第七章
(一)
「久しぶりだな」
顔見知りの検死官の磯部に、村山は声をかけた。
「村山警部補、お元気ですか」
『警部補』と呼ばれると、村山は少しむっとなる。
都内の急性死体、事故死体は、すべて警察の通報にもとづいて、東京都監察医務院に運ばれる。そこで監察医によって検案され、立合警察官に死体検案調書が引き渡される。ここで死因確定しない犯罪死体は、通常は大学病院の法医学教室に運ばれ、司法解剖が行われる。
東和大学は、幸か不幸か、法医学部門を持つ総合医科大学である。警視庁の依頼による司法解剖も多く手がけている。佐沼教授の死体は、標本室での警視庁の検死官による検視のあと、直接、法医学教室に運ばれ司法解剖されることになった。
この分野の第一人者の宇田川教授の執刀のもと、検死官と警官も立ち合っての司法解剖となったのである。
その司法解剖もようやく終わり、すでに時間は午後七時、死亡時刻から八時間が過ぎていた。
検死官から村山に死亡原因の特定と、その理由が説明されていたのである。
「被害者の身元は? 」
横に立つ吉野に、村山が聞く。
「東和大学教授の佐沼雅隆、五十七才です」
「家族に確認はとれたのか? 」
「ホテルでの一人住まいで、家族はいません」
「別居している奥さんがいるんだろう。確認依頼はしたのか? 」
「実質的に離婚状態にある、と言われて拒否されました」
「なかなか複雑な家庭事情のようだな」
「ただ体型、服装が研究員や秘書の証言で一致していましたし、わずかに焼け残っていた左手の薬指の指紋も一致しています。この死体が佐沼教授であることは間違いありません」
「わかった」
ゆっくりうなずいた村山は、歪んだ頭を磯部のほうに向けた。
「ガイシャの火傷はどうしたんだ? 」
「硫酸によるものです」
村山は、すっかり炭化している指先を見つめる。
「これはひどいなあ」
「右手は特にひどくて、硫酸で第四度熱傷に相当した火傷をおっています」
眼鏡のフレームも、ほとんど溶けて顔面に貼りついている。
「顔面の火傷もひどくて、第三度熱傷に相当するでしょうな。左目は、まぶたも溶けて角膜まで傷ついています。もう一生、物を見ることはできないでしょう」
うなずきそうになって、村山は磯部をにらみつける。
「死体だ! 物を見ることができないのは、当たり前だ」
「いや、われわれ解剖学や法医学にとっては、人間の形をしている限りは人間です。生きているか死んでいるかは、たまたまそのときの状況の違いで、あまり関係のないことですから」
「おれたち、刑事には、それが一番関係するんだ! 」
「火傷したということは、生活反応があったということです。死体は火傷しませんから」
「ということは火傷をしたあと、死んだんだな」
「いずれにしても、こんな火傷だけで、人間が即死するとは、思えません」
「死因は、まだはっきりしないのか? 」
「窒息死です」
「えっ! 」
「正確には青酸ガスによる呼吸困難による酸欠死です」
「なんだって! 青酸ガスだって。そんなことだれからも、聞いてないぞ」
「ええ、そうでしょう。いま警部補に、お話するのが初めてですから」
「そんなものは、あの気持ち悪い部屋からは検出されてないぞ。鑑識からも、なにも聞いてない」
「あの標本室は、空調がかなりよく効いています。ガスの量もごくわずかで、すぐに拡散したからでしょう。もし、ほんの微量でも吸い込んだりしたら、警部補もいま、このベッドの上に横たわっていることになっていたでしょう」
あの部屋のドアを開けるまで十分以上かかった。それで助かったのかもしれない。
村山は、ひやりとする。
「おまえなんかに体中、切り刻まれるなんてのは、まっぴらだ」
「ヘビー・スモカーですから、肺のなかはタールで真っ黒でしょうな」
「冗談はよせ。いずれにしても、この仏さんは、青酸ガスによる中毒死か」
「中毒死ではありません。青酸ガス、つまりシアン化水素ガスは肺から吸収され、組織呼吸に必要な酵素の活性を阻害するんです。つまり全身の細胞が呼吸困難になって窒息死したんです」
「なんだと」
「もっとわかりやすく言いましょう。赤血球によって運ばれてきた酸素は、それぞれの細胞の入り口で、鉄イオン(Fe3+)の腕に渡されるのですが、青酸は先にそのイオンにくっついてしまって、酸素を受け取れないようにしてしまうんですよ」
「うーん、意味がまだよくわからんぞ」
「さらに、青酸ガスは、心筋の収縮力を失わせて、血液の酸素運搬機能を減少させるという効果もあります。また脳の呼吸中枢にも、大きなダメージを与えるのです。つまりあらゆる方法で人間の呼吸を止めてしまえるんですよ」
ますます難しくなる説明に、村山は話題を変えることにした。
「何分ぐらい苦しむのか? 」
「脳への酸素の供給が断たれるので、五分以内に意識を失います。ただ、それまで、意識が消えるまでは、胸をかきむしりながら苦しむはずです」
「この赤い筋がそうか? 」
佐沼の首筋に新しい傷あとが幾筋も走っていた。
「火傷していない爪のあいだには皮膚の成分が混ざっていました」
「どの位の量のガスだったんだ? 」
「青酸ガスで人を殺すには、ほんの少量で十分です。致死量はわずか、〇・〇六ミリクラムですから」
その微量さが、どれくらいなのか想像がつきそうもない村山は、全裸の死体が無造作に置かれた机の上をなにげなく見回す。四角い標本皿の上に盛りあがっているものが視界に入ってきた。
「これはなんだ」
十年間も使ったような、ひどく形のくずれたバスタオルのように見えた。周囲が硫酸でひどく焼けただれている。
