第十章
そろそろ決行のときかしら。
もうすでに布団が敷かれている和室を、美沙は見る。
「由香里、あなたは、わたしみたいな体じゃないんだから、どうして結婚しないの? 」
「難しい質問ね。そして簡単すぎる質問だわ。医者って仕事のせいかな」
前に聞いたときは、そんなふうには答えなかったわ。あんなにきっぱりと否定していたのに。
「ねえ、政晴と結婚してもいいのよ」
「なにを急に言いだすの」
「わたしは、あなたに比べれば学校の成績はよくなかったわ。でも、そこまで鈍感じゃないつもり。あの人と愛しあっているんでしょ。わたし、あなたと政晴がホテルから出てくるところの写真を見てしまったの」
「なんですって! 」
「ええ、だれかが盗み撮りして、警察に送りつけてきたんだけど、わたし正直言って、相手があなたなんでほっとしたわ。ずいぶん長い回り道だったのよ。あなたこそ、政晴にふさわしい人なんだわ」
「やだわ、誤解よ。仕事の打合せでホテルの部屋を取ったことがあったわ。そのときのスナップじゃない」
由香里は泣いていて、その肩を政晴があんなに、やさしく抱いていた。泣き虫のわたしと違って、卒業式のときも由香里は泣かなかった。いいや、いままで、だれの前でも一度でも由香里が泣いた姿を見たことはない。それが、どうして仕事の打合せなんだろう。
そのことを言わないで、美沙は由香里に語りかける。
「あなたたちが結婚して子供ができれば、そう、きっとそれがわたしに残された唯一の、母になれる道なんだわ。こんな醜い体のわたしにとって、残されているのは、その方法だけなんだわ」
あなたの子供なら、男でも女でも、本当に美しい子供なんでしょうね。でも、ごめんなさい。わたしは大うそつき。今夜、わたしはあなたと死んでしまいたいの。わたしは残酷な罪深い女なの。いや女ではない、男のなりそこないのバケモノ。
「醜い体? 」
由香里は、そのまま美沙の浴衣姿をじっと見る。
実におだやかな、やわらかな聖母のような微笑みが、温泉上がりの暖かい色をした頬に浮かんでいる。
ひょっとしたら由香里の体には、もう政晴の子供が宿っているんだわ。
それは美沙の女の直感だった。
やっぱり誤解していたのは、わたしの方で、明日、政晴は、そのことをわたしに穏やかに告げて、離婚を申しでてくるのかもしれない。重大な話とは、そのことだったんだわ。それ以上に大切な話なんて考えられないもの。
でも、その夫が見るものは、わたしたち二人、ひょっとしたら胎児を含めて三人の死体なんだわ。こんな冷たいことも考えられる悪魔のような心。醜い体には、この醜い心がふさわしいんだわ。
「あなたの体こそ、完璧で美しい体よ」
由香里の言葉は美沙にとって意外なものだった。
「そんな気休めを言って……」
美沙は、なにげなく時計を見た。午後十時である。
いよいよ決行のときが来たんだわ。
不思議なことに、美沙の心のなかからは不安が消えていた。
きっと、もう未来のことで悩むことがないせいなのだろう。すっかり清められたような気分、本当に聖なるものに近づいたような気分、すっかりおだやかな安らかな気持ちで死ぬことができるわ。
「ねえ、少し喉がかわいたの。コーラをもってきてくれない? 」
それは、美沙の決心を促すような由香里の言葉であった。
「ええ、いいわ」
控えの間にある冷蔵庫から、よく冷えた炭酸飲料を取り出した美沙は、細かく泡立つコーラのコップに青酸カリの錠剤をいれた。
目の前に置くとすぐに、由香里は、じつにおいしそうに飲みほしてくれた。
「ねえ、あたし急に洋室で寝たくなったの。あちらに行ってもいいかしら」
同じ部屋で苦しんでいるのを見るのは、美沙にはやはり、耐え難いことだった。
「そうね、ふたつの部屋の寝ごこちを楽しむのも悪くないわね。ちょっと読み物をしてから、わたしもそちらに行くわ。美沙は先に行ってて」
洋室に入ると、すぐに水差しから、コップに水をいれた。
ゆっくりと青酸カリの錠剤を飲みくだした美沙は、ベランダに近い側のベッドに入って、横になった。
やっと、この苦しみから逃れられるんだわ。生き続ける、いいや、生き続けさせられるという苦しみから比べれば、死ぬってことは、こんなに簡単なことで、こんなに自然なことだったんだわ。
緊張していた疲れがどっと出る。
父と母の苦しみがどんな種類の苦しみであったのか、いままでだれにも想像のつかないことだった。生まれて三ヶ月にしかならないわたしを、この残酷な生の世界に置き去りにする、というような決断をしてでも、逃れたかった苦しみがどんな種類の苦しみであったのかも、いまは、まだわからない。しかし、わたしの思春期のあいだ、ずっと知りたくて、あんなに悩んだその答えがもうじきわかるんだわ。
天国に着いたら、まっ先に父と母に聞いてみられるのだから。
美沙は軽く寝返りをうつ。柔らかな羽根枕が耳元をおおう。遠くから潮風のささやきのように響く滝の音は、意識が薄らぐのに合わせて、次第に遠ざかっていくようだ。
瞼の裏側には白い幻想がうかんできた。
あれは青酸カリのボトルだわ。わたしを……もうじき……天国に連れていってくれるもの。
