弱い心です
冷たい水の中からぐっと引き上げられる。
乾いた桟橋の板がみるみる濃く染まった。
「キアラ、大丈夫?」
「だっ……大丈夫です」
逃げ出した先に地面がないなんて。一歩を踏み出した途端に気付いたが遅すぎた。恥ずかしすぎて全身ずぶ濡れなのに体が熱い。キアラを引っ張り上げてくれたセオドリクも服を濡らしていた。
「このままだと風邪をひいてしまうね。すぐに乾かすから脱いで」
「えっ!?」
「ほら、早く。やっと元気になったのにまた熱が出たりしたら嫌だよ。早く脱いで」
「え、でもっ」
急かすセオドリクから逃れるようにキアラは距離を取って首を左右に振った。
「ずぶ濡れですよ。服も下着も何もかも。前のように上だけじゃすみません!」
前に衣服に酒を零したとき、セオドリクは魔法を使って乾かしてくれた。キアラに魔法は効かないので服を脱がなくてはならない。こんなのところでかと混乱するキアラに対し、セオドリクはしごく真面目に言い放った。
「誰もいないから大丈夫」
「裸になるんですか!?」
たった今、キスしたいとキアラが言っただけで真っ赤になっていたセオドリクだったが、いつになく真面目な面持ちで「風邪をひくから早く」とキアラを急かした。
「僕は反対を向いて、こうして目を隠しているから。脱いだら僕の前に服を置いて声をかけて」
セオドリクはキアラに背を向けると両手で顔を覆って目隠しをした。キアラは水を滴らせながら唖然と彼の背中を見つめる。
こんな場所で裸になれと?
誰もいないからといっても、立ち木の一つもない、身を隠す場所もない不安な野外でまさかこんな。しかし目の前の背中は真面目にそうしろと言っていた。
「本当に誰もいないんですか?」
「ここは僕の領域だから。エルフは他人の世界に約束も無しに踏み込まない。よほどのことがあれば別だけどね」
「よほどのこと……」
そんなことは今現在ないと信じたい。
セオドリクは背を向けたままキアラが服を脱ぐのを待っている。両手でしっかりと目隠しをして、少し俯いているせいで尖った耳が銀色の髪から覗いていた。
「天気もいいし、このままでも大丈夫そうですよ?」
「駄目だよ。家に帰るのも手だけど時間がかかるし、誰もいないし僕も見ない。ここで乾かすのが一番だから。ほら、急いで」
諭されて仕方なく服を脱ぐ。
濡れた服は大変脱ぎにくいが、なんとか全て脱ぎ終えてセオドリクの前に置いた。
「置きました」
キアラはぺたんと座って両手で胸の前を隠していたが、セオドリクは頷くだけで背後をみようとはしない。それに濡れた服に触れる手の動き方からして目を瞑ったままのようだ。服を乾かそうとして何かを想ったらしく、ポケットに手を突っ込むと手拭いを掴んで後ろ手に突き出した。
「これで濡れた体を拭いて。髪はぎゅっとしっかり絞るんだよ」
キアラは小さな手拭いで体の水分を取ると、言われた通り髪を絞り、手拭いを細くたたんで濡れて髪をまとめて縛った。その間に服を乾かし終えたセオドリクが簡単にたたんだ服を差し出してくれている。
「ありがとうございます」
「ううん、僕のせいでもあるし」
「セオドリクさんは何も悪くありませんよ」
手早く服を着たキアラは濡れた髪をもう一度整え、準備ができた旨を伝える。すると気まずそうにセオドリクが振り返った。
「いや、僕のせいだよ。だってキアラは僕とキスしたいって思ってくれているのに、僕だってしたいのに……」
だんだんと声が小さくなって聞き取れなくなる。キアラが首を傾げると、セオドリクはぎゅっと拳を握りしめた。
「夫婦になるのはキアラの保護者に挨拶してからだと言われたんだ」
「キナーシュさんにですか?」
「長老に」
何時の間にエルフの長老に会ったのだろう。疑問に思ったが口にせず、黙って先を聞くことにした。
「父さんが攫うように連れて来たでしょ。だからけじめをつけろって。ちゃんと挨拶しに行くように、それまで慎めって言われた。それが当然だって分かってるんだけどあそこには王太子がいるから。キアラを愛している人間に君の姿を見せたくない。我儘だってわかってるけど、王太子がキアラを想う気持ちは本物だから、どうしても会わせたくなくて。そのせいで唇に触れたくても触れられない。だからさっさと行って挨拶してきたいけど、その、何ていうか――」
下を向いて口籠ったセオドリクの気持ちは何となく分かった。
エルフは肉体が朽ちることで愛の証明ができる。真実の愛も一人だけ。けれど人は違うのだ。本質はキアラが再びカイザーに心を奪われてしまうのではないか。そうならなくても、心の中に自分以外がいるのが嫌なのだろう。
「わたしは人の世界に戻らなくてもいいです。このままで、お世話になった人たちに不義理をしても、二度と会えなくてもいいんです。セオドリクさんの側にいられるなら、あなたが生きて一生側にいてくれるなら、それで満足です」
「そんなことさせられないよ。分かってる。僕のこと好きになってくれたからここに居るって、僕は戻ってこれたんだって分かってる。キアラをやっと会えた家族と永遠に引き離したりしない。大切な君にそんな辛い選択をさせたりしないよ。ただ、僕が怖がりだってだけなんだ。ごめんね、男なのに情けなくて」
ぐすっと鼻をすすったセオドリクにキアラは正面から抱き付いた。
「わたしのことを考えてくれてありがとうございます。でも、長老が言ったからってキスも駄目って、ちょっと厳しすぎませんか?」
「長老が駄目って言ったんじゃないよ。自制してるんだ。本当は僕だってしたいんだ。でもキスしたらその先に進みたくなるから。お願い、誘惑しないで」
セオドリクはキアラを抱き締め返すと黒髪にキスを落とした。




