お母さん
倒れたメノーテを寝室に運んだロルフから、キアラは彼女の目が覚めるまで側にいて欲しいと頼まれる。
寝台の傍らに座っていることに居心地の悪さを感じるのは、自分にとってメノーテが母親だという実感が少ないからだろう。
突然現れた血の繋がった兄。
血の繋がった家族がいるという現実は、キアラにとっては嬉しいことであるが、夢の世界の出来事でもある。
長兄のクラウスはキアラを守って死んでしまった。ロルフは彼と同じくキアラの護衛騎士になって身を危険に曝している。ロルフに何かあれば妻は夫を、子は父を失うというのに。
そして初めて会った母親は、成長したキアラが娘と気付いて自らを犠牲にしようとした。
ロルフやその妻と子、そしてキアラが罰をうけないように態度を崩さず、セオドリクの良心に訴えかけて、禁を犯した罰は自分一人にと懇願したのだ。
彼女はクラウスが死んだことを責めなかった。
ロルフやその妻子を危険に曝している状況であることも責めなかった。
魔力なしの娘なんて忘れてしまえばよかったのに家族で逃げて、奪われてからも取り戻すことだけを考えて行動してくれていたのだ。一年足らずしか一緒にいなかった娘のために、家族一丸となって辛い思いをして生きて来たことを不満に感じていた様子もない。
魔力なしの子を奪われても楽しく生きているのだと思っていた。
魔力なしの子を抜きにして、家族で幸せなのだと思っていたのに。
メノーテが病を患って命を短くしてしまったのは、度重なる心労もあったのではないだろうか。
母親になるとはどんなものなのだろう、キアラには子供がいないので分からない。
温かい家庭に育ったわけでも、成長する過程に一般的な家族がいたわけでもないキアラでは、想像するのも難しいことだった。
王族としての役目があるせいで、幼い頃から戦場に生きたカイザーとラシード。マクベスも王の子として戦前に立ち死んで行った。そして国王も戦場で両足を失い城に籠っている。キアラを守ってくれた護衛騎士は気を使ってか、家族の話をしてくれた記憶はない。漏れ聞こえる会話から彼らに大切な家族や恋人がいるのを知る程度だった。
ぼんやり考えているとメノーテが目を覚ます。
閉じていた瞼が揺れて灰色の瞳がキアラを見つけると、ほっとしたように目を細めて微笑み涙ぐんだ。
「ああ、レオノール。夢じゃなかったのね」
安堵したのか、娘の名を呼んだメノーテは瞳から涙を溢れさせる。キアラも釣られたのか、目頭が熱くなった。
ひとしきり涙を流したメノーテは身を起こして涙を拭う。その表情は喜びに満ちて少しも悲しそうではなくキアラは安心した。
「レオノールではなく、キアラさんとお呼びした方がいいわね」
「どちらでも、お好きな方で構いません」
「あなたを捨てた母親なのに優しくしてくれるのね」
「捨てられたなんて、そんなこと思っていません。ただ……初めから親がいないのが当たり前で、こういうものなんだと受け入れるしかなくて。魔力があればと思ったことはありますけど、わたしには家族という存在自体がないものだったので」
魔力がないせいで人として生きられないことは苦しかった。戦場が怖かったし、恋にも破れた。辛いことばかりだったが、仕方がないと受け入れてもいて。親に売られた認識は確かにあったが、魔力なしの常識だったので恨む気持ちはなかったのだ。
どう説明すればいいのか分からなくて困ってしまう。
「わたし、家族が探してくれているなんて知らなくて。クラウスさんのことを知ったのもつい最近で。あなたの大切な息子さんなのに、ごめんなさい」
俯き、膝の上でぎゅっと拳を握ったキアラだったが、その頭をメノーテが優しくなでた。
「クラウスはキアラさんよりも十三年上なの。ずっと妹を欲しがっていて、久し振りにできた子が女の子だったからそれはそれは喜んでね。活発過ぎてロルフと兄弟喧嘩が絶えなかったのだけど、妹が生まれてからは、どちらがお世話するかでもめはしても喧嘩はしなくなって。クラウスとロルフにとってあなたはとても大切な宝物だったのよ」
優しい声が耳に入って、キアラは更に拳に力を入れた。
キアラにとってクラウスは怖い護衛騎士だった。
にこりともしない、いつも怒っている怖い大人。
その彼が魔力のないキアラを宝物にしていたと知り、彼の厳しさこそが優しさだったのだと実感して涙が零れ落ちてしまう。
笑顔の一つも見せなかった彼は、怯えるキアラを前にして何を思っていたのだろう。今となっては答えを聞くことなんて不可能だ。
「あなたを手放した後、クラウスはレオノールを守ると言って家を出たきり、ただの一度も帰ってこなかったわ。戦死の知らせはとても悲しくて辛かった。だけどあの子は望みを叶えたのよ。その証拠がキアラさん、今を生きているあなたなの。クラウスは戦いを終わらせて、レオノールが自由に生きて行ける未来を作りたいって言っていたわ。あの子は信じるままに行動して懸命に生きたの。親としてできるのは、あの子の生き方を認めて誇りに思うことだけ。だから悲しまないで。クラウスを悼んでくれるならどうか幸せになって」
優しく頭を撫でてくれるメノーテが微笑む。
その瞳に偽りはなく、慈しむ心を溢れさせキアラを見つめていた。
「お母さん?」
「そうよ。あなたのお母さんよ」
「お母さん!」
キアラは叫ぶと迷わずメノーテに飛びついた。
初めて抱き締めた母親は棒切れのように細くて頼りない体をしていたが、とても暖かくて心地よく、深い安心感を与えてくれる存在だった。