意識はますます遠くなっていく。催眠療法のベットにいたときのように手足があたたかく、重くなってくる。
不意に頭のなかに角倉の甘く落ち着いた声が響いてきた。
「あなたは、高校のとき同級生の男の子と、旅行に行き、……」
そう、あれはとりわけ暑い夏だった。高校二年のとき、由香里と一緒に一泊旅行に行った夜のこと。あのときも、こんなふうにペンションの窓ガラスを通りして、小川のせせらぎが響いていた。その音は、まるで風のささやきのように箱根の谷底からこだまして、疲れた心を優しく癒してくれるようだった。
十二時過ぎ、電灯を消してからも、ベッドのなかでわたしは、しばらくじっと、その音を聞いていた。そして、ようやく寝ようとしたときに、だれかの息がうなじにかかってきんだわ。
寝返りをうったわたしの耳元には、低くかすれた声も響いてきた。
「ぼくは、きみが好きだ」
そして、なにかが唇にふれたんだ。そうあれは間違いなくだれかの唇。あのとき、あの部屋にいた、ほかの人間というのは……
あの夜、わたしに口づけしてきたのは由香里だったんだ。
美沙は布団をはねのける。
あれっ、わたしはまだ生きている。どうしたの? ひょっとして薬の量が少なかったのかしら。きっとそうだわ。もし、由香里だけ死ぬようなことになったらどうしよう。取り返しのつかないことになるわ。
シルクのカーテン越しに月の光がもれていた。瞼に映った白い幻影の正体はこれだった。
「間違っていたわ、わたし」
由香里を殺すなんてこと、絶対にしてはいけないことなのよ。
「だめだわ」
飛び起きた美沙は、急いで廊下を走り、和室の障子を開けた。
「由香里、許して」
走り込んだ部屋の真ん中に敷かれている布団は、もぬけの殻だった。
美沙は座り込んでしまった。
あれっ?
不思議なことに布団のシーツには皺ひとつ付いていない。
苦しんでトイレにでも行ったのだろうか? そこで倒れているのかもしれない。
あわてて立ち上がって歩き出した美沙は、応接間の前で急に立ち止まる。欅のテーブルの上に、なにか白いものが乗っているのが見えたからだ。
それは、ついさっき幻のように瞳のなかに浮き出ていた白い薬品のボトルであった。
どうして? あの棚のなかにあったものがここにあるの?
『青酸カリ(シアン化カリウム)』とラベルが貼ってあるから、間違いない。
さらにライティング・デスクの上にも、なにか白いものがある。近づいてみると、淡い照明スタンドの下に置かれていたのは、三通の封筒だった。
『村山警部さま』
『斎藤美沙さま』
あれっ? これはわたしの旧姓じゃない。
『水上政晴さま』
それぞれの封筒の裏には、きちんとした楷書で『笹川由香里』と差出人の名前が書かれてあった。
美沙は、首を傾げながら、最初の封筒を開けた。
『村山警部さま』ワープロ。
最初に警部にお会いしたその日に、わたしはすべてを話すべきでした。あの二人の犯罪を告発すべきだったんですわ。そして、その二人がどのようにして、その罪に対する罰を受けることになるのかも、お知らせすべきだったのです。
わたしがどういう経緯で、この事実のすべてを知るようになったかは、この手紙の文末でお知らせします。
一、東和大学教授・佐沼雅隆の犯罪。
佐沼教授こそ医者の仮面をかぶった悪魔でした。
大学医学部の医局制度と、それを牛耳っている教授の絶対権力がどういうものか、警察関係の方には永遠にわからないでしょうね。そして、その権力の上に異常性がかぶさったときに、どのような恐ろしいことが起こるかも。
医学部教授は、患者に対する生殺与奪の全権限を握っているといっても過言ではありません。そして、佐沼は、まったくの奇形児コレクターでしかありませんでした。
しかし、一年前までは、まだ学者らしい毅然さと、医者としてのモラルが残っていました。ロシアから大量の標本を仕入れたときから、突然狂気に捕らえられたのです。その大半が偽物だと知った佐沼は、自分も同じことをやろうと考えたのです。
海外のマニアと物々交換するため、あるいは販売するための奇形児の標本を、自分の手で作りだそうと考え始めたのです。つまり自分の患者の胎内にです。
そのために腕のいい外科医である水上講師の力を借りて、母胎内の健康な六ヶ月目くらいの胎児の心臓を破壊して無心児を作り、脳を吸い出して無脳児を作ろうと考え出したのです。まさに悪魔の研究でした。
それがうまく行かなくなると、こんどは、胎児にヨウ素二三などの放射線照射をして胎児の遺伝子に傷をつけ、異常児発生を目論んだのです。どういうふうに説得したのでしょうか。この悪魔の研究にはガゼット社も一枚かんでいました。
明らかに、母体保護法違反です。二十八条に『何人も、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行ってはならない』とありますから。そして、母体に対する傷害罪、いや殺人未遂罪であることは、間違いありません。
二、東和大学講師・角倉敏英の犯罪。
佐沼教授の犯罪は人間として、とても許されることではありませんが、角倉講師のやっていたことのほうがより悪質で、まさに悪魔的なものでした。角倉は心の不安定な出産前後の女性に心理実験を行ったのです。彼が産婦人科医ではなく、精神科医であることなど妊婦にわかるはずがありませんでした。それが彼にあんなにも、たやすく犯罪を実行させることになったのです。
