エピローグ
由香里の手紙の存在を、わたしはだれにも知らせなかった。バックの奥にしっかりとしまい家に持ち帰った。団地に帰ってからも、わたしはその手紙を読み返すことはしなかった。そして、ひとりぼっちの部屋のなかで、ただ封筒の表をじっと眺めているだけだった。あまりにショッキングな内容は、一行たりとも忘れられるものではなかった。
なぜだろう? 燃やそうと思えば、すぐにでも燃やすことができたはずなのに、わたしは再び厳重に封をして、あの木箱の底にある引き出しにしまった。
死ぬまで、だれにもこの手紙のことは漏らさない。それが自分が罪をかぶってまでも、その秘密を守ろうとした夫の意志なのだから。
佐沼と角倉こそ、夫の患者を次々と自殺に追い込んだ真犯人であることに気づいた夫は、由香里がその二人を殺したトリックにも気がついてしまったんだ。そして、最もおぞましい由香里の体の秘密にさえ。そのことで、あんなに苦しんでいたんだ。あれほどまでに由香里の命を守ろうとして必死になっていたんだ。それなのに、なんて的外れなことばかり言っていたのだろう。
わたしは、いかに優しい性格の人間と一緒に暮らしていたのか、ようやく知ることになった。
夫からは、まったく連絡がなかった。
でも、何ヶ月ぶりかの、不安のない、安らかな気持ちを、わたしは味わうことができた。
このまま一生、あの人が戻らなくてもいい。それは、あんなに素晴らしい人間を一瞬でも憎もうとした自分への天罰であるような気がしたからだ。
一週間後、夫は突然、マンションの部屋に現れた。
「ごめんなさい。みんな、わたしの勘違いだったの」
そう話しかけるひまもなく、張り込んでいた吉野刑事に、すぐに連行されていってしまった。
佐沼教授の秘書の田所洋子が偽証していたことが明らかになったのは、その三日後のこと。角倉の点滴液にニコチンを入れたことも、鍵に夫の指紋がつくように細工したことも、みな田所が自供して、夫はようやく村山の追求から開放された。
面高とトヤマ製薬に接近して、教授を告訴させていたのも田所であった。悪魔のような佐沼の研究に協力したのもガゼット社を陥れるためだった。田所自身、ガゼット社のやり方には、すっかり見切りをつけていたのだ。
さらに、美沙のところにイタズラ電話をしてきたことも、へんな写真を警察に送りつけていたことも、田所は自供していた。
「田所さんは、なぜ角倉先生を殺そうとしたの? 」
「ニコチンは致死量の二十分の一以下だった。角倉を脅かして、冷や汗をかかせるつもりだったんだ。角倉の死に一番驚いたのは、あの秘書だったんだろう」
「でも、なぜそんなことを? 」
「角倉は、田所洋子をレイプしていたんだ」
あの標本室か、それともクリニックでやったに違いない、と美沙は思う。
「あなたを犯人にしようとして、田所さんがあんな嘘をついたのはなぜなの? 」
「前にバイク事故にあって、しばらくして自殺してしまった青年の話をしたことがあったたろう。その若者があの秘書の婚約者だったんだ。おれが勝手に、その青年を性的不能者にしたと思いこんで、それを逆恨みしていたんだよ」
ゆっくりとかみしめるように『ひ・と・ご・ろ・し』という言葉を繰り返していたのは、婚約者の死に対する恨みからだったんだ。
「田所さんの気持ちも、わかる気がするわ。重い罪になるのかしら? 」
「有能な弁護士がついているから、もし仮に起訴されたとしても、たぶん執行猶予になるだろうって、村山警部は残念そうに言っていたよ」
「よかった。それを聞いて安心したわ」
わたしの言葉を聞いて、夫は急に思いつめた顔になる。
「実は謝らなくてはいけないことがあるんだ。あの秘書とおれ、」
「いいの、そのことは、もうなにも言わなくても」
あなたを誘惑するようなことがあったとしても、きっと、あなたを陥れる罠だったのだから。
そう言う代わりにわたしは、久しぶりに握る夫の手を、自分のおなか腹に導いた。そして、静かな声で妊娠を告げた。
「わたし、もう三ヶ月だったの」
「そうか、よかった」
「それだけ? 」
「おれ、黙っていたけれど、精子の数が普通の男の五分の一ぐらいしかないんだ。子供を作ってあげられないんじゃないかと、ずーっと心配してたんだ」
夫が、結婚以来、子供のことを口にしなかったのは、そんな理由からだったんだ。
十日後、夫は大学に辞表を出した。そして団地の近所にある農協の付属診療所に内科、外科の兼任医として勤めだした。最先端の医療設備も機器も、整っていない病院……じゃなくて、そう、簡単な風邪や、腰痛を訴える老人ばかりの多い診療所である。
春と秋、定期的に学会に行かせてくれるような制度も、おそらくないだろう。大学の講師から助教授、そして教授になれる可能性も失ってしまったのだ。
夫は、そのことをなんとも思っていないのだろうか?
