2.
そろそろ着物を新調したいと言い、円は雪乃を連れて山を下りた。かつて山の入り口だったという場所に祠があって、雄飛にそこまで送ってもらい、そこからはふたりで歩いた。
五月の末の土曜日。朝からよく晴れている。陽射しがたっぷりで、肌を撫でる空気がいつの間にか「あたたかい」から「暑い」に変わっていた。円たちの住む山奥が涼しいこともあって、麓の町がやたらと気温の高い地域に思えた。
「こちらです」
街の中心部からは少しはずれ、山の麓からそれほど遠くない地域。金物屋や八百屋など、歴史を感じる昔ながらの商店がぽつぽつと立ち並ぶ一角で、円はゆったりと動かしていた足を止めた。
「時雨さんのお店、『白雪』です」
店舗兼住宅、というごくありふれた建物だった。一階の正面がガラス張りになっていて、色鮮やかな着物や反物が展示されている。二階が住宅になっているようで、窓の下の白い壁に『和装専門店 白雪』と黒い塗装で直接書かれていた。
「素敵」
ガラスに歩み寄り、雪乃がつぶやく。マネキンが身につけている、アイボリー地に赤と黒の金魚が泳ぐ浴衣に心惹かれた。帯の赤が真っ赤ではなくワインレッドなところが大人っぽくてカッコいい。
薄墨色の着流し姿である円とは違い、雪乃は白いブラウスにラベンダー色のチュールスカートという洋装だ。着物はもちろん持っていないし、高校二年生の頃に夏祭りで着た浴衣も実家に置きっぱなしになっている。ひとりで着付けができない時点で持っていてもどうしようもないのだけれど、円と一緒に外を歩く時くらい着物を着たかったなと少しだけ後悔した。
「いい色ですね」
いつの間にか、円がすぐ隣に立ってマネキンを見つめていた。
「お似合いだと思いますよ、雪乃さん。肌や髪の色ともマッチしそうですし」
「そうですか?」
「えぇ。せっかくなので、一度ご試着してみては? ……って、この店の回し者みたいですね、僕」
ハハハ、とふたりして笑いながら、雪乃は「いや、でも」と冴えない顔をする。
「着ると、欲しくなっちゃいそうで怖いです。ひとりじゃ着られないし、着る機会もあまりないのに」
「いいじゃないですか。浴衣なら一着持っていても損はないと思いますし、気に入ったものがあれば僕がプレゼントしますよ」
「え!」
「着付けも時雨さんが教えてくださるのでご心配なく。それほど難解ではありませんので、すぐにマスターできると思います」
「ちょ、ちょっと待ってください」
プレゼントだって? いやいや、と雪乃は首を振る。着物から下駄まで、必要なものをすべて揃えようと思ったらいったいいくらかかるだろう。そんな高価なものを簡単にいただいちゃいけない。理性がノーを突きつけてくる。
そういえば、出会った頃にも似たようなことがあったなぁと思い出す。たかがコインランドリー一回分に、円は一万円を出そうとした。どうもこの人の金銭感覚は怪しい。物欲はないようで無駄なものを買っている風ではないけれど、それにしても、支払いに対する危機感みたいなものは絶対的に薄い。高校教師なんて、高給取りでもないだろうに。
「プレゼントって……いただけないですよ、こんなにも高価なもの」
「お気になさらないでください。日頃の感謝の気持ちです。遠慮なく受け取っていただけると僕も嬉しいので」
「いやぁ、それにしたって……」
「ちょっとあなたたち、いつまでそこで立ち話をしているつもり?」
すったもんだしていると、店の入り口であるガラスの自動扉が開いた。中から出てきた声の主、濃紺の着物に金の帯を締めた着流し姿の店主が、冷ややかな目つきで円と雪乃を交互に見る。
「時雨さん」
「久しぶりね、円」
ようやくうっすらと笑った店主・時雨に、雪乃は慌てて「こんにちは」と頭を下げた。
目鼻立ちのはっきりとした円とは真逆で、時雨の目は糸のように細かった。派手な顔ではないけれど、円にはない艶やかさや女性的な色気を感じる。実際、腰まで伸ばした長い黒髪を低い位置でざっくりと後ろで一つに束ねていて、パッと見ただけでは性別がわからない。まとう着物は男物だが、声を聞いてようやく男性だと納得できるくらい、時雨の立ち姿は中性的で美しかった。
「ご無沙汰しています」
「元気そうで安心したわ。体調、すっかりよくなったようね」
「はい、おかげさまで。雪乃さんがいろいろと助けてくださって」
「聞いているわ」
時雨は下駄を鳴らして雪乃に近づき、スッと伸ばした右手で雪乃の頭に触れた。
ヒヤッとした。心理的なものではなく、物理的な冷たさが頭に触れている時雨の手のひらからじわりと染みこんでくる。熱を出した時に使う氷嚢を頭に載せているようだった。
