大事なもの
後方で様子を窺っていたセオドリクは、じっと前を見据えて眉を寄せたまま疑問を漏らす。
「おかしいな……」
「何がおかしい?」
呟きを拾ったラシードが聞き返すと、セオドリクは前を見据えたまま僅かに顔を俯かせた。
「やはり魔法の気配がしない」
「魔法の気配……どういうことだ?」
一か所にこれだけ魔力を持った人間が集まっているのだ。魔法使いも多くいる。なので魔法の気配が探りにくいのは当然だった。
それでもエルフであるセオドリクが集中して探れば、微かにも気配を感じていいはずなのに、降りしきる雨の向こうには何も感じない。そのさらに向こうには千の人間がいて、彼らが纏う魔法の気配を掴むことができるというのにだ。
戦いに備えてセオドリクは、ラシードの配下に視力や聴力、体力や動きの強化を司る魔法をかけた。エルフの使う魔法は人のそれよりも強く主張するせいで、己の魔法が邪魔をして気配を感じないのかと思ったがそうではない。
「騎士団長。魔法で罠を仕掛けていないとしたら、相手はどうして攻めてこないのだろう?」
セオドリクは人知を超えた魔法が使えるが、他人に興味を持ちにくいエルフの里で生まれ育った。経歴は偽った物で、人の世界で争いごとに参加した経験は皆無なのだ。
素直に分からないことを問えば、ラシードははっとして声を上げた。
「まさか――キアラ、引けっ!」
ラシードが声を上げた途端、殴りつけるような雨を受けて石橋を渡るキアラの足元が崩れた。
咄嗟にキアラの腕をロルフが掴むが、闇に呑まれるようにして二人の姿が視界から消える。
「キアラ!?」
次に名を呼んだのはセオドリクだ。
助けるため、後を追おうとしたセオドリクの腕をラシードが強く掴んで引き止める。
「仕事をしろ!」
「でもキアラが!」
落ちたのだ。
魔法も使えない娘が闇の中、濁流に呑まれた。
助けに行かなくてどうするのかと、セオドリクはラシードを睨む。
「どちらにしても落ちると決まっていたんだ。セオドリク、お前は自分の仕事をしろ!」
魔法使いとしての役目より、キアラを優先しようとするセオドリクをラシードは怒鳴りつけた。
敵は魔法で仕掛けを施さず、人間が忘れていた人の手で行う仕掛けを戦に取り入れていたのだ。
先頭に立って国境を越えるのは魔力なしと決まっているので、魔法の仕掛けを施そうが人の力で施そうが、どちらにしても落とすのは同じだ。
しかし橋一つを支えるとなるとかなりの魔力が必要になり、今後の戦いに支障をきたす。現に落ちかけた橋の崩落を食い止めるために、自軍の魔法使い総出で力を振るっていた。
これでは魔法使いの魔力が削がれ、これからの戦いで魔力不足となってしまうだろう。フィスローズの残党はこれを狙っていたのだ。
「見捨てるつもりなのか!?」
セオドリクは抗議の声をあげて掴まれた腕を振りほどこうとするが、ラシードは容赦なくひねり上げると、今何をすべきなのかを突きつけるように声を張り上げた。
「キアラを守るのはロルフの仕事だ!」
「あいつでは守れない!」
「ならそれまでと言うことだ。お前は橋を何とかしろ!」
土砂降りの雨の中、ラシードは崩れかけた橋を元に戻せとセオドリクに命令を下す。
橋から落ちて濁流に呑まれたキアラの姿はどこにもなく、共に落ちたロルフの命も危うい。
魔力なしのキアラもだが、ロルフの騎士としての実力も失うには惜しいものだ。
被害は最小限におさめなければならない。
これ以上橋が崩れて多大な被害が起きないよう、魔法使いたちが必死で橋の崩壊をくい止めていた。
「橋ごと落とすつもりだったのだろうがそうはいかない。セオドリク、進軍をとめるな!」
「橋が落ちれば戦わなければいい!」
「仕掛けられたとはいえ落としたのはヴァルヴェギアだ。こちらの非になる事実は残すべきではない」
「人の争いなんてどうでも良い、僕にとって大事なのはキアラだ!」
「ユリンがどうなってもいいのか!?」
「――え?」
ラシードの脅しに、セオドリクの思考が一瞬停止した。
「ユリン……そうだ。僕はユリンが好きで、ユリンに僕自身を好きになってもらうためにここにいるのに――」
「数が劣っても負ける気はない。だが魔法使いが使えなくなればこちらが不利になる。万一国境を越えられたなら、ユリンがいる野営地に敵が押し寄せるぞ。お前はそれでもいいのか?」
ユリンが死ぬのは良くない。けれど――と、セオドリクの視線はキアラが呑まれた濁流に釘付けだ。
今こそ力の見せ時だというのに、セオドリクの心は功績をあげることではなく、濁流に呑まれたキアラに支配されていた。
ユリンが好きで、ユリンの心を手に入れるためにここにいるのに、恋のためなら他はどうだって良かった筈なのにと、セオドリクの中で訳の分からない感情が蠢き混乱してしまう。
「策にかかったのは私の落ち度で、二人を失ったのは大きな損失だが、守るべき命は何千何万とある。皆が命を張る場だ、多少の犠牲はつきものと知れ」
「でも……でも、僕はキアラと友人だ。そう、友人。友達だよ。友達を見捨てるなんてできない」
「ならば仕事をしてから行けばいいだろう。どうせ今からでは間に合わないんだ、せいぜいロルフを信じるんだな」
「ロルフを?」
意味有り気な視線を向けるラシードに、セオドリクは瞳を揺らす。
濁流に呑まれたキアラを、魔法もなしに助けられるというのだろうか。
「お前と同じで、ロルフにも秘密があるということだ」
「ロルフは妻子があるくせにキアラを狙ってた。やっぱりそういうことなんじゃないか!」
「私からは何も言わない。残党を一掃すれば離脱を許す。真実が知りたければまずは目の前の現実を何とかしろ」
命じられ、セオドリクはようやく目の前の現実に目をむける。
ここを何とかすればキアラを迎えに行ける。
大事な友人を不誠実な男なんかに任せておけない。さっさと片づけて助けに行かないと――
土砂降りの雨の中、崩れかけた橋に踏み出す。
自然界がもたらす恵みを邪魔とは思わない。邪魔なのは自らが纏う幻覚だ。
瞬きをすると長い銀色の睫毛が雨粒を弾き、ぐっしょりと濡れた銀の髪が闇の中で輝いた。
一歩、また一歩と進むたび人々の視線がセオドリクに釘付けになるが、構わず前に出ると両手を広げ瞬く間に仕事を終える。その後で艶やかに整った十の爪先を濁流へと向けた。
魔法は効かないと分かっている。だから真実の姿で自然に語りかけるのだ。
「どうか彼女の命を奪わないで」
必ず助けに行くからそれまでは――と、瑠璃色の瞳から一筋だけ流れた涙は、降り注ぐ雨にかき消された。




