2.
どこまでも深い森が続いていると思っていたこの山にも、たっぷりの月の光が降り注ぐ場所があった。
「うわぁ……!」
円に連れられてその場所を訪れた時、雪乃はそう声を漏らさずにはいられなかった。
聳え立つ木々をかき分けるように、直径三十メートルほどの美しい泉が現れた。
満月からほんのわずかに欠けた十六夜月の冴え冴えとした輝きが、水面で煌びやかに踊っている。ぼんやりと泉に浮かぶ白い月は、穏やかな風に揺らめく水の上で、その身を休めるようにゆったりと揺蕩う。
「素敵」
見上げれば、無数の星が夜空いっぱいに広がっていた。こんなにもたくさんの星、プラネタリウムでしか見たことがない。何万光年先の彼方で光る星たちの瞬きを、雪乃の瞳が真正面から受け止め、きらきらと煌めいた。
「昼間は水底が透けて見えるんですよ」
幻想的な光景に目を奪われていると、円も一緒になって足を止めてくれた。
「この泉の水はすごくきれいで、触るとサラサラしていて気持ちがいいんです。玉藻前様がここを安息の地にお選びになった理由がよくわかります。空気も澄んでいるし、なにより、とても静かな場所ですから」
円の言っている意味は深く理解できた。この泉を目にした瞬間から、日常とはかけ離れたどこか別の世界へトリップしたような不思議な感覚にとらわれている。迂闊に踏み込んではいけないような、静謐で、神秘的な空気に満ちた空間。この山を下った先に、かよっている大学と自宅の学生アパートがあるなんて嘘みたいだ。
円はざくざくと野草を踏み鳴らし、泉を囲うように転がる岩の一つに手を触れた。他の岩が大きくてゴツゴツしているのに比べ、円の触れた岩には角がなく、サイズもやや小さめだった。
「玉藻前様」
円の呼びかけに応じるように、触れた岩がぱぁっと明るく光り始めた。黄色い光は瞬く間に大きくなり、泉の水面を波紋が勢いよく駆け抜けていく。
まぶしさに目が眩み、雪乃はとっさに目を閉じた。おそるおそる開いてみると、光はいくらか弱まり、丸みを帯びた岩の輪郭を淡く照らし出すに留まっていた。
光る岩ばかりに気を取られていたけれど、よく見てみると、岩の上にとても小さな人影が鎮座していることに気がついた。天空から降り注ぐ月明かりが、ちょうど沙夜にプレゼントしたリカちゃん人形くらいのサイズの影をはっきりと浮かび上がらせている。金の簪で髪を結い、唐紅の色打掛姿をした小さくてかわいらしいその女性は、円と雪乃に背を向けていた。
「円か」
首だけを捻り、艶やかな平安装束をまとう岩の上の人影が円をそっと振り返った。甲高く、少しベタッとして聞こえる特徴的なその声に、雪乃は聞き覚えがあった。
千代紙の鳩に罵声のような伝言を吹き込み、円のもとへと送ってよこした、かつて美しい女性に化けて時の帝の寵愛を受けたという九尾の狐――玉藻前だ。
「ご無沙汰しています、玉藻前様」
円が恭しく頭を垂れると、玉藻前はようやくからだをふたりの立つほうへと向けた。弥勒が「バアさん」だの「クソババア」だのと言うからどんな人なのだろうと思っていた雪乃だけれど、なんということか、絶世の美女と評しても過言ではないほど、玉藻前は若々しく、つややかで美しい女性だった。時の帝が惚れ込んだのも納得だ。
ほぅ、と息を漏らすほど見とれてしまった雪乃を、玉藻前は見定めるような目をして睨んだ。
「おぬしか、円の身の回りの世話をしているという人間は」
「はい。三宅雪乃と申します」
緊張気味に名乗ると、玉藻前の目つきがさらに鋭くなった。
「なにを考えておる?」
「はい?」
「今、心で思うておることを申してみよ」
「はぁ……えっと、とてもお美しい方だなと」
「世辞などいらぬ。思うておることを正直に申せと言うておるのじゃ」
「あぁ、はい。えーっと……なんていうか、思っていたよりも小さ」
「無礼者!」
玉藻前が吠えた。ヒッ、と雪乃は肩を縮こまらせる。
「誰のおかげでわれがこのような姿になったと思うておる! おぬしら人間の仕業じゃ! われの力を許しもなしに封じおって、この恥知らずが。よいか、娘。今度われに『小さい』と言うたらタダでは済まさぬぞ。われに食われとうなければ口を慎め。よいな!」
「ひぁああごめんなさいごめんなさい!」
平謝りしながら、理不尽だ、と雪乃は思った。正直に言えと言ったのは玉藻前なのに、どうしてこちらが怒鳴られなくてはならないのか。口に出せば食われてしまいかねないので黙っておくけれど。