東和大学病院の産婦人科の患者で起きた四人の自殺者のすべてに、角倉は関与していました。詳細を時間順にお知らせします。
森村有花さんが、小田急線に飛び込んだときには、妊娠三ヶ月でした。
わたしは、あるとても奇妙な染色体を持った女性を個人的に担当していました。病院の窓口を通さないで診察を行っていたのです。内部での検査は特に問題はありませんでしたが、外部の検査機関に血液検査を依頼する場合には、この病院のシステムでは、登録された患者名を使うしかありませんでした。
そこで、わたしは、その森村有花さんの名前を仮に借用することにしたのです。医師法違反ですが、大学病院ではよくあることで、保険とは無関係な検査なので、あとでポケット・マネーから支払って、コンピュータ上から記録を消去すればいい、と気楽に考えていたわたしの失敗でした。
角倉はどうやって調べたのか、そのカルテを手に入れて、その女性に、こう宣告してしまったのです。
「あなたは妊娠なんかじゃない。染色体異常で一生子供なんか、持てない体なんだ」と。
わたしは、森村さんの自殺を知ったときには、まだ、ただの偶然だとしか思えませんでした。
小寺光代さんが、中央線に飛び込んだときには、妊娠六ヶ月でした。
角倉は、カルテを偽造して、すくすくと育っている正常なその胎児をダウン症と判定して、堕胎を薦めたのです。
母親が死の選択を決意させるまで追い込まれたのは、母親の染色体が『転座型』で次の子供も、必ず百パーセント、ダウン症になる、と嘘の宣告をされたからなのです。転座型というのは、先天的な染色体の異常で、子供がダウン症になる確率が格段に高くなるものです。でも仮に小寺さんが、そうであったとしても、子供に異常が出る確率は医学的には二十五パーセントなのです。もちろん小寺さんは、正常な染色体をもっていて、転座型などではありませんでした。
千駄ヶ谷駅の飛び込み自殺を聞いて、角倉は震えるほどの喜びを感じたと、わたしに語っていました。
倉田真由実さんが団地の七階の屋上から飛び降りたのは、子宮を摘出されたあとでした。
妊娠五ヶ月のときに、心音がまったくなくて、子供が無心児であると佐沼に宣告され、手術を受けたのです。無心児の誕生は悲劇的なことです。けれども必ずある確率で起こることで、将来の第二子は、健常児が生めるのです。その母親の子宮など摘出する必要もないのに、佐沼の都合でその手術は行われてしまったのです。
そのあと、角倉がどのように、その母親にカウンセリングをしたのかは、どうしても想像がつきません。いずれにしても、人の心を癒す学問をした医師が、その逆の目的で、そのテクニックのすべてを使ったのです。
野田由起さんが、病院のベッドの手すりで首を吊ったのは、無脳症と全臓器不全の双子を出産したあとでした。
この患者さんは、区内のクリニックで不妊治療を受けていて、多胎妊娠して五つ子になっていました。母子とも危険になり、この病院に運ばれてきたのです。
佐沼は、新しいファイバーを試す絶好の機会であると大喜びしました。そして水上講師に命令して、母胎のなかで特に異常そうな二胎を残すという残忍な手術を行ったのです。
野田さんは、待望の双子の一人は死産し、もう一人も母乳も飲めない情況であることでノイローゼ気味になっていました。角倉は、この母親に対してして、ホルマリン浸けの子供の写真を見せて、「子供は染色体の数が違う。もはや人間と言えた代物ではない。あんたの体が人間じゃないってことだ」と、いう無謀な宣告をしたのです。
角倉の、犯罪は虚偽の病状を伝えた医師法違反にしかなりません。しかし、その全容がわかったとき、わたしには殺人罪以外の罪名を思いつくことができませんでした。
三、佐沼教授の殺人方法。
東和大学医学部の佐沼教授を青酸ガスで殺害した犯人には、共犯がいます。角倉講師です。
角倉は佐沼の忠実な犬でしたが、それ以上にエフェドリンの犬になっていました。二年以上前から、各種の覚醒剤の効能を自分の体で試しているうちに完全に中毒になってしまいました。そしてエフェドリンを与えてくれる犯人の言うことおりに、角倉は行動するようになりました。犯人にとって、それはおもしろいようでした。そして、覚醒剤が切れることに対する角倉の不安がなければ、この犯罪は成立しませんでした。
標本①が手に入ったころから、これは偶然なのですが、佐沼は角倉の中毒症状に気づいて、エフェドリンや覚醒剤の管理を厳重に行うようになったのです。角倉は佐沼の自分への愛情がさめていった、と誤解したようです。そして標本①に対して、異常なまでの嫉妬心を持つようになったのです。
あの密室に硫酸を運びこんだのは角倉です。
犯行の三週間前から、角倉は標本室のなかに用意されている予備のボトルの一つを、目立たない場所に隠しました。小ボトルに、少しずつ硫酸を入れて、『昼寝』のたびに、標本室のそのボトルのなかに運び込んだのです。
あの密室のトリックは、すべてあのドアの構造にかかっていました。警部は覚えていらっしゃるかしら? 田所さんの説明のことを。
