望む夢のまま安らかに
何もかもがどうでもよくなるというのは、こういうことなのだろう。
キアラは、老木のように皮が剥がれかけたセオドリクの手を壊してしまわないよう、とても優しく慎重に握って自らの頬に寄せる。
カイザーに恋をした時は己の立場を見誤り、ヴァルヴェギアに必要だった第一王子のマクベスを拒絶した。
マクベスの死によってカイザーの立場が変わり、仕方がないと割り切って隣に立つことを諦めた。残された時間は魔力なしとして人生を全うするものだと思っていたのに。
それなのに今のキアラにとって、生まれ持ってどのように生きるべきか擦りこまれた魔力なしとしての立場はどうでもいいものになってしまった。ヴァルヴェギアのためだけに生きることは、幼少期より徹底的に教え込まれた常識だったが、魔力なしだとか、ヴァルヴェギアだとか、カイザーだとか。世話になったラシードや血の繋がった兄や母親の存在さえ、今のキアラにとってはセオドリクの側から離れる理由になりはしなかった。
今回キアラがエルフの里に来ることができたのは、カラガンダに魔力なしを奪われないための策だったのは分かっている。
あの場所にいては問題だったからこそ、ラシードは態度とは裏腹にキアラの背中を押したのだ。けれどそれは一時的なもので、ヴァルヴェギアはいずれ戻らなければならない場所なのだ。
けれどキアラにはもといた場所に戻る未来が見えない。今あるのは目の前の現実だけ。
枯れ枝のようになったセオドリクは、時おり瞼を持ち上げると瞳のない白い目を覗かせて、何事かをかすれた声で呟く。キアラはその声を聞き逃さぬよう耳を傾けることに集中していた。
「セオドリクさん、今日も澄んだ青空のいい天気ですよ。風も心地よくて、こんな日はお弁当を持ってピクニックでもしてみたくなりますね。実はわたし、ピクニックってしたことがないんです。セオドリクさんと一緒ならきっと楽しめるのでしょうね」
柔らかな日差しの下で、緑の地面に敷きもをの広げて二人で作ったお弁当を広げるのだ。キアラは料理の腕は良くないが、きっとセオドリクなら一緒に作ることも楽しみながらやってくれるはず。
井戸に釣瓶を垂らして水を汲み、竈に薪を並べて火を熾してパンに肉や魚を焼いて、野菜を切ったりして。スープを煮込んで持って行くのもありだろうか。ララリアが作ってくれた、セオドリクが子供のころから大好きだというミルク粥もいいかもしれない。
外で食事をすることは多々あったが娯楽としての経験はない。初めての経験をセオドリクと共に。そう願いながら幾日かの時間が過ぎていく。
エルフの里での生活はセオドリクが教えてくれた通りだった。
朝目覚めたら井戸の冷たい水で顔を洗うのだが、魔法がかけられていないのに釣瓶は軽く、扉の開閉も労がかからない。
竈に残る種火も魔法ではなく、失えば火打ち石をつかって火を熾す。セオドリクが眠る家には魔法が施されたものが何一つとしてないので、魔力のないキアラが勝手に触れても問題にはならない。
「セオドリクさんの言った通り、エルフの里は本当に魔力なしにも優しい世界ですね。こんな素敵な所で生まれ育ったから、セオドリクさんは魔力なしに偏見がなくて、触れることに迷いがないのだと分かりました。魔法が解けても楽しそうに笑ってくれて……あなたはわたしの心を救ってくれた」
あの日、パフェラデルに辱められて、ラシードやロルフに目撃されて、同じ人でないことが恥ずかしくてたまらなかった。カイザーとのこともあって卑屈になり、隠れて泣いていた情けない姿のキアラをセオドリクが見つけてくれて。慰めではなく、ありのままを迷うことなく受け入れてくれている様を見せつけられ、戸惑いながら心を開くきっかけになったのだ。
「ねぇセオドリクさん。わたし、カイザー様のことは諦められたのに、種族の異なる、同じ時を生きることもできないあなたのことは諦められないんです。置いて逝く残酷な未来があると知った今も、どうしてもセオドリクさんと一緒に生きたいんです」
朽ち行こうとする様を見せつけられても、なんとかして呼び戻したいと思っている。時折ひらく瞳に色を取り戻し、夢うつつではなく、キアラ自身を写して欲しいと願わずにはいられない。