「すいません」
玉藻前がぷいと雪乃に背を向けるのを待ってから、円がささやくように耳打ちしてくれた。
「玉藻前様は石になった時、お持ちだった妖力のほとんどを陰陽師に封じられてしまったのです。以来、普段はあのように小さなお姿でお過ごしになっています。それと、今のお説教は適当に聞き流していただいて大丈夫ですよ。ああやって人間を相手に怒鳴り散らすのは儀式みたいなものですから」
「聞こえておるぞ、円」
ムスッとした声音に、円は「すいません」と即座に謝る。本気のそれではなく、やはり決められた一連のやりとりであるような響きに聞こえた。
「それで」
玉藻前が眇めた目で円を見た。
「今宵はなに用じゃ」
「はい、少々騒がしくなりそうなので、先に謝っておこうかと」
「なにかあったのか?」
「あった、というか、これから起きるかもしれない、です」
玉藻前が眉をひそめるのとほぼ同時に、森の奥から「イヤや! 離せ!」という悲鳴のような声が聞こえてきた。
「だーもう! 暴れんじゃねぇよバカ野郎!」
「痛いって! 離せ言うてるやろ!」
「だったら自分の足でちゃんと歩け! おら、もう見えてるぞ!」
「イヤや、行きとうない! なんでおれなんや! おれは関係あらへん!」
荒々しく怒鳴り合う声が二つ。耳を澄ますと、足音は三種類。
木陰から現れたのは、人間の姿をした弥勒と、河童の零。
それから、弥勒に腕を掴まれ、引きずられるようにやってきた、茨木童子の晴寿だった。
「晴寿くん」
「うわぁっ!」
目を見開く雪乃の前に、弥勒が晴寿の小柄なからだを放り投げて転がした。「晴寿くん!」と雪乃は慌てて駆け寄り、晴寿の上体をかかえ起こした。
「大丈夫?」
「雪乃先生……なんでここに先生がおんねん」
その問いには答えず、雪乃は弥勒と円を交互に睨んだ。
「どういうことですか。まさか、晴寿くんが犯人だって言うんですか?」
どちらもなにも言わなかった。円がそっと晴寿の前に立ち、真剣な目をして見下ろした。
「本当のことを話してください、晴寿」
「知らん! おれはなにも……」
「人間に姿を見られなければバレないと思ったのですか?」
「せやから知らん言うてるやろ!」
突き飛ばすように雪乃から離れ、再び自分の足で立った晴寿は円と距離を取った。
「なんでおれやねん! おれは妖魔やないぞ。おれがやったっていう証拠でもあるんか。なぁ、先生!」
立ち上がりながら、雪乃は晴寿の言葉にショックを受けた。証拠を出せ。罪を犯した者の常套句だ。
晴寿の背後で、弥勒があきれたように息をつき、腕を組んだ。円に頼まれ、晴寿と零をここへ連れてきたのだろう。もちろん、事件の顛末を知った上で、だ。
円と晴寿が睨み合う。どちらもなにかを言う気配を見せない。
やがて、円があきらめたように口を開いた。
「確かに、我々あやかしは人の姿に化けない限り人間の目には映りません。あやかしの姿のまま人里へ下り、悪さをすれば、目に見えないのだから誰の仕業かなんてわかるはずがない。そう思いたくなる気持ちはよくわかります。ですが、犯罪というのはいつか必ずバレるものです。玉藻前様もそうでした。美しい女性に化けた狐であったことを人間に見破られたのです。わかりますね、晴寿。あなたの罪も同じです。いつまでも隠し通せるものではありません」
「証拠は!」
晴寿が声を張り上げる。
「おれがやったっていう証見せてくれんと納得せぇへんぞ」
「お忘れですか、晴寿。僕は狼のあやかしなのですよ?」
「はぁ? それがなんやって言うん……」
言い返そうとした晴寿だったが、はっとした顔で続く言葉をのみ込んだ。玉藻前が晴寿を冷ややかに一瞥する。
円は穏やかな口調で核心に触れた。
「狼は、人間の何倍も鼻が利きます。つまり僕には、人間には感知できないさまざまなもののにおいを嗅ぎ分ける能力が備わっているということです。先ほど、一連の事件の被害に遭った人里の店に足を運んできました。商品を床にまき散らされたというコンビニの棚、本屋の棚、それから、横倒しにされた喫茶店の椅子、観葉植物の鉢……犯人が手で触れたもののすべてに、晴寿、きみのにおいが残っていました。僕もはじめはまさかと思いましたが、何度嗅いでもきみのにおいに間違いなかった。犯人は零ではない。きみです、晴寿」




