第百六十六話 千客万来2
国人達が居なくなると、長野業正が後ろ頭を掻きながら私に再度無礼を詫びた。長野業正も国人達から頼りにされて、仕方なしに来たのだろう。何だか気の毒である。そんな彼に久幹が頭を垂れながら言った。
「長野殿。先程のこの真壁の無礼な振舞いをお許し下さい。長野殿の御心を知らず、童のように突き掛かるような無様を晒しました。恥ずかしく思います」
「何の。この長野こそ主を守らんと動いた真壁殿に感服して居ります。無礼などとは思うて居りませぬ。戦の仕方というものは様々で、言葉のみで相手に戦を仕掛ける事も御座います。この長野が言葉で小田様を傷付け、戦意を削ごうと仕掛ける事は十分にあり得ますな。怯えでも、怒りでも、どちらかを引き出せれば、いざ戦となった時にそれを基にして駆け引きを致す事も出来る。真壁殿の振舞いは正しいと考えます。相手がどれ程良き人に見えたとしても、油断をしてはならないので御座います」
「これは参りました。教えを賜り忝く存じます。叶う事であるならば、共に轡を並べて戦をしてみとう御座いますが、そうは参らぬのでありましょうな」
「此度の戦では、軍勢を差し向ければ上杉家は容易く降りましょう。関東管領の名に胡坐をかき、横暴に振舞って来た付けを支払う時が参ったのだとこの長野は思うて居ります。我ら国人が唯々諾々と従って来た事も罪でありましょう。この長野は上杉憲政様から信を得られず、この様な事態になっても主家をお助け致す事が出来ませなんだ。不甲斐の無い事で御座います」
何だろう?まるで遺言を聞いている気持ちになる。こうまでして戦わないといけないのだろうか?降伏して家を長らえる道だって十分にある。私は彼の考えが知りたくなった。
「長野殿。真に戦を致すのですか?此度の私共の軍勢は二万である事はお耳に入っていると思います。このような事を申すのは無礼である事は承知して居りますが、勝ち目はとても薄いと思うのです」
「左様で御座いますな。勝ちの目は全く御座らん。ですが、この長野は戦を致したとしても生き長らえる事を諦めては居りませぬ。佐竹様とは河越でお会い致しましたが、良き若武者で御座いました。先ずは戦を致し、我等の力を佐竹様に見て頂こうと考えて居ります。幸い備えを致す時も十分御座いました。これより先の事は戦をしてから考えると致しますかな」
そう言って長野業正はニヤリと笑った。関東で武田信玄や上杉謙信と野戦が出来る唯一の武将、その彼が十分に備えた城を落とすのは難儀するだろう。この様子だと、箕輪城に籠もると思われる。明言はしないけど、籠城戦を展開して条件交渉に持ち込むつもりだと思う。義昭殿の性格も読んでいそう、義昭殿若いからなぁ。絶対挑戦を受けるとか言うと思う。
ほんの少し接しただけだけど、私は長野業正が必要だと感じた。私の家臣でなくてもいい、義昭殿でも信長でも、長野業正からは多くの事が学べると感じたのだ。彼を失ってはいけない。そう思うと勝手に口が動き始めた。
「長野殿、おおよその見当は付きます。援軍の当てが無い籠城など意味がありませんし、長野殿の狙い通りに事が運べば佐竹殿を頷かせる事が叶うと思われます。私からはこれ以上申し上げられませぬが、なるべくお早いご決断をお願い致します。長野殿とは思い掛けずにお会い致しましたが、この短い会談の中で学びを得ました。私も佐竹殿も、そして当家の重鎮も佐竹家の重鎮も皆若いのです。手本となり、導いてくれる者が必要です。長野殿には私達に教えを与えた責任があると思うのです。どうか御身大事をお忘れなく」
私がそう言うと長野業正は驚いたように目を見開いた。
「導く……。責任……。与えた?責任と申されましたか?いやはや、これは参りましたな。二つの大国に今にも滅ぼされそうなこの老いぼれに一体何を期待されているので御座いましょうか?」
「幸い私には菅谷勝貞が傍に居ります。皆も勝貞に教えられ、叱られ、見守られながら日々お役目に励んでいるのです。このような事を申しては佐竹殿に失礼かと存じますのでご内密にお願いしたいのですが、出来る事なら長野殿が、私の勝貞のように佐竹殿を支える存在になって頂ければと考えてしまったのです」
