朽ち逝く
干上がった湖面のようにひび割れた土色のその人は、人々から魂を抜き取れるほどの容姿を誇った美しいエルフだった人だ。
恋をしているのだと子供のように屈託なく笑い、傷ついて落ち込むキアラをあっけらかんとした態度で慰め、迷いなく触れてくれたエルフ。
なのにキアラは、今にも崩れてしまいかねない肉体になり果てたセオドリクに対して、恐れを成して言葉を失い触れることができない。
それでも手を伸ばし、ひっこめ、再び伸ばして指先で触れようとするが、その瞬間にぼろりと崩れて砂になり、流れる風に乗って消えてしまうと思うと怖くて、手を引っ込めて出すを幾度となく繰り返す。
最初の恋にやぶれたときは何十年も泣いたと言ったのに、今回は泣くことを忘れて生きるのを止めようとしているのだろうか。
どうして――と、問おうとしたが声にならず、喉の奥が唸っただけだ。
これだけの想いをぶつけてくれたことに、本来なら喜びに満ちる場面である。
けれど、どうしてと、セオドリクだけでなく己をも責める気持ちが込み上げた。
どうしてなのか。
セオドリクはこの結末を知っていたはずだ。それなのに人との恋に憧れて、人間の世界に足を踏み入れて。初めての恋は真実ではなかったからと、再び人の世界で恋をして。
ユリンを好きだと語る姿は輝いて眩しかった。
キアラは魔力なしとして生まれ、家族と引き離されて何も持たない身のまま戦場に送られた。
大切な人を得たが想いを叶えることは許されなくて、そんな時に出会った自分に正直過ぎるセオドリクは、己を押し込めて生きて来たキアラには本当に眩しすぎたのだ。
迷いなく差し伸べられる美しい人の手。
魔法が解かれても「すごいね」と、上辺ではなく本当に心から楽しそうに笑顔を向けてくれた。
荒んだ心がどれだけ慰められたか、当のセオドリクはきっと理解していなかっただろう。
キアラに触れてくれるのはセオドリクただ一人ではなく、ラシードやロルフ、そしてカイザーだって同じだった。
けれどセオドリクは彼らとは本質的に異なっていて、魔力なしだから仕方がないと受け入れているのではなく、良い意味での驚きの一つとして把握し、時にほんの少しも気になどせずに、ごく当たり前の存在として隣に身を寄せてくれていた。
人の時間は短いから悩むだけ無駄だと、新しい恋の相手に自分はどうかと勧めたのは、キアラを慰めてくれる冗談ではなく本気だった。その時のセオドリクはユリンに恋をしていたから、片思い前提の話としてだが、恋の素晴らしさをキアラに伝えたかったからだ。
愛しい人を得ること、恋をして心を揺らすこと、温めること。その素晴らしさを心から楽しそうに語ってくれたのはセオドリクだ。
人に恋をしたら破滅する。その言葉に憧れ、人に恋をして。
その結果がどうなるかを知らなかったわけではないだろう。
「これが……これがあなたの望んだ恋の果てなの?」
心から想う真実の相手との恋が叶わなければ、朽ち果て砂となって消えていく。
破滅とは、人とエルフが同じ時を生きることが叶わないからだ。
あまりにも短い人の生と、長すぎる時を生きるエルフでは、後に残されるエルフは身を滅ぼす。
まさに肉体的な意味だったとは思いもよらない現実だ。
「ねぇ、セオドリクさん」
目を開けてと言いかけて、開いた途端に瞼が崩れるのではとの不安で言葉を止めたキアラは、寝台の縁に手をついて額を寄せ涙を零した。
どれくらいそうしていただろう。肩にかかる重みを感じて顔を上げると、目を細めたキナーシュがキアラの肩に手を置いて微笑んでいた。
「死んではいないよ。ララリアが言っただろう、夢うつつの状態だと」
「こんな状態で、本当にちゃんと目を開けるんですか?」
震える声で問えばキナーシュは微笑んだまま頷く。
「開けるよ。瑠璃色の瞳は失われているけどね」
それは瞳までが朽ちて砂となっているという意味なのか。
恐ろしい現実にキアラは息を呑んで瞼をぎゅっと閉じたが、胸に手を当て気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。
このような姿になっているがセオドリクは生きているのだ。キアラは絶望するためにエルフの里に来たのではない。
「セオドリクさんをもとに戻すことはできますよね?」
真実の恋に破れてこうなっているのなら、キアラが気持ちを伝えればどうにかなるのではないか。一縷の望みをかけて問えば、キナーシュは悲しそうに目を細めて視線をセオドリクに向けた。
「エルフは真実に愛したものを失うと、悲嘆に暮れ、悲しみのあまり肉体が朽ちて砂塵となり自然に返ってしまうのだよ」
仕方がないことだとでもいうかの言葉に、キアラの体がガタガタと震える。
「私もララリアを失えばこうなるし、私が死ねばララリアもこうなる。だがそれはこれほど早い滅びではなく徐々にだろうね。そうなっても互いに同じ時を生きるのだからなんの憂いもない。これは長年連れ添った相手に対する気持ちの証明でもあり、エルフにとってはとても幸せなことなんだ」
連れ合いが亡くなれば悲しみのあまり悲嘆に暮れる。そうして心が弱り、肉体は朽ちて自然に返るのだ。
それは長い時を生きるエルフにとって、伴侶を想う強さを表しており、一人残される時間が短いことで悲しみの時は永遠に続くことなく、さほど時を置かずに死の旅に向かえるから怖くなどなく、エルフにとって本当に幸せなことなのだと聞かされた。
「けれど人が相手となると話は違う。ほんの僅かな時間しか共にいられないせいで、残されたエルフは膨大な時間をたった一人で、愛しい人を想いながら生きなければならない。そうなったエルフは絶望に苛まれ、僅かな期間で朽ち果て死を迎えてしまうのだよ」
長い時を連れ添った伴侶を失った時には、伴侶を想いながら幸せに。けれど人と恋をしたり、短い時で不慮にも伴侶を失った時には絶望に苛まれ、早々に生の世界から消えてしまおうとする。
セオドリクは後者の状態だと知り、キアラは思わず声を上げた。
「セオドリクさんを戻せるって言って下さい!」
美しいエルフの姿でなくていい。姿形なんてどんなものでも構わない。
ここでセオドリクが目覚めてキアラを受け入れてくれたとしても、エルフにとっては短い時しか一緒にいることはできない。
セオドリクを目覚めさせたいという気持ちはキアラの我儘だ。それでも愛していると知って欲しかった。あなたの愛してくれた人間は、ちゃんと前を見て、新たな恋をして、その相手はセオドリクだと伝えたかった。
真実を知らないまま逝ってなど欲しくない。
「どうしたら夢から覚めるんですか。何でもします。何でもしますから教えてください!」
感情が高ぶり過ぎて涙が溢れ出す。顔を両手で覆い嗚咽が漏れた。
夢うつつにキアラを呼ぶと言う。
セオドリクはどんな夢を見ているのだろうか。
幸せだろうか。辛いのだろうか。
衝撃と不安でどうしたらいいのか分からなくて、種族の違いによる不可思議な現象まで立ち塞がり、キアラは「教えて」と嗚咽を漏らしながら懇願した。
「それは、私たちも知りたい」
なのに希望に繋がる答えはやって来なくて。
「頼むよ、キアラ。セオドリクの側にいてやって欲しい。そうして名を呼ばれたら、どうかこの朽ち果てた手を握って答えてやってくれないか」
キナーシュが枯れたセオドリクの手を取ると、慈しむように頬に寄せた。