『外側からキーが差し込まれ、ドアノブが回されて、ドアが開かれたことが感知されると〇・〇五秒以内にドアノブの側の乱数データが変更されます。そしてキーを抜くときに、その乱数がキーの側に記録されるんどす』
あのキーは外側からキーを差し込んで開かない限りは、乱数が変化しないことに犯人は気づいたのです。つまり内側から開かれる限りは乱数は変化しないのです。だれか共犯者を潜ませておけば、内側からドアを開かせて、あの部屋に入ることができたのです。
そして、佐沼自身の猜疑心が、この密室トリックを完璧にしたのです。裁判を闘う面高の側に、研究の秘密が漏れていることに、佐沼はひどく危惧を覚えていました。だれかがあの教授室あるいは、標本室に侵入しているに違いない、と結論づけたのです。一番疑がわれていたのは、このわたしと水上講師でした。さらに秘書の田所さんにも疑惑を持ちだしていました。
そこで角倉は数日前から、泊まり込みで警戒することを提案して、すでに、帰宅してしまったように装って、そのまま標本室に昼過ぎからずっと留まるようになっていたのです。
事件の前日の午後七時半、佐沼は、教授室に残っていた二人の女性、わたしと田所さんに対して、角倉が外部にいるような演技をしました。角倉からの電話は標本室から、携帯電話でかけられたものなのでした。
八時には、演説文を推敲していた二人も教授室から出ていって、部屋は真っ暗になったのです。
八時半、角倉は、犯人の合図を待って、内側から標本室のドアをそっと開きました。犯人は、そのとき入れ違いに、その部屋に入ったのです。
そこから、角倉は、大急ぎで赤坂フェァウェル・ホテルに向かいました。そこでガゼットの探偵と落ちあって、調査資料を受けとったのです。いかにも大久保教授のあとをつけたふうに装って。大久保教授は、こちこちの反佐沼派ですから、あの日、必ずあすこに行くことは最初からわかっていました。ずっと、あとをつけていたと言えばよかったのです。
もし、待ち合わせの時間に遅れるようなことがあっても、途中で見失ったとでもなんとでも言えましたから。
ただこの時点では角倉は、すべてのトリックは標本①を傷つけるためだとしか思っていません。まさか、佐沼の殺人のためのトリックだとは思いもよらなかったのです。
あの教授会の朝、午前五時に犯人は、標本室で行動を開始しました。
標本①のボトルを床に置き、その嬰児の標本を取り出して、後頭部を軽くメスで切開して、本来、脳の入るはずだった嬰児の頭部に、青酸ソーダの錠剤を詰めました。そして、そのまま床に放置したのです。
次に硫酸の入ったボトルを取り出します。そこに標本①の札を貼り替えたのです。つぎに、そのボトルを標本棚の一番目立つところ、つまり元々①のボトルのあったところに置いたのです。
あとは、つい少し前まで①だったボトルの中身のホルマリンを捨てて、ボトルを隠せばよかったのです。
六時前に、犯人は内側からゆっくりとドアを開けて教授室に出ました。オート・ロックのかかる音を聞いた瞬間に、すべての準備は完了したのです。
あの朝、佐沼が標本室に入らずに直接教授会の席に来たのは、やや計算外のことでした。しかし、そのときの対応も十分にとられていました。
教授会が始まり、やがて医学部長選挙の立候補の議題となるはずでした。そこで佐沼が推薦されることは間違いなかったからです。
犯人は、そのとき受託演説の草稿の一番上に、メモを張りつけて出せばよかったのです。
『無脳児の標本①が床に放り出されているそうです』
あの嬰児に対する佐沼の異常なまでの執着心、いや愛情を犯人は知っていたのです。それを見ただけで、間違いなく佐沼は標本室に駆けこむはずですから。教授会のメンバーの視線が佐沼の奇行にくぎづけになっているあいだに、犯人は簡単に、そのメモを隠すことができたのです。
ドアを開けて、部屋に入った次の瞬間、床に横たわる嬰児を見たときの佐沼の驚愕はどれほどのものだったでしょう。
とにかくあわてて、①のボトルの蓋を開け、嬰児をホルマリン液のなかに戻そうとしたはずです。大気に一分でも触れさせることは、標本にとって致命的なことになるからです。そこで、ひとまず安心して見届けるはずです。
でも、次の瞬間に、佐沼の目の前で、その貴重な嬰児の標本は、どろどろと溶け始めるのです。どんなに驚いたことか、佐沼のようすを想像するだけで犯人は愉快な気分になれます。
必ずボトルを開けて、嬰児をもう一度取り出そうとするはずでした。
そのときには、嬰児の頭のなかの青酸ソーダの錠剤は十分に硫酸の海のなかに溶けて、青酸ガスを発生しているのです。蓋を開けた瞬間に佐沼はたちまちのうちに昏倒して、即死状態になったはずです。
まさか、そのときに硫酸のボトルのなかから嬰児を手づかみで取り出すことができるとは、さすがの犯人にも予想外のことでした。
いずれにしても、佐沼は死から逃れることはでませんでした。犯人は、ずっと前から、母親を植物状態に追いやってしまった佐沼への復讐を、その子にやらせてあげたかったのです。
四、角倉の殺人方法。