優しさのこめられた秘密というものがある、ということを十分過ぎるほど知ったわたしは、もう、それを面と向かって聞くほど、知恵も愛情もない女ではなかった。
やがて、わたしたちは元通りの静かな生活に戻っていた。八階のベランダに布団を干すこともなんの苦もなくすることができるようになった。ただ由香里から受けた心の傷はあまりに深かった。二人とも、意識して由香里のことは話題に出さないようにしていた。
妊娠を喜んでくれた養父母の言葉を、わたしは素直に受け入れることができた。そして千葉の家に里帰りして、子供を生むことにした。
海沿いのその街に、いろいろな荷物と一緒に、わたしは例の古い木箱を持っていった。
「あら、まだそのオルゴール持っていたの? 」
白髪のふえた母の言葉に、わたしは驚いた。
「これ、オルゴールだったの? 」
蓋を開いて奥をのぞいてみると、確かにネジ巻きの取っ手のようなものがある。それを回しても、もうコトリとも音は出なかった。
なぜだろう? こんなに長いあいだ持っていたのに、今日まで気がつかなかったなんて。
「お父さんがお母さんに贈った婚約記念の品だからね」
「えっ! 」
「昔のことで、そんなにお金もなかったから、ダイヤの婚約指輪なんか買えなかったんだね。でもお母さん、とってもとっても幸せそうだったよ」
父から、これを受けとった母の喜びがこの鏡に映っていたんだ。
わたしは、その鏡に向かって初めて、にっこりと笑いかけることができた。
母は、ここにどんな思い出を入れようとしていたのかしら。
次の瞬間、鏡はわたしの瞳から、あふれ出る涙を映していた。
一度だけ村山から電話がかかってきた。
「奥さんは本当はご存じだったのですね」
「えっ」
「あの女医さんの殺人の本当の動機ですよ。あんな正義感だけで同じ医師の仲間を二人も殺せるんだろうかねって、あの遺書を見たときから不思議に思ったんですよ。奥さん、ひょっとして、もっと別の奥さんあての遺書があったんじゃありませんか? 」
「いいえ」
「わたしは、あの時期の産婦人科の全部のカルテを洗ってみたんですよ。偽名のカルテが何通が見つかって、それでだいたい事件全体の輪郭が見えてきたんです。でも検察官も被疑者死亡で不起訴になった事件ですから、なにを言っても取りあってくれないんですよ。それで……」
なにもかもズケズケ言う村山には珍しいことだけど、そこで、少し言いよどむ。
「いや、もういいんです。ただ犯人とあれほど親しかった奥さんが知っていたのか、どうか。それだけがとっても気になったものですから」
「わたしはなにも知りません。どんな動機であっても、あの人は自分の勝手な思い込みのために、医者を二人も殺した人間なのです。あの人に関することは、わたしも夫も一日も早く、なにもかも忘れてしまいたいのです」
「そうですか、では、もうこれ以上お尋ねしません。ところで三十年前のご両親の事件に関して、ちょっとした資料が見つかったんですが、本庁まで来て、ご覧になりませんか? 」
なぜだろう? あの奇妙な表情と、奇妙な髪の臭いが、不思議になつかしいような気もしたが、母胎が不安定期で東京まで出かけていくことはできなかった。
「ありがとうごさいます」と、丁寧に答えて、断った。
受話器を置いたわたしは、木箱を取り出した。
この箱の底にあの手紙がある限り、わたしはあの事件のことを、いつまでも忘れることはできないんだわ。それに、いつかこの箱の中身が世間に漏れたときに、きっとまた、わたしの心はひどく傷つき、惑乱することになるんだわ。そうならないためにも……
いよいよ、この箱とも別れなくてはいけないときが来たんだわ。
わたしは海岸までゆっくり歩きながら、心のなかで何度もそう繰り返していた。
海辺に置かれた木箱は、しばらく潮だまりのなかに、ためらうように留まっていた。やがて大きな波が来て、その引き潮に吸い込まれるように沖に向かって流されていった。すぐに視界から消えていったその木箱のように、つらい過去につながるものは、すべて一つ残らず忘れさられていく、はず……だった。
事件から七ヶ月たって、いよいよ出産のときが近づいてきた。妊娠初期には、いろいろなことがありすぎて精神状態がとっても不安定だった。わけのわからない薬も飲まされていた。本当に健康な子供が生まれてくるのだろうか? それよりも、わたしのような人間がはたして母親になれるものなのだろうか? いつまでたっても自信のわかないうちに陣痛がやってきた。
二十時間ものあいだ、波のように押し寄せる激痛でわたしを苦しめるだけ苦しめて、胎内から出てきたのは、三千グラムの女の子だった。
小さな手は、わたしの胸を求めて空間を握りしめようとする。しかし、わたしはその生き物にどう対応していいのか、まだ心の準備もできていなかった。
翌朝、看護婦に言われるままに授乳室に入っていった。わたしの胸が差し出されるのも待ちきれないかのように、幼い唇が動き始めていた。噛みつかれるような激しさで乳首に吸いつかれた瞬間に、わたしはその子の母になっていた。
なぜだろう? あんなにわたしや夫を苦しめ、事件の直後には、夜も眠られないくらいに、あんなに憎んだ人間の名前だったはずなのに、
生まれて来た女の子に、わたしは『縁』と、いう名前を付けていた。
(完)




