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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
14/17

第九章

(一)


「わざわざ、本庁まで来ていただいて恐縮です」

 ていねい過ぎる吉野の言葉など、まるで聞こえないかのように、村山は窓の外を見ていた。そして、すぐにポマードの髪に手を伸ばす。

 この人の奥さんは、この臭いに耐えられるのかしら?

 美沙は不思議に思う。

「あの、これって任意の取り調べでしょうか? 」

 今朝、由香里からそう聞くように電話で言われていた。

「ええ、もちろんです」

 吉野の返事を聞きながら、美沙も窓の外を見る。

 ビル街の造る直線で区切られた景色のどこからも、季節感を感ずることはできなかった。

義母(はは)が来るかもしれませんので、早目にお願いいたします」

 半分、腰を浮かす仕種をする美沙は、この日初めて、村山の声を聞く。

「いや、お姑さんは、お宅を訪問できるわけがない。いまごろ、うちの課の別の刑事の訪問を受けているんだから。なにしろ息子さんが連続殺人事件の容疑者になっていて、全国に指名手配されているんだ。しかも、その直前に失踪とくれば、」

 どうも話が整いすぎているぞ。

 村山は、すこし首をかしげる。

「ご主人の潜伏しそうなところには全部、捜査官を配備してある。まあ、逮捕も時間の問題だな。でも、その前に動機をはっきりと、させておきたいんだ。奥さん、今日は、ゆっくりと時間が取れると思いますよ」

 村山は、『ゆっくり』と、いうところに力を入れる。

「これで十人目だ」

「えっ」

「最初は、単なる自殺に見えたんだが、妊婦ってとこが、どうも引っかかったんだ。調べてみると、その前にも妊婦が一人電車に飛び込んでいた。そして、奥さんが目撃した飛び降り。さらに病室で首をくくった女性。その被害者が今朝、未明に息を引き取ったという連絡があった」

 あの人は、とうとう亡くなってしまったんだわ。

 たった九十センチの高さで、命を絶とうとするまでの絶望が人間には起こりえるものだということが、いまの美沙にはよくわかった。

「その四人ともご主人の患者なんですよ。母子合わせれば八人の命が亡くなったんだ。そのあとご主人の上司の佐沼教授があんな奇妙な死に方をした。そして昨日、講師の角倉もぽっくりとくたばった。みんな殺人の可能性があると、おれはにらんでいる」

 村山の濁った瞳に見すえられて、美沙は思わず視線を下げていた。

「ええ」

「一番かわいそうなのは、あの硫酸でどろどろになった子どもだ」

「その子は殺人ではなくて、生後すぐに亡くなったんでしょ。脳がなかったんですから」

 これは由香里から聞いていたから、間違いのないことだった。

「いいや、そのホルマリンに漬けられた名前もない子を、硫酸のボトルに漬けてどろどろに溶かしてしまったやつがいるんだ。その笑顔をむちゃくちゃにしてしまったやつがいるんだ。少なくとも人間の形をしていたものを、ぼろ雑巾の形にしたんだ。これが殺人でなくて、なにが殺人なんだ。いいか人間の形をしている以上、どんな状態でも人間なんだ」

 矛盾している。 これじゃ、すっかり磯部の論理じゃないか。少し頭を冷やさなきゃいかんぞ。

 自分でもそう感じながら話し終えると、村山は急に取調室から飛びだしていってしまった。

「むちゃくちゃだ。これじゃ、調書にならない」

 吉野刑事が頭をかかえたとき、机の上の捜査資料の山が崩れ、大学病院のカルテが一枚飛び出してきた。美沙の目に入ったそのカルテの患者はずいぶんきれいな名前だった。

 その姓名欄には『森村有花』と書かれてあったのだ。

「あっ」

 唇を開きかけた美沙は、心のなかで小さな叫びをあげた。

 この名前には、記憶がある。確か、それは由香里がわたしの血液検査を出したときの仮名だったはず。偶然なのかしら?

 廊下を戻ってくる村山の靴音がして、美沙は、はっと身構える。

 タバコを取り出すと、村山はポケットをいらいらと探し始めた。

「おい、ライターがないのか」

 吉野が素早く差し出したライターでタバコに火がつくと、しばらくは別人のように、おとなしくなった。

「奥さんはずいぶんきれいな肌をなさっているんですね」

 口調までもが、やわらかい。

「えっ、急になにを言い出すんですか」

 そう言いながら吉野の顔が赤くなる。

「警部、本題に戻ってください」

「まあ、そうだな。じゃ、この写真を見てもらおうか」

佐沼の写真に、美沙は思わず顔をそむける。

「硫酸で顔がどろどろに溶けてる。両手もひどいやけどだ。しかも死因は青酸ガスだ。そんな有毒なガスはどこからやってきたのかね、奥さん。硫酸に青酸ソーダを混ぜれば青酸ガスが出ることまではわかっている。あとは、どうしても青酸ソーダの痕跡がいるんだ」

「はあ」

 警察の都合だけで話を進める村山に、美沙は気のない返事をする。

 村山は、もう一枚写真を出す。角倉の死体写真である。こちらは冷静に見ることができる。美沙が睡眠療法を受けたときと同じような姿勢をしている。静かな寝顔で、死体であると言われなければ、ほんとうに穏やかな顔色で午睡をしているようにしか見えない。

