エピローグ
一心太と晴寿が、『結』の教室である山奥の離れを駆け回っていた。箒を振り回してチャンバラごっこをくり広げ始めると、「こら、ふたりともいい加減にしなさい!」とついに雪乃が声を張り上げた。
「危ないからやめなさいって何度言えばわかるの! だいたい、そうやって箒を振り回したらせっかく集めた埃が舞うでしょ! はい、やり直し!」
「えー、いやだよー。おいらちゃんとやってるのにー」
「それのどこがちゃんとやってるの!」
「なぁ雪乃先生、最近ちょっと厳しすぎへんか? 怒ってばっかりやで」
「あなたたちがちゃんとお掃除をすれば怒りません! ほら、さっさとやる! 床の水拭きもね!」
はぁい、と、なんだかんだ雪乃の言うこと聞く一心太と晴寿である。あの日以来、ふたりは心を入れ替え、以前より熱心に『結』での授業に取り組むようになった。掃除はサボりがちだけれど。
息をつき、雪乃は雑巾を手にしたまま教室を見渡した。部屋の隅にも、唯一水に触れられる手洗いにも、零の姿はない。この景色が当たり前になって、まもなく一ヶ月が過ぎようとしている。
あれから零は三日三晩眠り続け、目を覚ました時にはこの地方にも梅雨の季節が訪れていた。雨音、大好きな水の滴る音のおかげで目覚めたのかもしれないと円は言った。そうかもしれない。零は誰よりも水を愛する子だ。
円や沙夜の暮らす母屋で目を覚ました零は、円に「ごめんなさい」とだけ言い残し、傘も差さず、降りしきる雨の中へと消えていった。その背中に、零が目覚めるまでずっとそばについていた一心太と晴寿が「ごめんな、零!」と声をかけた。零はほんの一瞬だけ振り返り、「いいよ」とその口を小さく動かした気がしたというのは、あとになってふたりから聞いた話だ。
零が目覚めた時、雪乃はその場にいなかった。大学で授業を受けていたのだ。円から連絡をもらい、その日のうちに山へ入って零が暮らしていたという小川に行ってみたけれど、そこにはすでに零の姿はなかった。
元気にしているだろうか。手洗いに目を向けるたび、雪乃は零のことを想った。
結局、あの夜以来零に一度も会えていないのは雪乃だけだ。ありがとうも、ごめんねも、さようならさえ伝えられていない。円にもらった不思議な千代紙で零に伝言を送ることも考えたけれど、やっぱり直接顔を見て話したい。そう思い、今は心で無事を祈るに留めている。
遠く離れたどこかへ行きたいと願っていた零だけれど、どこへ向かったとしても、いつかきっとこの山に帰ってくるような気がした。この教室から持ち出したあるものを、きっと返しにきてくれるはずだと。
その時に、ちゃんと話をすればいい。できることなら、零の笑顔が見たい。
ここで待たせてもらってもいいですか、と円に尋ねた。「もちろんです」と円は二つ返事で答えてくれた。
「一緒に待ちましょう。僕も、雪乃さんにはずっとここにいてほしいので」
そう言った円は、いつもどおりのきれいな笑みを浮かべていた。この人はいつもそうだ。すごく大事な場面でありったけの勇気を振り絞って言うようなことを、なにげなく、さらりと口にしてしまう。他意はなく、本当にただ純粋に、円は雪乃にこの山にいてほしいと思っているだけなのだ。雪乃の作るごはんが食べたいし、『結』の仕事も一緒にしたい。ただそれだけ。
雪乃も「ありがとうございます」と微笑み返した。それでよかった。そこにどんな想いがあっても、あるいはなんの想いもなくても、誰かに求められることは、とても幸せなことだ。
掃除を終え、雪乃は円とともに生徒たちを送りだした。梅雨の中休みで、今夜は雨が上がっている。煌々と漏れ出る離れの光が、軒先に立つふたりのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせた。
「お疲れ様でした、雪乃さん」
ひょこっと円が雪乃の顔を覗き込む。ここへかよいだして二ヶ月。この顔をする時の円がなにを求めているか、すっかりわかるようになった。
「お夜食、作りますね」
「はい、お願いします」
ニッコリと笑う円が、『結』の生徒たちよりもずっと純真で子どもらしく見える。普段の大人びた印象が嘘みたいだ。かわいい人、と雪乃は笑う。こんな顔をして笑う円を見られるのは自分だけの特権かもしれないと思うと途端に嬉しくなってしまって、ついニヤニヤと締まりなくニヤける雪乃だった。
