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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
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第八章

(一)


「ちょっと、標本室に入りたいんだけど」

 角倉が田所洋子に声をかけた。

「あの、どのようなご用件どす? 」

 佐沼が亡くなってからは、標本室のドアをロックをしないことになっていた。

「入っちゃいけないのかい? 」

 その開きっぱなしのドアに向かって、角倉が美しい眉をあげる。

「いいえ、そんなことありまへん。もう警察の方からも許可がおりてますから、出入りは自由になってますけれど」

 洋子が見ると角倉は小さな薬品のボトルをふたつ腕にかかえていた。

「ちょっと教授の資料に目を通したいだけだから、三十分もかからないよ。それまで、だれも部屋に入れないようにしてもらえないかな? 」

 標本室の例の鍵は、ドアの横の壁に無造作に掛けられていた。

「中の標本のボトルには手をつけたらあきまへん。それは警察にも、きつう言われてますから」

 角倉は、持ち主を失ったその鍵に向かって、軽くウインクする。

「わかってるよ。あんな変なもの、もう見たくもないよ。じゃ」

 どういう意味なんやろう、あのウインク。気持ち悪い人。

 オート・ロックの音が軽やかに響いて、壁に掛かったままの鍵がわずかに揺れた。

 角倉が標本室に入ることを許可してしまったことを、洋子は、もうほんの少し後悔しだしていた。


 ママ、ぼくは、

 きっと天使になっているんだよね。

 ほら、こんなに、こんなに

 空高く 飛んでいるんだもの。

 なん日ぶりだろう、

 こんな爽快な気分になれるのは。

 頭のなかが隅々まできれいに洗われるみたいだ。

 心のどこにもひとつの曇りもない、

 このすがすがしい青空といっしょだ。

 ほらカモメも、あんな低いところをとんでいる

 ぼくの、この高さには、かなわないんだ。

 ママ、愉快だよ。

 風がこんなに気持ちいいんだもの。


 あれ? どうしたんだろう。

 急にぼくの羽根が重くなってきた。

 どんどん下の方に降りていってしまう。

 どうしたんだ。

 もう海がすぐそばまできている。

 だ、だれなんだ、ぼくをひきずりおろすのは!


 ママ、こんなに深い海の底って、初めてきたよ。

 この冷たさも気持ちいい。

 この静けさも悪くないね。

 あれ? だれなんだろう。

 また、ぼくの羽根をわしづかみにして、

 引き上げようとするのは。

 だれだ。こんな急にぼくを引きずり回すのは!

 こんな高さにまで、息苦しいよ。


 あっ、また、まっさかさまに海に落っこちちゃうよ。

 ママ、ぼくの羽根がちぎれちゃうよ。

 助けてー。

 ぼくの体がバラバラになっちゃうよ。

 助けてくれ!


「ちょうど一週間だ」

 非番の日に呼び出された村山の声は、不快感に満ちている。

「えっ? 」

 鑑識課員があわただしく、そして手際よく現場の調査を行っている。

「先週の今日だろう。ここで佐沼教授が硫酸で死んだのは」

 村山は再び標本室に立っていたのだ。

「あの死因は硫酸ではありません」と、言いかけて吉野は口をつぐんだ。

怒鳴られる回数を、わざと一回ふやすこともない。

 点滴した姿でソファに仰向けになったままの角倉の頬には、小さなえくぼが浮かんでいる。いつもの凄惨さが宿っているような美しさがすっかり柔和なものになっている。

「こんな穏やかな顔の仏さんは久しぶりだな」

 村山は、そこでなにを思いついたのか、急ぎ足で部屋の外に出ていった。

「なんでこの部屋に、あの男を入れたんだ」

 田所の机の前に仁王立ちになる。

「佐沼教授が亡くなられる前まで、角倉先生は、出勤されはった日には、必ず午後一時ごろになりましたら、この標本室にやってきて、ドアを閉めて、なかでお昼寝なさってましたから。そのあと、たいていは新宿のクリニックの方に行かれてましたわ」