「だれかが点滴のボトルにある強い薬を入れたんだ。それが体のなかでショック症状を起こして即死するなんてアイデアは医者じゃなきゃ、絶対に思いつかないことだ」

 致死量のヘロインが入っていたことは、取り調べ段階では秘匿しておいて、犯人に自白させ、自白の信用性を検事にアピールするという捜査方針だったのである。専門用語で『秘密の暴露の成立』と呼ばれていることである。

「それがどんな薬だったかご主人から聞いているんでしょ」

 吉野がさりげなく口をはさむ。

「いいえ、そんなこと主人が知っているわけはありません。それに、角倉先生はわたしを診察してくださったときも強い薬を何種類か使っておられました。ですから、ご自分で考えつかれて、ご自分の自殺の方法として、それを使われたんじゃないのでしょうか? 」

 これも由香里と打合せした答えである。

「じゃ青酸ソーダも佐沼教授が、自分自身の命を絶つために硫酸のボトルのなかに入れたって言うのか? 」

「ええ、佐沼先生も角倉先生も絶対に他殺だったという証拠がないのでしょう? それなら、自殺かもしれないですわね」

 心に少し余裕が出てきた美沙の頬に、初めて微笑みが浮かぶ。

「そ、そんなバカなことがあるわけないだろう」

 村山は、美沙の表情をじっと観察する。

「そんなに落ち着いていていいのかね。これ、あんただよ」

「えっ!」

 息を飲む美沙の顔の前には、一枚の写真が突き出される。

 診療台の上にぐったりと横になって寝ている女性の下半身が写されていた。そして、そのスカートに手をかけようとしているのは角倉であった。

「ど、どこで、こんなことを」

 あのクリニックでとしか考えられない。スカートの柄は間違いなく二回目の診療のときに美沙が着ていったものである。

 それにしても、患者を眠らせてこんなひどいことをしていただなんて。

「もう、一枚見るかね。これは光ファイバーで子宮をのぞき見る内視鏡らしいな」

「いったい何枚あるんですか? こんなふうにわたしが写っている写真が」

「みんな『染色体異常研究資料』というファイルに入っていた。ふん、なにが研究ファイルなんだ。それには他にも、世間には、とっても公表できそうもない写真がごっそり入っていたぞ」

 美沙は『染色体異常』という言葉を聞いて、胸が締めつけられるような気分になる。

 内視鏡を握る腕を、若々しい爪先で指しながら吉野が口を開く。

「この手は、角倉講師じゃないですよ」

「えっ! 」

「ほら、指に生えてる毛の数がずいぶん違うでしょ」

「ええ」

「腕時計を見てください」

 硫酸ですっかり焼けただれた佐沼教授の左手のアップの写真を見せる。

背広の袖口が完全に炭化しているのが痛ましい。

「こちらの腕時計と同じです」

「佐沼先生が! あの診療所に」

「あなたは、このことを知っていたんでしょ」

 政晴は、このことを知っていたんだ。

「だんなと共謀して、この二人を毒殺したんだろ」

 夫がどうしても言えないといっていたのは、このことだったんだ。

「青酸ソーダをどうやって、あのボトルに入れたんだ」

 そして、殺人で復讐してくれたのだとしたら……。

「点滴ボトルに投げ込んだタバコの種類と、それをどこで手に入れたかを言うんだ」

 そこまで、わたしを愛してくれていたのなら。

 美沙は、心のなかに急に暖かいものが広がるような気がしてきた。

「弁護士を呼んでください。当番弁護士の制度があるはずです」

 これも由香里に教えてもらった通りに美沙は答える。

「だれに聞いたか知らないが、素人はこれだから困る」

 ふだんから歪んでいる顔が、ここでさらに歪む。

「いいか、被疑者に対する当番弁護士の制度は逮捕状が出て、逮捕された場合にだけ適用されるんだ。こんなふうに任意の取り調べでは適用できないんだ」

「ご主人の行き先を本当に御存じないのですか?」

 吉野も追求の声をあげる。だが村山以外ならどんな野獣の声であったとしても、いまの美沙をほっとさせるものだった。

「ええ」

「知っていることを隠すと、ご夫婦といってもためにはなりませんよ。ことは殺人事件なのですから」 

「ここから帰してください」

「奥さん、本当は、今日も我々がお宅にうかがうはずたったんですよ。でも、何人もの刑事が入れ替わり立ち代わりお宅に入ったりしたら、ご近所の目を逃れられなくなるでしょう」

「ええ、それはそうですが……」

 口ごもる美沙の目の前に、村山は、さらに二枚の写真を取り出す。

「そんなふうに、だんなをかばっても、相手は奥さんのことなんか、なんとも思っていないんだよ。ほら、こんな写真も送られてきたんだ」

 一枚目は田所洋子と政晴がラブホテルに入る写真である。二枚目は、どこかの都市ホテルの廊下である。ドアが開いて、一組のカップルが部屋から出てくるところである。政晴に肩を抱かれて女がうつむきかげんで出てくる。そのベージュのワンピースには見覚えがあった。

