3.
円は断定的な言い方をした。晴寿は歯噛みし、悔しそうにうつむく。
弥勒の後ろに隠れるように立っていた零が、怯えた目をして晴寿を見た。晴寿が自分に罪を着せようとしたことに気づいただろうか。漏れ出る吐息が震えている。
「そんな」
雪乃は声を絞り出した。
「どうして。どうしてなの、晴寿くん。こんなことをしたって、あなたにはなんの得もないはずじゃない」
「違うんだ、雪乃先生」
問い詰める雪乃を遮るように、森の奥から、この場にはいないはずのあやかしの声が聞こえてきた。全員の視線を集めた先で、一つ目小僧の一心太が、走ってきたのか息を切らし、太い木の幹に片手をついて立っていた。
「あのイタズラを考えたのはおいらなんだ。イタズラした場所を水で湿らせておけば、零の仕業だと思わせることができる。零が犯人だって話になれば、掟を破った零はここにはいられなくなるだろ。だから……」
「せやけど」
晴寿が流し目で一心太をちらりと見る。
「おまえはあん時、『やっぱりやめよ』て言うたやろ。うまくいかんかった時の代償が大きい言うて。おまえの作戦に悪ノリしたんはおれや。全部おれがひとりで決めてやったことやねん。おまえの言うたとおり、やっぱりうまくいかんかったわ」
乾いた笑い声を上げる晴寿に、一心太は申し訳なさそうな顔で「ごめん」と告げた。晴寿は首を横に振る。円が静かに口を開いた。
「晴寿をかばおうとしたのですね、一心太」
「え?」
「先ほど教室で、きみは今回の騒動について『妖魔の仕業に決まっている』と僕に言いました。失礼ながら、あの時僕はきみがきみ自身の罪から逃れるために妖魔の仕業だと周りに思わせようとしていたのだと勘違いしていました。本当は、晴寿に疑いの目が向かないようにああ言ったのですよね。晴寿は妖魔ではありませんから、妖魔の仕業となれば、晴寿が疑われることはない」
「あぁ、そうだよ。おいらにできるのはそれくらいだったから」
一心太はぶっきらぼうに、けれど晴寿を想う気持ちはしっかりとその声に乗せて答えた。「そうやったんか」と、今度は晴寿が申し訳なさそうな顔で一心太を見る。
その視線を一気に鋭くした晴寿は、零をジロリと睨みつけた。零がビクリと肩を揺らす。
「おまえが悪いんやぞ、零」
「え……?」
「おまえが一心太を怒らせるような真似しよったから、こないなことになったんや」
「ボ、ボク……?」
「そうだよ!」
一心太も零を指さして晴寿に加勢した。
「全部おまえのせいだ! おまえが雪乃先生をひとりじめするから!」
雪乃が小さく息をのんだ。
「一心太くん」
「だってそうだろ。零はひとりじゃなんにもできないからって、いっつも先生に面倒見てもらってさ。おいらたちはうまくできなかったら『やり直し』ってキツく言われるのに、零だけは『次がんばろうね』って優しくされて。なんでだよ。なんで零は全然怒られなくて、おいらたちは怒られてばっかりなんだよ。おかしいだろ。なんで零ばっかり贔屓されんだよ!」
「落ちつきなさい、一心太」
円が一心太に歩み寄る。
「僕も雪乃先生も、誰かひとりを贔屓したりはしません。僕らは『結』に来る皆さんに平等に学びの機会を……」
「円先生の意見なんて訊いてない!」
一心太が叫んだ。円の足がぴたりと止まる。
「きれいごとだよ、先生が言ってんのは! 零は絶対贔屓されてる! 先生たちがどう思おうが、おいらにはそう見えるんだからそれが事実だろ!」
はっとしたのは雪乃ばかりではなかった。円も、弥勒も、なにかに気づいたように目を大きくしている。
一心太の言うとおりかもしれないと、大人たちは誰もが思った。
雪乃や円に零の世話ばかり焼いているつもりがなくても、他の生徒たちにそう思わせてしまっていたなら、それは雪乃たちの失態だ。あの子は贔屓されている。他の子からそう見えてしまう態度を知らず知らずのうちに取っていたのだとしたら、たとえ自覚がなかったとしても、教師の側に非がある。