「あっ、手を触れないでくださいよ。まだ硫酸が残ってますから? 」
「これは佐沼の服のどこか一部か」
「レントゲンを撮って初めてわかりましたが、それは生後間もない新生児でした」
よく見ると、確かに、ほとんど雑巾のようにしか見えない物体の一部から、小さな骨のようなものが突き出ている。
「あそこの標本の一つなのか? 」
「はい、組織のなかにはホルマリンが存在していました。あの部屋にあった奇形児および胎児標本のなかの一つだったのでしょう」
「あんな不気味なものを集めて、いったいなんの役にたつんだ」
磯部は、それには答えずに、ため息のような言葉をぽろりと漏らす。
「こんな小さな子供を殺すなんて」
「標本だった、って言ったじゃないか」
「例え標本だとしても、人間の形をしているのなら殺人ですよ」
検死官をやっているような人間は奇人にちがいないとしても、磯部の論理には、どこか危険なところがあることに村山は気づく。
「いずれにしても、ホルマリンに入れられた時点で死んでしまっているんだ。この小さな物体に対しては、殺人罪は適用できないぞ。死体損壊罪も、ちょっと無理だな。死後あまりに時間が経過しすぎている。せいぜい器物損壊罪がいいところだ」
「まあ、そうでしょうね」
あっさりと引き下がる磯部の能面のような顔を見ながら、村山が何気なくボトルに手を伸ばす。
「これが標本の入っていた瓶なのか? 」
「あっ、それには十分、気をつけてください。硫酸が口元までいっぱい詰まっています」
「ホルマリンじゃなくてか」
「はい、ホルマリンの入っていた形跡は、まったくありません」
「佐沼教授は、この硫酸をかぶって火傷をしたというのか? 」
「あの部屋から押収されたもので、他に硫酸の入った容器は一つも見当たりません。まちがいなく、この硫酸をかぶって、その前後いずれかに、青酸ガスを吸い込んで、被害者は死んだようです」
「そんな器用なことができるのか? 青酸ガスはどこに入れておいたんだ。ポケットにでも入れておいたのか? 」
「その可能性は、限りなく低いと思います。容器に入れる作業の途中で青酸ガスが、ほんの少しでも漏れれば、その場でたちまち即死してしまいます」
「警部、教授会に参加していた医学部の先生たちに聞いたところ、佐沼教授は草稿を演壇の上に広げて、水差しからコップに水を注いで軽く口をつけたところで態度が急変したらしんです。そのコップになにか入っていたのではないでしょうか?」
それまで黙っていた吉野が口をはさむ。
「そうだ。コップも水差しも草稿も押収してあったはずだ。どこかから青酸と関係するものが出てくるはずだ」
「コップに入っていたのはH2O、水だけです。草稿にも特別に変わったところはありませんでした」
「いいか、こんなバカなことがあっていいのか。医学部長に立候補しようとしているような前途有望な大学教授が、教授会の最中に自分の管理している奇形児の標本室に走りこんで、硫酸を頭からかぶって死亡。しかも本当の死因は青酸ガスだったなんて! 」
「あります。いま現実に、ここで起っています」
「おい、これは絶対に自殺じゃないぞ。どうだ」
「これだけの資料で、自殺か、他殺かを検死官に断定させるなんてことは無理です」
「くそっ」
「あっ、それから佐沼教授の脳には器質的な異常が見られました」
「なんだ、その器質的な異常ってのは?」
「わかりやすくいえば、組織が目に見える形でおかしくなっているということです。この人の場合には、脳血管が動脈硬化を起こしています。性格が少しずつ破綻しつつあったのかもしれません。逆に見かけ上、異常がなくても働きがおかしくなっている場合には、機能的異常と呼ばれています」
どうも、こいつの話は難しくなっていかん。
村山は腕を組む。
「あっ、それから言い忘れていましたが、この新生児の頭蓋骨の内部にも異常がありました。前頭葉を入れるだけの容積がほとんどありません。出産直後の無脳児のようです」
「『むのうじ』だと? 」
それがどういう漢字で書くのか、まったくイメージのわかない村山は、実にいやな感じになる。
この事件全体のイメージこそ、まったく、つかめそうもないことにいらだちながら、磯部をにらむようにして、ぽつりと口に出す。
「そうか、『むのうじ』か」
(二)
「どうしても、今晩、これからここで事情聴取しはりますの?」
すでに午後八時を過ぎていた。
教授の部屋で、田所が村山に聞き返すと、横に座っていた由香里も大きくうなずく。
「先生がこんなことになってしまって、わたしたち夕食も満足にはいただいていませんの」
由香里の声にも歪んだ顔をしかめる。
これだから、女の大学助教授なんてものは世間知らずって言われるんだ。
「もし、ご協力いただけない場合には、本庁に来ていただくことになるかもしれませんが……」
吉野の声にも、田所はひるまない。
「いますぐに帰してもらえるのなら、それでもかまいまへん」
本庁の取り調べをなんだと思っているんだ、こいつらは。一人ずつ別々の部屋に監禁して、六時間も七時間も、ベテランの刑事に三、四人がかりで事情を聞かれるということの怖さがわかっていないんだな。
村山は、ますます不機嫌になる。
「とりあえず、ここの先生たちの話は、ほかの刑事たちがだいたい聞き終わっている。あんたたち二人は、佐沼教授と、もっとも親しかった人間だ。ぜひ今夜中に、じかに話を聞いておきたいんだ。おい吉野、録音しておけ」
吉野刑事がデジタルレコーダーのスイッチを入れる。
「まず鍵の問題だ。どうして、事務局の合い鍵が働かなかったんだ。マスター・キーでドアが開かなきゃ、意味がないじゃないか」
