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あやかし専門学習塾・結 ~女子大生と半妖の狼~  作者: 貴堂水樹
第四章 妖魔

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4.

「あの、円さん」

 どうしても気になって仕方がなくて、雪乃はエプロンの紐を締めながらついに円に尋ねてしまった。新調した着物を箪笥にしまって居間へ戻ってきた円は「はい」と返事をしたものの、無理にいつもどおりのトーンを保とうとしているように聞こえた。

「凪さん、というのは……?」

 いろいろと訊きたいことがある中で、もっとも心に引っかかったのがその名前だった。

 これまで多くのあやかしと出会ったけれど、凪という名前には聞き覚えがなく、時雨の話を聞く限り、凪はすでにこの世界にいない可能性が高い。

 台所に立つ雪乃のほうへ、円は静かに歩み寄ってくる。土間へは下りず、居間と台所の境目に立ち、壁にゆったりと背を預けた。

「僕もあまりよく知らない方なんです」

「そうなんですか?」

「はい。知らないというか、覚えていないんです。凪さんがご存命だった頃、僕はまだ二歳だったので。のちに母から聞いた話によれば、物静かで、他のあやかしとは積極的に交流しようとなさらない方だったとか」

「凪さんもあやかしなんですか?」

「えぇ。大蛇おろち、と言ってわかりますか?」

「オロチ?」

「蛇です。見上げるほどの巨大な蛇で、この山のぬしと呼ばれていました。ここよりもずっと深い場所に棲みついて、誰ともかかわらず、ひっそりとお暮らしになっていたそうです。玉藻前様がこの山に棲むようになると、彼女のおかげで人間が寄りつかず、身の安全が保証されるようになったことで、多くのあやかしたちが次々とこの山へ移ってくるようになりました。そして、誰にも見つからないよう息をひそめていた凪さんは、僕の父……八雲と出会いました」

「お父さんと」

 はい、と円は穏やかにうなずいた。

「姿は隠していても、凪さんの持つ強大な妖力だけは山奥からびんびん伝わってきたのだとか。頭隠してなんとやら、というやつですね。危険だからと周りが止めるのも聞かず、父はその妖力に導かれるように山奥へと足を踏み入れ、やがて凪さんの棲みかを突き止めた。出会った当時、凪さんには名前がなかったそうで、父が穏やかな性格の凪さんを見て『おとなしい、いだ海のようなヤツだ』と言って、『凪』と呼ぶようになったそうです」

 それから、八雲と凪のささやかな交流が始まった。人間が大好きだった八雲は、「おまえも一緒に来い」と言って凪を無理やり人里へ連れて行こうとし、凪は「私はこの山を絶対に離れん」と断固拒否した。人間の姿に化けた八雲が目の前でおいしそうに山かけうどんを頬張り、「おまえも食え。うまいぞ」と誘っても、「なぜ私の前で食う。私には必要ない」とやはり凪は素っ気なく答えた。ケンカするほど仲のいいふたりは、そんなやりとりを飽きるほどくり返してきたという。

 凪が態度を変えたのは、八雲が櫻子と結ばれ、円が生まれたことがきっかけだった。「かわいいだろ。俺の息子だ」と八雲が櫻子とともに円を連れて凪のもとを訪れた時、八雲でさえ見上げるほどの大きな蛇を前にした円が恐怖のあまりギャンギャン泣きわめいてしまった。櫻子でさえ手に負えないほど大泣きした円を見て、凪ははじめて人間の姿に変化へんげした。化けた姿は男とも女ともわからない、とても美しい姿をしていたという。

 人間の姿をした凪に、円は一瞬でなついた。「パパよりも凪が好きなのよね」と櫻子に言わしめるほど凪にべったりだった円のために、凪は時雨や弥勒ら他のあやかしたちとともに円の世話を手伝い始め、円を連れて人里へ下りるようにまでなった。公園へ連れて行ったり、動物園や水族館へ行ったり。それまで笑うことを知らなかった凪が、円の喜ぶ顔を見て笑うようになったそうだ。