「由香里が、夫とホテルに……どういうことでしょう? 」

「あんたのだんなは、職場の女性に次から次へと手を出して、相当な発展家ですな」

「これは、きっとなにかの間違いです」

 美沙は髪を振り乱して、反論する。

「奥さん、最後にもう一度だけ聞く。あんたのだんなは青酸ソーダをどうやって、あのボトルのなかに入れたんだ?」

「知りません。それにすべては自殺で、これは事件なんかじゃないんです」

「仕方ないか。おい、あれを言ってやれ」

 吉野刑事は、急にあわてだす。

「えっ、もうあのネタを使ってしまうんですか? 」

「かまわん。この女、見かけよりも落ちにくいぞ」

 吉野は背筋を伸ばし、美沙の顔をじっと見る。その表情を決して見逃さないかのように、柔和な顔が引き締まってくる。

「奥さん、今から三十年前のことです。立川近くの中央線を走っていた貨物列車に一人の男が飛び込みました。その男は首と胴体がすっぱりと切断されて……」

「やめてください! 」

「そのあと、その人の奥さんは、強度のノイローゼになって、結局、首を吊って亡くなったんです。ただ、当時の調書によれば、その前後に不審な人物がその家を訪問した形跡があったんですよ。ひょっとすると、首吊りに見せかけた殺人だったのかもしれない」

「聞きたくありません! 今度のこととは、まったく関係ありませんから」

「その人は優秀な事件記者で、ある疑獄事件を追っていたらしいですね」

「どこから、そんな昔のことを調べられたんですか? 」

 村山は自慢気に鼻孔を広げる。

「奥さん、わたしは関係者の経歴は、徹底的に調査することにしているんだ。また、どんなささいな証言でも必ずその裏付けを取ることにしている。そのときの裂断された写真を取り寄せることもできるんだ」

「やめて! お願いです」

 美沙は両手で顔を覆って、机の上に突っ伏した。

 東京近辺の飛び込み自殺を過去にまでさかのぼって詳細にしらべていって、こんな真実が飛び出してくるとは。

 刑事たちにとっても、それは思いもかけないことであった。

「奥さんは個人的には、どう思われます? 三十年前のあの事件が自殺だったとは、とうてい思えないでしょう。本当は二人ともだれかに殺されたんじゃないのでしょうか?」

 頭の上から吉野の声が響いてくる。

「どうして、そんな昔のことを……」

「少しも昔のことなんかでは、ありません。もし仮に殺人事件だったとすると、その犯人は相変わらずのうのうと、この社会のなかで生きているかもしれないのですから。奥さんの幸せを踏みにじってしまった人間がいたのだとしたら、ぼくは個人的にも許せません」

 吉野の言葉は最後には、沈鬱と言ってもいいほど静かな調子になっていた。それが終わるのを待ちかねたように、村山が歪んだ唇を開く。

「いいですかな? こんなふうに自殺と他殺を厳しく見分けて、とことん追求する刑事がそのとき警視庁にいたなら、奥さんは、もっと楽しい少女時代を送ることができたはずなんだ。あんたは、もっとわたしたちの捜査に協力すべきなんだよ」

 美沙の体はぶるぶると震え出した。

「あの事件を単なる自殺にして、うやむやに処理してしまった刑事をあんたは許せるのかい。あんたの実の両親を単なるノイローゼによる自殺者と決めつけてしまった人間を! 」

「わーっ」

 両手の甲の上に、顔を伏せたまま、美沙はそれから十分間も泣き続けた。

 そして、やっと取調室から開放されたのだった。





(二)


「あなた、なにを書いているの? 」

 美沙が研究室に入ると、由香里は、とても真剣な表情でノート・パソコンに向かっていた。

「あっ、これ。教授になるための論文なの」

 はっとしたような表情でパソコンの蓋を閉じていた。

「隠さなくてもいいのに」

 美沙にとって気の重い二回目の診察の日がやってきた。由香里のそのパソコンのなかにだけカルテが入っていて、病院の煩雑な窓口を通らなくてもすむのが、せめてもの救いだった。

「まあ、そうだけど」

 少し、うつむきかげんの由香里の顔を見ていて、美沙はようやく、あることに気がついた。

 わたしがまだ死なないでいるのは、由香里がいるからなんだわ。

「教授なんて素敵よね」

「あんまり、なりたくもないんだけど、ガゼット社も、わたしをプッシュしてくれるみたいなの。チャンスは生かしたいのよ。ゆくゆくは、この教室もまかせてもらえそうなのよ」

「ここの主任教授になるのね」

「ええ、まあ、どんどん、独身男性が遠ざかって、ますます結婚できなくなるわね」

 乾いた笑いを口元に浮かべる。美沙も、それに合わせるように少し笑いを浮かべようと思う。しかし頬が引きつってしまうだけだった。

 結婚できなくなるなんてどころじゃない、わたしの悩み。あの宣告、『本当は男である』と、いうことが幻覚であったなら。それに政晴が失踪して逮捕状が出ていること、そう、さらには、三十年前の両親の悲惨な死さえも、みんな幻であったなら……。

「どうしても、わからないことがあるの。夫は、なぜ健康な妊婦を殺す必要があったのかしら? 」

 最初に由香里に聞きたかったのは、警察で見せられた政晴との写真のことだったはずなのに。

 美沙は、それを切りだすのが怖かった。

「ねえ、あの人が本当に犯人なのかしら? 」

「証拠もなしに警察は逮捕状を出さないと思うけど」

 あの村山警部がどういう人間なのか知らないんだわ。

 それにしても、今日の由香里の言葉からは、なぜか冷たさを感じる美沙だった。

「子供なんて少しも欲しくないんだという思いこみだけで、産婦人科医が妊婦を殺すなんて考えられないことだわ。医者が人を殺すなんて、悪魔のようなことがあってもいいのかしら? 」