「ここのマスター・キーは暗号キーでないドアは全部開けられるようになってます。標本室は暗号キーになってましたから、だめどしたんや」
「暗号キーだと? 」
「形は、だいたい、これと同じはずです」
由香里が自分の部屋の鍵をポットから取り出して、村山に渡す。
「こんなの簡単に複製できるじゃないか」
「いいえ、できまへん。暗号キーは山形の部分には、あまり意味はありまへん。この背中のまっすぐな部分に、その本来の意味があるんどす。磁気データが入ってます。十桁の十進数の乱数になっていて、それがドアのノブの持っている乱数データと一致しないと、ドアは開かないことになってます。
しかも、その乱数はドアの開閉ごとに変化するようになっているんどす。外側からキーが差し込まれ、ドアノブが回されて、ドアが開かれたことが感知されると〇・〇五秒以内にドアノブの側の乱数データが変更されます。そしてキーを抜くときに、その乱数がキーの側に記録されるんどす。
一旦ドアが閉じられてしまうと、キーの側への乱数の記録機能も停止してしまいます。いくらキーを差し込んでも乱数を記録することはできまへん。つまり、たとえ山形が同じ鍵であっても、この磁気データが一致しないかぎり、このドアを開けることはできないんどす。十桁の十進数が一致する確率は百億分の一になりますなあ」
「そんな鍵の話は、初めて聞きました」
吉野の声に村山も不機嫌そうに軽くうなずく。
「ここをインテリジェント・ビルに建てかえるときに、教授が考案なさりはって、たぶんパテントも取られたと思います。教授ご自慢のセキュリティ・システムどすわ」
「事件の前夜、標本室に最後に入ったのはだれなんだ? 」
「佐沼教授ご自身です」
「どうして、そんなことが断言できるんだ」
「わたしたち二人とも目撃していましたから」
由香里と田所が互いに顔を見合わせる。
「なんだと? 」
「はい、医学部長に立候補なされる教授の受託演説の草稿の最終チェックを田所さんと一緒にここでやっていましたから」
「それは何時ごろですか? 」
「七時半ごろです」
「そのときの状況をもう少し詳しく話してください」
「教授は昨日は午後から文部省の定例の審議会に出かけられてました。いつも審議会のあとは赤坂の高級料亭で宴会が開かれているので、そのまま直帰なさるものとばかり思っていました。ところが昨晩は、六時ごろふらりと研究室に戻ってこられたのです。そして七時半過ぎに、教授がご自宅に帰ろうとして、この教授室のドアをあけようとすると、急に電話がかかってきました」
「だれからだ」
「角倉先生の携帯電話からどす。『江波教授派の尾行はうまく行っているよ。僕は久保寺先生をマークしている』って言うてはりました。『教授に代わってほしいんだけど』と、いうことで受話器を、お渡ししたんどす」
「尾行だと? 」
「ええ、学部長の立候補者を決める大切な教授会の前どしたから、うちでも私立探偵を雇ってました。角倉先生は、その情報収集のまとめ役になってましたから」
江波教授と佐沼教授が医学部長の椅子を争っていたという情報は、すでに村山の耳にも入っていた。
「その電話でなにか変わったところはなかったか」
「いろいろ話されて、そのあと急に教授がなにか叫んだような気がします。それは、」
田所は、ゆっくりと由香里の顔を見る。
「そうでした。『えっ、あの子が! 』って叫ばれたんです。なにかに追いつめられたような、怖いような表情をなさって、急いでドアを開けて標本室に戻られました。そうですね、それから一分ほどして、また表に出てこられました。そのときは、もうすっかり落ち着かれていて、『大丈夫だ』って、おっしゃって受話器を置かれました。そして、いつものおだやかな笑顔で、わたしたちに『明日の演説の草稿の件たのむよ』とか、おっしゃって帰っていかれました」
「確かに『あの子が! 』って言ったのか? 」
「はい」
「あの子ってのは、だれのことだ」
「さあ? 」
「あの標本のことじゃないですか? 」
吉野が口をはさむ。
「そんなわけないだろう。おまえは黙っていろ」
「いいえ、教授はよく、標本のことを『あの子』とか、おっしゃってました」
「ほんとか、いいかげんなことを言うなよ」
「ほんまどす。初めて聞いたときには、ちょっと気味悪うなる人もいはりますが、標本に対する教授の情熱を知ると、かえって感心するようにならはります」
あの、不気味な標本が『あの子』だと。
悪い冗談を聞かされているような気がする村山である。
「そのときには、あの問題の無脳児の標本にも異常はなかったんですよね。いつのまにだれが、ホルマリンを硫酸にすり替えたのでしょう? 」
村山の怒声を覚悟して、吉野は質問をしたが、頭の歪んだ警部補は黙って腕を組んでいるだけだった。
「教授は今朝は、ここにはよらず直接、教授会に出はったんどす。ですから、あの事件のときまで、だれもこの標本室に入られるはずがありまへん」
「そのあいだに、だれかが先生の鍵をこっそり盗んでこの部屋に入って、そしてまた、先生にわからないように戻すってことができたんじゃないですか? 」
「それは、ほとんど不可能です。鍵はいつも肌身はなさず持っていらっしゃいましたから」
由香里と田所から交互に答えが出る。二人の美女に向かって質問するのは吉野にとっては、不快なことではなかった。
「だれかが乱数さえも読みとって、合い鍵を作って入ったというのは、どうでしょう? 」