 村山に、にらまれるように尋問を受けても、田所洋子はいつもと同じように落ち着き払って答えていた。ただ、さすがに少し顔色が青白い。

「毎日、昼寝だと。いい身分だな」

「一度、鍵をかけ忘れていらっしゃったときに、のぞいたら、ご自分でなにかの点滴をしてはりましたわ」

「ここはオート・ロックだろ」

「ええ、ドアを閉め忘れはったんどす。それでちょっと、なにしてはるんかと、気になりまして」

「それはなんの薬でした? 」

 吉野が口をはさむ。

「ご自分では、栄養剤だ、言うてはりましたが、色が透明どしたんで、たぶん違う薬だろうと思ったんどす。そのときは、よだれを流しながら、うわ言みたいなことを言うてはって、気味悪うなりましたわ」

「うわ言? 」

「ええ、それが『ぼくは天使になった』って、言うてはるんどす」

「天使だと? どういう意味なんだ」

「わかりまへん」

「ということは教授がいないときには、角倉先生も、この部屋に入られなかったわけですな」

 吉野は、洋子の大きな瞳を見すえるようにして問いかける。

「はい、ただ一、二度だけ、半年以上前どしたかな、どうしてもと頼まれたときに、わたしのスペア・キーを使こうて入ってはりました」

「なるほどな」

 そういいかけて、村山の顔は驚愕につつまれる。

「わたしのスペア・キーだと! もうひとつ鍵があったのか」

「ええ」

「じゃあの日、教授が死んだときに、どうしてその鍵で部屋をあけなかったんだ」

「開けようとして机から一旦出そうとしました。でも、前の晩のことがあったんで、暗号キーが一致してないってわかったんで、やめましたんや」

「前の晩のこと? 」

「ええ、この合い鍵のことは、教授は知ってはりません。でもときどき教授が標本室のドアを開け放していらしているときに、そっと鍵穴に差し込んで、そのたびに乱数をコピーしてました。その時点では、この世界で唯一の合い鍵どした。

 でもあのときは、前の晩に角倉先生の電話を受けて、すぐに標本室のドアをご自分の鍵で開けて、すぐにオート・ロックがかかってしまいましたから、もう乱数が一致しない鍵、つまりあの部屋の合い鍵ではなくなってしまっていたんどす」

「そ、そんな大切なことをどうして、いままで黙っていたんだ」

「聞かれませんどしたから」

「くそっ、どいつもこいつも人をなめやがって」

 その怒りを鎮めるように、村山は、窓際の椅子に、腰かけた。

「ちょっと待ってください。田所さん、あなたが教授に無断でドアを開けたとするでしよ。次の日に教授が来られたらどうするのですか? 乱数が一致しないじゃないですか。今度は教授の鍵が部屋を開けられない鍵になってしまいますよ」

 吉野の質問に田所は大きくうなずく。

「ええ、そうなんどす。そのときは、翌朝、教授の鍵を借りてドアを開けるふりをして、私の鍵であけてましたんや。そのあと教授の鍵をノブに差せば、乱数はコピーできますから」

「なんだと! それじゃ、密室もくそもないじゃないか、ふざけやがって」

「いいえ、ちがうんどす。そんなことができたのは去年までどした。今年の初めから、教授は急に、ご自分の手で必ず鍵を開け閉めなさるようになったんどす。そう、ちょうどあの標本①が手に入ったころからは、特に慎重になりはらって、ドアを開けっ放しにしておくことも全くなくなってしまったんどす。つまり、わたしの鍵は合い鍵でもなんでもないことになったんどす」

