に「じゃあ後で」と言ったご両親が車に乗り込む。遠ざかっていく車体を眺めてまた胸がきゅっと絞られた。雄大もだけど、彼らだって家族同然なのだ。小さい頃から本当に可愛がってくれた小父さんや小母さんにも、もう逢えないかと思うと我慢しきれない雫が頬を伝う。
溢れる涙を拭いもせずに立ち尽くす私に、雄大は泣くなと言わなかった。ただ、柔らかく手を握って黙って隣に立っていてくれた。
何分間其処に居たのだろう。やがて雄大がそっと頬を拭ってくれた。
「腹減ってない? なんか食べに行こっか」
言われて時計を見ると午後3時を回ったところだった。そんなに空腹ではないけれど、残り3時間ほどを少しでも有意義に過ごしたい。頷いて、優しく微笑んでくれる彼の手にそっと指を絡めた。一瞬目を見開いた雄大が泣きそうな顔をしたのは見なかった事にして僅かに空いていた距離を詰めた。右腕に彼の体温を感じて速いドキドキが体内を廻る。
思えば、こんなにぺったりくっ付いた事もあまりなかったな。もっと一杯しておけば良かった。恥ずかしいけど、すごく嬉しい事なのに。
後悔がグルグルと廻ってまた泣きそうになってしまった。込み上げたものをぐっと呑み込んで、地面ばかり見つめていた瞳をふと雄大に向けると真っ赤に染まった耳が見えた。
(え?)
一瞬キョトンとして思わず「耳赤い」と呟くと、勢い良く此方を向いた雄大と視線が絡んだ。みるみる額までも火照らせた彼が大きな手で口元を覆ったかと思うと「バカ」と一言降ってきた。
「馬鹿って何よ」
思わず言い返した私に「見るな」と呟いた彼の顔が完全に逸らされる。
「だから、不意打ちはやめろって」
向こうを向いたままモゴモゴと言った雄大に「ごめん」と詰めていた距離を元に戻したら、「あっ」と小さく声を発して振り向いた彼がパクパクと口を開閉させている。何か言いたげに繋いでいない手を宙で泳がせる様が何だかとても可愛く見えて再び距離を詰めると、繋がれた手に力が込められた。
「……離れんなよ」
「だってユータがやめろって」
「察しろよ!」
「無理」
矢継ぎ早に交わされたやり取りから一拍置いて、どちらからともなく吹き出した。目の前で可笑しそうに笑う雄大に鼓動が速くなる。
身体が触れる事もだけど、こんな他愛無い応酬にものすごくドキドキしている私を彼は知っているのだろうか。
でも、もうすぐどちらも出来なくなるかと思うと脚がピタリと止まった。
「アキラ?」
黙り込んで俯いた私を心配げに覗き込んだ彼に笑おうと思ったけれど、意思に反して雄大の顔が滲む。
「ごめん何でもなっ……」
ぼやけた顔から視線を逸らしつつ、口元だけ何とか笑みを浮かべて言った途端、雄大の腕に掻き抱かれた。
「泣くな」
今度は言うんだ? 黙って泣かせてはくれないんだ、と思ったら「一人で泣くなよ」と言葉を重ねられた。そんな事言われても、この先雄大は居ないのに。泣いたからって抱き締めて慰めてくれる人は居ないのに。
涙声で訴えると「居るよ!」と強い口調が返ってきた。雄大のシャツをぎゅっと掴んで僅かに顔を上げると、そこに真剣な瞳が有った。
「おれが居る」
「だって」
「アキラが泣きたい時は飛んで来るから!」
切ない声に胸がきゅうっと締まる。そんな事は勿論無理に決まってるんだけど、雄大なら本当に来てくれそうな気がした。私を心底想ってくれているのが伝わって、新たな涙がじわりと滲んだ。
「……うん」
雄大の胸元に額を埋めながら小さな声で頷く。雄大の気持ちは本当に嬉しくて、だからこそ泣くのはもう止めようと思った。これ以上雄大に切ない顔をして欲しくないから。
濡れた目蓋をぐいっと拭ってフーッと息を吐き出した。一拍置いて、雄大を見上げてにっこりと笑う。顔、引き攣ってないかな。ちゃんと笑えたかな。
「ユータ」
「うん?」
「……すき」
伝えたい事は沢山有るのだけど、雄大との今までの思い出や優しくしてくれた事が胸の内に一気に溢れ出して、たった一言にしかならなかった。
じっと見つめた雄大の瞳が揺れて頬が染まる。絡んだままの視線が鼓動を煽って駆け足にしていく。ふと、揺れる瞳が僅かに距離を詰めた直後、慌てた様に逸らされた。
「お茶飲みに行こ」
早口で告げられた台詞に違和感を覚えて、歩き始めた雄大の手をくいと引っ張った。
「何よ」
「いや何でも」
「うそ。何?」
食い下がると立ち止まった雄大が、若干拗ねた様な表情でこちらをちらりと見遣って「危ないだろ」と言った。意味が分からない。呆けた顔で「は?」と聞き返した私に益々ムッとして頭をがしがしと掻いた。
「いきなりそんな、……可愛い事言ったらチューしそうになっただろ!」
それは私の所為なのか、という文句をぐっと呑み込んで辺りをそっと見渡した。確かに路上でキスされたらとんでもなく恥ずかしいけれど、今なら他に人影も見えないし、家の近所からは少し離れているから噂になる事も無い……かな?
