第50話 1523-24年「義兄弟」
「殿、儂に黙っておることがございますな?」
「……うむ。」
鳥居伊賀守はやや窘めるような口調で問いかけた。重勝はバツが悪そうにぽつりと返事をした。
伊賀守はじっと黙っており、重勝はしばらくして嘆息して言った。
「隠しておいたのではないのだ。しかし、家中に松平の旧臣も抱えておるゆえ、諸々の真実が出回らば、不和の種となるは必定。失敗したとて、仕込みを知るものおらねば、人々の心揺らぐこともないゆえ、言う必要がなかったのだ。
さりとて何か手を打たねば当方の不利はいかんともしがたく、その中で場が整ってしもうたは、これぞ宿運と思えてならなかった。」
重勝にとって、一連の出来事は運命に導かれたものとしか思えなかった。
彼は一向一揆がこのような状況になる前から、松平家の内部分裂を加速させる手配をしており、最悪の場合の一手として信定暗殺も想定していた。
一方で、信定が一向衆に支援を呼び掛けたのを始め、本願寺教団が越中で敵対勢力と和睦して三河にちょっかいをだしてくるに至るまで、重勝には全くの想定外だった。
運命や巡り合わせに流されるままに、重勝は松平の家臣を引き剥がし、一向門徒との消耗戦に突入した。そして彼には、鈴木家と一向門徒の双方が疲弊して共倒れし、松平勢が三河を手中に収める未来が訪れるだろうことが容易く分かってしまった。
これを防ぐには松平家そのものの力を削がねばならず、どうするかと思案するうちに、あたかも天が重勝に命じたかのように、彼の手には石川又四郎という駒が手に入ってしまった。
そしてその又四郎は彼の手を離れ、おのれの意志で仕事を全うしたのである。
「儂は何があったか聞いておるのみにて、責めるわけではござりませぬ。殿は近頃ひどくお悩みの様子にて、気がかりでござった。
そこで起こったはこの騒ぎ。何やら手を打ったに相違ないと思い申した。話すに難しければ、内々にて事をなすは致し方なし。されども、殿おひとりにて苦しむは、やがて不幸を生むでしょう。」
鳥居伊賀守は重勝を心配して声をかけたのだった。
重勝はその優しさに心を打たれてハラハラと涙を零した。彼は松平家中の不和を大きくしてきたが、それによって生じた騒動に苦しんだ者たちを間近で見て、罪の意識に苛まれてきた。しかも、その後には手ずから一向門徒を虐殺し、今度は松平当主一族を暗殺させたのである。
彼自身は「これは負けぬためには仕方のないこと、善悪や罪のことなど二の次である」と自分に言い聞かせてきたが、心はもう限界だったのだ。
そうして、ぽつぽつと仕出かした事を全て白状すると、最後に次のように零した。
「これまでは色々知るうちに、なんとはなしに先が見えるときがあった。成し遂げた後のことが目に浮かぶのだ。されども、こたびの戦はそれがない。すべてが己の手から零れ落ちていくのだ。先が見えぬのだ。
……当主一族を滅ぼされた松平も、何を考えておるかわからぬ一向衆も、かくなっては当家を滅ぼすか、己が滅びるまで戦うであろう。それがしにはもはや戦の終い方がわからぬ。」
鳥居伊賀守は重勝の弱音を聞いて、今こそ自分が主君を助けるときと発奮した。
「……松平に加えて本願寺教団を相手にしておるのです。その不利をほとんど対等まで引き上げたは、まさしく殿の支度によるところ大にござり申す。そのご苦労を思えば、どうして悪しく言うことができましょうか。
ここまで整えるがために、殿はあれこれ考え過ぎて心がくたびれておるのです。しばしお休みくださり、これより先は儂にお任せくだされ。」
「げに当家にあらまほしきは、まさしくそなたであるよ。」
◇
大永4 (1524)年。
鈴木重勝は勝ちきれなかった。
松平の2倍の所領を得て、離間の策、暗殺、兵糧攻めを使っても、自力では勝ちきれなかった。
焦りを強める重勝は、そのような状態では冷静に軍を率いることはできないと思い、伊庭貞説に軍配を預けたまま、後詰陣に下がって補給と兵の輸送に注力した。
長期的な戦を前提に準備していた鈴木家は、長対陣にも士気を落とさずよく耐えていた。彼らは松平家との境の村々を焦土にした一方、限界まで兵を動員して領境より内側の村々や兵站拠点をよく守り、略奪しに来る一向衆に食糧が渡らないように努めていた。
しかし、旧松平家臣のなかには、旧主家で何が起きたかを悟り、かつての主と敵対するということの意味をいまさらながらに実感して複雑な思いを抱く者たちもいた。
碧海の一郡に封じ込められたのにもかかわらず、鈴木家傘下の諸家の連合に対して松平家は人口比で3割を有し、しかも一向宗の力で兵を過剰動員していた。
門徒たちは、先の戦で戦死者や未帰還者が出たため食料に余裕は生じたものの、輸送のために海路が使えず、戦争の長期化により大きな苦痛を受け、士気は下がっていた。