あの男を殺すことは簡単でした。エフェドリンの中毒ですから。
毎日、二ボトルの水溶液が必要になっていました。
注射をして、そのあと、水溶液の点滴をするようになったのです。
犯人のしたことは、簡単なこと、そのうちの点滴用のものの一つをヘロインの水溶液に変えただけなのです。どちらも透明で見かけ上の区別はつかないのですから。
そして、警察のご推察の通り、エフェドリンとヘロインという超一級のドラッグが体のなかで混ざったのです。
体のなかでアッパー(興奮剤)とダウナー(鎮静剤)が混ざったらどうなるでしょう。麻薬中毒者のあいだで、俗にスピードボールと呼ばれている現象が起こります。卑近なたとえでいうと、体のなかで壮大なマッチ・ポンプが始まります。放火犯と消防隊のおっかけっこ。いやいやギャングと警官隊の撃ち合いが始まったようなものになります。
心臓の鼓動は初め、五分から十分ごとに、ゆっくりと上昇と下降をくりかえします。やがてその間隔は三十秒ごとに上下するようになるのです。 快感があるのはここまでで、突然それが十秒おきになって、心臓は早鐘のように打つかと思うと、たちまち止まって、激しい不整脈となります。 どんなに心臓の丈夫な人間でも、たちまち心不全を起こして死んでしまうのです。
念のため、犯人は標本室と同じフロアーの研究室で、カンフル注射を打つ準備をして、待機していました。もちろん、その注射筒のなかに入っていたのは、瞬間的に心臓を止めてしまえる薬でした。
犯人にとって残念なことは、あの卑劣な人間の死顔です。あの男があんな穏やかな顔をして、あんな恍惚状態のまま死を迎えたことだけが犯人の心残りだったのです。
警部さんには、もう、おわかりですね。わたしがどのような経緯でこのようなことを知るようになったかを。わたしは冷徹な殺人犯人から親しくこれを教えてもらったのです。
つまり、わたし自身から。
『斎藤美沙さま』ワープロ。
人はだれでも秘密を持って生きているものなのね。
どんな人間でも、どうしてもだれにも知られたくない秘密はあるものよね。
たとえ医者であろうと、いいえ、医者こそ、患者の秘密は守らなければいけないのよ。それを保険会社や患者の遺族から告訴されることを恐れて、インフォームド・コンセントという美名に隠れて、どんな病状も告知してしまうことを、わたしは個人的に、決してよいことだとは思わなかった。
それがどんなに人を傷つけるものであるかは、あなたの染色体のことを、政晴さんに告げると、わたしが言ったときの、あなたの目を見て、よくわかったわ。
真実こそ、いかに深く鋭く人を傷つけるのかを。
これから、わたしは真実を書くわ。つまり秘密を暴露するということ。そのことであなたは、きっと驚くわ。賭けてもいい。あなたはきっと激しくわたしを憎むことになると思う。でも、わたしは真実を書くわ。もう、そうするしかないところにまで追いつめられてしまったから。
まず最初に言っておかなければいけない秘密。
あなたは正真正銘の妊娠よ。あなたのお腹のなかの胎児は、もう三ヶ月になっているわ。すぐに区役所に行って、母子手帳をもらいなさい。現在あなたのメンスが止まっているのは、あなたが男のなりそこないの奇妙な体のせいじゃなくて、れっきとした母親になったせいなのよ。
次に言わなければいけない秘密。
それは、あなたがわたしの研究室から持ち出した小瓶の中身のこと。あれには仰々しく青酸カリ(シアン化カリ KCN potassium (ポタシウム)cyanide)ってラベルが貼ってあったけれど、あの瓶のなかに入っていたのは青酸化合物じゃないの。
クエン酸カルシュームと、乳酸カルシューム、それにリン酸水素カルシュームの混合錠剤なのよ。市販されているカルシュームの錠剤と同じ中身で、歯が弱くなりやすい妊婦には、とってもいいものだわ。あの日、あなたがわざと毒物を持ち出したくなるような話題を出して、わたしは、あの部屋から席を外したの。
あなたは、わたしの期待どおりに、それを持ち出してくれたわ。
そして、いよいよ最後の秘密にたどり着いてしまったわ。
HADという言葉の意味を教えるわ。政晴さんの日記に書かれていたHADというのは、間違いなくHermaphroditeの略に違いないと思ったの。Hermaphrodite というのは、勇者Hermesと女神Aphroditeとを混ぜた造語のことで、半陰陽のことなの。医学関係者でも知らない人間が多いのよ。そして、その言葉をあなたから聞いたときから、わたしはもう、おしまいだと思ったわ。あなたに全てを知られるのは時間の問題だと思ったの。
あの血液分析の結果は、あなたのじゃなくて、みんなわたしのだったのよ。
佐沼と角倉は、わたしの秘密を知って、生きたままわたしを解剖する方法を話し合ったわ。
「半陰陽の外性器と内性器をそれぞれホルマリンにつけて展示するんだ」
佐沼がそう語ったことを知ったときに、わたしは二人を殺すことを決心したんだわ。
いずれにしても、わたしは、妊娠している女性に、とんでもないことを宣告していた角倉のことを非難できる立場ではなくなったの。医師としてのモラルを別にしても、あなたに対しては『許して』という言葉を出すことさえ、許されないほどの罪を犯してしまったのだから。
