第百九話 千宗易抹殺計画 その9
小田氏治の茶会に招かれた日比屋了慶、津田宗達、千宗易は今井宗久に案内され、今井邸の中庭に通された。野点でもするのかと思った面々だが、庭に足を踏み入れると一様に困惑した。そこには野点では常である赤い毛氈が見当たらず、南蛮物と思われる膳と座が用意されていた。それを不審に思った千宗易は宗久に問い掛けた。
「彦八郎、野点かと思うて居ったが何故庭に我等を招き入れたのだ?」
「与四郎、まあ掛けなされ。津田殿も了慶殿も、ささっ」
宗久はそう言って椅子に座るよう促した。一同が椅子に腰掛けると津田宗達が口を開いた。
「これは宗久殿に企みありと見ましたが、期待して宜しいのかな?」
「その通りで御座いますが、企みましたのは氏治様ですな。この宗久は使い走りに過ぎませぬ」
「確か常陸の大名と聞いているが、どの様なお方なのだろうか?いや、なに、堺の町衆は吉祥天様の生まれ変わりだと口々に言うているそうだ。了慶殿も言うているし、神獣をお連れしているとも。それもあってお招きを受けたのだよ」
津田宗達がそう言うと日比屋了慶が答えるように言った。
「真の吉祥天様です。それに神獣次郎丸もこの屋敷に居られる。この了慶はこの目で見て、お言葉も賜ったのだ。昨晩申し上げた通りの御方故、無礼など欠片も無いようお願いしたい」
「了慶殿の話は聞きましたが、語られた通りの御方であれば正に名君。ただ、この宗達の心が穢れているのかそのような政を致す大名など居るのか疑ってしまいますな?神獣と申すのもこの目で見ない事には」
宗達がそう言うと了慶が反するように言った。
「津田殿の言葉は無礼と言うもの。この了慶の言葉を御疑いか?」
「まあ、まあ、了慶殿。本日は楽しき茶の湯を氏治様が振舞われるのです。騒いでは氏治様に御迷惑が掛かりましょう。この宗久も了慶殿のお気持ちは察しますが、お心を静めて頂きたい」
「そうでした。そうでしたな。この了慶、氏治様から茶を頂けるとは身に余る誉。心静かに待ちましょう」
「どうも宗久殿も了慶殿も氏治様に心服されているように見えますな。堺商人として如何なものかと?」
「津田殿、この宗久は堺の商人、大名の支配を受けぬこの堺の子です。ですが、氏治様を人として尊敬申し上げるは別の話。この宗久と了慶殿に比べたら能登屋殿の三好への肩の入れ様の方が問題で御座いましょう。そう言えば与四郎も三好と商いをしておったな。だからと言ってこの宗久は責めた事など御座いません」
「これは失礼した。この宗達の口が過ぎました。宗久殿、了慶殿、許されよ」
「なんの。それよりも皆様、神獣次郎丸を見て取り乱さぬようにお願い申し上げる。了慶殿は既に会うて居るから良いとして、津田殿と与四郎は気を確と持たれよ。驚くなとは申しませぬが心構えを致さぬと恥になりますからな」
「宗久殿、神獣次郎丸とはそれ程なのか?」
津田宗達は念を押す宗久に問うた。
「恥では御座いますが、この宗久は腰を抜かしましたな。知っていればあれ程は驚きませぬが、心構え出来る津田殿が羨ましく思う程です」
その様子を眺め見ていた千宗易は下らぬと内心で一笑した。その様な獣がいれば広く知れ渡っているだろうにと。宗久とは長い付き合いだが、三十を過ぎてこの様な戯言を抜かすとは呆れたものだと内心で思った。そうしている内に今井の小者がやって来て宗久に耳打ちした。宗久から氏治様が来られると聞いた三人は席を立ち、膝を付いて氏治の到着を待った。
暫く待つと数名の武士と侍女を、そして大きな山犬を引き連れた娘が姿を現した。津田宗達と千宗易は思わず驚きの声を発した。そして大したことあるまいと思って居た千宗易はその巨体をへたり込ませた。宗久は鋭く小さい声で『落ち着きなされ!』と二人を制し、千宗易の腕を引くようにして身体を起こさせた。
近付くにつれ見目形がはっきりして来ると、津田宗達、千宗易は次郎丸をまじまじと見た。大きな体に白とも銀ともつかぬ毛並み、そして二本の長い尾が高く掲げるようにしてゆらゆらと揺れている。そして傍らには娘がいて、その清楚かつ美しさにも驚いたのだ。そして慌てて平伏したものの、自身が見たものは夢ではないかと疑った。その様子を見てから宗久は膝を付き、口を開いた。
「氏治様、これなるは津田宗達、千宗易、日比屋了慶は御存じかと」