「それこそ無理どすわ。勝手に無断で標本室に入ったことが、すぐにバレてしまいます。もし仮に、まったく同じ鍵があったとしますやろ。その鍵でドアを開けた瞬間に、乱数はひとつ繰り上ごうてしまいます。翌日、佐沼教授が教授会からこの部屋に走り込んでドアを開けようとしても、先生の鍵の乱数とは、合わなくなってしまって、ドアは絶対に開きまへん」
田所は鮮やかなピンクに塗られた唇をしっかりと閉じる。
あまりに勝手が違う捜査になりそうだぞ、これは。ここまで聞き取ったことだけでも調書は、相当難解なものになる。このあと、硫酸のことも、青酸ガスのことも、さらには、あの不気味な無脳児のことも聞かなくてはいけないんだ。
村山は憂鬱な気分になる。
(三)
『ピン・ポーン』ドア・チャイムが軽快な音を立てた。午前十時半である。
のぞき穴から美沙が見る前に、ドア越しに村山の声が響いてきた。
「奥さん、ご在宅ですね。また、おじゃまします」
佐沼教授の殺人事件から丸二日が過ぎていた。それに関する聞きこみであることは美沙にはすぐわかった。
軽く下げられた頭は、上から見ると、さらに恐ろしいほど歪んでいる。その頭からポマードの臭いをまき散らしながら、有無を言わせず、リビングに入ってきた村山は、ソファに深く座ってしまっていた。
「あっ、お茶はいいですよ。すぐに、おいとましますから」
「ああ、そうですか? 」
思わずほっとした顔になる美沙である。
「奥さん、『偶然』ってこと、信じますか? 」
「またですか? 今度は、なんのことでしょう? 」
口調が自然に尖ってくる。
「『偶然』なんですよ」
気味の悪い笑いが唇に浮かんでいる。
「おっしゃることの意味がわかりません」
なにを聞かれるのだろう?
佐沼教授を絶対に許せない、と事件の前に、夫が語っていた『偶然』に、美沙は怯えていた。
「あの研究室には標本室があるってことはご存知ですよね。そこに入ったことはありますかな? 」
「いいえ」
「そうでしょうな。奥さんのような繊細な神経の方が、あんなところに近づいてはいけませんよ。あそこにはホルマリンのボトル、ちょどこれくらいの大きさの」
村山は両手で大きな仕草で五十センチほどのボトルの形を作る。
「もうちょっと、大きかったかな? そのボトルが百本も並んでいるんです。なかには、これが本当に人間なんだろうか、と思えるような奇妙なものがありましたがね」
「あの、要点を言っていただけませんか。義母がもうじき来ることになっていますので」
「おや、お姑さんは、いま東北の方に温泉旅行に出かけられているのではないんですかな」
すべて調べはついているとでも言うように、村山の舌はずるがしこそうに歪んだ唇の周りをなめ回す。胃袋から不快なものがこみあげてきそうになる美沙である。
「例のあの無脳児、ホルマリンに漬けられて、なぜか教授の手で硫酸づけにされたあの赤ん坊の母親を調べているんですが、まだよくわかってません。記録では死産したことにさせられているようで、カルテに記載もされていません。
でも実際には間近いなくこの世の空気を吸っていた期間があったはずです。無脳児でも保育器と人工呼吸器を使えば一週間は生かせるらしいですな。あの子供は三眼児、つまり目は三つもあったんですが、大脳は、まったくありませんでした。でも小脳の一部はあったようで、どうやら自律呼吸はできたはずということです。その子供を標本にするためとはいっても、そのままホルマリンにジャブンと浸けたとなると殺人の疑いが生ずるわけですよね」
「あの、お話は、それだけでしょうか? 」
「いや、どうもいけませんなあ。脱線してしまいました」
頭をかくと、また例のいやらしい整髪料の臭いが部屋中に広がり、美沙の鼻腔に突き刺さるようである。
「わたしは、ちょっと、ものごとにこだわる方でして、あそこの全部のボトルの子供の標本の母親と父親を調べることにしたんです」
完全な偏執狂だと美沙は思う。
「それで、どうなった、と思います? 」
「さあ」
「一人だけ父親も母親も、名前のわかった胎児がいました。その胎児は妊娠五ヶ月の無心児、つまり心臓のまったくない子供でした。そんな子供がいるんですね。こんどの事件はいろいろと勉強になりました」
「それがわたしと、なにか関係があるのでしょうか? 」
「その母親の名前は『倉田真由実』です」
「えっ! 」
「奥さん、奥さんが飛び下りたところを目撃された女性。まさにその女性の子供が、あのどろどろに融けた子供の真横のボトルに入っていたんですよ」
美沙は本当に気分が悪くなってきた。
「ボトルに標本の製作日が書かれていて、その前後のカルテを詳細に調べてわかったんですよ。写真をご覧になりますかな? 」
美沙は、あわてて頭をふる。
「奥さん、こんな偶然を聞いて、『ああ偶然だなー』なんて、放っておける刑事なんていませんよ。日本には一人も」
村山は、そこで急に身を乗り出してきた。
「奥さん、あんたは、なにかを知っているはずなんですよ。なにかを」
「わたし、なにも知りません」
「自分でも知らないなにかを知っているんだ。それを話してほしいんだ」
あまりに無茶な言葉に、美沙はもう決してこの刑事を家に入れないことを心に決める。
「奇妙な予感がするんですよ。奥さん」
「えっ」
『予感』なんて言葉を刑事の口から聞くことの方が奇妙だった。
「ええ、長年ね、刑事をやっていますとね。こんとことを言っちゃいけないんでしょうがね、証拠なんてね、もう、関係ないんですよ。勘なんですよ。独断と偏見なんですよ。犯人は、もう勝手に決めつける。それで十中八、九犯人は捕まります」
そんな乱暴なことが、この日本で許されるのだろうか?
