第28羽 逃げ去ることはできなかった。
柳生はそっと立ちどまり、僕も釣られるように立ち止まり、見つめ合う。
真っ直ぐに見据えると、彼女は立ち止まって拳を握る。癖なのかもしれないそれは、なけなしの想いを振り絞る時なのかもしれない。
そんなひたむきさを引き出してしまったのは自分なんだと思うと、やっぱり気分はよくはない。その反面でカーテンのような髪に半分ほど隠れてしまっている彼女の凛とした表情。それを公然と見せられると、なぜか胸が痛んだ。
「それ……は、」
言い淀んだと思ったら、口を噤んだ。
躊躇ったからできたタメではなく、なにかに怯えて逡巡したようにも思えた。
そうしてしまったのは、彼女の視線の先。
ザッザッと敢えて音を立てているような足音が、できたばかりの静寂を引き裂く。
「悪ぃな、取り込み中か」
長身痩躯で佇むは、底なしの恐怖を浴びせるような鋭どき眼光と、全ての敵を物理的になぎ倒すような逞しい腕をもつ男。
その異様なまでの覇気に、心臓がギュッと絞られて身動きすら正常にできないほど。そのぐらい他者を手軽に恐怖のどん底に貶めることができる異能力を保持しているのは、
「ヤ、ヤンキー先輩」
「誰がヤンキーだ、ゴルァ」
「す、すいません。樫野先輩」
首を絞められてでたのは、蚊が鳴くような声。
本人にしては極力、力を入れていないのかも知れないけれど苦しい。柔道の絞め技もどきが緩まると、ゲホゲホと咳き込むぐらいはキツかった。
そして樫野先輩は柳生に向き直る。
「お前の兄貴が話があるそうだ」
こくんと、ようやくといった感じで頷く柳生。
樫野先輩の恐ろしい見た目に慄いているといった様子ではないけれど、申し出に不安がっているように見える。
「マグロはどうしたんですか?」
「あいつなら帰らしたよ、裏門からな」
「帰ったんですか?」
柳生をおいて?
少ないながらも登下校した一ヶ月。
マグロが柳生のことを思いやっていたし、一度も登下校を別々だという時はなかった。
マグロの似つかわしく行動に一抹の疑念が頭に湧きそうになると、無言を押し通して柳生は校舎へと戻っていった。
歩み寄ろうとも思ったけど、スリッパを履いて歩く後ろ姿が躊躇わせた。なにより、その背中から話しかけないで欲しいという思いが漂ってきた気がした。
僕と一緒に歩いていた時よりも、更に露骨に避けだした生徒たちの塊。それを見るのが嫌で、さっさと独りで家に帰りたかった。
「登坂、お前に話がある。できればここじゃなくて、二人きりになれる場所で」
踵を返そうとすると樫野先輩に呼び止められる。
先輩に、反論を割り込ませる余地はなさそうで、僕はあっさりと首肯した。
「わかりました」
そう言わなければならなかったのは、先輩が怖いからじゃなくて、いや実はそれもあるけれど。
ただ、なんというか哀愁とか寂寥とかそんな感じの瞳の色をしていて、そのまま捨て置くことはできなかった。
なんなく、そんな気がしたんだ。