闘志を失っていないのは、伊勢長島から来た教団の坊官と僧兵ばかりで、一方の三河の門徒は、この一揆は松平家と教団の都合で始められたため、そもそも蜂起の理由すらよくわかっていなかった。
信仰心に篤い者から先に突撃して死んでいったため、一部の特段の信念をもたない者たちの中には、矢作川以東での重勝の凶行を見て気勢をそがれ、土地鑑を活かして野に隠れたり、付き合いのあった村に逃げ込んで匿ってもらったりする者も出てきていた。
「領内は十分に作付けできておらぬゆえ、今年の収穫では賄えぬ。」
「これ以上長くは持たぬな。こうも士気が低くては一戦せぬうちに崩れてしまう。」
本多平八郎と石川左近大夫は内々に相談していた。
彼らは次郎三郎信定の遺児・孝定を急遽、元服させて当主に担ぎ、反一向宗の家臣たちの協力を求めるために、石川は家臣筆頭の地位を中立の本多に譲っていた。
反一向宗の者とは、信定の暗殺犯として根拠なく襲撃された信定兄弟の松平親盛・利長や、兵を勝手に引いてしまっていた植村新六郎の一党、信定とともに暗殺された林藤助の残党のことだった。
彼らは本多の呼びかけでようやく兵力の供出や評定への参加を了承し、石川・榊原・阿部が教団を抑え込む形で辛うじて和合がなっていた。
本多のこれまでの尽力は諸将の認めるところであり、松平宗家の危機ともあって、彼を中核とする松平方の諸将は、かえってこれまでよりも武士団としてまとまっていた。
「織田、水野、吉良には援軍を要請した。まずまずの返事であったが、さてどうなるか。」
「織田は長島から尾張を通って兵糧を運ぶのを許す代わりに一部を取り上げておる。関銭と思えばやむを得ぬが、信は置けぬ。」
「勝幡の弾正忠(織田信定)が『運び賃』と言ったそうな。津島の商人の入れ知恵に相違なし。」
石川と本多は織田に対する不信感を覚えつつも、数はともかく飢えで質が徐々に悪化している門徒の兵をもはやあてにしておらず、同盟相手がまともな兵を少しでも多く送ってくることに期待していた。
◇
これが最後の野戦。
一方はこれでけりをつけたいと望み、他方はもはや後がないと認識しているという違いはあるものの、その思いだけは同じだった。
鈴木軍は、長期の出兵を想定していなかった諸家の援軍を一部返しており、また、物頭格の武者にも損害が出ていたため、万全ではない。とはいえ3000の元気な兵を集めた。
敵に略奪されなかった東三河では大永3 (1523)年は豊作で、十分な食糧が行き渡っており、士気もまずまずだった。
松平方は、松平直属の1000足らずに、門徒の3000数百を加えて4000強。尾張からの補給で息を吹き返したものの、縮小した松平領の収穫では全兵力を十分に食わせることはできず、特に門徒衆の健康状態は悪かった。
しかし、松平家は一向宗の悪影響に惑わされずよくまとまっており、兵の数の差が縮まって士気では鈴木家が上回っているとはいえ、どちらが有利と一概に言い切ることはできなかった。
「始まったか。」
鈴木重勝は、甥で西三河鈴木家の当主・越後守重直(小次郎)ととともに後詰陣にいた。伊庭の本陣から報告の使者が時折やってくるが、後詰陣でも喚声でおおよその雰囲気は感じ取れた。
「甚三郎兄上(重勝)、こたびは松平は出し惜しみはないようにござるな。」
重直は、叔父である重勝を幼少のころから「兄」と呼んでおり、それはいまでも2人で話すときは変わらなかった。
「そのようだな、小次郎(重直)。門徒連中は先の戦のようにやみくもに突撃するを避け、守りにも気を配っておるようだ。かくなっては互いに兵をすりつぶして戦うのみ。厄介なことだが、松平もそうでもせねば勝てぬと思うておる証ゆえ、良し悪しだな。」
重直(小次郎)が使者の報告を聞いて思ったことを言った。
松平家と一向衆の戦いぶりからは、両者が協力関係を深めた様がわかるが、それが危機感からのものであると考えれば、相手は着実に追い詰められているということである。
重勝は今回の戦の成り行きは伊庭と鳥居に任せると心に決めていたため、気をそらす意図もあって、小次郎重直に西三河勢の今後について問いかけた。
「小次郎は、寺部や酒呑の一族や、三宅、中条、菅沼らといかにつきあっていくつもりか?」
「いかにというのは?」
小次郎重直は突然の問いかけに面食らって、意味を問い返した。
「唐突すぎたな。いやさ、東三河は熊谷殿、菅沼の半分、設楽、西郷が家臣となった。奥平は家臣ではないが絆深く、残るは牧野、戸田、鵜殿。それがしはやがてこれらを降すだろう。さすれば残るは西。上下なく一揆を結びし西の諸家との間柄をどうするか、そう思ったのだ。」
重直は言われて考え込んだ。