氏治は平伏を止めるように命じた。そして互いに挨拶を交わすと椅子に座るように促した。従いながらも津田宗達と千宗易は氏治に侍るように付き従う次郎丸から目が離せなかった。氏治は全員が椅子に座るのを確認すると、自身も椅子に腰掛けた。
「驚いたでしょう?この子は次郎丸と申します。大人しい子ですからご安心下さいね。此度はこの氏治の我侭をお聞き入れ下さり真に嬉しく思います。津田宗達殿、千宗易殿、了慶殿もよくいらして下さいました。これからこの氏治の茶をお受け下さい。常陸の田舎大名なので失礼があるかも知れませぬがお目こぼし下さいね?」
氏治がそう言うと宗久が提案した。
「氏治様、今少し時を置かれた方が宜しいかと?次郎丸を見て流石の津田宗達殿や千宗易殿も困惑なさっている事でしょう。落ち着かねばお出しする名物を見る目も曇るかと?」
「そうですね、では少々お話でもしましょうか?」
氏治がそう言うと津田宗達が次郎丸を見ながら口を開いた。
「宗久殿の申される通りであった。心構えが無ければ取り乱した所で御座いました」
津田宗達の言葉を皮切りに次郎丸の話や堺での噂話をしている内に、津田宗達は落ち着きを取り戻した。氏治は一言も言葉を発さない千宗易が気になっていた。侘び茶を潰す事が目的である氏治は千宗易の人物を知りたいと観察していた。巨体に似合わない甲高い声位しか今の所は解らなかった。
(千宗易は史実で語られる通りに大きい。でもおかしいな?確か晩年の六十歳くらいから黒を使うようになると記憶しているけど、既に全身黒尽くめなんだよね?扇子まで黒とかどうかしてると思う。全然喋らないし?私が宗久殿に関わったから友人である千宗易にバタフライ効果で影響が出たのかも?)
氏治はそう考えながらも猫の毛皮を何枚も重ね着しながらにこやかに会話をした。津田宗達は落ち着きを取り戻し、了慶が神獣であると断じた事に納得していた。氏治がただの犬と紹介したが、その容貌もさる事ながら、獣には無い知性を感じさせる目に不思議を感じた。
そして思った。成る程、この次郎丸が美しき姫君に付き従っていれば、信心深い了慶が吉祥天様だと言う訳だと。この姫君が了慶から伝え聞いた善政を敷いているとすれば、真の仁君であることに間違いは無いだろう。この乱世であり得ない事だが、あの今井宗久が心服しているように見えるから真なのかも知れない。それに、常陸小田家を家の者に調べさせたが頼朝公以来の名門だという。にも拘らず、商人である自分達に気遣わしげな態度を取る様子と清楚で美しい姫君を目の当たりにして大いに好感を持った。
一方で千宗易は作り笑いを浮かべながら心の内では驚愕していた。たかが獣と侮っていたが了慶が言うように神獣と言っても差し支えない様に思えた。未だに内心は落ち着かず、外見を取り繕うので精一杯であった。
二人の様子を見て宗久が「そろそろよう御座いましょうか?」と氏治に言う。氏治は了承し、桔梗に命じて宗久に与えた『翡翠の銀椀』を各人の前に配させた。目の前に置かれたティーカップを見た津田宗達、千宗易、日比屋了慶は思わず声を発した。
見た事も無い形の白銀の椀には金で複雑な文様の装飾が施され、宝玉が椀を囲うように埋め込まれている。持ち手と思われる部分には青に染められた木材が磨かれたのだろうか良い艶が出ている。緑の漆が塗られた皿にも同様に文様が描かれ、乗せられた椀によく似合っているように見えた。
「この椀は当家の職人が作った物で『翡翠の銀椀』と名付けました。宗久殿に贈った物ですが、此度は宗久殿にお借りして茶を振舞いたいと思います。どうぞ手に取って御覧になって下さい」
氏治の言葉を聞いて各人が椀に手を伸ばし、検分するように眺めた。津田宗達が椀を見ながら口を開いた。
「なんと見事な、この様に美しい椀は見た事が御座いません。この輝きは如何した事だろうか?それにこれは持ち手で御座いますか?この青がよう御座います。宗久殿が名物と申されましたが、この宗達はこの様な茶道具を知りませぬ。宗久殿に贈られたと申されましたが、何とも羨ましい」
津田宗達と日比屋了慶は初めて見る椀に魅了され様々に評した。千宗易も驚きを隠せずしげしげと眺めている。
「此度はこの椀で茶を差し上げますね」
氏治がそう言うと津田宗達が問うた。
「茶と申されましたが、茶道具が他に見当たりませぬ。如何なされるので御座いますか?」
「私の茶は新しき茶なのです。直ぐにお持ちしますね」