「悪魔」

 一瞬、息を止めた由香里は、かすかな微笑を頬にうかべて、ゆっくりとうなずく。

「確かにそうね」

 いよいよ、あの質問をしなきゃ。

 でも、美沙の唇からは、また違う言葉が出てきた。

「わたし、刑事に尾行されているみたいなの」

 途中の乗り換え駅で、あわてて美沙の電車に飛び乗ってきた吉野の姿を、ちらりと見ていたのだ。

「そうなの。政晴さんからの連絡は? 」

「まったくないの。あなたのところには、あの人から連絡があるんじゃないの? 」

「えっ、いいえ」

 由香里らしくないあいまいさ。

 ひょっとして、ここには電話が来ているんだわ。でもなぜ、夫はわたしに連絡してくれないんだろう?

「問題をこれ以上、複雑にしないため、あなたのことをインフームするつもりよ」

「えっ! わたしの体のことを病院に言うの? 」

「仕方ないわ」

「そんなことをしたら、夫に告知するのと同じことになるわ。お願いそれだけは、やめて。わたしたちは、このままでいたいの。あなたは残酷だわ。知らなくていいこと、知る必要のないことを、あの人に知らせるなんて」

「わたしたち? 政晴さんも、そう思うのかしら? 」

 冷たさを宿したその言葉に、美沙は、命の糸が断ち切られるような思いがしてきた。

「残酷だわ。あまりに」

 もう、二度とわたしは、ここには来たくない。由香里の顔だって見たくない。

 あんなに長いあいだ、友達として付きあっていて、あんなに好きだったのに。いや愛している、と言ってもいい親しい関係だったのに。

 うつむいて涙を流しそうになった美沙の心のなかで、不意に別の声がささやきだしていた。

 わたしは由香里を好きだった。でも、それは本当に好きということだったのかしら? 本当は由香里の美しさを妬ましく思い、それを破壊して屈服させよう、という思いの裏返しの感情だったんじゃないかしら?

 それは明らかに憎しみの反射した歪んだ形の愛。人を愛しているとは言えない、自分を守るためだけの愛ではなかったのだろうか?


 いまのたった一言でこんなにも簡単に崩れてしまう仲なのだとしたら、二人のあいだには、もともと愛情など一つもなかったんだ。わたしは由香里を愛していると錯覚するほど鋭く激しく憎んでいたのではないかしら?

それは美沙の心に、初めて芽生えてきた感情であった。

「わたしはご主人はもう、すべてを知っているような気もするの」

ひょっとすると、由香里はもう自分の口から、すべてを話しているんだ。

 どす黒い疑惑がわき上がってきた。

 そういえば、あの写真のなかで、角倉や佐沼教授たちの視線には、少しも卑猥さがなかった。どちらかと言えば、ひどく真剣だった。ちょうど珍しい標本を見る学者のようだった。

 あの人たちは、みんな、わたしの体のことを知っていたんだ。そして、それを熱心に観察していたんだわ。あのファイルの名前は『染色体異常』になっていた。あれは、おふざけでもなんでもなくて、本当に研究資料だったんだわ。

 もしかしたら、あの場には夫もいたのかもしれない。

 わたしみたいな体に興味をもった教授に、わたしの体さらすために、あの角倉のクリニックにも、わざわざ行かせたんだとしたら……あの二人を殺したのは夫の愛情だったなんてことを思っていたわたしは、なんて愚かだったんだろう。

 美沙は心に冷たいナイフを当てられたような気分になった。

 ここ一ヶ月の夫の行動は、どうしても理解できないことばかり。そして、急に冷たくなったのは、『わたしが男だ』ということをもう、すでに知っているからなんだわ。

 由香里さえグルになっているのかもしれない。この研究室全体でわたしを笑い物にしようとしているんだわ。

「ところで、性転換手術の具体的な方法を説明するからよく聞いてね」

「ええ」

 わたしが男の体になってしまうなんて。

 美沙は、軽いめまいを起こし意識が遠くなってきた。睡眠療法のベットに寝ているような気分になってきた。

「まず、クリトリスにシリコンを注入して男性器を形成するの。次に膣を縫合するの。大陰唇を利用して擬似睾丸を作るの。それから……」

 由香里の言葉は、美沙の心を素通りしていく。

 そのとき美沙の視線がぼやけて、なにか白い形のものを捕らえていた。

「で、その後、男性ホルモン療法を……」

 饒舌に、なにかを話し続ける由香里の後の棚に、その白い物はあった。

ラベルに『青酸カリ(シアン化カリ)』と書かれてあった。アルファベットで綴られた細かい文字も見える。

 美沙はバックに右手をすべりこませていた。指先に角倉のくれたピルケースが当たる。

「ねえ、ちゃんと聞いてるの? 」

 美沙の視線を確かめるように、由香里が問いただす。

 そのとき、ピルケースの中身はバックのなかに、すべてこぼれて落ちていた。

「じゃあ、ちょっと手を洗ってくるわ。まだ話の続きがあるから、絶対に帰っちゃだめよ」

 ドアの外に由香里が出たのを確かめてから、美沙は椅子から立ち上がった。背伸びをして、右手を伸ばしても、その棚には、わずかに届かない。机の角に左手をのせて体重を支えて、やっと、指先がその瓶に届いた。

