王太子妃の謝罪
首を垂れるキアラの黒髪に真っ白な雪が舞い降りる。その光景を見ているであろうアデリナが、小さく溜息を吐く音が耳に届いた。
「顔を上げて。わたしはあなたに頭を下げさせたくてここに来たのではありません。その反対で、わたしはキアラに謝らなければならないことがあって来たのです」
「謝らなければならないこと、ですか?」
アデリナから謝罪されることなんて何もないはずだと思いつつ、はるか向こうから様子を窺っているカイザーを視界に捉える。まさか過去にキアラとカイザーが恋人同士だったことに関して何か言おうとしているのではないかと考えたところで、アデリナがキアラの視線を追うように後ろを振り返った。
「カイザーが気になるのですか?」
「いいえ」
決して気にならない訳ではないが、アデリナはキアラとカイザーの過去を知っている。不快に思われたくなくて首を横に振ると、アデリナは「それならよかった」と微笑んだ。
「あなたが望むならカイザーを呼んでさしあげたのですけれど。ですがキアラ、あなたの顔、泣いたせいで凄いことになっているから、気にならないのならこのままここで話をしてもいいかしら?」
「はい、どうぞ」
何を言われるのだろうかと構えていると、アデリナは片足を後ろに引いて腰を落とし、ゆっくりと頭を下げて「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。
「わたしはあなたの味方だと言いましたが、あれは大嘘です」
味方と言われて少し考えて、初めてアデリナに呼ばれた夜のことだと思い出した。
「嘘だとしても、妃殿下に頭を下げていただくようなことではありません」
「ええ、そうですね。わたしとキアラでは立場が違いますから。ですがわたし、心を入れ替えることにしたのです。だからけじめとしてあなたに謝罪をしたかったの。ただの自己満足ですよ」
他人には意味の分からないことでも、そうすることで満足できることがあるのは知っている。
一番身近なところでいえば、後ろを向いた人に頭を下げて見送る行為などが挙げられるだろう。アデリナが謝罪することでけじめがつけられるならそれでいい。
恐らくなかったことにされた事件に関係することだろうが、セオドリクが消えてしまったことが変わらない以上、キアラの心には何一つ響かないことだ。目上の人に対してこれほどどうでもいいと思ってしまえるなんて、かつてのキアラにはなかった現象である。
「カラガンダに誘ったこと、あなたのためだと言いましたが、半分は自分のためでした。わたしは、あなたとカイザーの関係が戻ることを恐れたの。だからあなたをカラガンダに行かせたかったのです。ミアが動くかもしれないと分かっていて放置し、速やかに遂行できていないことに怯えました」
「あの件に妃殿下は関わっていないと聞いていますが?」
「わたしが命じなくてもキアラを誘拐するだろうと、予想はしていました」
「裏で操っていたということですか?」
「ええ、そうです」
「それをわたしに告白されても困ります。許しを請うならカイザー様に」
過去に起きた事件の背景を聞かされても理解できない。アデリナは何を言いたいのか。
夫となった人のかつての恋人が側にいることに対して、不満や警戒、嫉妬心をもつのは妻として当たり前のことだ。キアラが誘拐された事件が誰の首謀であったのかなんて、結果が同じならキアラにとっては問題ではない。この件をラシードやカイザーが把握して処理したならそれが全てなのだから、何一つ口出しする権利をキアラは有していないのだ。
キアラをカラガンダに行かせるための芝居だったと告白されても、全ては片付いたことで、だから何なのかと首を傾げるしかない。
「ねぇキアラ。カイザーは未だにあなたを想っているってご存知ですか?」
「カイザー様とはきちんとお別れしています。妃殿下が心を痛めるようなことは絶対にありません」
「わたしはカイザーがあなたを好いていても心を痛めはしません」
「ですが……わたしとカイザー様の関係が元に戻るのを恐れたと、だからカラガンダに行かせたかったと……」
たった今、アデリナ自身が言った言葉だ。問えばアデリナも「その通りです」と答えた。
「魔力なしをカラガンダに引き抜くよう父に命令されていましたから、カイザーとあなたの関係が続くことを恐れていました。わたしはカラガンダの役に立つと同時に、ヴァルヴェギアで重宝される貴重な存在になろうとしたのです。ですが失敗して、ヴァルヴェギアだけがわたしの生きる場所になりました。カイザーには恩があります。あなたとカイザーの関係を認めてもいいと思ったのですけれど……あなたにその気がないのは本当なのですね」
不意に俯き、白い息を吐いたアデリナが再び顔を上げると、今にも泣き出しそうな顔をしていたのではっとさせられる。
とても寂しそうで、キアラまで切なくなるような雰囲気を纏い、泣いている訳ではないのに涙を流しているような気さえしてくる物悲しい姿だ。
「ねぇキアラ。あなたは追わないの?」
艶やかに、ほんのり赤く紅の塗られた唇がゆっくりと動いた。
「あなたの愛する人は生きているのでしょう? どうして追わずに、こんな所で泣いているだけなの?」
なぜ追わないのかと問われ、キアラは動揺して瞳を揺らした。
追わないのではなく追えないのだ。
どこにいるのか、エルフの里がどこにいあるのかすら分からない。知っていたとしても魔力なしが身勝手に振る舞えるはずもなく、永遠に国に縛られて生きるしかない身だ。
勝手の許されない存在であることをアデリナだって理解している筈なのに、物事が上手く行かないで失望する人生が当たり前の魔力なしに、どうして追わないのかなんて馬鹿な質問をしないで欲しい。
もしかしてカイザーとの関係を疑い試されているのだろうか。
「わたしはカイザー様を想っていません」
「カイザーのことを言っているのではなく、あのエルフのことです」
「エルフ……」
「そう、エルフです。稚拙な策を練っておきながら最後まで挑む心構えも勇気もない、逃げ腰なくせに嫌味なくらいに美しくて魔法に長けたエルフのことです」
アデリナからの思わぬ言葉にキアラは驚く。セオドリクの美貌がアデリナには嫌味に映るらしい。心底嫌そうに顔を顰めたアデリナだったが、はっとして取り繕うように小さく首を振る。自分でもこんな態度を取るつもりがなかったのだろう。
「わたしは魔力なしですよ。勝手は許されません」
「勝手にしなければいいのではありませんか」
「勝手にしなければって……」
アデリナの生まれ育ったカラガンダとヴァルヴェギアの常識は異なる。カラガンダでは魔力なしが自由に生きていたかもしれないが、キアラはヴァルヴェギア唯一の魔力なしであり、今は誘拐を警戒され監視されるか見えない壁に閉じ込められる毎日だ。
「それでも許されないと言うなら、定めを破って勝手をするに値するかどうか、よく考えてみてはいかがですか」
「わたしを唆そうとしているんですか?」
「さぁ、どうでしょうか」
くすっと笑ったアデリナは帽子を脱ぐと、キアラの頭に被せて乱れた髪を手袋に包まれた指で整えてくれる。急に触れて来たので驚いたが、アデリナからは魔力なしに対する不快な感覚は伝わってこなかった。
「見ているこっちが凍えそうだわ。帽子は差し上げます」
直前までアデリナを寒さから守っていた帽子はとても暖かい。
キアラが唖然としていると、アデリナは踵を返して離れた場所で待つカイザーに向かって歩いて行く。
カイザーに辿りついたアデリナが「焚き付けてみましたが、結果がどうなるかは分かりません」と告げた声は、キアラの耳には届かなかった。




