ゆらぐ足元
夕方にはフィスローズとの国境に到着した。
互いの国を分離するのは大きな川で、石でできた頑丈な橋が両国を繋いでいる。
ラシードに呼ばれたキアラは国境線に降り立った。
呼ばれてないのについて来たセオドリクは川の向こうに目を細めると、「千はいますね」と敵の数を報告する。
ラシードも視力を強化した視線を対岸に向ける。魔法が効かないキアラでは、川の向こうに人影を認めることはできなかった。
「うちの倍か。しかし随分と引いているな」
フィスローズの残党は国境の川を超えることなく、離れた場所から様子を窺っているようだ。
それでも千を超える人数が集まっている。残党というよりも正規軍といっても過言ではない。
「こちらが攻めるのを待っているのでしょう」
そう言ってロルフは、仕えるラシードから離れてキアラの隣に立った。
先の戦いで敗戦国となったフィスローズが国境に集結している。
数からすれば正規軍でも通じる物だが、残党と称していることで最終的には責任逃れをするつもりだろう。
全滅したとしても、把握していない場所で勝手に争いが起きたと突っぱねればいい。万一にも勝つようなことになれば、そのままヴァルヴェギアに攻め入り、覇権を取り戻せると夢を見ているのかもしれない。
「様子を見に行きたいが、国境を越えた途端に仕掛けられた魔法が発動するのだろうな」
相手が引いているというのはそういうことだ。
フィスローズ側の国境には、侵入した途端に発動する何らかの魔法が仕掛けられているに違いなかった。
「さっさと片づけたいが、しばらくは睨み合いだな」
ラシードの言葉に、セオドリクは直ぐに活躍できないと知ってとても残念そうな顔をした。
魔法が仕掛けられているならキアラを先頭に立たせればいいことだが、相手が魔力なしを警戒しているのは明らかだ。
馬鹿正直に挑んでは、キアラと同時に護衛騎士であるロルフも失ってしまうだろう。
ラシードは戦略に私情を挟まないが、無駄な血を流すことを望まないし、魔力なしを使い捨ての駒だとも思っていない。
魔力なしは特性のせいで厭われる存在だが、少し考えれば何よりも貴重なものだと馬鹿でも分かる。それを認められないのは、優位に立つ者たちに根付いているみっともない誇りと差別意識のせいなのだ。
国境を境に時間だけが流れる。
敵を警戒して寝ずの番が組まれる中、夜半には雨が降りだし、朝になる頃には土砂降りとなって向こう岸を窺うのも難しい状態になった。
それでも魔法使いたちが目を光らせているので敵の動向は知れるのだが、それは相手も同じだ。
土砂降りの雨は夕方まで続き、キアラは日が落ちる前にラシードに呼ばれる。
「このままではらちが明かない、日暮れと同時に国境を超える。先頭はキアラとロルフだ。我々は安全が確認され次第、後に続く。罠が解除されたら敵が動くだろうから、そうしたらキアラは下がって身を守れ。けしてロルフから離れるな」
キアラが先頭を行くのは当たり前のことだが、ラシードはしっかりと説明した。
決してロルフから離れるなと、暗闇の中で万一にも敵に奪われることのないよう念を押す。
護衛騎士であるロルフも魔法による加護を受けられないので、キアラが勝手な行動に出たら守ることが困難になってしまうのだ。
もし奪われるならロルフがキアラを殺すことになる。魔力なしが厭われようと、戦場では魔力なしの死を誰も望んでいない。
キアラはしっかりと頷いて、ロルフを振り返った。
「ロルフ様、よろしくお願いします」
「絶対に君を死なせたりしない」
「万一の時は覚悟しています」
キアラの覚悟を聞いて、ロルフは眉間に皺を作った。
ロルフを従えキアラが前に出る。
後方には多くの軍人たちがいるが、彼らが橋を渡るのは安全が確認されてからだ。ここから先は何があるか分からないだけに恐怖は消えない。
陽気なセオドリクも側にいなくて心細かった。
魔法による罠があるのでロルフもキアラより後ろを歩く。
日が沈んで土砂降りの雨の中、光源もない足元に視線を向けるが、石橋に打ち付ける雨の音と、増水し濁流となって流れる川の音しか耳に入らない。
闇の中をぐっしょりと濡れたブーツで恐る恐る進んで行く。
方向を誤れば指摘してくれると分かっていても、闇と酷い雨で視界が塞がれた状態で敵陣に向かうのは恐ろしくてたまらなかった。
矢が飛んできても防具はつけている。それでもかつて身に受けた痛みを覚えていた。それと同時に、過去にキアラを守った護衛騎士たちの動かなくなった姿を思い出してしまい、途端に足が前に出なくなってしまった。
血濡れた戦場で、幼いキアラを抱きしめた護衛騎士の、最後の姿が脳裏に描き出される。
涙を流して「くそったれ」と悪態を吐き、「絶対に生き残れ」と言ってキアラに覆いかぶさった護衛騎士だ。
初めての出陣で燃え盛る炎の中にキアラを投げ込んだあの騎士は、幼いキアラを犠牲にすることに苦しみを抱えていたのだと、大人になってからようやく理解できた。
容赦なく炎の渦にキアラを投げ込む彼が恐ろしくてならなかったが、すぐ側で命を懸けてくれたのは事実だ。
キアラが受けた傷よりも、彼が受けた傷の方が格段に多く、顔には恐ろしい火傷の痕もあった。
名前も覚えていない彼はキアラに戦場での現実と、魔力なしが生き残る術をひたすら厳しく徹底的に教え込んだ。
彼の目には甘えを許さない鬼気迫るものがあったが、手間取り言うことをきかない少女を厭う感情はなかった。
魔力なしのキアラを甘やかさず、生きるために厳しくしてくれたのだ。
「キアラ?」
立ち止まり動かなくなったキアラの耳元でロルフが名を呼ぶ。
闇の中でも見える位置まで顔を寄せた灰色の瞳には案じる色が窺えた。
キアラはいつの間にか流していた涙を降り注ぐ雨ごと拭って「ごめんなさい」と謝罪し、深く息を吐き出すと一歩、また一歩と足を踏み出す。
生き残ることが死んだ彼らへの弔いになるだろうか。
魔力なしである限り逃げることは許されない。
幼い頃とは違い、泣き喚いて手を煩わせるような年齢でもなくなった。
彼らに守られた命を、一日でも多くこの世界に繋ぎ止めるために、「絶対に生き残れ」と言った彼の言葉を叶えるために、護衛騎士となったロルフを死なせないために。
今のキアラに出来ることは、生きるために命令に逆らわず、信じて前に進むことだけだ。
魔法による視力の強化もなく、大粒の雨が降り注ぐ闇を一歩ずつ進んでいく。耳に届くのは激しい水音だけ。
その一歩を踏みしめた時、雨音に紛れかすかな声が届いた。
「ラシード様?」
自軍の将の声に振り返ろうとした瞬間、足元が揺らいだせいでキアラは体勢を崩した。




