エルフの声
ひとしきり泣いて顔を上げるとメノーテも泣いていて、二人してぐちゃぐちゃになった顔をハンカチで拭う。
ふと思い出して振り返れば、ロルフとセオドリクが穏やかに微笑んでいて、メノーテに抱き付いて大泣きする姿を見られたことが恥ずかしくなり、キアラは頬を染めて、二人の視線から逃れるようにメノーテに向き直った。
「あの……お母さん。ロルフさんが説明する前にわたしが誰なのか気付いていましたよね。どうして分かったのですか?」
「瞳の色よ。被っているフードから見る目の感じが、亡くなった主人にそっくりで。セオドリクさんの話し方が優しかったから、可哀想な老体に同情してくれないかと思って頑張ったのだけど……無駄な努力になって本当によかったわ」
もしセオドリクが罰を与える存在としてやってきていたなら、メノーテとキアラは親子の名乗りをすることも、抱き合うこともできなかっただろう。
魔法で姿を変えていないセオドリクが傍らに歩み寄ると、メノーテは見上げて嬉しそうに頬をゆるめた。
「私のこの姿はもう大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫。さっきは驚いてしまってごめんなさい。あなたはとても綺麗で恥ずかしくなってしまうけど、慣れはしましたよ」
「さすがはキアラのお母上だ。彼女はこの姿にあっという間に慣れてくれたのですよ。いまだに目を逸らして直視を避ける御子息とは大違いです」
三人の視線がロルフに向くと、彼はばつが悪そうにそっぽを向いた。
ロルフだけではなく、騎士団の男たちはセオドリクがエルフの姿でうろつくと仕事が手に付かなくなる。対して女たちは頬を染め黄色い声を上げて盛り上がっていた。美しい男性を愛でることに対しては、女性の方に免疫があるのかもしれない。
「ところでご夫人。少しだけ、私と一緒に外へ出て頂いてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんけど?」
何をするのだろうと、少しばかり不安気にメノーテの瞳が揺れる。ロルフも病に伏す母親が心配で、何事かと眉を寄せてセオドリクの腕を引いた。
「ハウンゼル殿、キアラ、ご夫人。どうぞご安心を。エルフとして少しばかりご夫人のお役に立てればと思い、お節介をさせていただきたいだけですので」
セオドリクは優しく穏やかに目を細めて微笑む。
その容姿は慣れたはずのキアラでさえ頬を染め、メノーテは恥ずかしさから顔を覆い、ロルフに至っては天を仰いで何やらぶつぶつと唱え始めた。
「ご夫人、失礼いたします」
セオドリクはメノーテを横抱きにして外に出る。
日はすっかり落ちて、西の空の端がかろうじて赤く染まっているだけになっていた。
すっかり寒くなっていたが、メノーテにはセオドリクが温かくなる魔法をかけてくれ、キアラはフードを被って防寒に努める。鍛えているロルフは上着を脱いでいたが平気なようでそのままだ。
何をするのだろうと様子を窺っていると、セオドリクはメノーテを切り株に座らせ、自分はその隣に腰を落として片膝をついた。
「ご夫人、あなたはご病気と伺いました。私は医者ではありませんので、あなたの病を癒すことはできません」
「分かっていますよ、魔法がそれほど便利なものでないことは。医者に診てもらって先は短いと言われているの。でも恐れてはいません。人はいずれ死ぬものだし、夫と息子に会えると思えば楽しみでもあるわ」
「ようやく得た母親を早々に失ってはキアラが悲しみます。ご夫人、私は彼女の幸せのためなら何でもしてしまうエルフです。ですが寿命を劇的に伸ばすような力はない。その代わり、エルフは自然に語りかけ、願い、聞き入れてもらうことができる。ご夫人の弱った体を楽にし、強くする手助けを彼らに頼む許可を頂きたいのです」
セオドリクはメノーテに許可をと願いながら、キアラの幸せのためなら何でもしてしまうと宣言している。
友人だから幸せを願ってくれていると分かっていても、こんなふうに何度も言われてしまうと、ドキリと胸が打たれてしまうし恥ずかしくもあった。
キアラが見つめる先のセオドリクは、まるで大切な人に乞うようにして、瑠璃色の瞳でメノーテを釘付けにしていた。
こんなに熱い眼差しを向けられたら否とは言えないだろう。キアラの予想通り、セオドリクはメノーテを易々と頷かせることに成功する。
「母を助けることができるのか?」
