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あやかし専門学習塾・結 ~女子大生と半妖の狼~  作者: 貴堂水樹
第三章 感情

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2-2.

 十畳間の中央で、狼姿の円がからだを丸めて眠っていた。

 部屋の四つ角に置かれた雪洞ぼんぼりが、室内を淡い光で包んでいる。布団は敷かず、円は畳に直接からだを預けていた。毛布代わりにはならないだろうが、ふさふさのしっぽがとてもあたたかそうに見えた。

 部屋の右手には年季の入ったきり箪笥たんすと、高校での授業に着ていくためのスーツやシャツが掛けられたカーテン付きハンガーラックがある。ハンガーラックの一角だけを切り取ってみると、円が現代に生きる人間であると強く実感できた。

 左手は縁側へと出られるようになっていて、障子戸も、その向こうの窓も雨戸もきっちりと閉められていた。

 奥の部屋に目を向けると、薄暗いながら、右奥に仏壇があることに気がついた。上部の壁には遺影が飾られている。母・櫻子は円によく似たはっきりと大きなふたえの瞳が印象的なかわいらしいおばあちゃんで、父・八雲は人間の姿に化けた若々しい写真が使われていた。広い肩幅に厚い胸板と格闘家のようなからだをしている反面、その笑顔は円に似て穏やかで優しげだった。

「…………ん」

 円が小さくうなり声を上げた。もぞもぞと動き出し、まずい、起こしちゃったと雪乃は慌てる。

 のっそりと顔を上げた円は、意識のはっきりしないうつろな目で雪乃の姿をとらえると、「あぁ、雪乃さん」とかすれた声でつぶやいて、静かに四つ足で腰を上げた。

「おはようございます」

「お、おはようございますっ」

 なぜか声が裏返った。頬が熱い。

「すみません、起こしちゃいましたか」

「いえ、大丈夫です」

 言葉とは裏腹に、歩き出した円の足取りはフラフラしていた。「円さん」と雪乃は慌てて白銀の狼に駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 片膝をつき、背中にそっと手を触れる。思っていたよりもずっと柔らかな毛は犬そのもので、体長はゴールデンレトリバーよりもう一回り大きく、雪乃の身長とさほど変わらない。

 ずっしりと大きくて、薄く開かれた口の隙間から見える牙は鋭い。けれど、怖いという気持ちは少しも湧いてこなかった。彼のまとう雰囲気はどこまでも穏やかだ。

「まだ四時前です。もう少しお休みになっていたほうが」

「いえ」

 ポワン、と円のからだが煙に包まれる。咄嗟に目を瞑った雪乃が再び目を開けた時、そこに狼の姿はなく、昨日の晩とまったく同じ、青い羽織にグレーの着流し姿の円があぐらをかいて座っていた。

「お客様がいらしているのに、眠りこけているわけにはいきませんよ」

 美しい顔が目の前にある。近い。なぜだろう、心臓が壊れそうなくらいドキドキしている。

「……もう、お客様じゃないです」

 頬に宿った熱を振り払うように、雪乃は首を横に振った。

「私、今日からここの家政婦兼『結』の講師ですから。やってほしいこと、なんでも遠慮なくおっしゃってください」

 やる気をみなぎらせて胸を張る。円は一瞬目を丸くして、「そうでした」と微笑んだ。

「そのご様子だと、すでにお仕事を始められているようですね?」

「はい。キッチンとお風呂場の掃除は終わっています。あ、お風呂沸かしましょうか? 私、その間にお食事の準備をしておきますから」

「では、火は僕が起こしましょう」

「あぁ、ダメダメ! 円さんは休んでいてください」

 両肩を掴んでぐっと下方向へ押さえつけると、円は右眼をかすかにすがめた。

「上手な火の起こし方、ご存じなのですか?」

 う、と雪乃は答えに詰まる。正直なところ、アウトドアはあまり得意ではない。火起こしの経験などあるはずもなく、あまりにうまくいかなかったら弥勒にお願いするつもりだった。

 円は無駄のない動作で立ち上がり、雪乃に手を差し伸べた。

「ついてきてください。お教えします」

 端正な微笑に息をのむ。かすかに震える手で円の手を取り、雪乃は小さく「お願いします」と言って立ち上がった。

 顔が熱くてたまらなかった。


 き火の手順はそれほど難解ではない。最初は太い薪を数本、間隔をあけて並べ、間に細い薪や小枝を挟んで入れる。続いてその上にかぶせた落ち葉や枯れ草にマッチで火をつける。空気が入りにくい時はうちわで扇ぎ、小枝に火が移ったら細い薪を少しずつ追加して、完了だ。薪の量は火加減を見ながら随時足していけばいい。

 薪割りは力仕事だが、火起こしなら慣れればひとりでも十分できそうだと思い、雪乃はさっそく台所のかまどに火を入れる作業にチャレンジした。あっさりとうまくいった。

「完璧ですね。さすがです」

 円は微笑み、雪乃の頭を優しく撫でた。心臓が飛び跳ねる。

 生徒の相手をしているつもりなのだろうか。円の手の動きに迷いは少しもない。どうすることもできず、雪乃はされるがままかまどの前で小さく膝をかかえた。

 うつむいた雪乃の顔を覗き込むように、円がそっと首を傾けた。

「おいしいごはん、期待してもいいですか?」

 胸が高鳴る。幼い子どもみたいな笑顔がそこにはあった。

 きらきらとあどけなく瞳を輝かせる姿が大人びた顔に似合わず、かわいい人だなと素直に思う。緊張していた心がほぐれ、雪乃はようやく笑って「はい」と答えた。

 出会った頃は吸い込まれそうなほど深い闇だと感じた円の漆黒の瞳が、今は沖縄の海のように、きれいに透き通って見えた。

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