悲嘆に暮れる
昨夜は随分と冷え込んだかと思えば、朝になると雪が積もっており、低い気温の中で昼になっても溶けることなく新雪を保っている。
どんよりと分厚い雲に覆われた灰色の空からは時おり粉のような雪が舞い降り、冷え切ったキアラの掌に受け止められても消えることはない。
白い息を吐き出したキアラは、掌で受け止めた雪を握りしめ、どんよりとした空を仰いだ。
地下牢にいたセオドリクが姿を消して一月。
王太子妃を巻き込んで起きた事件は極秘とされ、全てがなかったこととして処理された。記録には残されなくても、キアラの他、関係者の記憶にはしっかり残っているのに、セオドリクの姿だけが忽然と消えたままだ。
一面の銀世界を見渡したキアラは白い息とともに呟く。
「彼の姿は一面の銀世界でも映えるでしょうね」
銀色の髪に瑠璃色の瞳をした、存在自体がきらきらと発光している美しすぎるエルフの青年。
黙っていれば女神に例えられるほどの、人知を超えた美貌ともいえるが、口を開くと屈託なく笑う子供のような明るい青年だ。
そのエルフが消えてしまったのは自分のせいだ。そうだと言える確かな証拠をキアラは心の中に持っていた。
セオドリクが消えた喪失感は語ることはできない。まるで世界中の光が消えてしまったようだ。
苦しいだけではなく、切なくもあり、悔しくもあり、残念であり、辛い。何一つ楽しいことはなくて、彼と出会う前の生活に戻っただけだと思い込もうとしても、心に住み着いた陽気な彼は日々存在感を増すばかりで。
セオドリクはアデリナの不貞を偽装しようとし、アデリナはセオドリクの企みを利用しようとした。
アデリナにはカラガンダの王女であった頃に恋人がいて、身分の差から叶えることができなかったらしい。その恋人との間に肉体的な関係があり、それを隠すためにセオドリクの企みを知りつつ乗ったのだという。心優しいカイザーは、恋人と別れさせられたアデリナを気遣い、夫婦となる行為を遠慮していたとか。そのせいで招いた事件だからと、全ては不問にされ、なかったこととして処理されたのだ。
キアラにはアデリナの深い背景は説明されていないが、知ったとしても結果は変わらない。失恋の傷を癒してくれ心を奪われた相手に、互いに想い合っていると分かった瞬間に消え去られた。それが現実だ。
卑屈で、あきらめることに慣れて、取り扱いが面倒な魔力なしを好きになってくれたのに、セオドリクは愛の証明とばかりに馬鹿なことをして姿を消した。きっとエルフの里に帰ってしまったのだ。
セオドリクは今回の別れに決着をつけるのに、いったい何年の月日を費やすのだろう。
初めての恋のは七十年。ユリンへの恋は間違いだと言ったがどの程度で復活したのか、側にいたキアラにさえ不明だ。
もう一度セオドリクに会いたいが、彼がどこにいるのかも分からず、エルフの里がどこにあるのかも知らないのではどうしようもない。
会える可能性があるとしたら、傷を癒したセオドリクが再び会いに来てくれるのを待つしかないが、魔力なしであるキアラがいつまで生きていられるかが問題だ。七十年も先になるとしたら、とっくの昔に死んでいる可能性が極めて高い。
キアラはしゃがんで足元の雪を丸め、くるくると転がして雪玉を大きくしていく。
ヴァルヴェギアでたった一人の魔力なしであるキアラは、今現在、厳重に守られた檻の中で生活していた。
なにしろカラガンダが女性の魔力なしを望んでおり、城の中であっても連れ去られる可能性があるからだ。
キアラはラシードが仕事をする執務室から丸見えの、春になると青々とした芝生に覆われる広場で一人きりの時間を過ごしているが、広場は十人の魔法使いが作り出した見えない壁に守られている……らしい。
なんでもラシードやカイザー、ロルフといった決められた人間以外は立ち入れない壁で、無理に入ろうとすれば体に焼けるような痛みを発し、さらに不法侵入を周囲に知らせる爆発に似た音が鳴り響くそうだ。
一人になりたいと願うキアラのために、ヴァルヴェギアの魔法使い十人が総力をあげて作ってくれた守りの壁。出入りの度に魔法使いが呼ばれ、見えない壁にこれまた見えない扉の開閉を行ってくれている。
戦争で数が少なくなった魔法使いは多忙なのに、キアラのために十人が動いてくれるなんて贅沢なことだ。うかつなことを口にするのはよくないと実感したが、常に側で見られるという息苦しさから逃れるために断ることを止めたのも事実である。
少し前までのキアラなら、人の手を煩わせることに敏感で、絶対に遠慮した行為だ。しかしセオドリクがいなくなったせいで、構っていられないくらいに心が荒んでしまっていた。
一人になりたい。一人にならなければ、セオドリクにもう一度会いたいと思いながら、涙と鼻水を垂らして雪を丸めることなんてできないではないか。
一人でなければ冷たい雪に感覚を奪われ、手が真っ赤に腫れても大きくなった雪玉を転がし続けられない。大きくなりすぎて、これ以上転がせない状態になっても、誰からも止められたくなかったからだ。
「もう一度、ちゃんと話をしたかったのにっ」
動かせなくなった巨大な雪玉の前に蹲って、外套から取り出したハンカチで顔を覆う。
エルフは人に恋をすると破滅するらしいが、人だって同じなのではないかと思えるほど、キアラの心はぼろぼろで、食を受け付けなくなった肉体は悲鳴を上げていた。
ぐずぐずと泣いて涙が止まらないキアラの耳に人の気配が届けられる。
驚いてハンカチから片目を覗かせ見上げると、真っ白な毛皮の外套を羽織った思いもよらない人物が立っていた。
「アデリナ様……」
嗚咽交じりに名前を漏らす。
この場所に立ち入れるのはラシードかロルフか、もしくはカイザーなど限られた人だけだったはずだ。何が起きたのか、もしかして危険なのだろうかと辺りを見回すと、随分と離れた場所にカイザーが立っていた。
「お久しぶりですねキアラ。ご機嫌は大変よろしくないようですけれど、こんなに寒いところで一人になりたいなんて、凍死しようとでも思っているのですか?」
最高級の真っ白な毛皮は豪勢で、同じ毛皮で作られた帽子もかぶっており、黒い革の手袋もしていた。対してキアラは普段着の上に支給された外套だけ。身分の差、財力の差、権力や立場の差など、あらゆる差を見せつけられるたたずまいだ。
「これは騎士団が支給している外套で、見た目以上に温かいですよ」
戦争のせいで弱体化しているヴァルヴェギアだが決して貧しすぎる訳ではない。カラガンダに比べたら国力に違いはあるが、アデリナが嫁いだ国はそこまで悲観するほどではないと説明したかったが、「そういう意味ではありません」とため息交じりに返される。
「わたしは苦労知らずで育ちましたから、風よけの立ち木一本ない場所は嫌いです」
ふっくらとした柔らかそうな頬はほんのり赤く触り心地がよさそうだ。寒風で切れてしまうのではと思われなくもないが、見上げるとちらつく雪は風の影響を受けずにゆらゆらと小さく揺れながら真っ直ぐに落ちて来る。
まぁ何にせよ、寒い所が嫌いなアデリナが呼びつけるのではなく、わざわざこんな場所に姿を現したのだ。用があって来たのは間違いない。
キアラはぐっしょりと濡れたハンカチで顔を拭い体裁を取り繕うと立ち上がり、深く腰を折って頭を下げて言葉を待った。