美沙、こうやってあなたの名前を呼ぶのも、これが最後になるのね。
そして、きっとあなたをこんなに驚かすのも。あなたは、間違いなく、わたしから去っていってしまうのだから。そして、あなたはきっと一生わたしを憎み続けることになるのだから。
でも、その『憎まれる』ことでわたしは、やっと安らかな気持ちになれるの。この激しい良心の呵責から逃れられるのよ。
だから、お願い、遠慮しないで、わたしをとことん憎んで欲しいの。わたしは残酷な罪深い女なの。いや女ではない、男のなりそこないのバケモノ。
ワープロの文字は、そこで途絶えていた。
谷川のせせらぎが一段と大きくなってきた。
そして、また、あの角倉の声が耳もとに戻ってきた。
「あなたは、高校のとき同級生の男の子と旅行に行き、キスをして……」
あれは、少しも間違いなんかじゃなかったんだ。
夫あての封筒を、最後に取ろうとして、美沙の手が止まる。
この封筒の並び方は、まるで遺書のよう。
ひどく不吉な胸騒ぎを打ち消すように、慌てて封をあけていた。
『水上政晴さま』ワープロ。
わたしは大学に入るまで、男の人を好きになったことはなかった。そこであなたに会って、わたしは変わったわ。そして、大学四年の春ごろになると、漠然と、もし結婚するのなら、その相手はあなたになるだろうな、と思っていた。
恥ずかしいけど、そのときには子供の数も決めていたわ。女の子が二人、そして一番下に男の子がいいって。でもその前に、どんな形でプロポーズを受けることになるんだろう? 授業中にそんなことばかり空想していたこともあった。わたしは、女だった。
遺伝子治療の実習に行ったときにわたしは、ひどく興味を覚えて、自分の染色体を顕微鏡で調べて見ることにしたんだわ。
わたしは四十六個ある染色体の形を一つずつ丁寧にスケッチしていったわ。
そして、性染色体の形にたどり着いたとき、ええ、そのときのショックをあなたにどう説明していいのか。
医学的に正直に告白するわ。わたしは、その日までまったくメンスがなかったの。無月経症だったの。中学高校のときには少し不安があったけれど、受験勉強のストレスのせいだと考えていた。それに大学に入ってからは、医学部の図書館で未婚女性の無月経症は千人に二、三人の確率で起こる普通の症状で、少しも珍しいことではない、と書いてある資料を見つけてから、少しも心配ではなくなったの。
特に最初の性交で刺激を受けて、ホルモンが分泌されて、初経が起こる場合が多いと書いてあるところを見て、秘かに、その日が早く到来することを願ったの。
そして、もちろんわたしの体に最初の刺激を与えるのは、あなただと信じていたわ。
でも真実は、わたしの存在の根底を崩すことだった。昔から、負けず嫌いで、女というレッテルを貼られることを拒否していたわたしへの神様の罰だったのかしら。しかし、『男』というレッテルを貼る、というのはあまりに残酷な罰。
わたしは、それから平凡な幸せを求める道をあきらめて、勉強に没頭したの。没頭するものがなければ、わたしもきっと、どこかから飛び降りていたに違いなかったから。
半年前の十一月五日のことを、わたしは決して忘れないわ。突然、初潮が始まったの。わたしは驚いたわ。しかし、精密な検査の結果、わかったことは、わたしの体のなかにあった疑似卵巣の形をした睾丸と副睾丸が癌化したことだった。三十年間も腹腔のなかに押し込められていた睾丸が悪性の腫瘍になって、真っ赤な血を吐き出し始めたのだった。
三日後、わたしは、勇気を出して、あなたに相談したわ。それは、あなたの日常に重荷を負わせただけの結果になってしまったけれど。
あなたは患部の摘出を勧めてくれた。でも、わたしは抗癌剤を使用したわ。それは予想以上に劇的な効果を発揮してくれて、二週間で出血は止まり、寛解状態に入ったわ。しかし、その状態は四ヶ月も維持できなかった。
三月になって、再びわたしの膣からは出血が始まったの。今度は前と違って、濁った血の色だった。臭いも耐えられないものだった。強い薬を使って一時的に出血を止めることはできたけれど、それが有効なのは、せいぜい一週間がいいところだった。さらに強い抗癌剤を使えば髪の毛がすっかり抜けてしまうのがわかっていたから、飲むことができなかった。事態がどんどん悪くなっていることは血液を観察すれば歴然としていたわ。癌細胞がうようよと泳ぎ回っていた。腫瘍マーカーも、悪性であることを示していたわ。
「このままでは間違いなく肺に転移する。すぐに手術しよう」と、あなたは、必死になって言ってくれた。でもコンファレンスでわたしの症例が話されることには、どうしても耐えられなかったの。告知には限界があるものなのね。
あなたの提案で病状の急変にそなえて、わたしたちは常に携帯電話で連絡しあっていた。あなたは最後まで正確な居場所を教えてくれなかった。でもわたしの体調を心配する連絡が午前と午後、かならず一回以上あったわ。
「逮捕されたりしたら、間違いなく死んでしまうよ。きみは手術を受けて全快するんだ。それまでぼくは逃げているから」