「その鍵は、いつもどこに置かれていたのですか? 」

 吉野が聞く。

「いつもここにあります」

 田所洋子が引き出しを開けると、一番奥に小さな区切りがあって、そこにはちゃんと鍵があった。

「じゃ、この鍵じゃ、このドアは決して開けられないわけだな? 」

「ええ、もちろんどす」

 突然、立ち上がった村山は、開きっぱなしの標本室のドアに向かっていた。

「おい吉野、試してみろ」

 ノブを手前に引っぱっると、軽やかな音を響かせて、オート・ロックがかかった。

「おい、手袋をはめるんだ!」

 無造作に手を伸ばしていた吉野には、その罵声の意味がわからない。でも仕方なく手袋をはめて、スペア・キーをつかんでいた。

「警部、これでドアが開くわけがない……」

 驚愕のあまりに、開ききった喉のせいで、吉野の言葉は空中に凍りついた。

 カチリと音がして、標本室のドアが開いたのである。

「どういうことだ! 」

「信じられません」

 田所は、いままでだれにも見せたことのないほど取り乱す。

「偶然一致するのは百億回に一回って言っていたな。お前が、うそつきってことだ」

 やっと、なにかが見えてきたぞ。いずれにしても、このスペアキーこそ、この部屋に入るのに使われた最後の鍵だっていうことだ。

 目の前の京女を、どうやって本庁に引っ張っていったらいいのか、村山は考え始めていた。

「おい、これをすぐに鑑識に持っていけ」

「どうするんですか? 」

 吉野は、またもや怒鳴られる。

「スペア・キーの指紋を調べるんだ!」


 




(二)


「ずいぶんハンサムな仏さんだな」

 男の体を軽くアルコールで拭き終えた検死官の磯部の声である。

「名前は角倉敏英だ」

「生前の職業は? 」

「東和大学の講師だ」

 磯部は男の体をあたらめて軽く見まわす。

「こんなふうになったら、もう、どんな肩書きも関係ない。出世なんて鼻くそみたいなもんなんだな」

 検死官の声がむきだしのコンクリートの壁に響く。前回のような疑いが起こらないために、今回は宇田川教授ではなく、他の大学から、別の監察医が出張して司法解剖を行ったのである。これは極めて異例のことであった。

「ちょうど一週間だ」

 村山は事件現場と同じ言葉を出す。同じように不快感を込めて。

「あっ、そういえば、そうですな」

「先週の金曜日と同じだ。またまた、この部屋で司法解剖だ。検死官も、またお前だ。こんな珍しい事件が続いて、なんだかやな予感がするな」

「えっ? 」

『迷宮入りになりそうな予感』とは、担当刑事である村山の口からは立場上、決して言えないことである。

「死亡推定時刻は? 」

「十三時から十四時のあいだです」

「ガイシャの年齢は……」

 このごろ老眼の入ってきた村山は死体検案書を少し離すようにして見る。

「えーと、三十二才か。二十五才ぐらいにしか見えないな。死因は、なんだ」

 磯部は返事の代わりに、点滴用のボトルを高く掲げた。その一番下の点滴液が滴下する部分に黒茶色いタールのようなものが沈んでいる。

「なんだ、その黒いのは? 」

「1―メチル―2―ピロリジンです」

「なんだそれ? 」

「ニコチンのことです」

 そのとき村山は、シャーレの上に乗っている、四角く崩れた紙片に気がつく。

「紙巻きタバコか? 」

「はい、メビウス・ライトでした。巻紙の表面に印刷されている製造番号とフィルターの形状から判明しました」

「おれがいつも吸ってるのより、ずっと弱いんだぞ、このタバコは。たった、これ一本で死んだのか? 」

「ニコチンの含有量は一・五ミリグラム。致死量にはおよびませんが、静脈への点滴の最中に、その点滴液に混ぜられたのですから、死因となった可能性はありますが……」

「そんなに強い毒なのか? 」

「はい、ニコチンの致死量は、三十から六十ミリグラムです。 青酸カリの致死量が、百五十から二百ミリグラムですから、青酸カリの約三分の一の量で人を殺せるんです。いかに猛毒かわかるでしょう」