『イジり』と同じだ。イジる側は愛情表現のつもりでも、イジられる側は笑顔の裏でひどく傷ついているのかもしれない。笑顔という目に見えるファクターだけがすべてではないのだ。それは今回の一心太や零にも言えることだった。
「ズルいよ」
ヒートアップした一心太の魂は叫び続ける。
「零ばっかり守られて。おいらたちばっかりが悪者にされて!」
「落ちついて、一心太くん」雪乃が言う。
「ごめんね、私たちにも悪いところがあったんだよね。これからは……」
「これから? ないよ、そんなの! 零がいなくなれば話は終わりだ!」
「え?」
「零が先生をひとりじめするからいけないんだ! おいらたちにだって先生から教わりたいこといっぱいあるのに! 全部零のせいだ! 邪魔者は、いなくなっちまえばいいんだ!」
「いい加減にしなさい!」
円が、一心太にも勝る大声を張り上げた。あの穏やかな円が発した声にはとても聞こえず、全員が息をのむ。
円の肩が怒りに震えていた。目を伏せ、どうにか感情の高ぶりを押さえようと、はぁ、と円はわざと大きな音を立てて息を吐き出し、言った。
「そうやって、なにもかもを零のせいにして、いったいなにになるというのですか。零には学びに対する意欲がある。彼が一生懸命だから、僕も雪乃先生も彼の背中を押すんです。押したくなるんです。僕らは教師ですから」
教師。僕らは教師。
一心太にかけられたもののはずなのに、円の紡いだその言葉は、雪乃の胸を大きく揺さぶる。
「それに引き換え、一心太、きみはどうですか。授業には集中できない。すぐに『イヤだ』と言う。宿題だって忘れてくることがありますね。きみが自ら僕らに質問をしてきたことがこれまで何度ありましたか。ないでしょう。この状況のどこが贔屓だと言うのですか。いつまで経っても不まじめなきみに、常に努力を怠らないまじめな零をなじる資格はありません!」
刺さるような円の言葉と視線に、一心太の顔が歪む。凜とした森の空気がより一層澄み渡り、凍ったようにピンと冷たく張りつめた。
一心太は言い返さなかった。うつむき、下唇を噛みしめたまま動かない。
弥勒が驚いた顔で円を見ている。円が本気で怒る姿を見たのははじめてだ。そんな表情を浮かべている。
静寂の中で、かすかに衣擦れの音が聞こえた。ずっと遠巻きに喧噪の様子を眺めていた玉藻前が、雪乃たちから完全に背を向けて夜空を仰いだ。うるさくてかなわん。紅の背中は心底うんざりしているように見えた。
「円さん」
都合のいい解釈かもしれないけれど、雪乃には、今の円の言葉が自分を守ってくれたもののように聞こえてならなかった。
雪乃は零を贔屓していたわけではない。英語にせよ、他の学問にせよ、零の学習意欲にこたえる形で力を尽くしてきただけだ。
円はそれをわかっている。これまで雪乃が零のために注いだ時間は決して無駄ではなかったし、一心太にもきちんと理解してもらいたい。円の紡いだ言葉には、そんな意図が隠されていたのだと雪乃は感じた。ただの思い込みだったとしても、円の言葉に救われたような気持ちになれた。ずっと心にかかっていた霧が晴れ、からだが軽くなった気がした。
不意に、うぅ、と低いうなり声が聞こえてきた。弥勒がハッと後ろを振り返る。
「嘘だろ、おい」
うううぅ、と、うなり声は地響きのようにどんどん大きくなっていく。なにが起きているのか。
「やべぇぞ、円」
「最悪の展開ですね。こうなる未来だけはなんとしてでも避けたかったのですが」
身構えた弥勒と円が不穏な言葉を交わし合う先で、うなり声の主――零のからだが真っ黒な影に包まれ始めた。
「零くん……?」
「あかん、妖魔や」
雪乃の腕をすがるように引っ掴み、晴寿が震える声で言った。
「零が、妖魔に……!」
みるみるうちに、零は河童特有のエメラルドグリーンの輪郭を失っていく。はぁ、はぁ、と獣のような荒い息づかいで、開きっぱなしの口からボタボタと締まりなくよだれが垂れる。
「……ボクが」
零の声が、不自然なほど低くなった。
「ボクがいったい、きみたちになにをしたって言うの!」
その声を最後に、零は巨大な漆黒の影と化した。




