夢の世界
キアラと今生の別れをしたセオドリクは、その足で大切な彼女を産み落としてくれた女性メノーテを訪ねると、改めて守りの術を施し、彼女を取り巻く自然に恵みを願って別れを告げた。
「レオノールを、キアラをよろしくお願いしますね」
別れの場でセオドリクは、メノーテの願いに対して曖昧に微笑みを返すことしかできない。
心から愛する真実の人。
彼女を守るのはセオドリクではなく他の男だ。
悲しみを覚えながらもこれでよいのだと己に言い聞かせる。
「長い旅に出ます。二度と会うことはないでしょうが、キアラとあなたの幸せを願っています」
言えたのはたったこれだけだった。
セオドリクはメノーテと抱擁を交わして別れを告げる。
これでやり残したことは何もない。後はキアラが愛する者と結ばれるだけだ。
エルフの里に戻ると家に引きこもった。
誰もいない、たった一人の広すぎる我が家。
エルフの男は独り立ちすると将来愛しい人と住まう家を建て、その日を迎えるまで一人きりだ。
かつては人と恋をし、迎える日を想像して楽しみだった我が家での生活も、がらんとした広いだけの空間がより一層の孤独を感じさせる。
身を滅ぼす恋に憧れ、自ら望んで人の世界に出向いて真実の恋を知った。
セオドリクは初めての恋を真実と思い込んだが、今のセオドリクの状態は、初めて恋をしたフェルラと結ばれなかった時とは全く異なる状態にあった。
たった一人、己の全てをかけて愛した人が、あきらめていた唯一の人と結ばれたことは何物にも代えたい幸福だ。
愛しい大切な人の幸福を、己の身を犠牲にして勝ち取ったことは、真実の愛を手に入れたエルフにとって何よりも幸福なことであり、セオドリクの胸にもやり遂げた満足感があるにはあるのだが。
胸にそっと手を当てると、別れの場面が蘇る。
彼女は美しい紫色の瞳を驚きに染めていた。それは愛しい人との未来が見えて驚きすぎてのことだろう。
最後に彼女はセオドリクの腕を掴んで大粒の涙を流した。そこにはセオドリクが望む笑顔はなかったが、叶わないと思っていた恋が手に入ると知って驚き過ぎていたに違いない。涙を零したのは喜びに感極まってに違いなく、心優しい彼女のことだから、セオドリクに嫌な役目を押し付けてしまったと心を痛めてくれたのだ。
「本当に泣かせるつもりじゃなかったんだ。最後は笑顔で締めたかったけど、それを望むのは贅沢だよね」
自分は最後に笑うことができた。きっとキアラの罪悪感も消えるだろう。
「僕は完璧だ。真実の人のために、僕は出来る限りの最高を与えることができた。うん、大満足だよ」
愛しい人の幸せが、キアラの幸せこそがセオドリクの幸せであり、最大の喜びだ。
それなのに心に開いてしまった穴は何だろう。
穴が開いて空洞なのに、痛みを感じてしまうのはどうしてなのか。
苦しくて苦しくて涙が零れるのはなぜなのか。
異変に気付いた両親が姿を現し、ことの顛末を聞いて涙を流すのはどうしてなのか。
「父さん、母さん。僕は唯一の人を見つけたんだ。どうして喜んでくれないのさ」
キアラが幸せになることがセオドリクの望みだ。
両親は互いに想い合う伴侶に巡り合い、子を成して幸福を手に入れた。
セオドリクには愛しい人との子は望めないが、エルフにとって唯一の人を見つけられたことはとても幸せなことなのに、どうして両親は痛ましい表情をしているのか。
「そうねセオドリク。あなたは心から愛する人を得た。とても素晴らしいことだわ。だけどどうして彼女はここにいないの。心だけ奪うなんて、人間は残酷な生き物だわ」
母親は泣きながらセオドリクを抱きしめた。セオドリクは強張り始めた腕を持ち上げて母親を抱き締め返す。
視界に映る己の腕が土色に変わり、皮膚は硬くなり始めているのを知った瞬間でもあった。
「キアラは僕に真実がなんなのか教えてくれた唯一の人だよ。僕の恋が報われなかったのはキアラのせいじゃない。僕は人の男に恋をするキアラに恋をしてしまったんだ。僕が朽ちるから泣いてるのだとしたら間違いだよ。僕は愛しい人を得て、彼女のためになれて嬉しいんだ。この気持ち、父さんや母さんに分からない筈がないよね」
「そうね、分かるわ。だけど納得できるかと言えばそうじゃない。たった百年足らずで大切な息子を失うなんて、納得できることではないわよ。だけどあなたのために納得できるように努力するわ。ねぇキナーシュ?」
母親が父親に同意を求めるが、返事はなく、長い腕で妻とセオドリクを捕らえた。
その日からセオドリクは起きているよりも眠っている時間の方が多くなった。
起きていると孤独に苛まれるが、眠っていると望む通りの幸せな夢を見ることができる。
愛しい人が笑っていた。
顔の見えない男――当然王太子であるカイザーだが、二人寄り添い幸せそうに見つめ合う。そこに二人を邪魔したカラガンダの王女であったアデリナは存在せず、手に手を取り、身を寄せあって幸せそうに微笑んでいるのだ。
キアラが幸せだと知り、セオドリクの心は温もりに満たされる。
時々キアラがセオドリクを見つけて、嬉しそうに笑ってくれるからセオドリクも幸せだ。
「ねぇキアラ、今日も幸せ?」
「ええ、とっても幸せよ」
その幸福を導いたのが自分だと思うとセオドリクの心は満たされた。
たとえ己の腕に抱き締めることができなくても、キアラが愛しい男の腕に抱かれるならそれで十分だ。
そんなある日、セオドリクが聞きたくない声が聞こえた。
「とても辛い」
苦しそうに耳元でささやかれた生々しい声に、セオドリクの心臓がドクンと音を立てる。
「お願い、戻って来て。セオドリクさんがいなくてとても辛いんです」
辛い――この言葉はセオドリクが望まない言葉だ。
キアラの声で紡がれた他の言葉は意味を成さず、ただ「辛い」という単語だけがセオドリクの脳裏に繰り返し木霊して、恐ろしい未来が描き出される。
辛い、辛いのだと訴えるキアラは、カイザーにないがしろにされ、カイザーとアデリナが戯れる様を見せつけられ涙を流していた。
努力が足りない証拠を見せつけられ、セオドリクは聞きたくない声を偽物だと拒絶する。
そうすると「辛い」などという声は二度と聞こえなくなり、幸せそうなキアラの笑みが戻って来た。
良かったと思う。
心から良かったと、キアラが幸せなら全てが幸せだと思われる。
しかし、それでも心の奥底に抱えた痛みは消えることがない。
苦しみから目を背けてもかならず追いかけて来るのだが、それももうあと少しであることをセオドリクは悟っていた。