氏治は桔梗に目配せすると桔梗は屋敷の中に姿を消し、暫くすると二人の侍女と共に紅茶の入ったポットや菓子などを持って来た。そしてそれぞれのカップに紅茶を注いでいく。初めて見る紅茶の色と香りに三人は驚いたような顔をした。そして了慶が言った。
「これが茶で御座いますか?明の茶にも似て居りますが随分と赤い。それにこの香りは明の物とは違います。何とも良い香りで御座います」
了慶に続いて津田宗達も同じような感想を述べる。氏治が茶を飲むように勧め、紅茶に口を付けた三人はまたしても一様に驚く。
「何という味と香り、この様な茶は知りませぬ」と津田宗達が言い、了慶も「然り。何と香しくも美味い茶だろうか」と評する。そして三人は瞬く間に茶を飲み終える。桔梗が紅茶を再度注ぎ、氏治は砂糖を入れるように勧めると先程とは全く違う風味と甘さに驚く。氏治はニコニコしながら昨日、宗久にしたように説明をすると三者三様の反応をした。
そして氏治は新しい茶の説明をした。茶は常陸の自領で開発した事や円卓や椅子を使って気軽に楽しむ事や季節の果実で様々な味を楽しめる事や椀を作る楽しみなど、そして新しい茶の作法などの一切を宗久に一任した事などである。
「新しき茶の湯、これは流行りまする。氏治様、この茶はこの宗達にも分けて頂けるので御座いましょうか?それにこの美しき椀も欲しゅう御座います」
「当家のこの紅茶は宗久殿に卸しているので、宗久殿にご相談下さい。椀は宗久殿に差し上げましたが、御覧の通り一品物なので多くを作れないのです。他にも懇意にしている方々に贈らないといけないので、宗達殿ご自身で職人に作らせれば良いと思います」
「なんと!宗久殿、なんと羨ましい。この宗達にも茶を分けて頂けるのでしょうな?」
宗達がそう言うと宗久が答えた。
「お気持ちは十分解ります。ですが、手前も昨日初めて知ったので全てはこれからですな。貴重な茶でもありますし、作られる量も少のう御座いますれば少々値が張るかと?ですがこの茶は流行りますな」
宗久がそう言うと津田宗達や日比屋了慶が宗久に質問を始めた。その様子を氏治はニコニコしながら眺めていた。だが千宗易の反応が薄く、それが気になっていた。
一方、千宗易は表面上は微笑を湛えていたが、内心では穏やかではなかった。茶の湯において二人の師から教えを受け、茶の湯で天下に名を馳せようと自分なりの茶を追求し、そしてようやく形が出来たところであったのだ。千宗易はそれを侘び茶と名付けた。
侘び茶、寂びはこの戦乱の世の貧しきからこの宗易が見出した言葉である。閑寂な中にこそ真の美があり、そして貧困の内から富を見出すというものである。貧しき民が苦しみ喘ぎ、この暗き夜であればこそ見出す事が出来るのだ。そして黒もまた至高とした。人々が苦しむこの世の闇の色こそが、この世の真理の色であり、故に黒が至高なのだと信じた。
貧粗、不足の中でも心があれば満たされる。そしてその貧相を茶の湯に映すのである。贅沢を廃し、無駄を排する。これこそが至高の茶であり、世の茶の湯者が目指すべき到達点であると考えた。
茶人として名声を得たこの宗易は侘び茶を流行させ、茶の湯の天下を獲るつもりである。宗易はこの茶の湯の世界はぼろ儲けが出来ると考えている。名のある茶人が適当に値を付けただけで土器が高値で売れるのだ。
先日も市で捨て値で売られていた茶碗を十貫で売ると言ったら喜んで買った武家がいた。こんな土器に大金を出すというのだから笑うしかない。それに連中はちょっと難しい事を言ってやれば勝手に曲解するので扱い易くていい。
手応えを感じていた宗易だったが、常陸から来たという田舎大名に茶を振舞いたいと呼ばれて来てみれば、神獣と呼ばれる獣に驚き、その主が美しい姫君である事にも驚き、そして見た事も無い椀に、この紅茶である。宗久や宗達が言うようにこの茶は確実に流行ると思われた。宗易からしたら溜まったものではない。茶人として名声を得、これから自分の茶の湯を流行させようと動き始めたばかりである。
こうなるとこの娘は宗易の敵である。何とかしてこの紅茶を潰さないといけない。明や朝鮮から来る椀や壺などに頼らず、職人が椀を作れるというのも非常に都合が悪い。このままでは自身が考えた侘び茶で天下を獲るどころか、既存の茶の湯が衰退するのでは無かろうか?と考えた。作り笑いを浮かべながら楽しそうに語る宗久達を見て焦燥に駆られていた。




