1-3.
それぞれの学習進度に合わせ、生徒のあやかしたちは読み書きの練習に勤しんでいる。突然弥勒の隣を離れた雪乃に円も一瞬驚いた顔をしたけれど、特になにを言うこともなく自らの職務に戻り、雪乃と同じように生徒たちの間を練り歩いた。
かよい始めて日が浅いのか、まだひらがなの読み書きも不安定な茨木童子が、横を通り過ぎようとした雪乃を見上げた。ばっちり目が合うと、幼げでまんまるな瞳が「教えて」と訴えかけてきた。
要望にこたえるべく、雪乃はその席の脇で膝を折る。
「どうしたの?」
「あんな、おれ、『く』の折れ曲がるとこ、いっつもわかれへんようになんねん。こっち向きで合うてる?」
小さな鬼の子が書いたひらがなの『く』は、屈折点が右側へ来る、幼児特有の鏡文字になっていた。
長い茶髪を左耳に引っかける。机の端に寄せられた『日本昔話集』というくたくたの文庫本を手に取り、先ほどまでみんなで読んでいた『かさじぞう』のページを開いて子鬼に渡した。
「探してみて」
答えを教えてもらえなかったからか、茨木童子は唇をツンと尖らせて雪乃から教科書代わりの文庫本を受け取る。すべての漢字にふりがなが振ってあるので、『く』一字だけならすぐに見つかるだろう。
茨木童子は焼けて茶色くなっているページに目を落とした。そして、大きく息を吸い込んだ。
「むかしむかし! あるところに!」
「わっ! ちょ、ちょっと待って」
大声で音読し始めた子鬼に、雪乃は慌てて「しーっ」と口もとで人差し指を立てた。
「読み上げちゃダメ。黙読で探すの」
「モクドクってなに?」
「声に出さずに、目だけで読むこと。黙って読むから、『黙読』」
ふぅん、と興味なさそうに相づちを打つと、子鬼は口を閉ざして文字を目で追い始めた。
「あった!」
まもなくして『く』の文字に行きついた。「あかん、逆や」と子鬼はしょんぼりと肩を落とす。
「なんべんでも間違うてしまう」
悔しさのにじんだ声だった。正しい書き方を覚えたいという前向きな気持ちと、なかなか覚えられないことへの苛立ちが、心の中でぶつかり合っている。
雪乃は右手をそっと顎に下に添える。なにかいい覚え方はないだろうか。日常的に見聞きする不変的なものに喩えるのが一番だけれど……。
子鬼は右手で消しゴムを握り、円お手製の練習帳に間違って書いた鏡文字の『く』を一生懸命消している。その姿を見て、閃いた。
「それだ!」
「え?」
「見て」
雪乃は子鬼の使っていた鉛筆を借り、練習帳のあいたスペースに正しい『く』と鏡文字の『く』を並べて書いた。
「正しい『く』は、鉛筆を持っていないほうの手……つまり、左手のほうに向かって折れ曲がってるでしょ? で、こっちの間違っている『く』の字は、鉛筆を握る手……右手のほうに折れ曲がってる」
そうか、と子鬼の表情が明るくなった。
「ここの折れ曲がるとこを左に引っ張るんが正しいんや。で、右へやろうとすると違う字になる」
「そのとおり。忘れないうちに書いてみて」
雪乃に鉛筆を手渡されると、子鬼は自信に満ちた瞳でうなずいた。
消しゴムで消された鏡文字の『く』の上に、今度は正しい『く』が書けた。「こうや!」と子鬼は声を弾ませた。
「わかったわかった! こっちの手、左手で引っ張るんや。よっしゃ、これでもう間違わへんぞ」
子鬼の「わかった」という元気な声が心に沁みた。教えたことがきちんと伝わったのだとわかり、嬉しくなる。
「ありがとう、先生! 先生のおかげや」
きらきらの瞳で礼を言われ、雪乃は少し照れくさくなりながら「どういたしまして」と返した。久しぶりに「先生」と呼ばれ、胸の奥がくすぐったい。
「よかったですね、晴寿」
いつの間にか、ふたりの背後に円が歩み寄っていた。
「雪乃先生がとてもいい覚え方を教えてくださいました。『く』だけでなく、他の文字でも同じことが言えますよ。たとえば」
円は雪乃の書いた二種類の『く』の下に『け』というひらがなを書いた。
「晴寿、きみはいつも一画目の縦棒を右側に書いてしまいます。正しくは左側……つまり、『く』と同じです」
「そうか」茨木童子・晴寿が言った。
「『け』の縦棒も、左手のほうに書いたらええんや! 縦棒が左手、ヨコタテのバッテンが右手」
「そのとおりです。さぁ、たくさん練習して、今日じゅうに覚えてしまいましょう。正しい書き順で書くことを心がけて」
はぁい、と晴寿は聞き分けよく返事をし、黙々と練習帳に向かい始めた。雪乃が見上げると、円はにっこりと優しい笑みを雪乃に傾け、「続けてください」と言って再び文机の間を歩き出した。
胸が熱くなる。ずっとダメだと思っていた教師としての自分を、肯定してもらえたような気がした。今ならきっと、前に進める。
晴寿の頭をそっと撫で、雪乃は再び文机の間を行き始める。すると、数歩も行かないうちに「先生」と声をかけられた。
いつの間にか、四方八方から「雪乃先生」と呼ばれるようになっていた。「先生、ここ教えて」「これどうやって解くんだっけ?」「なぁ、あとで一緒にけん玉やろうや」と、授業に関係あることないことあれやこれやと話しかけられ、二時間目のそろばんの授業が終わる頃には心地いい疲れをじんわりと感じていた。