美沙は、この刑事に二度と返事をしないことも決めていた。
「奥さん、奥さんのごく近くに犯人がいます。ええ、これは間違いありません。もちろん、奥さんを含めているか、どうかは言えませんが、極めて近い人物のはずです」
美沙は、強盗に居座られているような気持ちになってきた。
「これは、断言してもいいです。かならず次の事件が起きますよ。今度こそだれが見ても間違いなく『殺人だ』と、言える殺人が」
「すいません。もう帰ってください」
「そうですか」
思いがけず村山は素直に答えてソファから立ち上がる。今朝、掃除したばかりの玄関の床が村山の革靴ですっかり汚れてしまっていた。
「ところで奥さん、五ヶ月の赤ん坊でも、もう血液型を調べることができるんですよ。亡くなった倉田真由実さんのお腹のなかに宿っていたあの心臓のない赤ん坊も、ちゃんと調べることができました。A型です」
革靴を履き終えたのに、まだ村山は帰らない。
「倉田さんのご主人の血液型はO型、奥さんもO型です。この場合、子供はO型しか生まれないんですよ。配偶者の一方がO型の場合、子供がA型になるためには、もう一方の配偶者は、A型あるいはAB型のうちのどちらかでなくてはなりません。日本ではA型の人間はAB型の人間の四倍近くいます。しかも、相手がAB型の場合にはB型の子供が生まれる確率もあります。統計的に言うと、八倍以上の確率で子供の父親はA型になるんです」
村山はそこで美沙の顔を一、二秒じっと見る。
「それにね、奥さん。相手の男性がA型の場合には、A型あるいはO型の子供が生まれてくるんです。倉田真由実さんは、女子大で生物学を専攻していたこともあるインテリです。O型の子供が無事に生まれてくる確率にかけたのかもしれません。まあ危険なギャンブルですがな。そうすると、浮気相手の血液型は、ますますA型である可能性が高くなるんですよ。
ええ、病院のカルテを調べました。倉田さんのご主人は、無精子症ではありませんでしたが、精子の運動障害があって、妊娠する確率がほとんどゼロに近かったからしいんですよ。倉田さんの奥さんは子供を切望して、浮気をしたんですよ。ところがそんな浮気までして、望んでいた子供があんな奇形児であったことに『天罰』と、いうものを感じたんでしょうなあ。しかも子宮までも摘出されてしまって、もう永遠に子供を持てなくなった絶望で命を絶ったんですよ」
『天罰』なんて言葉を聞くのは、何年ぶりのことだろう。いずれにしても、わたしの目の前で飛び降りていった女性には、そんな複雑な事情があったんだ。
美沙には他人事とは思えなかった。そして、女という性が産む性としてありつづける限りは、決して清められない性であることも身にしみるようにわかってきた。
「ところで、あの子の父親は、いったいだれなんでしょう? 我々はこの団地に住むA型の人間を重点的に洗っていかなければいけないと思っているんですよ」
村山は、そこでわざとらしく警察手帳をめくる仕草をする。本当に見ているのかどうかは、美沙からはわからない。
「おや、『偶然』ですな。ご主人の血液型と同じですよ」
(四)
「おい、おまえ大丈夫か」
帰宅した政晴が見たものは、リビングの床に倒れている美沙だった。
「あの刑事には、もう耐えられないわ」
真っ青な唇には、流れ出たよだれの跡が残る。
「また、あの刑事が来たのか? 」
「ええ、あのいやらしい髪の臭いをまき散らしながら」
「あなたの血液型のことまで知っていたわ。そして、あなたこそ、あの飛び降りた倉田さんとつきあっていた男だと言っていたわ」
薄く塗られたファンデーションに涙の跡が残る。
「あなたは、あの前の晩に、だれも阻止しないのなら、おれは実力で教授に実験をやめさせてやるって言ってたわ」
また、そのことか。いいかげんにしてくれよ。
そう言うかわりに、政晴は、妻の体を優しく抱いてゆっくりと起こして、ソファに座らせた。
「ねえ、わたしたち、新婚以来、ずーっと一度も避妊をしていないのに、どうして子供ができないの? 」
「いろんな夫婦があっていいと思うけどな」
「あなたは、ずーっと昔から、子供のことを一言も言わなかった。どうしてなの? 」
「きみだって言わなかったじゃないか」
「あなたは子供なんて大嫌いな冷たい人なのね」
政晴は妻の髪の毛についている埃を、取ってやっていた。
「どうして答えてくれないの? 」
服についているゴミも、軽くはらっていた。
「女は子供を生む機械じゃないのよ。ちゃんと心があるのよ」
「そんなふうに考えたこと、おれは一度もないよ」
「そんなことはないわ、きっとそう思っているんだわ。そして子供がいらないんだから、機械も捨ててもかまわないと思っているのね」
だれが、そんな奇妙なことを吹き込んだのだろう?
