5-2.
「えぇ?」
壁際に立っていた雪乃が、身を乗り出すようにして大声を上げた。零も目を見開いている。
「ちょっと待ってください弥勒さん!」
雪乃はドタドタと足音を立て、弥勒のすぐ隣に膝をついた。
「なにかの間違いです! どうして零くんが!」
「落ちつけ、雪乃ちゃん。オレだってやみくもに零を疑ってるわけじゃねぇよ」
射貫くような目で弥勒に睨まれ、雪乃はごくりと生唾をのみ込む。
「根拠があるってことですか」
肯定も否定もせず、弥勒は静かに話し始めた。
「時雨の兄貴から連絡をもらってから、オレは事件の起きたコンビニや喫茶店を一軒ずつ回って、事件当時の状況を詳しく聞いてきた。その中に、それぞれの店の主人が口を揃えて証言したある事実があったんだ」
「ある事実?」
弥勒は一度目を伏せ、ゆっくりとまぶたを上げた。
「コンビニで棚から崩れ落ちた商品。本屋で床に散乱した雑誌。喫茶店で倒された椅子。そのすべてが、不自然に水で濡れていたそうだ」
息をのんだのは零だった。三つの視線が一斉に零に集まる。
「零くん」
「違う」
雪乃の声を遮るように、零はこれまでで一番の大声を張り上げた。
「違う、ボクじゃない!」
悪夢を振り払うように、零はブンブンと頭を振る。潤う皿から水しぶきが飛び散った。弥勒にかけられた疑いを、自ら肯定してしまうような光景だった。
河童である零は、乾燥から身を守るために皮膚が常時湿り気を帯びている。特に頭の皿にはたっぷりの水が湛えられ、今のように頭を振ると水しぶきが飛ぶこともある。たとえば商品を棚から転がり落とし、急いでコンビニから立ち去ろうとした際、頭の皿からうっかり水が流れてしまったという可能性は否定できない。また、手で直接触れた本屋の雑誌が湿り気を帯びるということもあり得るだろう。弥勒の言うとおり、零が疑われても仕方がない状況ではある。しかし。
「言いがかりです!」
雪乃は零の隣に移動し、震える零の肩を抱いた。
「現場が水で濡れていたなんて、そんなの、ただの偶然かもしれないじゃないですか。零くんが犯人だっていう証拠にはなり得ません」
「三件も続けて偶然が起こるってのか?」
弥勒は怖い顔で腕を組む。
「犯人があやかしだってことは間違いねぇんだ。オレの知る限り、水辺で暮らし、皮膚が常に潤ってるあやかしは零しかいない。雪乃ちゃんの気持ちはわかるけど、現場の状況から考えれば、真っ先に零を疑うのが筋ってもんだろ」
「だからって、零くんが人に迷惑をかけるなんて。零くんはそんなことをするような子じゃありません!」
「厳しいことを言うようだけど」
弥勒が語気を強めた。
「雪乃ちゃんは、零のすべてを知ってんの?」
「え……?」
冷ややかな一言だった。先端の鋭い氷柱が胸にグサリと突き刺さったような痛みを覚える。
「雪乃ちゃんは、零のなにを知ってんの? 零がいつからこの山に棲んでて、どうして『結』にかようようになったのか。なにが好きで、なにが嫌いか。雪乃ちゃんには、全部わかんの? 零が本当はどんなヤツなのか、本当にわかってる?」
「それは……」
なにも言い返せなかった。言葉が一つも出てこない。
弥勒の言うとおりだ。雪乃は零のことをなにも知らない。零が本当はどんな子で、なにを考えて生きているのか。本当はなにが好きで、この先の未来をどう過ごしていきたいと思っているのか。
なにも知らない。
零のことを、なに一つ知らない。
知らないままで、本人の主張を信じて彼をかばうことは正しい行動なのだろうか。零のことを信じたい気持ちに任せて、真実から目を逸らしているだけではないのか。
「……違う」
自信を無くし、黙ってしまった雪乃に代わり、零がそっと口を開いた。
「本当に、ボクじゃない」
正座をした膝の上で、零の握り拳が震えた。その姿を見て、雪乃は失った自信を取り戻した。
