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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第3章 松平編「宗家を継ぐ者」
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第28話 1520年「一味神水」◆

 永正17 (1520)年。


 3年前の「宇利の戦い」の際、足助の鈴木雅楽助重政は、田峯菅沼氏の長篠城侵攻に気づいていながら吉田鈴木家に報せを出さないでいた。

 鈴木長門守重勝はそのことを知っており、それ以後ずっと腹を立てていたため、重政がしきりに要請する田峯への共同出兵を先延ばしにして嫌がらせをしていた。

 しかし、いよいよ引き延ばしも限界に来て、この年、両家は田峯城に兵を差し向けることになった。


 重勝は今度の出兵の前に、5年前に野田・長篠を落とした際に送り込んでいた間者に久々に連絡を取り、菅沼氏の中で味方になりそうな者を見繕わせて内応の打診をしていた。

 この間者は半田何某というが、半田は長篠城陥落からしばらくして、人質から解放された野田の情婦を田峯に呼び寄せて娶り、子供をもうけていた。

 彼は律儀に出産の報せをしてきたため、重勝は内通がばれないよう、銭を先払いした商人を送る形で、出産祝いとして夫婦に便宜を図った。

 それゆえ半田は役目が終わっても鈴木家とは懇意だったのだ。


 それはともかく、菅沼氏を攻める重勝方の陣中は、空気が完全に弛緩していた。


「こたびの戦は偽りのものゆえ、島田城をのんびり囲んでおれば、それでよし。」

「そう見ゆれども、易大事(やすだいじ)(簡単そうな厄介ごと)やもしれませぬぞ。すべてにおいて実直にいることこそが吉でしょう。」

さりさり(そうだな)。当家に源七郎のあるこそ吉だなあ。」


 重勝は、鳥居源七郎から油断大敵と言われても「当家にそういうことを言ってくれる人がいてよかった」などとのんきに返した。

 こんなことを言っていられるのも、島田城は調略済みだったからだ。


 長篠菅沼氏の下野守俊則は、先ごろ世を去った父とともに長篠の落成をその目で見届けており、失った長篠への思い入れが強かった。

 その気持ちにつけこんで、重勝は、臣従して吉田鈴木家による一括の開発・徴税を受け容れることを条件に、俊則が城主に返り咲くのを認める提案をしていた。

 土地も豊かになり城も固くなった上での城主復帰の話に、俊則は小躍りして喜び、弟・次郎右衛門俊弘とともに菅沼家中で親吉田鈴木の一派を形成した。

 彼らは島田菅沼氏を支援するとの名目で島田城に入り、城主・伊賀守定盛とその弟・孫大夫定孝に囁いて従属するよう説き伏せていた。


「鳳来の向こうの伊藤氏も『大野を獲れぬか窺っておるゆえ』と欺きて田峯に兵を送らずとの由。」

「よきかな、よきかな。」


 伊藤氏は大野の奥地の亀ヶ城や設楽城を押さえる土豪である。

 彼らも早々に吉田鈴木家の経済圏に取り込まれており、戦う前から田峯菅沼氏の支配圏の外縁部(南東)はすでに鈴木家の勢力下にあった。

 これは重勝にとっては亡き父・忠親との約定、すなわち「兄・重政に田峯菅沼氏の支配地域を全て委ねる」という約定に反する行いだった。

 しかし、両家の力関係が拮抗し、慈父もなき今となっては、本家の実兄であっても、ましてやその実兄が敵対的ならば、守るべき自家の利益を優先するのに重勝には躊躇はなかった。


 ◇


 首尾よく田峯城を落とした鈴木重政は、田峯城の評定の間でどかりと上座に座って、田峯の菅沼大膳亮定広の降伏を受け容れていた。

 そこまでは大変満足な重政だったが、島田城からの書状を近臣に手渡されると、重政はちらと目を通すやこれを引きちぎった。書状には島田城が吉田鈴木家に従属すると書いてあったからだ。

 彼は重勝が勝手に島田城を安堵して手下に組み入れたことに激怒し、がばりと立ち上がって怒鳴った。


「えい!もはや我慢できぬ!」


 重勝からすれば、「我慢も何も、最初に喧嘩を売ってきたのはそちらだ」ということになるが、重政からすれば、分家でありながら本家を蔑ろにして勝手をする弟のこれまでの行動すべてに憤りを覚えていた。

 彼の怒りに共感する者は少なくなかった。特に彼の周りには、父世代の旧臣に代わって幼少期から親しんできた者が控えており、足助の上層部は重政の意見のもとによくまとまっていた。寺部と酒呑の鈴木氏も取りあえず重政と協力関係にあった。

 しかし、中条氏と三宅氏は中立で、それどころか次弟の市場城主・(すずき)親信と嫡男・重直に至っては重勝と仲が良く、重政の足元は必ずしも盤石ではなかった。


 ◇


 重勝ら吉田勢は、わざわざ憎たらしい重政に挨拶する気にもなれず、書状を送るので十分と判断して退却を始めていた。

 なにしろ、先の「野田・長篠の一夜攻め」ではこちらから約束の倍額の礼金を支払ったというのに、今度は吉田が足助の手伝いに来ているというのに、礼金の話すらなかったのである。