政晴は、妻の足にスリッパをはかせていた。
「分娩室を見たことあるか? 」
「ないわ、そんなとこ」
「今度一度、見せてやるよ」
「どんなところなの? 」
「そうだな、美沙の背の高さぐらいの直径一・五メートルもあるような大きな手術灯がパラボラ・アンテナみたいに立っている。それは開脚診療台の上で、まさに誕生しようとする子供の頭を照らすんだ。誕生という、荘厳な場にしては、あまりに殺風景で機械的な光景なんだよ」
「わたしとは一生関係のない場ね」
「おれは、もっとずっと、あったかい出産の場というものがあっていいと思う。きみが母になるときは、きっとそういうところを探すよ」
政晴の言葉を聞きながら、美沙は声をあげて泣いてしまっていた。
「きみは、きっといい母になれるよ」
まだ目もはっきり見えないうちに、この世から消えてしまった母の幻想が見えてきた。
「お母さん、お母さん」
実の両親を事故で亡くした妻のことを思って、政晴も複雑な気持ちになる。
「わたしは生んでくれたお母さんに、本当は捨てられたような気がするの」
「あれは事故だったんだろう」
「もし子供ができるようなことがあっても、きっとわたしも子供を捨ててしまう人間になるんだわ」
夫に抱きしめられても、心の不安は、かえって大きくなるばかりだった。
「わたし、苦しくてもう、生きていけない。お母さん助けて」
朝になった。一晩中、母の名を呼んで、絶叫していた美沙は、やっと落ち着きらしきものを取り戻していた。一睡もできなかった政晴は、さすがに疲れた顔で研究室に向かう。
「ごめんなさい。朝御飯も作ってあげられなくて」
きっと精神病院に入ってしまうんだわ。あんなちょっとしたことで、こんなに錯乱してしまうなんて。
美沙は不安におびえる。
帰宅した政晴が見たのは、朝よりも、もっと状態の悪くなっている美沙だった。
「きっと、このまま気がおかしくになってしまうのね」
美沙は例の『鏡のハコ』を開いて、ダイニング・キッチンの床に座り込んでいたのだ。
「ひどい吐き気がするの。食欲もまったくないわ」
美沙の顔色は、政晴をぎょっとさせるほど青白かった。
「どうしたんだ? 」
「もう、どんなお薬を飲んでも効かなくなってしまったんだわ」
不安な心を映すように、ずっと生理は止まってしまっていた。その腐った血の呪いのようなものが脳のなかにまで入ってきたんだわ。
「気にすることはないよ。人間がいつも正常でなくてはいけないなんて、だれが決めたことなんだい? こんなにひどい社会のなかで、いつも正常でいられる人間のほうがきっと異常なんだよ」
そうだ。人間は、きっと定期的に狂うようにできているんだ。精神科医は、それを境界型分裂症とか言っている。どんなときにも冷徹に患者の心を分析できる、と豪語している精神科医の精神の方がきっとひどく病んでいるんだ。
角倉とつきあうようになってから、政晴には精神医療の側にこそ顕在している闇の世界が見えてきたのだ。
人間の肉体は定期的に病気になるようにできている。それは体の内部が正常に働いている証拠でもある。全然、風邪なんかひかない、と自慢している老人のなかには、体が正常な適応力をなくしてしまって、風邪をひけなくなってしまっている者も少なくない。突然、手に負えない痴呆や脳神経疾患にかかるのは、このての老人たちだ。
同じように、少しも自分の精神状態に不安を感じない人間こそ、根底からひどく病んでいるのに違いないんだ。
「美沙、いまのきみは心のなかの矛盾を解決しようとして、必死になって戦っているんだよ」
「離婚して、あなた」
「なにを考えているんだい。狂いたいときに狂えばいいじゃないか。それがきみの心が求めている自然の姿なら、世間がなんと言おうとも、その姿をおれは愛しているんだ」
政晴は決心したように口を開く。
「ここを出ようか? 」
「えっ! 郊外に一戸建てを買ってもいいよ」
「そんなお金どこにあるの? 」
「担当の患者の知り合いの不動産屋を紹介してもらえそうなんだよ」
「どうしたの? 急に」
「子供とかできたら、庭があったほうがいいじゃないか? 」
「子供、子供はできないと思うわ」
わたしは、どうしてこんな暗い顔をしているんだろう。心の奥底では、あんなにも激しく子供を欲しいと思いながら、その気持ちをごまかしていたわたし。でも、ついに自分で自分自身をごまかしきれない日が来たんだわ。わたしの心は、これからどんどん分裂していってしまうんだわ。
美沙は、鏡のハコのなかに映る孤独な少女の瞳に、そう語っていた。
(五)
「産婦人科のレベルでは不妊の理由は見当たらないわ」
あの日は、なにもかもきらきらと光って見える奇妙に明るい日だった。緑の若葉を裏返す爽やかな風も吹いていた。
あの日の明るさがこんなにも強く印象に残っているのは、きっと美沙の心の暗さとあまりに対照的だったからなのだろう。
「じゃ、特に異常はないのね」
姑の顔が浮かんだ。
私の体に欠陥があると知ったなら、どんなことを言い出すものか、わかったものではないのだから。
「血液を採って、細胞検査とホルモン検査を行ったでしょ。そこでとんでもない事実がわかったの。本当にめずらしいけど、あなたは『こうがん睾丸性女性化症候群』だったのよ」