うつむいてしまって表情は見えないけれど、零の言葉や態度に嘘はないと思った。
自分がそう思いたいだけではない。確信した。零は本当に、犯人じゃない。
「弥勒さん」
弥勒をまっすぐに見つめて雪乃は言った。
「不利な状況だってことはわかっています。それでも、私は零くんを信じます。絶対に零くんがやったという根拠が見つかるまで、零くんの言葉を信じ続けます」
私は教師だ。教師が生徒を信じなくてどうする。
零は「違う」と言っている。犯人は、必ず別にいるはずだ。
弥勒は返事をしなかった。誰もが黙り込み、しばしの沈黙の時が流れる。
やがて、円が音もなく立ち上がった。
「円?」
「少し、出てきます。弥勒さん、あとお願いします」
「おい、円!」
弥勒も雪乃も、零のことさえも振り返ることなく、円は黙って教室を出ていった。どこへ向かうとも、いつ戻るとも、なに一つ告げなかった円の姿が、離れから消えてなくなった。
弥勒は零に帰るよう言った。零は黙って帰っていった。
「ごめんな、雪乃ちゃん」
離れから漏れ出る明かりが揺れる軒先で、弥勒は零の背中を見送りながら雪乃に言った。
「零の反応を見たくて、ついキツイことを言っちまった」
いえ、と雪乃は首を振る。今の言葉で、弥勒がどこまで零を疑っているのかわからなくなった。
「弥勒さんは、本気で零くんのことを疑っているんですか」
「五分五分だな、今のところ。オレたちあやかしは、心が脆くなってる時になんらかのきっかけを与えられることで妖魔化する。その前段階として、一時的に自我を失って言動がセーブできなくなることがあるって話を聞いたことがある。零はもともと孤立しがちで、唯一のよりどころが『結』だ。それが今じゃ『結』でものけ者にされかけてる。零の心が不安定な状態に陥っていないと言いきれない以上、疑わざるを得ない。現場の状況を踏まえればなおのことだ」
「でも、零くんは違うと言っています」
「うん。オレも零が嘘を言っているようには見えなかった。ただ、さっきも言ったとおり、妖魔になると自我を失う。零が自分でも知らないうちになにかをやらかしちまってるって可能性はゼロじゃない。今はまだ人間を襲うまでには至ってないが、時間の問題だろうな。本能のままに人を襲うようになっちまう前に、できる限りのことをしてやりたいとオレは思う」
雪乃は弥勒の横顔をそっと見やる。口にした言葉こそ違うけれど、弥勒の気持ちも円と同じなのだと悟った。
円も弥勒も、この山の誰かが妖魔になってしまうことを回避したいと願っている。そのためにできることを一生懸命やっているのだ。ただがむしゃらに、情に任せて生徒を守ろうとしている雪乃とは違う。彼らは今起きている現実と真摯に向き合っている。対応としては、彼らのほうがよほど大人だ。恥ずかしくなって、雪乃は静かに視線を下げた。
「円さんは、どこへ向かったんでしょうか」
さぁな、と弥勒はジーパンのポケットに両手を突っ込んだ。
「オレと違って、あいつは頭がいいからな。あいつなりに、なにか考えがあって動いてるんだろうよ」
「根拠を探しにいく、とか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。一つだけわかるのは、あいつが手ぶらで戻ってくることはないってことだ。現状を打破するためのなにかを、あいつは必ず掴んで帰ってくる」
信じて待とう、と弥勒は優しく微笑んだ。「はい」と答え、雪乃は深い森の向こうを見つめる。
大丈夫だろうか。心もからだも無理をして、また寝込んでしまうなんてことになったら。
「円さん……」
祈るように、雪乃は胸の前で両手を重ね、指を絡める。
どうか、円が無事に戻りますように。
そして願わくは、彼が掴んで戻る真実が、悲しいものではありませんように。
静かに目を伏せた雪乃の肩に、弥勒がそっと腕を回した。
大丈夫だよ、と言ってもらえたような気がした。




