あの人の名前
キアラの中にまさかとの思いがこみ上げる。
自分に血のつながった家族が、愛してくれる人がいたのか……と。
強く抱きしめて嗚咽を漏らし泣くのは立派な王国の騎士だ。
魔力なしで生まれた妹を愛していたと、家族皆で守ろうとしたができなかったと。それでも守りたかったから、兄弟揃って騎士になったのだと。魔力なしの妹を探していると厳罰を覚悟して告白し、ラシードの理解を得て護衛騎士になったのだとロルフは告白した。
それでも唐突過ぎて信じられなった。
セオドリクはロルフを、妻子がありながら若い娘に手を出そうとする素行の悪い男と決めつけていたし、ロルフの態度からキアラも少なからずそう思い始めていた。
それなのに、ロルフはキアラですら知らなかった痣の存在を指摘して、今まさに確認して泣いているのだ。
この涙に嘘があるとは思えなかったが、本当に唐突過ぎてキアラの思考はついていけない。
「家族で逃げたって……それならロルフ様のご家族は、妹さんに名前を?」
「レオノールだよ。キアラと同じで、輝くという意味がある」
ロルフは淀みなく妹の名を答えた後、キアラの肩に埋めていた顔をあげると、次に両肩を掴んで、赤くなった目でキアラをしっかりと視界にとらえた。
「酷なことを言うかもしれないが、どうか聞いてほしい。君を愛して守ろうとした君の兄のことだ」
強く見つめられ、突きつけられた現実が嘘が真かも検証しきれないままであったが、ロルフの目があまりにも真剣で、キアラは無言で頷くことしかできない。
「私たちが把握した限り、女性の魔力なしは君だけだった。私よりも二つ年上の兄は、運よくカイザー殿下の軍に配属されたんだ。君にとっては最初の護衛騎士だよ」
「そんな……」
キアラは息を呑む。
それは名前さえ覚えていない、けれど恐ろしくて忘れることなんてできない人だ。彼は魔力なしが何たるか、どうやって生き延びるのかを徹底的にキアラに教え込んでくれた、今もなお夢にまで見てしまう人だ。
「兄は従軍させられた少女を妹だと信じて守りぬこうとした。魔力なしの女性はキアラ一人だけだったし、年も妹と同じだったからだ。兄はレオノールが既に死んでいる可能性なんて考えもせず、目の前の君を妹と信じて……辛く接したかもしれない。けれどそれは君を死なせたくなかったからだ。連れて逃げることは叶わないから、生きる道を示そうとしたはずだ」
彼は初めての戦場でキアラを炎の海に放り込んだ人だ。
キアラが魔法の火に焼かれることはなかったが、同じく飛び込んだ彼は顔を焼かれて火傷の痕を残していた。キアラは腹に矢を受け生死の境を彷徨ったが、キアラを守るために身を挺した彼は、最後にはキアラを守って死んでしまったのだ。
本当に彼は兄なのかと、あまりに恐ろしくて体が震えた。
妹を守るために戦場で生きる道を選んだ彼は、自分を恐れる子供を守って死んだのだ。
キアラは、自分のせいで彼らの人生を変えてしまったと知り、恐ろしさに身を震わす。
「わたし……わたしじゃないかもしれないです。痣だって知らなかったし、十八年も前に見た痣を正確に覚えているとは限りません。それにロルフ様とわたしはちっとも似てないわ」
黒髪に紫の瞳のキアラと、茶色の髪に灰色の瞳を持つロルフ。顔だって似ているとは思えない。
震えるキアラにロルフは「怯えないで欲しい」と悲しそうな目をした。
「君には自分のせいで兄が死んだと勘違いしてほしくない。私たちは愛する家族を取り戻したかった、守りたかったんだ。だから兄も私も騎士の道を選んだ。この選択は自分たちでしたことで、君のせいなんかじゃない。それに騎士にならなかったとしても、どのみち徴兵され戦場には立つことになった」
長い戦いで軍人が減り、男たちは強制的に兵役につかされたのだ。大した訓練も受けていない者が生き残る可能性は低い。自ら従軍して騎士として訓練したロルフたちは、命令で徴兵されるよりもはるかに生き残る力が強かった。