「なんのこと? 」
「ここにカルテがあるから、ここを読んでみて」
それは、奇妙な言葉の羅列だった。
「睾丸って、あの男の人の……」
「ええ」
このごろかけるようになった由香里の縁なしのレンズの眼鏡がきらりと光る。
由香里は分厚い本を広げる。そこにも『睾丸性女性化症候群(体型女性型、精腺睾丸)』と書かれてあった。かなり美人の全裸の写真である。少し憂いをふくんで緊張して、立っていた。
『性染色体はXYで、しかも完全に発育した睾丸を持っている』
太いゴチック文字で欄外に、そう書かれていた。
美沙は、わけがわからなくて首を傾げるだけである。
「ねえ、女の条件ってなんだと思うの? 」
「条件なんてことは考えたこともないけれど」
「あなた人間の胎児にも、ちゃんと性別があることは知ってるわよね」
「ええ、それがわたしとなにか関係があるの? 」
「妊娠して、しばらくのあいだ、人間の胎児は、みんな女なのよ」
「そんなこと、初めて聞いたわ。男はいないの? 」
「XY染色体を持った胎児は、Y染色体上にSRYという名前の睾丸決定因子を持っているの。妊娠二週間目に、その遺伝子はHY抗原というタンパク質を作り、それが精巣を作るの。そして妊娠七週間目、そのできたばかりの胎児の精巣からテストステロンという男性ホルモンが分泌されて、脳や性器を男性化して、初めて男の子になるのよ」
「ずいぶん複雑なのね」
「いい、美沙、これからわたしの言うことを落ち着いて聞いてちょうだいね」
「わたし、落ち着いているわよ」
由香里の視線はいつまで落ち着いていられるのだろう? と探るようである。瞳の色が深くなる。
「でも、極めてまれに五万人に一人ぐらいの割合で、XY遺伝子を持っていのに、テストステロン受容タンパクがない子供がいるのよ。つまりホルモンのレセプターを作る機能が遺伝子の上で欠けている子供ができるの」
「ホルモンのレセプターってなんなの? 」
「ホルモンに反応してアミノ酸を配列しなおして、蛋白質を男の子の形に造りかえるものなの。美沙、あなたにはそれがないのよ」
「『それがない』というのはどういうこと? 」
「これがあなたの染色体の顕微鏡写真」
机のなかから写真を一枚出す。
「あなたは遺伝子的にはXY遺伝子を持っているのに、まるでXX遺伝子を持っているのと同じことになったのよ」
「難しすぎるわ。わたしは普通の女じゃないの? 」
「正確に言うと、あなたは普通の『男』じゃないのよ」
「えっ! 冗談はやめてよ」
「冗談でこんな深刻なこと言えないわよ。さあ、この写真をもっとよく見て、あなたの染色体よ。ねえ、ほら、ここにXYの形をしているものがあるでしょ」
由香里はきれいな爪が突き刺さるような激しさで写真を指差す。
「ええ」
「普通の女性はXXなの。つまりこれは、あなたが男だってことを現しているのよ」
「そんな! 」
「間違いないわ。あなたの遺伝子のどこかに欠損があって、その結果、性決定ホルモンのレセプターができなくなってしまっているのよ。それが原因で、あなたを男にするための男性ホルモンの働きが効かなくなってしまっているのよ」
「ちょっと待って。それってわたしが本当は男だったって、いうことなの? 」
由香里の言っていることはあまりにバカげている。
「ええ、くり返して言うけれど、あなたは『睾丸性女性化症候群の男性』なのよ。もっとわかりやすく言えば、あなたには、れっきとした睾丸があって、そこから男性ホルモンが分泌されているのにもかかわらず、遺伝子の異常で男性ホルモンのレセプターが欠けているか、あるいは機能しないようになっているの。あなたはつまり、女性としての欠陥があるのではなくて、男性としての欠陥があるのよ。つまり、男性になりそこなって女性の形態をしているということなのよ」
「だって、わたしには子宮も卵巣もあるのよ。前、診てもらった先生は、そうおっしゃったわ」
「睾丸型女性化症候群の場合、一対の睾丸は、みごとに擬似卵巣のような形で、本来の女性が持つ卵巣の位置にあるの。遺伝子の形態にまで踏み込まない一般の産婦人科の医師には、とうてい判断できないことだわ」
それにしても、あまりに非現実的な由香里の言葉である。
「わたしは中学になって、すぐに生理が始まったのよ」
「あなたの生理は不規則じゃなかった」
「ええ」
「詳しい検査をすればさらによくわかると思うけれど、ウォルフ管が定期的に炎症を起こして出血しているのよ」
「ウォルフ管? 」
「胎児のときに子宮とか卵管になるもとの組織で、それがあなたのお腹のなかに未分化して残っているのよ」
「いきなり、そんなことを言われても、とても信じられないわ」
「このデータは間違いないわ。実はわたしにも、とても信じられない気持ちがあったの、だから、あなたの血液サンプルを偽名で別の大学病院に出して、再検査してもらったの。それで結論が出るまでに、こんなに時間がかかったんだけれど……とっても残念だけど、同じ結果だったわ」
検査結果表の名前の欄には、『森村有花』と書かれていた。
ずいぶんきれいな偽名だと美沙は思った。
「どうすればいいの? わたし」
「医学的には、前例のないことではないの。それなりの処理の仕方もあるし……」
「処理って? 」