「その毒が体に入るとどうなるんだ? 」

「どんな薬も興奮剤と、鎮静剤に別れるんですが、唯一、ニコチンだけが両方の性質を持っているんですよ。ニコチンは初め中枢神経や末梢神経に興奮刺激を与え、激しい頭痛を引き起こします。しかし、すぐに鎮静効果が働いて知覚が麻痺して、意識を失い、あっというまに呼吸停止となります」

「そうか、それは相当、医学的知識のある人間しか知り得ないことだな」

「いいえ、ニコチンの有毒性は常識になっております。一般人にも殺人に利用できないことはありません」

「ふん、どうせおれは非常識だ」

「ただ、やっぱり静脈点滴中というタイミングは、絶妙過ぎます。もしニコチンが死因だったとしたら、わたしの立場では言ってはいけないことでしょうが、犯人はおそらく医師か看護婦でしょう」

「そうだろう。そうに決まっている。おまえ、いま言ったことを、裁判で証言しろ」

「そんなこと、できるわけないでしょう。そんな無茶ばっかり言うと、もっと大切なことを教えませんよ」

「もっと、大切なこと? なんだそれ」

「エフェドリンが検出されました」

「えっ、なにドリンクだって? 」

「そもそも点滴の輸液は、塩酸エフェドリンの二パーセント水溶液でした」

「それはなんだ? わかりやすく言えよ」

「覚醒剤の原料で、それ自体が、覚醒効果をもつ医薬品です。体内からもエフェドリンの反応が出ています。この男の左腕には点滴に使用したと思われる無数の注射針の跡があります。覚醒剤中毒者だったようです」

「じゃ、そのなんとかドリンが死因なんだな」

「残念ですが、もっと強烈なのが出てきました」

「もったいぶらないで、教えろ」

「致死量をはるかに越えるジアセチル・モルヒネが検出されました」

「俗に言うモルヒネってやつか? 」

「いいえ、モルヒネに無水酢酸を加えて加熱したもの。ふつう『ヘロイン』と、呼ばれています」

「それを早く言え! 」





(三)


「ねえ、あの標本室で角倉先生が亡くなったのよ」

 昼過ぎに起き出したときには、体調は最悪であった。耐え難いほどの筋肉痛、それに吐き気が続いていた。這うようにして美沙は『鏡のハコ』に向かっていた。そのなかからピンクのピルケースを取り出して、青い錠剤を舌の裏側に一粒入れた。そして唾液で溶かし始めて、一分もしないうちに美沙は、別人のように爽快な気分になっていた。起きあがったときには、頭のもやもやも、体の痛みも嘘のように消え去っていたのだ。

 部屋の掃除もして、政晴の好物のすき焼きの準備ができあがったころ、ニュースは、そのことを伝えていたのだ。

「やっぱりか」

 それから四時間も美沙が待って、ようやく帰宅した政晴は意外なほど驚かない。

「あなたも、どこかでテレビを見たの? 」

 目の前に並ぶ新鮮な野菜。肉は国産の特上の和牛。そして、いま冷蔵庫から出てくるタレは千葉の母からの直伝の手作りである。

 美沙は、夫の笑顔を期待して答えを待つ。

「おれは、本物の死体を見ているよ。正確には、あのときはまだ瀕死の状態だった。でも心停止直前だった」

「えっ! 」

「医師としては、心臓マッサージをすべきだったのかもしれない。しかし、どうしてもそうする気にはなれなかった。きっと警察に呼ばれることになるだろうな。おれは角倉に向かって『殺してやる』って、言ったんだ」

「どこで? 」

「研究室で、みんなが見ている前でだ。大喧嘩をしたんだ」

「初めて聞いたわ。いつのこと? 」

「三日前だ。だれだって覚えているはずだよ。たぶん、明日にでも任意の取り調べに呼ばれるんだろう。あの村山という警部は、なにがなんでも、おれを捕まえたがっているみたいだから、きっと逮捕ってことになるんだろうな」