「ですが、そんな穏やかな日々も長くは続きませんでした。ずっと静かな山の中で暮らしてきた凪さんにとって、人里はあまりにも明るく、あまりにも騒がしかったのです」

 円の声に、悲しみの色が混ざり始める。

「太陽の光のまぶしさに目が眩み、人の話し声やさまざまな機械音はすべて騒音に聞こえてしまう。僕らにとっての当たり前の世界に、凪さんはなかなか慣れることができなかったそうです。かといって、僕と過ごす時間を失いたくない。僕の喜ぶ顔が見たい。そう思う気持ちも確かにあった。欲望と現実の狭間で、凪さんの心は次第にきしんでいきました。そして、僕たちあやかしにとって、心を乱すことは大きな危険を伴います」

「危険?」

 円は静かにうなずいた。

「あやかしとは本来、人間にとっての脅威です。夢に出て眠れなくしたり、人間に化けて地位や財産を奪おうとしたり……。手段はどうあれ、それがあやかしの本能なんです。その結果、バケモノだと言われて人間から忌み嫌われ、追い払われ、次第に棲みかを、ひいては命さえ奪われていった。そうしているうちに、やがてあやかしも小さな脳みそで学習し、生き残るためには人間とうまく付き合っていくしかないと悟ります。ですが、あやかしである以上、本来の『人間に恐怖を与える』という性質が完全に失われることはありません。理性を失えば、山を下って人間に対し悪さばかりを働いていたもとのバケモノに逆戻り。力の強い人間に退治されてしまうのだということを忘れてしまいます。あるいは本能さえも凌駕して、人とあやかしとを問わず、他者をとことん襲うだけの魔物へと化けてしまう者もいます」

「それが、妖魔」

 雪乃がつぶやくように言う。「便宜上の呼び方です」と円は説明した。

「あるきっかけから心のコントロールが利かなくなり、他者を襲う魔物になってしまったあやかしのことをそう呼びます。そして、一度妖魔になったあやかしがもとの姿に戻った例は過去にないと聞きます。妖魔になった者がたどる道は、玉藻前様に命を奪われるか、玉藻前様を討伐した陰陽師おんみょうじのような、特別な力を持つ人間に討たれるか。それ以外に、妖魔の暴走を止める手立てはありません」

「陰陽師って……本当にいるんですか、そんな人」

「僕もお会いしたことはありませんが、もっとも多くのあやかしが生息していると言われる京都には、現役の陰陽師がいらっしゃるそうです。このあたりでは陰陽師がいるという話を聞いたことがありませんので、この山に棲む誰かが妖魔化した場合は、玉藻前様のお手を借りて命を奪っていただくしかしずめる方法はありません。ただし、玉藻前様は石になってしまっているのでこの山から動くことができません。玉藻前様のお手を借りるには、妖魔を捕らえ、玉藻前様のもとへと連れていく必要があります。父が命を落としたのは、妖魔になってしまった凪さんを捕らえ、玉藻前様のところへお連れした時のことだったと聞いています」

 淡々とした説明の中に、唐突に『父』という言葉が出てきた。開け放たれた換気用の窓から吹き込んでくる隙間風が嫌に冷たい。

 円の端正な顔に、暗い影が落ちる。けれど語り口が変わるはことなく、円はやはり淡々とした様子で話を続けた。

「ある時期を境に、凪さんは再び山奥にこもってしまうようになりました。その時にはすでに心が限界を迎えていたのでしょうね。凪さん自身、それをわかっていたからこそ、父や僕と距離を置こうとした。けれど、父にはそれが逆に心配の種になってしまいました。父は凪さんのもとへ足繁く通い、体調を気づかった。凪さんは『来るな』と言い張り続けたそうです。そんな中、ある時父は僕を連れて凪さんのもとを訪れました。その日……凪さんは妖魔になりました」


 ――頼むから、もう来ないでくれ。

 その言葉を最後に、凪は魔物と化した。

 三十メートルを超える巨軀きょくは本来の色を失い、炎のように揺らめく漆黒の影に包まれた。言葉を忘れ、うめき、吠えることしかできなくなった凪は、一直線に山を駆け下り、人里へと向かった。凪の持つエネルギーのすべては、目を眩ませ、耳をつんざいてきた人間の世界を破壊したいと願う心に集約された。

 ――ダメだ、凪!

