2.
午後九時二十分。
すべての授業が終了し、挨拶を交わすと、最後にみんなで離れの掃除をするのが決まりになっているという。円には断られたが、ぼーっとしているのも気が引けたので雪乃も手伝うことにした。
柄の長い箒で教室の床を掃く雪乃の近くで、一つ目小僧の一心太が黒板の上で踊る円の美しい文字を黙々と消していた。半分ほどきれいにしたところで彼はふと立ち止まり、粉だらけになった黒板消しをじっと見つめ始める。
「一心太くん?」
雪乃がなにげなく声をかけると、一心太はニヤァと悪い笑みを雪乃に向け、ゆったりと壁にもたれて掃除の様子を眺めていた弥勒のもとへと近づいた。
「弥勒兄」
「あん?」
ボフッ!
弥勒の真正面に立った一心太は、まっすぐに目の合った弥勒の顔に、背中に隠していた黒板消しを勢いよく押しつけた。キャッ、と雪乃が声を上げる。
一心太がそーっと黒板消しをはがす。現れた弥勒の顔は、真っ白な粉に包まれていた。
「…………は」
弥勒の白い顔が歪んだ。
「はっくしゅいッ!」
派手なくしゃみの音が響き渡る。顔から白い粉が舞い落ちた。
「てめぇ、一心太……!」
ギャハハハと一心太は腹をかかえて笑い転げた。他のあやかしたちも一緒になって弥勒を指さして笑う。
「弥勒さん、大丈夫ですか!」
箒を放り投げ、雪乃は慌てて弥勒に駆け寄った。
「どうしよう、すごい顔……!」
「はぐしゅッ! へぁぐしッ!」
「弥勒、粉、苦手」
いつの間にか足もとにいた沙夜が教えてくれた。
「砂埃、胡椒、全部ダメ。くしゃみ、止まらなくなる」
弥勒は苦しそうにくしゃみをくり返している。アレルギー反応による発作だ。あやかしにもアレルギーってあるんだ、と雪乃は気の毒に思いつつ感心してしまった。
「ぶぁっくしょいッ!」
ひときわ大きなくしゃみが出た瞬間、弥勒のからだに異変が起きた。
ポワン、と突然煙に包まれたかと思えば、霧が晴れるように煙幕が消えると、それまで人間に化けていたはずの弥勒が黄金色の獣毛に覆われた狐の姿になっていた。変化が解けてしまったようだ。
「あー、ちくしょう。最悪だ」
「やーいやーい! おいらのことバカにするからだよーだ!」
「一心太……! てめぇ、覚えてろよ」
鼻をぐすぐず言わせながら恨み節を口にし、弥勒は丸っこい狐の前足で顔についたチョークの粉を払い落とそうとする。が、余計に粉が舞ってくしゃみが誘発されてしまう。
「沙夜」
円が見かねて動き出した。
「お風呂、使わせてあげて」
沙夜はうなずき、狐を引き連れて離れを出た。「一心太」と円は怖い顔でいたずら坊主を説教する。
「さっきの授業をもう忘れたのですか? いいことをすれば、いいことが返ってくる。その逆もまたしかりです。悪いことをすれば、きみ自身に悪いことが返ってくるのですよ?」
「はいはーい、わかってまーす」
円の言葉はちっとも響いている様子がなく、これにはさすがの円もあきらめモードだ。小さく息をつき、雑巾を一枚、一心太に手渡す。
「いたずらはほどほどにしてください。ほら、粉で汚れた床、ちゃんと水拭きして」
「えぇ、おいらが? 汚したのは弥勒兄だろ」
「きみが弥勒さんに仕掛けたいたずらが原因です。さぁ、早く」
はぁい、と不満げに雑巾を受け取り、一心太は奥の手洗い場へ濡らしに行った。円が今一度深いため息をつく。
「母が存命の頃から、あの子には手を焼いていたんです」
半分苦笑いで、円は肩をすくめた。
「雪乃さんなら、ああいう子にはどう接しますか?」
明確な答えを求めているような訊き方ではなかった。話を聞いてほしい、悩んでいるんだということをわかってほしい、そんなニュアンスだった。
雪乃自身、答えはすぐに出せなかった。一心太とは今日が初対面だ。やんちゃ坊主ではあるものの、まったく聞き分けのない子というわけではなさそうだなと思う。今はまだ材料が足りなくて、その程度の浅い分析しかできない。
手洗い場から戻ってきた一心太は、円に言われたとおり床に散らばったチョークの粉をせっせと拭き取り始めた。やはり、大人の言うことをまるで聞けない子ではない。うまくアプローチできれば、もう少し協調性のある落ちついた子に育ちそうなのだけれど……。
考えているうちに、円はいつの間にか掃除に戻っていた。雪乃も慌てて掃き掃除を再開する。全員で動けば、広い教室もあっという間にきれいになった。
ピカピカに磨き上げられた教室から、生徒のあやかしたちが「さようなら」と言い残して少しずつ姿を消していく。最後の仕上げは円がやるというので、雪乃も全員を見送ると母屋に戻った。
「お疲れ、雪乃ちゃん」
