1.
色も、においも、感触さえない世界の中で、誰かに名前を呼ばれていた。
雪乃さん。雪乃さん。
聞き覚えのある声だった。少し低くて、耳にすぅっと馴染む声。ずっと聞いていたいと思える、優しい――。
「雪乃さん」
「ふぁいっ!」
弾かれたように、雪乃はちゃぶ台から頭を上げた。すぐ右隣で、円が雪乃の肩に手を置き、心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか」
「円さん」
よかった、と雪乃は胸に手を当てた。
「戻られていたんですね」
顔を見られて安心した。体調も特に悪そうな印象はない。
弥勒に「今日は帰れ」と言われて一度は家に戻った雪乃だったけれど、どうしても円のことが心配で、入浴と着替えだけ済ませて再び山へと戻ったのだ。沙夜に「円さんが戻るまでここにいていい?」と尋ねたら、あっさり許可をもらえたので居間で待たせてもらうことにしたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
振り子時計に目をやると、午前零時を回っていた。「すいません、こんな時間までお邪魔しちゃって」と謝りながら、雪乃はうつむき、乱れた髪を手櫛でササッと整えた。
整える、フリをした。
「雪乃さん」
覆い隠すように顔にかぶせた長い髪を、円の細くて長い指がかき上げる。露わになった雪乃の白い頬を、一筋の涙が伝っていた。
「どうして」
「ごめんなさい……円さんが無事で、よかったなって」
そう思ったら、どうしようもなく涙があふれた。
家に戻ってひとりになると、途端に不安でたまらなくなった。
怖かった。離れを出ていく円の後ろ姿が、いつも以上に儚げに見えて。
もう二度と会えなくなってしまう、そんな気がした。心臓が早鐘を打ち、胸が締めつけられるように痛み、このままひとりでいたらおかしくなりそうだと思った。
会いたい。
円さんに会いたい。
どうか、無事に戻ってきて。
それだけを願い、雪乃は山へと舞い戻った。
そして今、円がすぐ目の前にいる。ホッとして、力が抜けて、あふれた気持ちが涙になってこぼれ落ちた。
「すいません」
円が雪乃を抱きすくめた。
「僕を心配して、戻ってきてくださったのですね」
円の手が、優しく雪乃の頭を撫でる。熱を感じて、円が確かにここにいるのだと改めて実感できた。
大切な人との別れは、いつ、どのような形で訪れるかわからない。
それを教えてくれたのは円だ。ある日突然、覚悟を決める暇も与えられないまま、円は大切な人をふたり同時に失った。
円との別れの時が来てしまうことを、ひどく怖れている自分がいる。
そうして、気づく。
別れたくない。ずっと一緒にいてほしい。
円のことを、そんな風に思っている自分に。
「大丈夫です」
雪乃の肩に手を添え、そっと顔を上げさせると、円は雪乃の目もとを着物の袖口で優しく拭った。
「僕は勝手に消えたりしません。必ずここへ戻ってきます。……いえ」
雪乃の瞳を、円がまっすぐに見つめてくる。
「あなたのもとへ、必ず」
雪乃の涙の理由を、円は悟っているようだった。嬉しくもあり、少し恥ずかしくもある。
いや、やっぱり嬉しい。嬉しくてたまらない。
これからもずっと、円のそばにいたい。いさせてほしい。
洟をすすって顔を上げると、雪乃はわざとらしく円を睨んだ。
「約束ですよ?」
「はい、約束です」
円は笑って、胸の前で左手の小指をピンと立てた。雪乃も同じように小指を立て、円の小指に絡ませる。小さな子どもがするようなやりとりに、ふたりして思わず笑ってしまった。
「さて」
円がすくっと立ち上がった。
「雪乃さんもいらっしゃることですし、今夜じゅうに終わらせてしまいましょうか」
「終わらせるって」
雪乃も慌てて腰を上げる。
「もしかして、わかったんですか? 例の騒動が誰の仕業だったのか」
えぇ、と円はうなずくと、どこか遠くを見つめるように目を細くした。
「円満に解決するといいのですが」
静かに紡がれたのは、ともすれば不安を煽るような一言だった。




