下弦の月
王族の居住する建物を抜けたところで、送ってくれた女性が振り返って頭を下げる。同じくキアラも下げると、これまで無言だった彼女が口を開いた。
「妃殿下のお言葉ですが。あなたのためだけを考えられておいでであると、ご理解いただけておりますでしょうか」
今回の件は、アデリナが魔力なしを祖国へと引き抜くために勧誘したようなものだが、恐らくそうではないとキアラは思っている。
大国の王女とはいえ嫁いできたヴァルヴェギアでは味方が少なく、魔力なしを祖国へと勧誘したことが知られるとアデリナの立場は悪くなるだろう。夫であるカイザーに秘密なら夫婦仲にも影響するのは目に見えている。
嫁いできて間もなく、子を宿したとも聞いていない。確固たる地位を築いていない状態では危険な行為だ。キアラの扱いを不憫に感じたアデリナの純粋な好意でなければ他に何があるのか。
「分かっています。ですが、わたしには報告義務があります」
もしかしたらキアラの心に入り込むための狂言かもしれない。その可能性がある限り、キアラはラシードに報告して判断を仰がなければならず、秘密にすることはできなかった。
「わたくし共はお止めしたのですが、それでも妃殿下はあなた様を思って誘ったのです。王太子殿下の側に魔力なしがいることや、あなた様がどのような立場に置かれているかを知った妃殿下は心を痛めております。それでも妃殿下は王太子殿下との関係が悪化するのを恐れず、あなた様を誘いました。どうか妃殿下のお気持ちだけは疑わずに受けとめていただきたく思います」
「分かりました。どうもありがとうございます」
無表情の彼女から感情は読み取れなかったが、キアラは言葉を信じて素直に頷くと礼を述べた。
アデリナがどれほどキアラの現状を嘆いて環境をよくしてくれようとしても、キアラ自身にヴァルヴェギアを離れる気持ちがないのだ。
この話がもう少し早い段階で齎されていたら気持ちが揺らいだかもしれない。けれど今のキアラには守りたい人や、離れたくない人がいる。正直アデリナの言葉には驚いたし、羨ましいとの感情も覚えたが、今のキアラからは魔力のある人たち同様、普通の人として生きる夢や希望はなくなっていたのだ。
恋が終わったと知り寂しさも感じたが、セオドリクの言った通りであったことに驚きを覚えた。
新しい恋が失恋の傷を癒すこともそうだが、何よりもその対象が教えてくれた彼自身だったことには苦みを感じる。
セオドリクは美しいエルフで、その恋は決して叶わないけれど誰もが納得する恋の相手だ。キアラは彼の見た目に心惹かれたわけではないが、現実的にそうなのだから仕方がない。
彼にとってキアラとの出会いは長い人生のほんのひと時の出来事でしかないだろう。彼が長い時を終える日に記憶にあるかどうかも怪しい所である。
この恋は叶わない。しかしカイザーの時のような痛みはなかった。
セオドリクは恋に恋するエルフで、何事も自分が中心だ。そんな中でもキアラを気にかけてくれる気持ちに同情はない。魔力なしの負の力を身をもって経験しても忌み嫌うでなく感激し、笑って抱き締めてくれる。セオドリクとの未来を望めなくても、彼のくれる言葉や友人という関係性は、キアラにとって何物にも代えがたい宝物になるに違いなかった。
一人になったキアラが夜空を見上げると下弦の月が浮かんでいる。
見慣れた月の筈なのに、鋭利な矢で胸を貫かれるような感じがして不吉な印象を受ける。嫌な予感がしてキアラは己を抱きしめ二の腕をさすると帰宅を急いだ。
*
その頃セオドリクは王太子カイザーの寝室にいた。
昼間、庭園でキアラに会ってからしばらく考え込んだセオドリクは、姿を隠して王族の居住地に潜り込むと、カイザーの部屋を探り当てずっと身を潜めているのだ。その間、多くの人間が出入りしたが誰もセオドリクの気配に気付く人間はいない。