それに雄大が此処でしたいなら、それもいいかも知れない。私は甘えてばかりで雄大に何もしてあげられなかったから。
「…………いいよ」
消えそうな声で告げてそっと瞼を閉じる。自分で言ったんだけど、大きな鼓動が体内で暴れて心臓が壊れそうだ。暗闇に落ちて数秒、される気配がないのでそろりと瞳を開けてみると、真っ赤に染まった顔を片手で覆う雄大の姿が其処に有った。
「……ユータ?」
首を傾げた私に「バカ」が降ってきた。二度目だ。
「なんでよ、ユータがするって」
「そこは断るところだろ!」
「意味分かんない」
「察しろ!」
「だから無理だって」
早口で言い合いながら歩いてファーストフード店に入った。2人掛けのテーブルに向かい合わせに座って、ドリンクを片手にLサイズのポテトを両側から摘みながら、とどまる事の無いやり取りを続ける。
他愛ない内容なんだけど、雄大とする下らない話はいつだって時間を忘れる程楽しくて、17年間積み重ねたそれは間違いなく私の大事な宝物だ。
17年か、と思ったところでふと思い出して、目の前の雄大に「ねえ」と呼び掛けた。
「うん?」
「ユータの誕生日……お祝いしたいんだけど」
雄大の誕生日は3日後だけれど、その日にはもう居ないから。
私にしてくれたみたいに盛大にお祝いしたかったけれど、引っ越しの話を聞いてから気が動転していてそこまで頭が回らなかった。ようやく思い出した今は何も用意してなくて、残り時間は1時間ちょっと。どうしてもっと早く思い出さなかったのだろう。せめて昨日だったらプレゼントでも用意出来たのに。
しゅんとしてテーブルを見つめた私を暫く眺めた雄大が「……サンキュ」と言った。
「気持ちだけ有難くいただくよ」
「え、でも……今から一緒に買いに行く?」
「……いや、いいよ」
視線を僅かに横に逸らした雄大に素っ気なく断られて、胃に重石が乗った。私もお祝いしたいのに。でも、春休みから準備してくれた雄大と比べたら、あと1時間で祝おうなんてやっぱり失礼だったかな。
すっかり沈んで「ごめん」と呟いた私に、雄大が慌てたように口を開閉したあと若干口篭もった。
「え?」
「……や、だから……欲しいのは物じゃないし……」
物でなかったら何だろうかと首を捻った私の襟元にふと手が伸びて、指先が首筋を撫でた。ふるりと身を震わせた私をじっと捉えた瞳が揺れる。つ、と鎖骨を滑った指先が細いチェーンを摘んで漸く、撫でたのは私の首筋じゃなくネックレスだったと気が付いた。でも既に倍になってしまった鼓動は治まらず、熱が顔へと駆け上がる。
少し離れた所に居たグループが出て行って貸し切りとなったこのフロアはとても静かで、大きく跳ねる鼓動が雄大にも聞こえてしまいそうだ。
「…………あのさ」
沈黙を破った雄大の小さな声が耳に響いて、泳いでいた視線を改めて彼に定めると、一瞬伏せられたその瞳に真っ直ぐ捉えられた。
「おれ……大学は戻って来るから」
「……」
「きっと、戻って来るから」
真剣に紡がれる言葉にじわりと込み上げた涙を呑み込んで「うん」と頷くと、雄大の瞳が僅かに潤んだ。
「………………出来れば待ってて」
(出来れば、って……)
一瞬かくっと肩透かしを喰らって苦笑気味に「出来れば、なんだ?」と聞き返すと拗ねた様に頬杖を突いてそっぽを向いた。
「だってさ、強制出来ないし」
してもいいのにな。待ってろって言っても良いのに。
「……アキラの気持ちが他に向いても止める権利無いし」
段々小さくなる声にきゅんと胸が締められる。
「向かないよ」
何の根拠も無いのだけれど、本当に他の人に気持ちが流れる気がしない。呟いた私に、戻ってきた雄大の視線が止まる。その瞳を見つめて精一杯にっこりと笑って告げた。
「待ってる」
小刻みに揺れた雄大の瞳が長い睫毛に遮られた瞬間、唇が柔らかく重なった。