「これは……。参りましたな。小田様からこの様に評されるとは思うて居りませなんだ。しかし、佐竹様が小田様のようにこの長野を評されるとは限りませぬ。聞かなかった事に致しましょう」
「そうですね。長野殿、余計な事を申し上げました。この氏治の無礼をお許し下さい」
「何の。小田様はこの老いぼれを喜ばせる事を申される。篭絡されぬように気を付けねばなりませぬ。小田様は油断のならないお方で御座いますな?」
「私はお爺ちゃん子ですから、上手な甘え方を心得ているのですよ?長野殿を篭絡致す事など私には容易事なのです」
私がそう言うと皆が笑った。ポーカーフェイスで長野業正の後ろに控えていた上泉信綱も下を向いて肩を揺らしていた。
「余り長くお邪魔致しては、互いに情が移りそうで御座います。名残惜しゅう御座いますが、此度は此れにてお暇致したく存じます」
そう言って長野業正と上泉信綱は私に平伏すると、広間から退出して行った。私はその背中に、少し大きい声で声を掛けた。
「長野殿!御身大事をお忘れなく!」
長野業正は私に振り替えると「承知!」と一言だけ答えた。そして広間から姿を消したのだ。上泉信綱は少し立ち止まって愛洲を見たけど、愛洲に話でもあったのだろうか?愛洲の御父上の教えを受けたと愛洲から聞いているし、剣豪同士だから愛洲に興味があったのかもしれない。愛洲は後でお説教である。
二人が退出すると、勝貞を始めとする軍団長達が様々に長野業正を評した。軍勢を預かる彼等の心を強く引き付けたようだ。久幹も随分と気に入った様子である。私も出来れば家臣になって貰いたいけど、今回の戦の主役は義昭殿だから取ってしまう訳にはいかないよね?
皆と歓談していたけど、暫くすると光秀に連れられて別室に連れていかれた上杉家の国人達は、義昭殿に御目通りを願う事に決めたと報せがあった。私は急いで筆を取り、事の仔細を書状にしたためた。
光秀に書状を託し、国人を連れていくように命じたのだ。書状には小田家に降って来た事は書かずに、私に仲介を願い出て来た事にして、私からは寛大な処置を義昭殿にお願いしたのだ。光秀にも国人達に話を合わせるようにと命じて、ようやく一息付く事が出来たのである。
こうして長野業正と上杉家の国人達との会談を終えたけど、私はこの後に大いに驚く事になるのである。
― 長野業正 上泉信綱 ―
長野業正と上泉信綱は馬の轡を並べて故郷である上州を目指していた。上杉家の国人のお守りから解放された長野業正は肩の荷が下りたとさっぱりとした表情をしていた。そんな長野業正の様子を見た上泉信綱は苦笑しながら話し掛けた。
「殿。長尾様を始めとする国人衆の皆様への為さり様で御座いますが、少し乱暴が過ぎると思われます。殿が他者の面子を潰すような振舞いをなさるのを初めて見ました。何かお考えあっての事なので御座いましょうか?」
上泉信綱の質問に長野業正は前を向いたまま答えた。
「面子も何も、己の行く末を他者に委ねた愚か者達じゃからな。儂は小田様との交渉は引き受けたが、あの者達の面子を慮る義理は無かろう?只でさえ嫌な役目を押し付けられたのだ、これくらい致しても罰は当たるまい。其の方はそうは思わぬか?」
「思いまするが、殿の振舞いが意外で御座いました」
「小賢しい嘘を並べても容易く見破られよう。であれば、ありのままをお伝え致した方が小田様にご迷惑も掛からぬし、佐竹家を差し置いて小田家に仕官致すのは土台無理な事くらい解りそうなものだが、あの者達の今後の為にもなろう。一度恥を掻いて、己を見つめ直す機会と考える者が出れば儲けじゃわい。長尾殿にはお解り頂けそうもないがな?」
そう言って長野業正は笑った。
「殿はお笑いになられますが、殿の御名に傷が付きます。以後はこの様な事が無きように」
上泉信綱にそう言われた、長野業正は眉を寄せながら答えた。
「解って居る。其の方は年々小煩くなるのう?これではどちらが年長か解らぬではないか?」
「歳と申せば、小田様には驚かされました。若い姫君かと思うて居りましたが、男のなりをして居りました。男勝りなのかと考えましたが、その様な事はなく、清楚と申して良い気品が御座いました。殿を案じる様子には感動すら覚えました。武蔵と下野の謀略はこの信綱も耳を疑いましたが、真にあの方が致したのかと未だに疑って居ります」