 島田の引き渡しは、いわば戦費の取り立てであり、鳥居源七郎はむしろそうするよう重勝に説いたほどだった。

 そんなところに重政率いる軍勢が攻め寄せてきた。


「本家に従わぬ分家なぞ滅ぼしてくれようっ!者どもかかれっ!」


 怒りで我を忘れた重政は、降伏した田峯菅沼氏の軍勢をそのまま吸収して、島田城に攻め寄せた。

 退却途中の吉田勢にとっては重政の攻撃は奇襲となったため、被害が出た。


「気でも狂ったか兄上!かくなっては、せん方なし!皆の者、打ち払え!」


 日ごろの鬱憤から、重勝の頭からも応戦以外の選択肢は抜け落ちていた。

 重勝は崩れないよう兵を叱咤激励しながら、なんとか持ちこたえた。

 吉田鈴木家では、作事も担う熟練の組頭が、呼び集められた一般の兵をまとめており、兵たちの逃散をよく防いでいた。


「小弓の者らは林に入り、木の影より兜首(かぶとくび)を狩れ!」

「任せあれぃ!」


 重勝は小弓衆を山林に散らして木陰から敵を狙撃させた。

 長篠周辺の山がちなこの一帯は、普段から獣道を駆け狩りに勤しんできた小弓勢にとっては庭のようなものであった。

 チクチクと物頭を狙う攻撃は、それによる被害は大したものではなかった。とはいえ、重政方の武士は身を守らねばならなかったり気を散らされたりしたため、攻め手の動きは阻害された。


「なにをしておるか!乱戦になれば矢も射られぬ!前にでよ!」


 業を煮やした重政は陣頭に立って指揮をとろうとしたが、近臣は重政の身を案じて止めた。

 もはや意のままにならぬことすべてが憎らしくなっている重政は、股肱の近臣をも大音声で叱責し、力づくでも前へ出ようとして揉め事になった。

 それにより軍勢の中から大将の位置を察知した小弓衆はこれを狙撃し、重政らは大小の矢傷を受けた。足助勢は余計に勢いが鈍り、やがて田峯城まで引いた。

 こうして、足助勢が田峯に、吉田勢が島田に、それぞれ籠って睨み合うことになった。


 ◇


「ふむ、長門殿は本家と雌雄を決さんとするようだ。どれ、儂も助太刀いたすか。」


 重勝の書状を読んだ奥平監物貞昌は老いた体で戦支度を始めた。

 重勝は戦線膠着の隙に、奥平家に使者を走らせ、足助の侵攻軍の後背を突くよう頼んだのだった。

 奥平家と吉田鈴木家は当主同士で親交があり、奥平の支配する山間(やまあい)の作手と南の平地の野田は経済的に強く結ばれているため、両家は親しい同盟関係にあった。

 さっそく兵を集めた貞昌は、足助勢が田峯城攻略の中間拠点とした菅沼城に忍び寄り、あっさりとこれを攻め落とした。


「奥平は吉田の味方にござれば、兵糧を運ぶに難しく……。」

「三宅や中条が我らの後詰せざるは、よもや吉田と談合したからにあらずや……。」


 うろたえた田峯勢では寺部や酒呑の親族衆から和平を求める声が上がり始めた。

 重政はそれに激高し、酒呑鈴木氏の重臣を手討ちにしてしまい、田峯城内は一気に不穏な空気になった。

 しかもちょうどそのころ大きな地震が起こり、不吉の前触れと解釈されて、重政の指導者としての先行きが不安視された。


 ◇


 互いに引くに引けない見苦しい状況を見かねて、西三河から重政の若き嫡男・重直が一軍を率いて奥平氏の詰める菅沼城に現れた。

 彼は重政と重勝の双方に対し、終戦のための話し合いを持ち掛けるためにやってきたのだった。

 その若き正義感を気に入った老将・奥平貞昌の呼びかけで、三者の会談の場が整えられた。


「このうえは益なき争いはやめたまえ。父上も兄者も、とげとげしく我を張っても一切(いっせつ)よきことあり申さぬ。

 父上には隠居していただき、それがしが家督を譲り受け申す。これよりは東西の鈴木家はゆめゆめ裏切りなどせぬよう、一揆を結ぶべし!」


 奥平氏と菅沼氏もこの一揆に参加することになり、一同は田峯場近くの白鳥社にて一味神水の儀式を行った。

 誰が起請文の上の方に名を書くかで少々揉めたが、円の形をとることで落ち着き、書く順番については重勝と重直の間で義兄弟の契りに見立てて先に重勝が、次に重直が名を書き入れた。

 重直は、起請文を焼いた灰の入った神水を全員が飲み干すのを見渡すと、続けて言った。


「田峯の方々はそれがしの旗の下に(つど)い、武節より羽布までを足助にお譲りくだされ。菅沼城は奥平殿に譲りましょう。そして、島田より南は長門守の兄者の治むるところといたす。

 この儀を以て方々武器を置き、もしこれから先にこの盟に背かんとする者あらば、すべての(かたき)にて必ずや皆の力で滅ぼさん!」


 重政は憤懣やるかたない様子だったが、重直の立派な益荒男(ますらお)ぶりに感銘を受けた諸氏は重直を西三河鈴木勢の盟主と仰ぐことに異議はなく、すべては滞りなく進んだ。

 重勝は兄・重政のことをどうこう言えない自らの不明を恥じて、弟分だった重直の成長を頼もしく思い、これを褒め称えた。


 ◇


 家督を譲らされた鈴木雅楽助重政は三河守重行と名を改めて近臣とともに逐電し、守護家のお家騒動で忙しない美濃に落ち延びた。前年に美濃守護に返り咲いていた土岐頼武に仕官したという。

 しかし、大永5 (1525)年に頼武の弟・頼芸が反撃を開始すると美濃情勢は再び混迷を極め、爾来、彼らの行方は(よう)として知れない。


【史実】鈴木雅楽助重政は、1525年に松平清康(徳川家康の祖父)に足助を2000の兵で攻められて降伏し、嫡男の越後守重直の嫁に松平宗家一族の娘・久をもらって服従します。

 しかし、1535年に松平清康が暗殺されると離縁・離反し、その後再び服従しますが、関東移封後に重直の孫・康重がなぜか出奔して途絶えます。

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