「他人ごとみたいに言わないで、あなたが本当に殺したの? 」

「そうだ。いや、そうじゃない。でも、あの男は許されないことをした。殺されても仕方のないことだ。もし、だれかが殺したのだとしたら、その人間を誉めてやりたいくらいだ」

 医者としては、あまりに乱暴な表現である。

「あんな立派な先生だったのに」

「患者に対して、どんなにひどいことをしたのか、きみは知らないからだよ」

「どんなことをしたの? 」

「言えない。きみには絶対に言えないよ」

 夫は、また一つ、わたしに秘密を作ったんだわ。

「あなたが寝言で、佐沼先生を許せないって言ったら、すぐに、先生が亡くなったわ」

「そんなこと、知らないよ」

「こんど、角倉先生のときも、同じことが起こったんだわ。どういうことなの? 」

「おれが聞きたいよ」

「佐沼先生も、やっぱり、あなたが殺したの」

「バカげたことを言うんじゃない」

「あなたは、わたしにいろんなことを、ずっと隠してばかりいるのね。なんにも教えてくれない」

 この人の愛情は、もう自分から、すっかり離れてしまっているんだ。

 美沙は、そのときあんなに言いづらいことを、すべてを話してしまえるような気がしてきた。

「ねえ、わたしも隠していることがあるの。聞いて欲しいの」

「なんだ」

「そんな、怖い顔をしなくてもいいじゃない。人間の体って、いろいろ染色体があるんでしょ。そのうちの性染色体が男と女は違うのよね。ところが、ときどき神様が間違えて、男なのに女の体を与えてしまうようなことがあるらしいのよね」

 泣き出したいような気分になる。 

「わたしね……」

 そこまで言って、夫の顔を盗み見た美沙は、その顔色から血の気が引けているのに驚いた。

 政晴は、突然追いつめられたような表情になった。

「おれの日記を読んだのか! 」

「いいえ、由香里に聞いたの」

「嘘だ! それだけは絶対に嘘だ。由香里さんがそんなことを言うわけが絶対にない。絶対にないんだ」

「あの村山っていう警部がやってきて、いろいろ聞くの? 日記とかも見せてもらえないかと言うの? それはちゃんと断ったわ。でもどうしてそんなものに興味をいだくのかしらって、とっても気になったの」

 そこで美沙は急に夫に嘘をついてみたくなった。

「それであなたパソコンをいじっていたら、偶然にパスワードが見つかってしまったの。それで、つい。だから許して、もう二度と見ないわ」

「何月分から見たんだ」

「ずっと前から、全部よ」

「じゃ、なにもかもわかっていたのか。それでよく毎日、平気な顔をしていられたな。おれの苦しみを、なんとも思っていなかったのか! 」

 あなたの苦しみ?

 当人のわたしの苦しみはどうなの?

「わたし、由香里のところに行くわ。そして、なにもかも話すわ」

 夫が殺人犯だったなんて言えっこないけれど、もしそれを知ったなら、由香里がどれほど傷ついて悲しむことだろう。

「絶対に行かせない! 」

 なぜだろう?

 政晴の瞳には悲しい光が宿っていた。

「おれはおまえを殺す。いやできない。できない! 」

 錯乱する夫を見ていると、美沙の瞳にも涙があふれてきた。

「ねえ、あなた教えて、HADとかXYってなんのこと? 」

「日記を見て、みんな知っていんるじゃないか。なんでいまさら、聞くんだ」

 夫は急に書斎に走り込んでいった。美沙が追いつくと、ノートパソコンを手にもっていた。

「こ、こんなもの、くそっ」

 床に投げつけて、ハードディスクごと記録を壊そうとしているのだった。

「や、やめて! あなた。それにはあなたの大切なデータがいっぱい入っているんでしょ。ボランティアのサークル仲間の住所とか、患者さんのリストもあるんじゃない。ごめんなさい。嘘なの。日記を見たなんて言ったのは」

