3-2.
「目的がわかりませんね」
円が腕組みをしてうなった。
「コンビニの商品を盗もうとして、誤って商品を落としてしまったのなら話はわからないでもないんですが」
えぇ、と時雨も難しい顔でうなずく。
「けれど、なにも盗られてはいないみたいなのよね。本当にただ、棚から商品が崩れ落ちたというだけで」
「では、単純にそのコンビニへの嫌がらせですか? 人里で暮らす誰かが、過去にお店の人とトラブルになり、仕返しをしたとか」
「それもなさそうね。被害に遭ったのはそのコンビニだけじゃないから」
「他の店も?」
「えぇ。喫茶店の店内で椅子や観葉植物の鉢が突然倒れたり、本屋で平積みされた雑誌が床に散乱したり……この一週間、街のあちこちでそんな事件が起きているの」
円はいよいよ黙り込んでしまった。あやかしの仕業であるにせよないにせよ、多くの人に迷惑をかけている以上、簡単に許されていい話ではない。
雪乃が時雨に尋ねる。
「警察は動いているんですか」
「いちおうね。被害届を出したお店もあるから。ただ、姿の見えない犯人が相手じゃあ警察も動きようがないのよね。どの店も『用心してください』と言ってもらうのがやっとみたい。まぁ、本屋のご主人みたいに古くからこのあたりで商いをしている人たちは、最初から警察なんて当てにしていないみたいだけど」
「どういうことですか?」
雪乃が首を傾げると、時雨は細い目をさらに細くし、ヌッと雪乃に顔を寄せた。
「祟りよ」
「祟り?」
「そう。はるか昔、あの山に足を踏み入れた人間がことごとく姿をくらませるという怪事件が相次いだの」
「それって……?」
えぇ、と時雨はうなずいた。
「玉藻前様の仕業よ。人間はただ、きれいな水や山菜を求めて山に入っただけだったらしいのだけど、当時玉藻前様は石にされたばかりで、とにかく人間に対する恨みの気持ちが強かった。だから、どんな理由だろうとあの山へ踏み込んだ人間を片っ端から食べてしまっていたの。それを麓の町の人々が『山神様の祟りだ』と言って騒いで、山の麓に祠を建てて入山を禁じた。『この山、入るべからず。入れば二度と戻っては来られぬ』……このあたりには、古くからそんな言い伝えが残されているのよ」
なるほど。この町をよく知る者ほど、怪奇現象の理由を『山神様』に求めるわけだ。山神様、つまり、玉藻前に。争いごとを嫌い、人間との対立を誰よりも望まない玉藻前が犯人扱いされるというのはなんとも皮肉な話だなと雪乃は思った。
「円?」
じっと考え込んでいた円を、時雨が心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
円は難しい顔をしたまま、少し長めの瞬きをした。
「とても、嫌な感じがします」
「嫌な感じ?」
「はい。犯人は、盗むのではなく、壊している。怒りをぶつけたり、ストレスを発散したりする時の行動です。くり返すということは、心はまだ満たされていない。このまま放っておくのは危険だと思います」
「心って……」
時雨が小さく息をのむ。
「まさか、誰かが心を壊して妖魔化した可能性があるってこと?」
妖魔? 聞き慣れない言葉に雪乃は顔をしかめ、円は「わかりません」と雪乃以上に難しい表情を浮かべた。
「ただ、やっていることがとても単純というか、見方によっては非常に幼稚です。バレたらどうなるか、結果は見えているはずなのに、それでも自分を抑えられず心の向くままに行動している。妖魔なのか、あるいはまだ妖魔化していないあやかしの仕業なのかはわかりませんが、誰かが止めてあげないと被害は出続けるばかりだと思います」
そうね、と時雨は表情を引き締めてうなずいた。
「仮に妖魔が出たのだとしたら、弥勒あたりはすでに気づいているかもしれないわ。あの子は感覚が鋭いから」
「そうですね。逆に言えば、弥勒さんがなにも言ってこないということは、妖魔の仕業の可能性は低いと考えていいんじゃないでしょうか」
「今のところは、ね」
時雨は含みのある言い方をした。少し迷うように視線をさまよわせてから、再び口を開く。
「凪の時もそうだったけど、あやかしが妖魔になる時には『思い返せばあれが予兆だった』というサインが必ずあるものなのよ。今回の騒動がその予兆という可能性はゼロじゃないわ」
円はかすかにうなずくと、うつむき、静かに息を吐き出した。瞳がわずかに揺れる瞬間を雪乃は見逃さなかった。
「ごめんなさいね」
時雨が円の背にそっと手を置く。
「つらいことを思い出させちゃったわ」
「いえ、おかまいなく。僕には当時の記憶がありませんから。ただ……」
円は背に触れていた時雨の手を取り、ゆっくりと下ろした。
「父と同じ運命をたどる人が、二度と出なければいいなと思います」
時雨は糸目をわずかに大きくし、「そうね」と小さくつぶやいた。
暗い影を落とすふたりの姿を、雪乃はただ黙って見つめた。静まり返った店内の空気は冷たい。
事情はよくわからない。わかるのは、ふたりが目に見えない痛みや苦しみの中に立っているということ。
胸がきゅっと締めつけられる。どれだけ彼らを想っていても、かけられる言葉が見つからない。
どこまでも無力な自分が嫌になる。
彼らを暗闇から救い出してやることは、雪乃にはとてもできそうになかった。