もしこのまま儚くなってしまうなら、キアラはセオドリクを追って冥府に旅立つことを考えていた。
けして悲嘆に暮れてのことではない。
不思議な力をもつエルフのセオドリクとなら、魂となった世界で再び出会うことが叶い、瑠璃色の瞳にキアラを宿してくれるのではないかと思えてしまったのだ。
ぼろぼろになった手を取って頬を寄せると、セオドリクの瞼がゆっくりと開く。
けして目覚めではない。
一日にほんの数回、ときおり目を開けてくれるが白色に変わった瞳はキアラをうつしてくれない。けれど夢見るそれは、夢の世界を彷徨っているのだと知っている。そして夢の中で、セオドリクが望む通りのキアラが描き出されているのだ。
真実ではない夢の世界に生きるセオドリクの顔を覗き込むと、白く濁った瞳が虚空を見つめて、枯れた唇がかすかに動いた。
その声を聞き逃さぬよう、キアラはセオドリクの手を握りしめたまま耳を寄せる。
「キアラ、今日も幸せ?」
ガラガラに枯れた声。
初めて聞いたときは衝撃が激しかったが、今はもう慣れと共にセオドリクが生きている証明となっていた。
キアラは彼の耳元で、彼の望む通りの言葉を囁く。
「はい、幸せです」
「そう、良かった。王太子は今日も君のことを心から愛しているよ。だからどうか幸せになってね」
セオドリクが望むのはキアラとカイザーが幸せな未来を歩むことだ。そのために王太子妃アデリナとの不貞を偽装した。そして眠りに就いたセオドリクは朽ち逝く過程で望む通りの夢を見続けている。
セオドリクの問いに、キアラは心を偽って幸せだと答える。そうしなければセオドリクの息が止まりそうになるからだ。
初めて問われた時は正直に「辛い」と答えたのだが、キアラの答えを聞いたセオドリクの体は地面が軋むような音を立てると、口からは体液を吐き出してもがき苦しんで、肉体の風化が極端に進んでしまったのだ。
その日以来、キアラはセオドリクの言葉を否定する答えを口にすることができずにいた。
セオドリクの両親であるキナーシュとララリアは穏やかな死を望んでいるが、キアラはエルフの常識を知る彼らと異なり、間違った解釈で勝手に納得して、朽ちて死のうとするセオドリクを呼び戻す方法がないかと考え続けている。
セオドリクの声が聞こえたのだろう。柔らかな風を連れてキナーシュとララリアが部屋に入って来た。
ララリアはキアラが本心を口にしてしまわないかと不安そうに眉を寄せていて、キナーシュはキアラの隣に腰を落とすと、我が子を覗き込みながらキアラに向かって願いを口にする。
「君の本心に反すると分かっているが、どうかこのまま呼びかけに答え、手を握って望む通りの言葉をかけてやって欲しい。そうしたらセオドリクの心もきっと晴れる。体をきしませ体液を吐き出すのは心が苦しがっている証拠だ。セオドリクは君と人の王子が仲睦まじくあり続けることを願って行動した。目を覚まさず事実を知る術がないのなら、このまま幸せな夢を見続けさせてやってくれないか」
セオドリクと似通い過ぎたキナーシュがキアラへと顔を向ける。瑠璃色の瞳もセオドリクと同じで見紛うが、重ねてしまうことはない。
「君がセオドリクを愛してくれていることは分かった。疑う余地はない。だけどね、人は愛を失っても朽ちはしないだろう?」
「だから夢をみせ続けろと言うのですか?」
「できるなら連れ戻して欲しかったし、それを望んで君を連れて来た。けれど何もかも遅すぎたのだよ。セオドリクは完全に夢の世界の住人だ。君の声が届くのは確かだけれど、望まない言葉は受け入れられない。それなら安らかにと願うのが親というものだ」
キナーシュの言う通り、人は愛しい人を失っても朽ちることはない。エルフのように絶望して肉体が朽ちる苦しみを味わうことはないが、だからといってあきらめきれるものではないのだ。
どうせ結果が同じなら安らかにと願う親心があるのかもしれない。それでも声が聞こえるなら、夢の世界から連れ戻す方法があるのではないだろうかと考えてしまう。
キアラは唇を噛んで、ぎこちない笑みを浮かべたセオドリクに視線を戻す。その瞬間、セオドリクの口元からぽろりと硬い皮膚の欠片が零れ落ちた。