 慌てて蓋をあけ、ふるえながらも、そのなかの錠剤の半分以上をピンクのピル・ケースに入れることができた。青酸カリの瓶を棚に戻すまで三十秒もかからなかったはず。でも心臓の鼓動は大きく跳ね上がって、鼓膜に響き、額からは急に汗が吹きだしてきた。


 アパートに帰った美沙を待っていたのは、ぞんざいに洗濯物が散らかった部屋であった。ベランダのドアは、もう何週間も開けられていない。美沙の心が荒廃していくように、部屋のなかから暖かさが消えてしまっていた。

 こんな部屋に、仕事に疲れたあの人は帰ってきていたんだ。夫が飛び出していったのも、わかる気がした。わたしみたいな人間を夫みたいな人間がいつまでも愛してくれるわけがなかった。いや、ほんの少しでも愛してくれて、結婚してくれたことの方が不思議だったんだわ。

 美沙はバッグからピルケースを取り出して、テーブルの上にそっと置いた。

 この薬でわたしは、いったいなにをしようとしているのかしら?

 心のなかに入ってくるのは孤独という名前のざらざらの砂だけだった。 美沙の感情は砂が一杯詰まって、口を固く縛られた麻袋のようになってしまった。

 子供のころ近所の小川が台風の洪水で増水したことがあった。大雨のなか、消防団の人が土嚢を山のように積んでいた。いまのわたしの心は、その一番下になった土嚢のようなもの。すっかり押しつぶされて、そして、だれからも忘れ去られてしまうもの。

 あの人が荷物をまとめて出ていってから、丸三日が過ぎていた。

連絡ぐらいはしてくれるかもしれない、と電話の前で座っていても、携帯電話を眺めていても夫から電話は来ない。それどころか、だれからも一本も電話がかかってこなかった。

 あまりにおかしいわ。ひょっとしたら電話が故障しているのかしら? 千葉の母のところに電話して、折り返し電話してもらおうかしら?

 でも、やめたわ。

 きっと、すぐに泣き出してしまいそうだから。


 養母も養父も、実の親と少しも変わりなく、わたしを愛してくれた。中流の上ぐらいの家なのに、上流家庭の子供の通うミッション・スクールに行かせてくれた。大学進学のときも、結婚のときも十分すぎるほどのものを用意してくれた。いつまでも大切にしていかなければいけないはずだった。

 千葉に移って、しばらくして、父が倒れ、母も足腰がかなり弱くなってきた。そして、わたしは、あんなに感謝していた自分の心が空回りしだしたのに気がついた。

 二人は、こんなときに世話をしてくれる人間として、体が動かなくなったときの保険として、わたしを愛していた。そんな狭い心から自分を愛してくれたわけではない、と心ではわかっていても体が動かない。これが本当に血のつながっていない親子の限界なのかもしれない。

 父母を見舞うと、その帰りには、いつも言葉が出ないほど全身が疲れてしまう。そのあまりにあたたかい笑顔も、本当の両親の突き放した態度には、かなわないものなのかしら? なにかが満たされない。心にぽっかりと穴があいてしまったような気がする。

 いま、わたしの体のことを告げても、両親にはなんの解決法もない。

そんな理由で養父母を避けている自分の心の冷たさ。その冷たさを見つめているもう一人の自分。そして、その自分の内側にいる二人をさらに冷静に観察しようとしている自分もいるのかもしれない。空しい。人間は、こんなことで沈黙の世界に入り、孤独な心に閉じこもっていってしまうのかしら?

 美沙は『鏡のハコ』の蓋をあけた。

 未来が真っ暗で、そして、もう二度と昔のように、だれとも明るい人間関係を結ぶことなんかできないんだわ。

 鏡に映るうつろな瞳は、静かに横たわるピンクのピルケースを見つめていた。






(三)

 

「いま、水戸の友達のところにいる」

 政晴が失踪してから十日が過ぎていた。

 朝九時すぎに、受話器を取った美沙の耳に飛び込んできたのは夫の声である。

「どうして、そんなところにいるの? 」

 返事の代わりに、せき込んだような調子で政晴は意外な言葉を口走る。

「きみは角倉からもらった薬をまだ持っているのかい?」

「ええ、あの青い錠剤のことでしょ」

「待てよ。白いカプセルじゃなかったのか!」

「新宿のクリニックでの診察のあと、もっとよく効くって青いのももらったの」

「それをいつまで飲んでいたんだ?」

「つい最近まで、でも、ときどきよ。すごく気持ちがすっきりするの」

「いいか、白いカプセルに入っていたのは覚醒剤だ。それに青い錠剤はもっと強い麻薬か向精神薬だ。すぐに捨てるんだ! 君の心に異変が起こったのもそのせいだったんだよ」

 すぐには信じられない言葉だった。

「わたしも、あなたに会って、どうしても話し合わなければいけないことがあるの」

 わたしの体が異常だってことを、もっときちんと伝えなくてはいけない。他人の口から伝わるよりは、ずっといいことだもの。離婚されてもいい。こんな中途半端な状態でいるよりは。