見守るキアラと異なり、母親を案じるロルフは思わずといった感じでセオドリクに詰め寄った。
「助けられる訳ではないですよ、私にその力はない。けれど大地や緑、大気といった自然界の力を借りて生きる手助けをしてもらえる。人は忘れているけれど、もともと自然というものは人に生きる糧を与えてくれる存在だ。自然は言葉を発しないからといって生きていない訳じゃない。人には無理だけど、自然と共に生きるエルフの声は拾って聞き入れてくれる」
そう言ってセオドリクはメノーテの肩を抱くと、あいた掌を地面に押し当てる。すると不思議なことに暖かな風が下から湧き起こってキアラの頬を撫でた。
セオドリクの触れた地面から淡い光が揺らめいていて、やがてメノーテに纏わりつくかに伸びて来る。セオドリクの長い銀髪がふわっと空に舞うと、メノーテを取り巻いた光は辺りに拡散して消えてしまった。
「今のは?」
キアラが問うとセオドリクは「自然が答えてくれた印」と言ってからメノーテの隣をロルフに譲る。ロルフは母親の背を案じるように撫でた。
「母さん、気分はどう?」
「なんだかすっきりした感じだし、セオドリクさんに支えてもらわなくても楽になっている気がするわね」
「病を癒したわけではありませんが、生活はしやすくなっているはずです。明日からは日のあるうちにここに座って下さい。そうすれば自然が力を貸してくれます」
「エルフ族は人に関わらないと聞いていたけど違うのね」
「いえ、それは――」
エルフの本質は自分が一番大好きで、自分のことが最優先だとは言えないようで、セオドリクは視線を逸らして口籠る。
「セオドリクさん、どうもありがとう。娘が戻って来たのだもの。孫もいる。夫や息子のところに早く行きたいなんて言わずに、一日でも長く生きられるよう頑張るわ」
気力をみなぎらせたメノーテは、なんとなく顔色も良くなったように見える。ロルフの手を借りずに立ち上がると、セオドリクにもう一度「ありがとう」と礼を言った。
「セオドリク。この魔法は人には使いこなせないものなのか?」
人の世界に病を癒す魔法は存在しない。あるのは薬の効力を良くするもので、怪我の治療も薬の効果を魔法であげて治療するというものだ。
セオドリクのような魔法が使えてさらに研究が進めば、魔法で病そのものを癒せるようになるかもしれないと、ロルフだけではなくキアラも同じように考える。
多くの人の死を見て来たからこそ、その死を食い止めることができればと願わずにはいられない。戦場では無理でも、せめて死の病に苦しむ人の憂いを解くきっかけになればと思う。
しかしセオドリクは、「人は自然と会話ができなくなった種族だから無理だ」と否定した。
「灯でも業火でも、実用的な火というものを作り出すには必ず種となるものが必要だ。種のない見せかけだけの魔法では、熱は感じないし火傷もしない。湯を沸かすには薪と火種が必要だけど、灯りだけでいいならランプに触れても火傷はしないだろう? いい例が私の幻影だよ。人の姿をしたあの姿は私の想像でしかないので、種を使っていないからキアラにはエルフの姿にしか見えない。例えばハウンゼル殿の毛髪一本でも使って化ければ、見た目だけはキアラにも私がハウンゼル殿に見えるはずだよ」
あまりにも自然にエルフの姿を見ていたから何も考えなかったが確かにそうだ。人の魔法使いが誰かの姿に化けているのを見たことがなかったので気付かなかった。
「物理的な影響を与える魔法はどうしても種が必要になる。人が使える魔法は種のあるものとないもの。それらは魔力を使って導き出されるものだね。対してエルフが自然に語りかけて得る奇跡は魔法とは異なるものだ。人には魔法に見えるかもしれないけど、あくまでも対話で導き出されたものだから、自然と会話できない人では無理な話だよ」
残念ながら上手い話ばかりではない。
メノーテが受けた奇跡は、エルフと出会った幸運によって導かれたものに過ぎないのだ。
「ならば……セオドリクが自然に願えば死人が蘇るようなことは――」
「ないよー、ある訳ないでしょう。馬鹿なの。死んだ人間が生き返るなんて絶対にないから」
病を治す力はないと前もって言っているし、メノーテが楽になったのは自然から力を貰っただけで、決して病が癒えたわけではない。
それなのに何やら考えて恐ろしいことを口にしたロルフに、セオドリクが繕うのもやめて、素のまま陽気にロルフの言葉を否定した。