重勝もすぐに答えがほしいわけではなかった。親族として一番信頼する弟分の重直(小次郎)の存念を少しでも聞いておきたい、あるいは特に思いがないのであれば、これを機に真剣に考えてほしいという気持ちで今後のことを問いかけたのである。
二人ともしばらく無言で過ごすうちに、次々と伝令が報告に来た。
開戦早々、石川又四郎と多田三八郎の一隊が突撃し、伊勢長島坊官の服部宗政を討ち取ると味方は奮い立った。その後も松平家の天野遠房や本多・榊原に属する物頭を討ち取る戦果はあったが、味方の被害も拡大する一方だった。
重勝配下からは、最初に長山将監の、次に長篠菅沼氏の当主弟・俊弘の戦死の報が入った。
しばらくすると、設楽貞重が死に、彼が率いていた島田隊が崩壊して、鳥居源右衛門の隊から応援に入っていた竹本政成も討ち死にしたとの報せが入った。設楽貞重は、先の戦で重傷を負って復帰できなかった島田菅沼氏の孫大夫に代わって、島田隊を率いていたのだ。
崩れて一時行方不明となった者には、酒井の兄弟の弟・忠尚、松平信長と板倉頼重の主従なども含まれた。
敵の将を討ち取った報せよりも、味方の将の被害報告の方が頻繁なように思われた。
これは松平家が門徒兵を前面に置いて自家の将(特に別宗門の将)を温存しているからで、鈴木家は分厚い門徒の壁を削りながら進んでようやく敵将にたどり着けるという構図になっていたのだ。
門徒兵は使い捨てであるが、鈴木家の兵、特に熟練の農民兵は替えが少ない。それをすり潰しながら敵の防壁を一枚一枚剥がしていく消耗戦では、今後同数の兵を集めても鈴木家の戦力は大いに減じることになるだろう。
「兄上、やはり厳しいですな。」
「……うむ。」
話すべきことを悩んだ風な重勝はいったん言葉少なに返して、さらに続けた。
「それがしは松平と門徒連中と正面から野戦するのを避けてきた。野戦で負けては敵を勢いづかせるだけ。負けぬと思えるまで先延ばしにしてきたのだ。そうまでしても、これまでの戦はせいぜいが痛み分け。やはりまともに戦ってはいかんと思って――」
重勝はここで言葉を切り、重直を耳を貸すよう招き寄せると小声で言った。
「それがしが手を回して信定を排したのだ。」
「なんと!!」
「これは必ず内密にせよ!おぬしだから伝えるのだ。家中の者にも隠してある。」
重直は絶句して返事もできなかった。
「松平だけでもはなはだ厄介。これに一向門徒が加わっては、まともに戦っても勝ち目はない。とはいえ野戦で無様に負けさえしなければ、いくらか打つ手はある。信定のことのようにな。
今も同じ。武力で勝つのではない。我らが寡兵でも優勢、あるいはせめて互角であるかのように見せかけ続け、敵には『勝てぬ』、味方には『負けぬ』と思い込ませれば……。あとはもう一手、もうしばらくの辛抱なのだ。」
そう言う重勝はいつの間にか百八環金の数珠(曹洞宗の数珠)を手にかけており、その姿はまさに仏に祈るようだった。実際、今の彼には祈ることしかできず、「頼むぞ、伊賀(鳥居)、勘助(大林)」とぶつぶつ念じていた。
重直はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……先の問いかけのこと、東西に鈴木家が分かれ立つは『よし』とは言えますまい。」
「うむ?」
「兄上は戦場にありながら三河の先を思い浮かべておられた。そして、早くから支度を積み重ね、倍する相手を前に引けをとらず、しかも『戦でだめなら』と他の手立てを用意しておられる。
兄上は家長となって10年、それがしは3年と少し。その差なのでしょうか。『いずれはそれがしも』と思えど、今日明日にできるものではないでしょう。しかし世情は、それがしが時の差を埋めるのを待っていてはくれませぬ。『ならば』と先を見越して今から動くべく、10年先の三河を思い描けば、確かにそこに立つは鈴木家でござろう。しかしはたしてそれは足助なのか……。」
そこまで言って重直は顔を上げ、重勝と視線を合わすと告げた。
「先々のことはわからねど、確かに三河を鈴木の手に収めんとするならば、今から我ら東西の鈴木が兄弟の交わりを誓い、足元を揺るがぬように固めておくべきと思い申す。」
今の三河の大部分は一揆を結んだ国衆の連合体によって支配されている。10年先を見据えれば、その中心を占めている鈴木家が三河一国を差配していることは十分考えられるが、その鈴木家自体が複数並び立つ有様である。これでは鈴木家同士の争いを呼ぶだろう。
そうなる前に東の重勝家を頂点に鈴木家を一本化して、やがては三河を一つの鈴木家の領国にするというのが、重直の意図するところだった。
重勝は重直の言わんとすることを了解して力強く頷いた。
そこへひときわ慌てた伝令がやってきて報告した。
「申し上げまする!松平勢の側面に吉良様の兵が攻め寄せており申す!また、知立城に織田守護代様の軍勢が入り、そのまま動かずとの由!」