そう氏治を語った上泉信綱の様子を見て長野業正はニヤニヤとしながら口を開いた。
「其の方は、どうやら小田様に誑かされたようであるな?若く美しきお方故、無理もないと考えるが、叶わぬ恋だと思うがのう」
長野業正がそう言うと、上泉信綱は顔色を変えて反論した。
「殿!某はその様な事は思うて居りませぬ!お戯れが過ぎまする!」
「冗談の一つくらい許せ。其の方は真に固過ぎる。鉄の頭である」
「鉄の頭で結構で御座います。何やら近頃の殿は剽げた振舞いが多くなりましたな?上杉から解き放たれて御気分が良いのは察しまするが、我等家臣共の事もお考え下さい。殿がその様な振舞いを為さるから豊五郎が真似るので御座います」
「解って居る。先程の話であるが、其の方は小田様を清楚であり品があると申した。この儂にも美しき娘にも見えたが、小田様の目の奥には『老いた猫』のような気配を感じた。油断してはならぬと真壁殿には偉そうに申したが、油断していたのはこの儂かもしれぬ」
長野業正の言葉を聞いて上泉信綱は首を傾げた。
「『老いた猫』で御座いますか?」
「只人ではないという事だ。考えてもみよ、元は十万石にも満たぬ領地であった小田家を百九十万石まで広げたお方だ。戦を致す度に倍々に領地を広げられた。先の戦では下総半国、上総、武蔵、安房を手に入れられた。運だけではこうはならぬ。御家中を見れば真壁殿や菅谷殿、我等を小田に案内致してくれた赤松殿、何れも優れたる将と見た。あの場に居並ぶ将も同様であろう。小田家と佐竹家は領地の安堵を許さぬ家だが、君主が全ての財と兵を握るのだ。あの仕掛けを考えられた小田様は恐ろしきお方だと思わぬか?更に多くの鉄砲をお持ちだ、此度の戦は一手間違えば我等の首が飛ぼうぞ」
「佐竹様も同様で御座いましょうか?」
「仕掛けを考えられたのは小田様。佐竹様は模倣したに過ぎぬ。と申したい所であるが、其の方が佐竹様の立場であったならやれるか?儂は出来ぬ、今の儂の立場であれば家臣から領地を取り上げるのだ、其の方は領地を差し出して儂に仕える事が出来るか?」
上泉信綱はそう言われて顔色を変えた。武士にとって土地は何よりも大事である。小田氏治や佐竹義昭のやりようを目の当たりにして理解はしているが、それらを知らなかった頃に長野業正に被官せよと命じられたら応じられるだろうか?
「恐らく……。出来ませぬ」
「儂も土地が惜しいから此度は戦を致すが、佐竹様の御家中は多くが被官致していると聞いている。それを成した佐竹様を侮るなど出来ぬわ。以前お会いした時はただの若者と思うて居ったが、若さに似合わぬ器があるのであろう。事が巧く進めば我等の主だが、あのお方であるならば、この儂は不足とは思わぬ」
「某は出来るのならば小田様にお仕え出来れば良いと考えますが、小田様が申された通り、佐竹様の面子を潰す事になりますな?」
「左様であるな。じゃが、其の方やはり小田様に篭絡されて居るではないか?」
「小田様は家臣である菅谷殿をあのように自慢されました。余程信頼されているので御座いましょう。あのような御仁であればお仕え致す甲斐があると思うたのです」
「行きたいのであれば止めはせぬが、戦の後に致せ。其の方が居らなんだら不利な戦が更に不利になるからのう」
「御冗談を。某は殿に何処までも付いて行くと決めて居ります」
長野業正と上泉信綱が馬の手綱を操りながら、あれやこれやと話をしていると、前から武士と思われる一行がやって来るのが目に入った。その一行は長野業正に気が付くと、馬や荷車を道の端に寄せて道を譲る様子を見せた。長野業正と上泉信綱は擦れ違いざまに「忝い」と小さく頭を下げた。
「小田家の者で御座いましようか?」
「判らぬが、妙な童が居ったのう。まぁ良い。信綱、『老いた猫』の話だが、猫が小田様に化けて居るやも知れぬ。其の方、急ぎ戻って小田様に尻尾が生えておらぬか確かめて参れ」
上泉信綱は絶句した。
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