居間では、再び人間の姿になった弥勒が沙夜とふたりで雪乃の持ってきた羊羹をつついていた。お茶まで淹れて、すっかりくつろぎモードである。
「うまいよ、これ。ありがとうね」
「いえ、お口に合ってよかったです。それより弥勒さん、お鼻、大丈夫ですか?」
「うん。まだこの辺に粉がついてる気がして気持ち悪いけど、なんとか」
鼻のあたりを指でくるくると示して、弥勒はくしゃりと顔を歪めた。鼻の頭にしわが寄ると、なんとなく狐っぽさが増して見える。
雪乃が閉めた引き戸が開き、円が離れから戻ってきた。ちゃぶ台につくふたりを一瞥すると、円は立っている雪乃に微笑みかけた。
「お疲れさまでした、雪乃さん。いかがでしたか、『結』での仕事は?」
「はい、とても楽しかったです」
「そうですか。それは……」
よかった、と言うと同時に、円のからだがぐらりと揺れた。首ががっくりと前に折れ、円は開けた引き戸にとっさに手をついて傾いたからだを支えた。
「円!」
「パパ!」
弥勒と沙夜が跳ねるように立ち上がり、肩で息をする円に駆け寄った。
「大丈夫か」
「パパ」
「すいません……平気です」
「バカ野郎、平気なわけねぇだろ」
弥勒の罵声が響く。なにが起こったのか、雪乃はわけがわからないまま目を見開いて立ち尽くすばかりだ。
「少し、緊張していたのかもしれません」
吐息の多く混じる声で円は言った。
「今日は、たくさんお客様がいらっしゃいましたから」
前髪が目もとを隠しているが、円の口もとはかすかに笑っているように見える。雪乃は小さく息をのんだ。
お客様。雪乃のことだ。
「あの、円さん……」
そっと近づこうとすると、沙夜が雪乃の前に立ちはだかった。
「嫌い」
沙夜の目は、信じられないくらい怖かった。
「雪乃、嫌い。雪乃、悪い人」
「沙夜ちゃん……?」
「雪乃、パパのこと、苦しめた。だから、悪い人」
嫌い、と沙夜は力を込めて雪乃に言った。面と向かって「嫌い」と言われたことへのショックよりも、驚くほど鋭い沙夜の目つきに対する恐怖心のほうがはるかに大きい。蛇に睨まれたかのように、身じろぎ一つできないほどすくみ上がる。
「違うよ、沙夜」
弥勒の肩を借りた円が、沙夜の背中に優しく言う。
「雪乃さんは悪くない。僕が勝手に緊張して、勝手に疲れてしまっただけだ。雪乃さんは関係ない」
「でも!」
「沙夜」
円は静かに首を横に振った。
「雪乃さんは悪い人じゃない。謝りなさい」
納得できないのか、沙夜は不機嫌な色をした目で雪乃を見上げ、「ごめんなさい」と小さく言った。雪乃はなにも言い返せなかった。沙夜の言うとおり、円の不調は自分のせいだという自覚があった。
円の呼吸が荒くなる。やがて両足から力が抜け、冷たい廊下へ倒れ込んだ。
「円!」
弥勒の叫び声がした瞬間、円のからだが煙幕に包まれた。まさか、と雪乃は息をのむ。
煙幕が消失する。現れたのは、全身を覆う白銀の毛並みが気高さと気品にあふれる、一頭の美しい狼だった。
「申し訳ありません」
狼の口から、円の声が聞こえてきた。
「見苦しい姿を晒してしまいましたね」
「いえ、そんな」
雪乃は懸命に否定する。見苦しくなんてないし、むしろ見とれてしまうほどの美しさだ。動物園で見たことのある狼とは全然違う。簡単に触れてはならない、崇高な輝きをまとっている。
狼の姿になっても、円の立ち姿はどこかつらそうだった。弥勒から聞いている。円は今の狼姿が標準であり、人の姿になることで体力を激しく消耗するのだ。
「もうお休みになってください、円さん。なにかやっておいてほしいことがあれば、私が代わりにやりますから」
「そんな、お客様にやっていただくわけには」
「働きます」
ほとんど無意識のうちに、そんな言葉が口を衝いていた。
決めた。
この場所でもう一度、教師になるために必要なことを学び直す。
尊敬できる恩師のもとで、たくさんのことを学びたい。
そして、できることなら、この人の力になってあげたい。この人がもっと健やかに、立派な教師として輝けるように。
雪乃はピンと背筋を伸ばして円に言った。
「私、ここで働きます。家事も、『結』でのお仕事も、どちらも手伝わせてください!」
お願いします、と雪乃は直角に腰を折った。円と弥勒、そして沙夜が互いに顔を見合わせる気配を感じる。
「もちろんです」
やがて聞こえてきた円の美声に、雪乃はそっと顔を上げた。
「ぜひ、よろしくお願いします」
狼の姿でも端正できれいな微笑みに、雪乃はおもいきり破顔して「ありがとうございます」と元気に返事をした。
明るい未来への扉が、静かに開かれたような気がした。