「絶対に、ここに来ちゃいけないよ。いいね。わかったね」

「どうして、そんなとこに隠れなくちゃいけないの? 警察の人も探しているのよ」

「警察に言ったら、絶対に承知しないよ」

 その声は驚くほど冷たく聞こえた。

「なぜ理由を言ってくれないの? 」

 電話はそこで不意に切れた。


「由香里、うちの人から連絡があったの。いま水戸の友達のところにいるらしいの」

 携帯電話の向こうでほんの少し沈黙があった。

「茨城県の? 」

「ええ、確か、あの人の高校時代の親友のことだと思うの。ちょっと変わった人でキャンピングカーに泊まりこんでボランティア活動なんかをしているの。住所はクルマなんだから警察にも、すぐにはわからないはず。きっと、そこだと思ったわ」

「会いに行きましょう。これから」

「これから? 」

「由香里には、どこかあてがあるの? 」

「実は黙っていたけれど、わたしの携帯には、おとといから連絡が入っていたのよ」

「そう」

 夫と由香里は、やっぱり連絡しあっていたんだわ。

「絶対に来るなって、言っていたわ」

「おかしいわね? わたしには、助けて欲しいと言ってきたわ。水戸の近くのキャンピング場にいるらしいの。とっても重大な話があるって。警察には、見つからないように来て欲しいとも言っていたわ」

「彼は、きっと、あなたを殺すわ」

 美沙の唇からは、自分でもまったく思いもかけない言葉が飛びだしていた。

 由香里、夫はあなただけは決して殺さないはずなのに。

「どうして、そんなふうに思うの? 」

「わからない。そんな予感がするの。そして、そのあと、わたしも殺されるんだわ。だって、わたしがこんなバケモノみたいな体と知っていたのなら、どんなひどいことを言われるかもしれないと思ったの。でも、そうじゃなかった。夫はわたしを殺すのよ。いろんな女の人たちを殺してきたように」

「そんなことはないと思うけれど……」

「本当に恐ろしい殺人鬼と、わたしはこんなに長いあいだ、暮らしていたんだわ」

「それじゃ、わたし一人だけで行くことにしようかしら」

「だめよ。わたしを一人にしないで。そんなことをしたら、わたしはきっと、この部屋から飛び降りるわ」

 もし、政晴と由香里の二人を、そろって、わたしの視界から逃すようなことがあったら、きっと二人とも、永遠にわたしの前には姿を現さなくなるんだわ。

 携帯電話を持つ美沙の手に力が入る。

「どうしても、一緒に水戸に来るというの」

「ええ、由香里、あなたを殺させないためにも、そうするしか、わたしには手段はないもの」


 午後四時過ぎに、由香里はシャネルのスーツを着て、水戸の駅前に立っていた。

「刑事をどうやってまいたの? 」

 横に立つ美沙も華やかなワンピースである。

「刑事? 」

「そうよ。きっと尾行されていたはずだもの」

 そういえば、団地のいちばん近くの営団地下鉄の駅にまで行く途中、後からついてくる男がいた。あの背広姿は吉野刑事に似ていた。

「上野駅の乗り換えを何度も間違えて、そうだわ。ちょうど学生の帰宅時間で、中学生に何度もぶつかったりしていた。きっと、そのときはぐれてしまったんだわ」

 あの村山に、また怒鳴られているのに違いない。

 吉野に対して、とってもすまないことをしてしまったような気がする美沙であった。

 そのとき不意に、由香里の携帯電話が鳴った。受信した番号を見て、いたずらっぽく笑った由香里が、美沙の耳元にスピーカーを押しつけてきた。

「ぼくだよ」

 聞き間違いのない、政晴の声が聞こえた。

「由香里、大丈夫か? 」

 返事もできないうちに携帯電話は美沙から遠ざかっていった。

「ちょっと車がうるさいから、待ってね」

 由香里はビルの陰に走り込んで、話を始めた。そして、その短い会話のあいだに、何度もゆっくりとうなずいていた。

 それにしても、さっきの夫の声はなんて優しさにあふれた声なんだろう。

 今朝の夫のぶっきらぼうな態度と比べてしまう美沙だった。

「ええ、そうするわ。美沙もここにいるのよ。代わるわ」

 携帯電話を受けとるだけで、胸がいっぱいになる美沙である。

「あっ、あなた、ごめんなさい来ちゃったの」と、言う前にすでに回線は切られていた。

「どうして、あの人は電話を切ってしまうの? わたしが来たことを、きっと怒っているんだわ。これから東京に帰ろうかしら」

 そう言いながらも、泣き出しそうになる美沙である。

「そんなことはないわ。なにかの都合で切ったのよ。あなたを袋田というところで待っているって言っていたわ」

「『ふくろだ』? どんな字を書くの」

「袋という字と、田んぼの田よ。水戸から郡山まで、水郡線というJRの線路が伸びているの。その途中に大子(だいご)という駅があるの。そのすぐ近くにある温泉地なの。一時間半ぐらいで着くはずよ。ちよっと、待ってね。切符を買って、ついでに宿の手配もしてくるから」

 由香里はとても、うきうきしているように見えた。

「はい、大子(だいご)までの切符」

 手渡されたJRの切符を美沙はじっと見る。

「どこかで見たような模様……そう、『まだハサミの入っていない切符』だわ」

 美沙の独り言に由香里が気づいた。

「えっ? なんのこと」

「ううん、なんでも」


 ディーゼル・カーがゆっくりと動き出した。

 午後四時半、陽はまだじゅうぶんに高かった。若葉の緑が目にまぶしい。窓の外に広がっているのは、命の喜びがあふれている季節だった。

このひと月に起こったことがすべて幻想であったなら。でもそんなことはありえない。わたしはどうしたらいいんだろう?