 破壊だけを望む真っ黒な塊になってしまった凪を、八雲は必死に止めようとした。円を弥勒に預け、時雨や他のあやかしたちが加勢しようとするのを止め、たったひとりで、ほんの少し前まで凪だったバケモノと対峙した。凪が妖魔になったのは自分のせいだと、激闘の中で、八雲は悔やむように叫んだという。

 人の姿に化けた自分を襲わせようとし、八雲は凪を玉藻前の石のある森深くの泉まで誘導した。しかし、玉藻前の姿を目にした瞬間、凪は我に返ったように方向転換し、再び山を下ろうとした。どうにか凪を傷つけないまま玉藻前にのみ込ませようと考えていた八雲だったが、やむを得ず、狼の姿に戻って凪にしがみつき、首もとに牙を深く突き立てた。

 ――今だ、玉藻前様!

 ――そやつから離れるのじゃ、八雲!

 ――ダメだ! 俺ごと食え!

 ――なにを言うか! おぬしごと食らうなど!

 ――いいから早く! 迷ってる暇はない!

 しがみつく八雲を振り払おうと凪は暴れた。八雲が噛みついている間だけ、凪の動きが鈍った。その機を逃せば、凪は再び山を下ろうとするだろう。泉の前に転がる石から離れられない玉藻前は、八雲の言うとおりにするしかなかった。


「凪さんのことを想う父の気持ちと、父や僕を想う凪さんの気持ちは、重ならず、すれ違い、最後には激しくぶつかり合ってしまった。結果として、父は凪さんとともに玉藻前様にのみ込まれて命を落としました。もしもここではない別の世界、死後の世界があるのなら、ふたりにはその世界で仲よく暮らしてほしいと思います」

 語り終えた円がそっとまぶたを閉ざす。家の中は静まり返り、沙夜が雪乃の贈ったリカちゃん人形で遊ぶカサカサという音だけが響いている。

 円は雪乃に顔を向けると、草履を引っかけ、ゆっくりと雪乃に歩み寄った。

「泣かないでください」

 円の手が、雪乃の頬にそっと伸びる。親指の腹で、音もなく流れるひとしずくをすくい上げた。

 声にならない声で、雪乃は「ごめんなさい」と言った。胸が苦しくてたまらない。たったひとりの父親と、大好きだった父の友人を同時に失った円の悲しみは、たとえ本人がその日のできごとを覚えていなかったとしても、思いを馳せるだけで痛いほど伝わってくる。

「誰であっても、別れの瞬間というのは胸にくるものです」

 涙があふれて止まらない雪乃を、円は優しく抱き寄せた。

「父も凪さんも、あんな最期さいごは望んでいなかったと思います。だから僕は、あのふたりがたどった道を、もう誰にも歩ませたくない。時雨さんがおっしゃっていた今回の人里での騒動、もしもその犯人が妖魔になりかけているのだとしたら、僕は止めたい。その方が妖魔になってしまう前に、心のケアをしてあげたい。それができれば、父と凪さんのような悲劇をくり返すことは避けられるでしょうから」

 雪乃の背をトントンと叩きながら、円は強い決意を口にした。大切なものを失った悲しみはその人にしか理解できないかもしれないけれど、前に進もうという気持ちを後押しすることなら雪乃にもできる。

 円から離れ、涙を拭い、雪乃はしっかりと顔を上げた。

「弥勒さんたちと合流するなら、今日の授業は私がすべて持ちましょうか?」

 現在、弥勒や時雨が事件の詳しい調査を進めている最中だ。現場へ赴いて店の人から話を聞いたり、人里で暮らす他のあやかしたちの所在を確認したりと忙しなく動いているという。

「いえ、大丈夫です。僕は僕で、『結』に来る子たちの様子を知っておきたいと思っています。心を壊すきっかけは、人里だけにあるわけではありませんので」

「それって、山から下りていないあやかしでも、人里で事件を起こす可能性があるってことですか?」

「当然です。言ったでしょう、あやかしはもともと、人を襲う生き物なのだと」

 思い出して、はっとする。この山のあやかしたちは皆、自分という人間を快く受け入れてくれる。人を襲うのが彼らの本能であるという話を、雪乃は正直信じたくないと思った。

 どうなってしまうのだろう。事件の真相がわかった時、いったいなにが起きるのだろう。

 とめどなく押し寄せてくる不安に、雪乃は再び視線を下げる。

 なにも起きなければいい。ちょっとした間違いだったという結末で済んでほしい。

 今はただ、それだけを切に願っていた。

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