わたしは冷静さを装っていたけれど、本当は涙が出るほどうれしかった。でもひとつだけあなたに黙っていたことがあるの。先週から、右胸に、チクリチクリと癌性の疼痛が走るようになったの。とっても残念なことだけど、わたしはもう肺に転移しているわ。
あの二人の悪魔は放おっておいても破滅するのは時間の問題だったわ。佐沼は間違いなく刑務所の塀の内側に落ちていたし、角倉も、あのままでいけば覚醒剤中毒で二年以内に廃人になっていたはず。しかし、わたしには、その結末をゆっくりと待つだけの余裕がなくなってしまっていたの。
長い間の孤独と新たにやってきた病魔が、どんなものよりも激しく、わたし自身を蝕んで、わたしの心のなかにも、悪魔を住まわせたのよ。そして医師として許されない犯罪を犯してしまったときに、わたしはさらに孤独になってしまっていた。
ありがとう。あなたがわたしの犯罪さえも許してくれたことに感謝するわ。
ありがとう。わたしの秘密を守るために、あなたは姿を隠してくれたのね。
ありがとう。あなたは、すべてを知っても、わたしを許して、愛してくれていたのね。
さようなら。
美沙と、いつまでも幸せに……
そして、もう一通、きちんと折り畳まれた手書きの便箋がその下から出てきた。
『水上美沙さま』手書き。
美沙、生まれたばかりの赤ん坊が母親に笑顔を見せるのはなぜだと思う?
『微笑反応』っていうのよ。新生児の視力は〇・〇〇五以下。それに脳のなかには、まだモノの形を認識する能力がないので、丸と三角の区別もつかないのよ。だから、母親の顔なんか見えるわけはないの。
その微笑は、ひたすら母親の愛着行動を誘うために本能的に備わっているものなのよ。生後三ヶ月後には、その反応はきれいに消えるの。そして、その代わりに乳児は、自らの大脳のなかで、母親に対して愛情を求め、本物の微笑みを作れるようになっているのよ。
最初に佐沼教授のコレクションを見たときから、わたしはあの無脳児のボトルに強く引かれたの。わたしは、その子供たちの笑顔を見て、とっても不思議な気がしたの。
教授が究極の標本として求め続けていた標本①には特に感動したわ。
「こいつには脳がない。従って考えることもできないし、心もないんだ」
教授の言葉は本当なのだろうか? わたしは、しっかりと目を閉じている赤ん坊を見つめたの。海馬と小脳の一部と延髄しかないのに笑顔は作れるものかしらって。海馬は記憶を司るところなの。正確には記憶を何度も何度も吟味して、整理された情報の形として大脳に送り込むところなの。
この子は母胎のなかに十ヶ月もいて、本当に一瞬たりとも、母親のことを考えなかったんだろうかって思ったの。絶対に、絶対にそんなことはありえない。命と命のあいだのコミュニケーションは、あったに違いないと思ったの。
うつむき加減のその顔には、生まれた瞬間にホルマリン液に投げ込まれた哀しみが広がっているような気がしたの。
この世界のなかで意味もなく生かされているわたしも、本当にこの子と同じ苦しみを味わっていた。ただ不幸なことには、わたしには脳があった。わたしに、もし脳がなければ、わたしの哀しみはこんなにも深くなくて、わたしの心もこんなにも傷つかなかったはずだけれど。
同じように、わたしが仮に医者でなかったとしたら、こんなとんでもない真実に一生気がつくこともなく、子供ができないとしても、平凡な主婦として一生を送れたのかもしれなかったけれど……命と愛のいとなみ、豊かな快楽の波打つ海の前に立っていても、わたしは、決してその渚にさえ入ることが許されない体だったの。
高校の入学式のあと、クラス別に分かれてチャペルでオリエンテーションがあった。初めてあなたに会ったときに、わたしの心になにかが波だった。やがて、わたしは、あなたの不幸な生い立ちと、傷つきやすい心を知った。どんな悪魔が育ってもおかしくない環境だったのに、あなたは、心のなかにこつこつと小さな天使を育てていった。
あなたの美しさと、あなたの優しさがどこから来るのかしら、それを考えながら、わたしには、はっきりとした愛情が生まれてしまっていたんだわ。
あなたとは、いろいろ楽しいことをした。旅行も一緒に行った。美術館、音楽会にも行った。おいしいものもたくさん食べた。でも、その度にわたしのなかには、なにか物足りないものが残った。本当の心の底にあるものも、すべて無条件で共感してくれたならと、わたしはいつも飢えるように、もだえ苦しんでいた。あなたは、わたしのなかの明るい部分とだけ付きあっていた。それは本当のわたしのことを知ったなら、わたしから全速力で逃げ出していくような接し方だった。
わたしはそれが哀しかった。死ぬほど哀しかった。美沙、そして、あなたを失うときが、わたしの死ぬときだと、ずっと前から決めていた。
あなたと、政晴さんとの結婚は、わたしにとって大きな試練だったわ。 わたしの心に悪魔が芽生えたのは、そのときだったのかもしれない。
美沙の幸せを素直に喜べない自分の心の感情のなかには、愛など一かけらもないではないか。いや、もともと愛など一つもなかったのだ。わたしは美沙を愛していると錯覚するほど鋭く激しく憎んでいたのではないだろうか?