 美沙はバックを軽くにぎりしめる。そのなかには唯一、美沙が現実感を失うことを支えているものがあった。ピンクのピルケースである。

 わたしと由香里が二人そろって、この線路の上を戻ってくることは、二度とないんだわ。   

「わたしの体は、これからどうなるのかしら? 」

 美沙は試すような目をして、きりだした。

「あなたは大丈夫よ。あなたのことを世間の好奇心にさらすようなことは、絶対にせさないわ」

「このあいだは、絶対に告知する、と言っていたじゃない」

「あれは、間違いだったわ。教授になるってことにも、そんなに魅力を感じなくなったし、少し疲れたわ。大学も辞めるかもしれない。でも、それも美沙のことを、ちゃんと見届けてからよ」

 優しそうな笑顔。でも、あなたはうそつき。

「こういうふうに一年に一度でも、由香里と旅行に出て、きれいな所をいろいろ見て回ることができたらいいわね」

「えっ、ええ」

 言葉を濁す由香里。あなたは、わたしを切り捨てるつもりなのね。

「失礼します。切符を拝見します」

突然、目の前に車掌が現れ、帽子を取って会釈をしてきた。むっとした車掌の髪の臭いが鼻孔に突き刺さり、奇妙な吐き気に襲われる美沙だった。

 これは忘れもしない村山の臭いだ。

 上菅谷(かみすがや)という駅を過ぎると、乗客もぐっと少なくなってきた。両側に山が迫ってきて、列車は谷間を縫うように走る。その急カーブに耐えられないように、車両が大きく揺れて、軽い目まいも起こるようになった。

 谷底から湧きあがる五月の風がカーブの度に、列車の窓から吹きこんでくる。しばらく眠ろうと目を閉じていた美沙は、はっとした。

 だれかの息がうなじにかかってきたのか、と思ったのだ。

 確かに、こんな記憶がある。どこかでだれかから、こんなふうに息を吹きかけられたんだ。

 目の前には、屈託のない表情で、窓の外の景色を眺めている由香里がいた。






(四)


「袋田の滝には行かれました? 」

「いいえ、いま着いたところですから」

 由香里は、金色の帯をしめた女性に穏やかに返事をする。

「そうですか。では明日、ごらんになるとよろしいですよ」

 どうやら、この女性がここの女将(おかみ)らしい。年のころは五十をいくつか過ぎたぐらいだろうか?

 美沙には、かなり抵抗を感じさせる厚化粧である。

「滝の上には昇られるのかしら? 」

 由香里は妙なことを聞いている。

「ええ、とっても見晴らしがいいんですよ。少し急ですが、手すりのついた階段ができています。お客さんのような若い方なら、なんの苦もなく昇ることができますよ」

 よく耳をすますと、部屋のなかにも滝の音がわずかに響いてきていた。

「明日、一緒にその滝の上まで、行きましょうよ」

 美沙の方を振り返る由香里の浮き浮きとした声である。

 明日? もし明日という日があれば、そうするのもいいのかもしれないわ。

 でも十メートルとか二十メートルも階段を昇るのには、美沙は疲れすぎていた。

「滝って、どれくらいの高さなんですか? 」

「百二十メートルほどあります」

 絶対にその滝の上に行くことなんてないわ。

 美沙には、そのことがよくわかった。

 なぜか沈黙した二人の客の顔を交互に見るようにして、女将は旅館の(あるじ)として一流の笑顔を作る。

「では、どうぞ、ごゆっくり」

 畳の上に両手の太い指をきちんと合わせて会釈をすると、ようやく部屋から出ていった。

 あらためて見回してみると、随分凝った造りの離れだった。部屋は十畳もある控えの間、それに八畳の和室二間と二十畳近い洋室の寝室、さらに応接間まで別にあって、五、六人で泊っても、ゆとりがあるくらいの広さだった。

「こんな豪華な所に、わたしたち二人きりで泊るの。贅沢すぎない」

「ええ、でも気にすることないわ。ここはガゼット社のMRが佐沼教授のために手配した宿泊券を使えるのよ。田所さんからもらったわ」

「MRって? 」

「自社の薬剤を使ってもらうために病院を回って歩いている製薬会社のセールスマンよ。つまり、ここはタダってこと」

 由香里は、旅行鞄から小さなパソコンと携帯電話を取り出していた。

「どうして、あなたの携帯電話ばかり夫は使うのかしら? 」

「あなたの家の電話は盗聴されている可能性が高いのよ」

夫とのことであくまでしらを切るつもりなんだ。

「由香里、ねえ、どうして、こんな奇妙なところに、わたしを連れてきたの? 」

「奇妙って? 」

「うん、いいの。なんでもないわ」

 そのとき、不意に真実を確かめる方法があることに美沙は気づいた。

「ちょっと携帯電話を貸してくれる? 」

「いいわ」

 そっとリダイアルのボタンを押す。夫のところに通じるかもしれないと思った美沙は、はっとする。

 由香里は携帯が通じない山奥のこんな温泉を選んだんだ。やっぱり夫はここに来るのかしら? 信じられないことだけど、もしやって来るとしたならば、その目的は……由香里と一緒になって、わたしを殺すつもりなのかもしれない。

