再びの逃亡
説明を命じるラシードの厳しい口調に、歩みを止めたキナーシュは不快そうに眉を寄せると、繋いだ手を引いてキアラを後ろに隠してしまう。
「魔力なしはヴァルヴェギアの物だ。エルフの我儘ひとつで奪われるわけにはいかない」
堂々と立つラシードの後ろにはキアラの見知らぬ男が二人いた。キアラは、正気に戻ったロルフが少し離れた場所に立って様子を窺っているのをエルフの背後から確認する。
ラシードの主張はヴァルヴェギアでは正しいことだ。しかしキナーシュは「物」という言葉に反応したのか、キアラを掴む手に力を込めた。痛みにキアラが顔をしかめるがキナーシュは気付かない。
キナーシュはキアラの腕を強く掴んだまま、不快な気持ちを隠さず、ヴァルヴェギアの騎士団長を見下すように目を眇めると嘲笑うかに鼻を鳴らした。
「成程。愚かな人間は人の下に人を作るだけでなく、知性ある同族を物として扱う集団に成り下がっているようだな。我々エルフと愚かな人間とでは会話が成立しない理由が分かった」
キナーシュは一度キアラを振り返ってじっと見つめた後、再びラシードに顔を向ける。
「私が今しがた愚か者に対して、黒髪かつ紫の瞳をもつ魔力なしを差し出すように言えば拒絶したな。しかしこの通りに出て来た。して、この魔力なしは物か。ならば、私は落ちていた物を拾ったのだ。拾った物は好きにする」
「それは略奪と変わりないのではないか。エルフが人間の物を奪う種族であったとは知らなかった」
「我らを愚弄するのは許さんぞ」
辺りには剣呑な空気が立ち込めていた。
いつになく攻撃的な口調のラシードと、キアラを物として扱うことを否定しながらも、物なら拾って好きにすると言ってのけたキナーシュ。
魔法に長けるエルフと争ってラシードに勝ち目があるのか。いや、それ以前に争いの元凶は自分の行動にあると思い至ったキアラは「ラシード様!」と声を上げてキナーシュの背から前に出た。
「罰は受けます。どうかお許しください」
「ならん!」
と、声を上げたラシードではあるが、彼の視線は何かを知らせるようにキアラの背後に向かって幾度となく動かされる。
何かしらの合図を送っているのは分かったが、それが何なのか理解できない。
「キアラ、お前は魔力なしでありながら身を隠し、身勝手な行動で手を煩わせた。カラガンダからの使者が面会に来ている時期に合わせ運良く連れ戻せたというのに、何がエルフの里だ!」
声を張り上げきつい言葉を向けてはいたが、ラシードはキアラを拘束しようと前に出て来ることも、部下に命じることもしない。しかもカラガンダの使者と聞いて、ラシードの後ろにいる見知らぬ二人が何者であるのか気付かされると同時に、ラシードの本心がようやく見えた。
キアラがいない間にカラガンダと魔力なしをめぐって何かしらのやり取りがあったのだろう。ラシードはヴァルヴェギアの騎士団長としての立場を貫くために、キアラに対して酷い言葉を向け、キナーシュの怒りをかっているが、これは全てキアラをカラガンダに渡さないための手段に違いない。
恐らく、いや確実にそうだ。
ヴァルヴェギアの支配下にキアラがあれば、この身をカラガンダに渡さなければならない事情が起きているのだ。たった半年では大国の使者を押し戻すだけの力を手に入れることは難しい。運悪く時期を迎えたキアラが戻ってきたが、この場にはキアラを連れ去れるだけの力を持ったエルフがいる。
ここからはキアラ一人の判断だ。
予想が全てはずれているとしてもようやくつかんだ切符を離したくない。
キアラはキナーシュの腕をぎゅっと掴んで腹の底に力を入れて口を開いた。
「煩い、黙れ!」
キアラは心の内でラシードに深く深く謝罪する。
突然の暴言にさすがのラシードも驚いたようで、虚を突かれたような顔になった。
「何が魔力なしよ、何がカラガンダよ。ヴァルヴェギアにいてもカラガンダに行っても同じこと。わたしはいいように扱われて使い捨てられるだけじゃない!」
ラシードの背後に立つカラガンダの使者二人に向かって憎しみの目をむける。
「わたしは子供を産む道具じゃないわ。これからは好きに生きるの」
キアラは心の中で深く腰を折り、ラシードに繰り返して謝罪してからキナーシュの腕を引いた。
「こんな世界まっぴらよ。キナーシュさん、お願いです。エルフの里に連れて行ってください!」
汚い言葉で暴言を吐いたキアラを、キナーシュの人ではない吸い込まれそうな瑠璃色の瞳がじっと見つめる。まるでこの娘をエルフの里に招いてよいのか思案しているような様子に、恐れを成したキアラは必至の思いで見つめ返して「お願い」と視線で訴える。
「うむ、まぁいい。私は私の感覚を信用するだけだ」
呟いたキナーシュがぐいっとキアラの腕を引いて諸共に噴水に飛び込んだ。
すると飛び出したのはヴァルヴェギアの人間ではなく、カラガンダの使者二人だ。
しかし後を追っても伸ばした腕は空を掴み、水に触れても底にはざらりとした石の感触があるだけ。
水の底に吸い込まれた二人の姿はどこにもなくなっていた。
ヴァルヴェギアに残された唯一の魔力なし、表向きには再びの逃亡である。