時雨の右手はゆっくりと髪を撫で、やがてふわりと雪乃の左頬を包み込んだ。人間のものとは思えないほどひんやりとしているその手に、彼が人ではなくあやかしであることを思い出した。
「きれいな娘。弥勒の言っていたとおりね」
満足そうにささやかれる。声音は男性のものなのに、言葉づかいがおしとやかで女性的だ。けれど、時雨には妙に似合っていた。細く開いたまぶたの間から覗く青みがかった瞳は、吸い込まれてしまいそうなほど美しい。
時雨は静かに雪乃から離れ、穏やかに微笑んで名乗った。
「時雨よ。円のこと、よろしく頼むわね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。三宅雪乃です」
深々と頭を下げた雪乃を見て、なぜか時雨はクスクスと笑い声を立てた。
「私と同じね」
「え?」
「私も〝雪〟だから」
雪? というと、雪乃の〝雪〟か。それを言うなら時雨は〝雨〟だろう。しかし、言われてみれば彼が経営するこの店の名前は『白雪』だ。間違いなく〝雪〟である。
入って、と時雨はふたりを店の中へと招き入れた。今の時雨のセリフはどういう意味だったのだろうと首を捻りながら足を踏み出すと、円に腕を掴まれた。
「一つ、大事なことをお伝えし忘れていました」
声をひそめ、円は雪乃の耳もとへ顔をそっと近づけた。
「時雨さんには、彼があやかしであるという話は絶対に振らないでください」
「どうしてですか?」
「本来の姿を知られたくないと強く思っていらっしゃる方だからです」
本来の姿。人に化けた姿ではなく、もともとのあやかしの姿のことを言っているのだろう。知られたくないということは、よほど醜い姿であるとか、そういうことか。
胸の中がモヤモヤする。秘密にされると余計に知りたくなってしまうのが人間の性だ。悪いと思いつつ、雪乃は円に尋ねてみた。
「どんなあやかしなんですか、時雨さんって」
「いや、僕の口からはちょっと……」
円は困惑した表情を浮かべる。迷った末、ほんの少しだけヒントをくれた。
「僕に言えるのは、彼はきれいで美しいものが大好きで、雪を自在に操ることのできるあやかしであるということだけです。それ以上は訊かないでください。僕がしゃべったとバレたら氷漬けにされかねないので」
氷漬け、という言葉に背筋が寒くなる。円が本気で怖れているところを見る限り、本人は相当気にしているらしい。
なるほど、と雪乃は思った。円がヒントをくれたおかげでモヤモヤが少し解消された。
雪を操るあやかしだから「私も〝雪〟」で、店の名前が『白雪』なのだ。名前は雨なのになぁ、なんてツッコんだら怒られるだろうか。氷漬けにされるのは嫌なので、触れないでおくことにした。
円に続いて店内へ足を踏み入れると、ディスプレイされた着物の色鮮やかさに圧倒された。
赤、ピンク、オレンジなどの暖色系から、青、緑、紫などの寒色系、白や黒のモノトーン、ベージュや茶色などのアースカラーまで、ありとあらゆる色味の着物が所狭しと並べられている。柄も豊富な種類があり、無地はもちろん、紋、花、生き物、扇など、たくさんあって目移りしてしまう。男性物の着物はシックな色合いのものが多く、女性物の派手さや艶やかさがより際立って見えた。
「うわぁ……!」
あまりの美しさに言葉を失う。浴衣はともかく、着物なんて七五三参りで着て以来だ。浮世離れした空間の絢爛さにため息が出る。こんな美しい着物を着て街を歩いたら、きっと別世界にトリップしたような気持ちになるのだろう。わくわくが止まらない。
「そういえば、雪乃さん」
目をキラキラさせて着物を眺めている雪乃に、円が思い出したように声をかけた。
「今年、成人式ですよね?」
「そうなんです。母の振袖があるので、それを着ます」
「あら、どうしてよ」
円の隣で、時雨が不服そうに顔をしかめた。
「お母様のための振袖があなたにも似合うとは限らないわ。あなたにはあなたの、あなたにしか似合わない色や柄があるものよ」
「いえ、いいんです、私は母の物で。色もグリーンで嫌いじゃないし、袖を通してみましたけど、あれで十分かなって」
「ダメよ!」
納得できないらしく、時雨は頑として引こうとしない。
「あなたねぇ、成人式は一生で一度しか経験できない貴重なひとときなのよ? 他のものと比べもしない、そんな適当な決め方で晴れ着を選ぶなんてあり得ないわ」
「いや、私は……」
「いらっしゃい」
ついに時雨は雪乃の腕を掴み、奥の試着室へと強引に連れて行った。
「あなたのための最高の一着、私が見立ててあげる」