 きっと、そうなんだわ。わたしをこんな、とんでもない所に連れてきたのは、そのためだとしか考えられないもの。


 入浴するときに美沙は、自分の下半身を見た。

「クリトリスにシリコンを入れ……」

 不意に由香里の言葉が頭に浮かぶ。耐えられない。やっぱりそんな奇怪な体にされてしまうことには。

「天国にも温泉ってあるのかしら? 」

 美沙の問いは、ゆるやかな温泉の湧きだす音にかき消されていた。浴槽の表面を伝わる波が由香里のつややかな肌にかかっている。

「陶磁器のような素肌って、あなたの肌のことをいうのね、きっと」

 ちらりと見えた由香里の豊かな陰毛さえ美しい。

「えっ?」

「由香里、こんないい所に連れてきてくれて、ありがとう。ねえ、わたしたちこうやって年をとって、これから三十年とか四十年ぐらい、一緒にいろんな温泉とかめぐることができるのなら、それで人生というものを乗り越えていけそうだわね」

 今日が『人生の最後の日』と思わなければ、耐えられないほどの苦しみがあるっていうことが、あなたにはわかるのかしら?

 美沙は自分の心とは正反対のことを言う。

「そうね、将来のことも含めて、明日、政晴さんと、ゆっくり話をしましょう」

 将来のこと?

「もし、わたしに会ったら、あの人は最初に、どんな言葉をぶけてくるのかしら? 」

『バケモノ』とののしられても、しかたないことだけど。

「『もし』ってどういうこと? 政晴さんは必ず来るのよ」

「きっと、あの人は来ないと思うわ」

「なぜわかるの? そんなことが」

「由香里、あなたは政晴にだまされているのよ」

「どういうことなの? 」

「水戸の友達は、この季節に茨城にいたことはないのよ。春から秋にかけては、キャンピングカーで北海道を回っているのよ」

「なぜ、それを言ってくれなかったの? 」

「わたしにはもう、あの人の考えていることが、すっかりわからなくなったの? どうしてそんなふうに、あなたをだますのかも? ごめんなさい。わたしにとっては、そんなことはどうでもよかったの。あのとき、あのまま団地の部屋に一人でいたらきっと、どんなことをしていたか、わからなかったわ。由香里と一緒に旅に出られるのなら、どこでもよかったの」

 そして、一緒に死ぬことができるのなら。

 美沙は、その言葉を飲み込んでいた。

 返事の代わりに、やわらかな笑顔を作った由香里は、湯の肌触りを楽しむように、ゆっくりと体を回していた。

「あっ」美沙の小さな叫びがあがる。

 淡く赤い斑点のようなシミがその背中に広がっていたからだ。


「きっと不眠症で飲んだ薬のアレルギーだと思うわ。すぐに消えるから安心して」 

 部屋に備えつけのドライヤーで髪を乾かしながら由香里が答える。

「失礼します」

 和服の仲居が入ってきて、体格のいい大人が四人座っても、ゆったりしている飯台に、あふれるほどの豪華な食事を並べはじめていた。

「学者は体力よ」

 旺盛な食欲の言いわけをするように由香里が語り、久しぶりに体調のいい美沙も、最後の食事という悲壮感もなく、おいしく食べ終わることができた。  

 一時間もかけた夕食のあと、美沙は川沿いのベランダに並んでいる椅子に、ゆったりと腰をおろしていた。足元から、せせらぎの音が湧きあがってくる。

 突然、めまいが起こった。マンションのベランダで中庭から湧きあがってくる子供の声を聞いたときと同じだった。美沙は、ゆっくりと目を閉じて、これから起こること、いや美沙自身の手によって、引き起こされることを考えることにした。青酸カリの錠剤のことだけを。

「ねえ、こんなふうに二人で旅行するのって本当に久しぶりね」

 由香里の声が谷底の急流が生み出すせせらぎの響にかぶさってきた。

「わたし、ここに来たことがあるわ! 」

 美沙は急に叫び声をあげる。

「そんなことないはずよ。初めて来たって、あなたもさっき言っていたじゃない。きっとそれ、心理学でいうデジャ・ブー効果よ」

 それは、だれにでも起こる錯覚で、一度も行ったこともない外国の街角でも、不意に、いつか来たことがあると思いこむ現象だった。

 美沙も、夫から聞いたことがある言葉だった。

「ねえ、由香里と高校二年の夏に箱根のペンションに泊りに行ったことがあったでしょ」

「ええ、泊まり込みで宿題をやろって、でも全然ノートも開かなかったわ」

 爆笑するふたり、でも美沙だけは急に笑い声をとめた。

「思い出したわ。その晩、なにか事件が起こったんだわ」

「事件? そんな記憶はないけど」

「真夜中過ぎに、なにか、とっても不思議なことが起こったんだわ。でも思い出せない。由香里は覚えていない? 」

「わたし? わたしも思い出せないわ」


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