夜も深くなり人の気配がひとつ。
扉を開いたのは目的の人物で、セオドリクが姿を現すと、相手は驚いたようだが悲鳴を上げたり人を呼ぶようなことはせずに、警戒の色を含ませた緑の瞳でセオドリクをじっと伺っていた。
「次期国王を守るにしては警備に隙があり過ぎるのでは」
「あなたの前ではそうなっても仕方がない」
こうして対峙するのは初めてだが、カイザーは目の前の不審者が誰であるのか気付いたようだ。それは国を背負う王太子としての役目故か、それともキアラに付きまとう男だからなのか。
セオドリクは彼らしくない不敵な笑みを浮かべて鼻で笑ってみせる。
「助けを呼ばなくてもいいんですか?」
「必要ないと思っているが、私の読みは間違っているだろうか」
「どうでしょうねぇ」
にいっと笑ったセオドリクをカイザーは無表情で見つめている。右に動けば右に、左に動けば左にと、セオドリクの動きに合わせてついてくる緑の瞳を、セオドリク自身も平凡な茶色の瞳で捕らえて離さない。
「話があるのなら聞こう」
うろつくだけのセオドリクに痺れを切らしたのだろう。カイザーの心は穏やかではないようだと感じて何故か嬉しくなり、セオドリクはにっこりと笑って首を傾けた。
「今もキアラを愛してる?」
唐突な言葉にカイザーの無表情が崩れる。
なにを……と言いかけるように口を開いた後、すぐに感情を殺して体裁を繕ったようだが、その一瞬で答えたようなものだ。その対応にセオドリクは笑顔をそのままに感情だけを変えた。
「へぇ、愛しているんだ」
「何を言っているのか分からない。彼女は魔力なし。我が国にとって駒でしかない」
「薄情な言葉を使うことで、自分自身にそう言い聞かせてるってところかな?」
「言っている意味が分からない」
「僕には分かるよ。昼間、あなたとお妃が仲良く手をつないでいたね。その光景をキアラはじっと眺めていた。ああほら、キアラが傷ついてあなたも辛そうだ」
セオドリクは捕らえた緑の瞳から僅かな感情を読み取る。いけないと分かっているだろうに、心を読まれるのを恐れたカイザーはついにセオドリクから視線を外してしまった。
「人が人に恋をしても破滅はしないんじゃないのかな」
エルフが人に恋をすると破滅すると教えられたが、人と人である同族同士なら問題はないだろうに。身分の差がどうとか厄介な問題があっても、貫くために解決しようとしないのはどうしてなのか。まるで人は自ら望んで問題を作り出しているようだ。
なんて馬鹿なんだろうと、セオドリクは誰にとはなしに「破滅するわけじゃないのに」と呟く。
カイザーとその妻が手をつなぎ、仲睦まじく過ごす姿をキアラは立ち尽くしたまま眺めていた。
恋しい人が目の前にいるのに声をかけることもできない。それどころか自分でない人の手を取って微笑んでいるのだ。その光景の何処に救いを求めればいいのだろう。
セオドリクが過去にした二度の恋なら、相手を自分に置き換えて想像するだけで幸せになれた。恋とはすばらしい、心を楽しく温かくしてくれるものだと疑いもしなかった。しかし、その全ては真実ではないと知ってしまった。
キアラとカイザーが仲睦まじく手を取り合っていたら――想像するだけで心が苦しく涙が零れてしまう。醜く嫉妬して相手の不幸を願ってしまうだろう。現にキアラの心を独占するカイザーが憎くて仕方がないのだ。彼さえいなければと思うが、もしそんなことになればキアラがどれほど苦しむだろうと思うと手を下すことができない。
次に続く言葉を口に出来なくて、セオドリクは忽然と姿を消す。
その光景にカイザーが驚いている間に、セオドリクの瞳から落ちた雫は毛足の長い絨毯に吸い込まれた。