 政晴は、返事もしないでパソコンをカバンに入れて、さらに下着も詰め込みだした。

「あなた、どこに行くの? 」

「おれは、もう、おまえとは暮らせない」

「許して! 」

「許せない」

 そう言うと、ドアをけやぶるようにして表に飛び出していってしまった。

 薄く油のひかれたすき焼き鍋を、何時間も見下ろしていた時計は、ちょうど十二時を指していた。





(四)


「まず、問題はこの鍵だ」

 村山は、田所の目の前でスペア・キーの入ったポリ袋をぶらぶらさせる。

「この鍵はスペア・キーじゃなかったのか? 」

 警視庁捜査一課の取調室である。田所は任意の事情聴取に応じていたのである。

「ええ、そうどす」

 いつもより、薄めの化粧が、このキャリアウーマンの顔立ちを、なぜか優しく見せていた。

「いいか。よく聞けよ。この鍵には水上講師の指紋だけがべったりとくっついていてた」

 今度は、佐沼教授がもともと持っていた鍵、あの日、ドアのすぐ横の壁にかかっていた方の鍵を手に持つ。

「角倉先生がいつまでたっても出てこないので、不思議に思ってドアをあけてみると、先生のようすがおかしいので笹川助教授を呼んだと言ったな。そのときドアを開けた鍵は、こっちだろ。おかしいじゃないか。この水上の指紋のついた方の鍵でどうして、あのとき、あの標本室のドアが開いたんだ?

 いいか、このスペア・キーはな、最後にあの部屋に入ったのは水上だと言っているんだぞ! 」

 机の前に仁王立ちのようになった村山が田所を見下ろしている。

「そんなことありまへん。あっ、きっと私の思い違いどす。角倉先生が部屋のなかで奇妙な声を出されるんで、水上先生にスペア・キーであけてもろうたんどす」

「大嘘をつくなよ! 」

 吉野でさえ、びくりと肩をふるわせる。田所をひるませるのには、十分すぎる声である。

「ドアのすぐ横に鍵がかかっているのに、なぜ、スペア・キーを使う必要があったんだ。めったに使わない鍵だぞ。答えは一つだ。あの標本室のドアは、今週ずーっと開きっぱなしだった。水上は、あんたの机の引き出しから、スペア・キーを取り出して、そのノブに差し込んで、乱数をコピーしたんだ。そして、昨日、角倉を殺そうとして、あの部屋に侵入するのに、その鍵を使ったんだ。そうじゃないのか? 」

 田所は返事の代わりに小さく首を振る。

「おまえが教授室に入ったときには、すでにあの標本室のドアが開いていたんだ。そして中では、すでに角倉が死んでいた。そうだろう」

「弁護士はんを呼んでください」

 ガゼット社のどんな優秀な弁護士だって、本庁の取調室には入られない。そのことを知っている村山は余裕の表情を見せる。

「まあいいだろう。おい、吉野あれを聞け」

「角倉先生はタバコを喫っていたんですか? 」

「はい、いいえ」

「なんだ? その返事は」

「先生は精神科にいらっしゃったころは、とってもすごいヘビー・スモーカーだったんどす。けれども、この研究室に移ってからは吸わなくなりました。佐沼教授がタバコをとってもお嫌いだったので……」