「あっ」
母屋へ向かって歩き出そうとした雪乃のもとへ、前方からなにかがスーッと飛んできた。
「これ……!」
特殊な力を秘めた千代紙で折られた白い鳩だった。誰かからの伝言を運んできてくれたらしい。
雪乃が手のひらを上向けると、鳩は音もなく降り立った。「誰だろう」と雪乃がその頭を一撫でした瞬間、鳩はバサァッ、と翼を大きく広げてしゃべりだした。
『雪乃先生』
その声に、雪乃も円も目を見開いた。
「うそ……!」
「零ですね」
この山から姿を消してしまった、零からの伝言だった。
『零です。雪乃先生、なにも言わずに山を離れてごめんなさい。ボク、どうしたらいいのかわからなくて、でも、このまま山にいちゃいけないってことはなんとなくわかって、それで、川を下って、海に出ました』
まさか、と雪乃は円の顔を仰ぐ。「河童は泳ぎが得意ですからね」と円はなにごともなかったかのように言った。
『はじめての海は、とても怖かったです。でも、途中でクロさんという海坊主に出会いました。とっても大きくて真っ黒で、頭がツルツルで怖かったけど、すごく優しくて、「遠くへ行きたい」と伝えたら、近くにある島への行き方を教えてくれました。ハワイ島というところです。今、ボクはそこにいます』
ハワイ! 突然の伝言に、もう何度驚かされただろう。零がたどり着いたのは、英語の国・アメリカ合衆国に属する島だった。
『大きな山があって、人間もいました。話している言葉が、ボクたちがいつも使っている言葉とは違いました。海岸線をさまよっていると、弥勒先生がよく着ていた、背中に黒い帽子のついた服……パーカー、でしたっけ。それを着た人に声をかけられました。〝Are you OK? 〟と言われて、あ、英語、と思いました。〝Hello.〟と言うと、その人は〝Are you a monster? Me, too! 〟と言って、エリックという名前で、ヴァンパイアという生き物なのだと教えてくれました。誰かの血を飲んで生きていて、ボクと同じで、人間ではないらしい、です』
へぇ、と雪乃は相づちを打ちながら目を丸くした。ハワイにも、あやかしの姿が見える人がいるのだ。しかも、まさかの吸血鬼。
『雪乃先生』
零の伝言は続く。
『先生が貸してくれた辞書、勝手に持ち出してごめんなさい。でも、おかげでエリックの話す言葉がすぐに調べられます。エリックが手伝ってくれるんです。とても優しいヴァンパイアです。雪乃先生の辞書は、まだ英語がよくわからない今のボクには欠かせない持ち物です。もう少し、貸してください。いつか必ず、返します』
涙ぐんでうなずく雪乃の肩に、円がそっと腕を回す。じわりと円の熱が流れ込んで、胸が詰まる。
『雪乃先生、ボク、ここでやり直します。先生が背中を押してくれたから、勇気を出すことができました。ありがとう、先生。英語がうまく話せるようになったら、一度、山へ帰ります。円先生にも、そう伝えてください』
千代紙の白い鳩が羽を畳んだ。零の伝言はそこまでだった。
「よかったですね、雪乃さん」
円が雪乃の頭を撫でる。
「きっと立派に成長しますよ、零は」
「はい、きっと」
夏の風が、ふたりの髪をそっと揺らす。
想像していたのとは少し違ったけれど、心を込めて受け持った生徒が、ひとり、雪乃のもとから巣立っていった。
どんな姿で、零はこの山へ帰ってくるだろう。見違えるほど男らしくなっているかもしれない。苦労していた人への変化も、あるいは完璧にできるようになっていたりするのだろうか。
さようならではない。しばしの別れだ。終わりではなく、零の未来は、ここから始まる。
「私もがんばらなくちゃ」
零が立派な姿で帰ってくるのなら、負けてはいられない。円のもとで、一人前の教師になれるよう精いっぱい努力する。
「負けないからね、零くん」
零の夢が走り出した。雪乃の夢も、この場所から再スタートを切る。
雨露を多分に含んださわやかな森の香りに、背筋がピンと伸びる思いがした。
亡き両親から受け継ぎ、円が懸命に守り続けてきた、人間との穏やかな共存を望むあやかしたちのための塾、『結』。賑やかであたたかなこの学び舎で、また一つ、人間とあやかしの良きご縁が結ばれた。
雪乃と零。たとえ遠く離れていても、ふたりの心はいつだってつながっている。
【あやかし専門学習塾・結 ~女子大生と半妖の狼~/了】