わたしは美沙を好きだった。でも、それは本当に好きということなのかしら? 本当は美沙の美しさを妬ましく思い、それを破壊して屈服させるためだったのではないだろうか? それは明らかに憎しみの反射した歪んだ形の愛。人を愛している、とは言えない自分を守るためだけの愛ではなかったのかしら?
あの日、わたしは賭けをしたの。わたしのカルテを、あなたに、そっくり渡したの。
あなたは、わたしの苦しみを苦しんでくれた。でも、それはひどく残酷すぎて、わたしは毎晩、自分の喉笛をナイフで引き裂かれるような悲鳴をあげて、ベッドのなかで泣いていた。
わたしが生まれてからずっと飲んでいた苦汁。それがそれほどの劇薬だったとは、わたしはあまりに自分の境遇を知らなさ過ぎたんだわ。そして、本当に人を愛しているのなら、その愛している相手に苦しみを与えようなんてことを考えらるはずがないじゃない。わたしは、そういう意味でも自分自身に絶望したの。
それでも、悪魔のようなわたしの心は、今夜、わたし自身に最後の賭けを命じたの。
もう、わかるでしょ。
そしてわたしは息を詰めるようにして見つめたわ。
あなたがあの薬を、わたしの飲むコップに入れるのかどうかを。
きっとあなたは入れてくれる。入れてくれるに違いない。入れて欲しいと、わたしは必死に願ったわ。人を殺すほど憎むこと、人を殺すほど愛すること、人を殺すほど追い詰められることも、あなたは、きっとわたしと共感してくれるに違いない、と信じていたから。
今日は、とってもいい日だった。
朝、あなたから電話をもらって、とっさに思いついたの。今日こそ、わたしの苦しみが清算される日にしようって。わたし自身の内側にある悪魔の心が、わたし自身の魂を食い尽くそうとする痛みから逃れることのできる日にしようと思ったの。そう、わたしこそ、あなたと旅に出られるのなら、どこでもよかったの。
そして、そのために、わたしは最強の抗癌剤を飲んだの。最後の晩に、あなたに不快な思いをさせたくなかったからなの。あなたとゆっくりお湯に入ること、それは、わたしにとっても最高の思い出になることなのだから。
下血は止まったけれど、薬の副作用で背中のうっ血が少し残ったのは失敗だったわ。いずれにしても、これから毎日、ひどい吐き気が続いて、一週間以内に髪の毛がすっかり抜け落ちるはずだわ。
水戸の友達が北海道にいただなんて、我ながら迂闊だったわ。でも、わたしもあなたと旅に出られるのなら、どこでもよかったの。
もうじき、午前〇時。
しつこい癌性の疼痛が始まったわ。でも、この痛みに苦しめられるのもあとわずか。
いま、わたしはすっかり安心して、すっかり清められたような気分、本当に聖なるものに近づいたような気分、すっかりおだやかな安らかな気持ちで死ぬことができるわ。
あなたを『美沙』と呼ぶことが、もうできなくなることだけが悲しい。でも事件の真相がわかったときに、あなたが、わたしのことをもう二度と、決して『由香里』とは呼んでくれないことは、はっきりしすぎている。あなたに親しく名前を呼んでもらえない世界、そんな世界は、やっぱり、わたしには生きるには値しないものなのよ。
最後に、もう一言だけ言わせて。
わたしはあなたを愛していた。男としてでもなく、女としてでもなく、 そう……母胎の海に浮かぶ無脳児が母親を呼ぶような、
とっても不器用な愛しかたで。
美しい文字は、そこで途絶えていた。
滝の上に倒れていた由香里が発見されたのは、翌朝になってからであった。仰向けに静かに横たわっていた。すでに呼吸はしていなかった。
致死量の青酸化合物を飲んでいた。美沙が見たのと同じ内容の村山警部あてのワープロで書かれた遺書も、すぐ近くで発見されていた。
美沙は遺体の身元確認のために、その現場に呼ばれた。
長い階段の両側には、ツツジの花が咲き乱れている。
『明日、一緒にその滝の上まで、行きましょうよ』
由香里の言葉の意味がようやくわかった。
「あなたが言いたかったのは、このことだったのね」
美沙の独り言である。
「な、なんですか?」
立ち会いの警察官の声も、かき消されそうなほど大きな滝音。明るい空の下、緑の木々をゆするさわやかな風。
そして、この五月のなかでどんな花よりも哀しいものが美沙の目の前に横たわっていた。
由香里は化粧がうまい。化粧の乗りがいいのだろうか?
どこからが本当の皮膚で、どこからが化粧なのか区別がつかない。女も三十をすぎればいろいろなくすみとか、染みとかが化粧の薄い皮膜を破って、表からも見えるようになるはずなのに。
不思議なほどつやつやとしてきれいな肌だ。まだ男を知らない乙女のような清らかさ……。