「禁煙したんだな」

「ええ」

 村山は田所の口調がすっかり別人のように弱々しくなっているのに驚く。

「おい、吉野、次の件だ」

「三日ほど前に、水上先生と角倉先生はものすごいケンカをなさったそうですね。理由をご存じなのですか? 」

「わたしが悪かったんどす。佐沼教授の机を整理しているうちに、とんでもないファイルを見つけてしもうたんどす。それを水上先生に見られてしまって……」

「それはどんなファイルですか? 」

「言えまへん。とっても」

 初めて見たときと、まったく印象の違う田所に、こっちの方がずっと魅力的だと吉野は思う。

「それは、まだ教授室のファイル棚にあるんですか? 」

「ええ、鍵をかけてしまってあります」

「おい吉野、あの教授室のファイルを全部かっさらってこい」

「えっ? 」

「手続きはだれかに聞けばわかる。いいか二時間以内に全部もってこいよ」

「でも」

 田所の尋問に未練のある声を出すが、すぐにあきらめて立ち上がった。

村山の唇が最大級の怒声を発するときの形に歪みだしたのを見たからだ。

「あの研究室で、エフェドリンの水溶液を持っていそうな者を知っているか? 」

「知ってます」

「だれとだれだ」

「あそこの医局のかた、全員どす」

 ドンとたたかれた机が洋子の目の前で跳ね上がる。

「ふざけやがって! もう一度聞く。あの日の午後一時から二時ごろにかけて、あの標本室を出入りした者はいないのか? 」

 村山のげんこつが赤くなった。

「いいえ……」

 こんな曖昧な答え方をどんなときにもしない女、と見ている村山は不審な顔になる。 

「どうなんだ! 水上を見たんだろ」

「いいえ」

「水上のことを庇ばっているんじゃないだろうな」

「そんなことはありまへん」

「いいか、美人秘書さん。いっくら水上先生のことを好きだかしらないが、ことは殺人事件だぞ。その共謀共同正犯となれば、罪が重いぞ。懲役十年はくらうことになる」

「なに言いだしはりますの」

 あわてる洋子の目の前に封筒から一枚の写真が取り出される。

「これをよく見ろ」

 それはラブホテルに水上と洋子が入っていく写真であった。

「どうして、これを」

「どこかの親切な人間が警察に送ってきたんだ。あんたたちには敵がいるようだな。いいか、真実を隠していると、ためにならないぞ」

「わたし、水上先生を愛しているんどす」

 洋子の瞳から、涙があふれるそうになる。

「やっぱりか」

「実は、わたしあのとき、笹川先生に呼ばれて、少し席をはずしていたんどす。戻ってみると、ちょうど水上先生が教授室から出ていかれるところどした。てっきり、わたしに会いにきはったんか、と思ったんですけれども、わたしの顔を見るなり、すごくあわてて廊下をご自分の研究室のほうへ戻っていってしまったんどす」

「もう一度、確認するぞ、それは何時ごろだ」

「午後一時半ごろどしたかな。二時すぎ、いや、二時にはなってませんでしたわ」

 最後まで、あいまいさが抜けない田所に村山は、さらに不審な視線を落とす。

「それで標本室のドアを見ると、開っぱなしですやろ。おかしいなあ? もう角倉先生お昼寝から帰りはったんかと思うて、のぞいて見ると、」

「すでに、くたばっていたんだな」

 田所はゆっくりと、うつむくように、頭を下げていた。

 そのとき、この女は、標本室のドアをあけたのは、てっきり壁にかかっている鍵の方だと思ったんだ。待てよ。

「水上は、なぜ壁の鍵を使わなかったんだ? 」

「あの部屋の乱数キーが、まさかあんな所に無造作に置いてあるとは、思いつかれなかったんと違いますか」

 うつむいたまま答える田所である。ショートカットのうなじがなまめかしい。

「すぐに緊急手配だ。さあ、いまのことを、供述調書に取らせてもらうよ」

 不意にうなじが持ち上がった。

「できまへん。そんなことしたら、水上先生が逮捕されてしまいますから」

 いつものきっぱりとした言い方にもどっていて、村山は妙に安心してしまった。

 そのとき吉野が部屋にかけこんできた。

「警部、鑑識から連絡がありました」

「なんだ」

「あの点滴のボトルから水上政晴の指紋がでました」

「えっ! そうか。よし、すぐに水上の逮捕状の請求をしろ! 」

 吉野が驚くほどの大きな涙を流しながら、田所は、わーっと泣きだしてしまっていた。


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