「それにキアラ、君の髪と瞳は亡くなった父と同じ色だ」
「亡くなった――」
それは娘を取り戻そうとしてなのか。
驚愕したキアラにロルフは慌てて謝罪する。
「違うよ、私が軽率だったね。父は鍛冶師だったので徴兵は免れた。けれどもともと心臓に持病があってね。それが原因で三年前に亡くなったんだ」
自分のせいで人が死んだと言われて怯えないでいられるわけがない。
ロルフは分かって気を付けていても気持ちが逸っていたのだろう。ここでようやくキアラが発熱していることを思い出したのか、体を移動してキアラを己の胸にもたれさせた。
驚き過ぎたキアラはされるがまま胸に頭を預ける。
「君が戸惑うと分かっていたから、家族であることを告白するつもりはなかったんだ。だけど母が病に倒れてね。医者が言うには長くないらしい。最後に一目、奪われた娘と会わせてやりたいんだ」
「でも、わたし、本当に違うかも。それに魔力なしが生家と接触を持つことは禁じられています。探してはいけないことになっています。もし知られたらロルフ様の家族がどうなるか考えていますか?」
「表立って君を妹だと言いふらすことができないことには納得できないが、仕方がないことなのも分かっている。だけど護衛騎士として懇意になり、君に私の家族を紹介するくらいなら問題はないはずだ。幸か不幸か魔力なしの出生記録は残されていない。父が亡くなってから母は住まいも変えた。妹を奪った奴らが見張っているわけでもないのだから誰も気付かないよ」
ロルフとて魔力なしを探し出す危険を知っている。妹を渡さないと抵抗した少年時代に酷い光景を目の当たりにしたのだ。大切な家族を奪われる不条理を子供ながらに感じ、納得できずに大人になったと告げた。
それでも唐突過ぎてキアラからは戸惑いが消えない。
魔力なしに家族の名乗りをするなんて、危険なことをしたロルフが嘘を吐いているとは思えないが、本当に突然過ぎて、キアラは熱でぼうっとしそうになる頭を働かせようとするが、上手く考えることができなかった。
「君は、自分を捨てた家族になんて会いたくない?」
「それは――」
キアラは自分が捨てられたとは思っていない。ただ仕方のないことだと思っていた。子供を生まれてすぐに国に差し出す親も、国という大きなものに逆らえないと分かっていた。
同時に、金銭で売られたと心のどこかで思っていたところもある。
キアラにとって家族は夢のまた夢で、生きる世界に親しい人はカイザー一人だけだった。そのカイザーにも利用されたと知って悲しかったが、心では魔力なしとはその程度なのだと諦めもしていた。
なのに命を懸けて守ってくれた家族がいたと教えられたのだ。
十八年の人生の中で一瞬たりとも想像しなかったことだ。
「キアラ?」
唖然として声が出ない様子に不安を感じたのだろう、ロルフが問うように首を傾げてキアラの顔を覗き込む。
「わたしにお母さんがいるんですか?」
「そうだよ。奪われた娘のことを一日だって忘れたことがないお母さんだ」
優しい声で言われて、紫の瞳に涙の幕が張る。
「ロルフ様の妹になってもいいの?」
本当なのか。
本当にいいのかと不安定なまま問えば、ロルフは溜息を吐く様にして返事をした。
「君から兄と認めてもらえなくても、私にとって君は、生まれた瞬間からずっと大切な愛する妹だよ」
愛している。
これは男女のではなく肉親の愛情。
永遠に得ることができない、望むことすらしなかった、魔力なしのキアラには縁のない愛を、ロルフは当たり前のように肯定してくれた。
戸惑いは消えないが、嬉しくて涙が溢れる。
同時に失われた人の面影を求めるようにロルフを見上げて問う。
「わたし、あの人の名前を知らないの。とても厳しくされたけど、わたしのためだったって分かっています。どうか彼の名前を教えてください」
「クラウスだよ」
キアラの涙に釣られるように、「よくある名前だ」と言ったロルフもまた涙を溢れさせた。