「ええ、手術で解決する方法もあるの」
「それって、わたしを男に改造するってこと?」
「いいえ、改造じゃないわ。本来の正しい性に戻すということだから、改修というべきかしら、具体的な方法は……」
「そんなこと、聞きたくない。わたしは女よ。生まれたときから、女。これからも、死ぬまでも女。夫にはどう説明すればいいの? 」
「美沙、これはわたしも苦しんだんだけど、いつかご主人にもわかることだわ。政晴さんに、きちんと説明すべきことだと思うの」
「そんな告知はやめてよ」
「できないわ。病院の方針だし、次の教授の地位が待っているのよ」
「待って! 彼は、全然、赤ちゃんなんか欲しがっていないの。わたしも子供なんか必要ないわ。でも同性愛なんて信じられないとか言っていたのよ。それがずっと男と愛しあっていたなんてことがわかったら、わたしは離婚されるわ。きっと離婚される」
「そうなる可能性はあるわね」
「なんて冷たい言い方なの。あなたさえ黙っていてくれれば、わたしたちは、いままでの暮らしを、なにごともなく続けられるのよ」
「そんなに言うのなら、告知のことは保留してもいいわ。もう一度、このことを話し合いましょう。絶望することはないのよ」
なんて空しいなぐさめの言葉なんだろう。
美沙は、ふらふらと立ち上がって、ドアに向かっていた。
姑にどう説明したらいいの? 石女と言われるだけじゃないわ。あの穏やかな顔をした姑でも、影では『バケモノ』って言うようになるに決まっているわ。
どこをどうやって歩いていたのだろう、美沙は乗り換えの新宿駅のホームで立ち尽くしていた。
そのとき、さらに恐ろしいことに気づいて息が止まりそうになる。
XY? どこかで聞いたことがある。
そうだわ!
夫の手書きの日記の最後のページに載っていた言葉だ。ひょっとして『絶対に言えない』と、書いてあったのはこのことだったんだ。
美沙は全身から血の気が引いていくのがわかった。夫はそれを知ってしまったんだ。
わたしが本当は、『男』であるということを!
キッーツ。
ブレーキの音を立てて、電車が進入してきた。美沙は、もう少しで、駅のホームからその先頭車両に飛び込むところだった。
もし自殺するようなことになったとしても、列車に飛び込んで死ぬのだけは絶対にいやだと少女のころから思っていた。それがかろうじて体の動きを引き留めた。
(六)
レコーダを何度も再生して、吉野は田所の話を確かめる。
『いいえ、できまへん。暗号キーは山形の部分には、あまり意味はありまへん。この背中のまっすぐな部分に、その本当の意味があるんどす。磁気データが入ってます。十桁の十進数の乱数になっていて、それがドアのノブのもっている乱数データと一致しないと、ドアは開かないことになってます。
しかも、その乱数はドアの開閉ごとに変化するようになっているんどす。外側からキーが差し込まれ、ドアノブが回されて、ドアが開かれたことが感知されると〇・〇五秒以内にドアノブの側の乱数データが変更されます。
そしてキーを抜くときに、その乱数がキーの側に記録されるんどす。
一旦ドアが閉じられてしまうと、キーの側への乱数の記録機能も停止してしまいます。いくらキーを差し込んでも乱数を記録することはできまへん。つまり、たとえ山形が同じ鍵であっても、この磁気データが一致しないかぎり、このドアを開けることはできないんどす。十桁の十進数が一致する確率は百億分の一になりますなあ』
もうすでに、五十回以上は聞いている田所の声に耳を傾ける。
きっと、この鍵の仕組みのなかにトリックがある。
それがあと少しでわかりそうな気がする吉野だった。
それにしても、今日の捜査会議の村山の発言はひどかった。
「あそこの鍵は火災報知器と連動して働くようになっている。犯人は、真夜中になんらかの方法で非常ベルを鳴らさないようにして、火災報知器のボタンを押したんだ」
あの火災報知器は、警備会社と連動している。そんな記録はない、という別の捜査官の発言に、「警備会社のガードマンの言うことなんか信用しているのか」と暴言を吐き、ベルを鳴らさないようには、できないシステムになっているという、別の刑事の発言には、「ベルの鳴ったまま、犯人は侵入したんだ! 」と、言い張ったのだ。
百歩譲って、そこまでは許せたとしても、現職警視である管理官が、 非常ベルのボタン・カバーが破壊式であって、あの建物で、押された形跡のあるのは、あの事件の日に、吉野刑事が押したボタンだけである、と注意したあとの発言だけは許せなかった。
「吉野刑事は、うっかり者だ。すでに押されて、割れているカバーなどに無頓着になっていて、同じボタンを押したんだ」と、言ったのである。
あのひどい発言は、きっと十年たっても忘れられないだろう。
「おい、そんな関係のない録音を聞いて、どうなるんだ! 」
村山の声が吉野の思考を突き破るように、響いてきた。
「たったいま資料室で、ついに事件の真相をつかんだぞ、これだ! 」
村山は、新聞の古い切り抜きを吉野の目の前に突きだした。
『新宿地下街・青酸ガスの仕掛け。
混合で発生を狙う。一万三〇〇〇人分の致死量。
五日午後七時四十分ごろ、東京都新宿区西新宿一丁目の地下街メトロプロムナードで、男子用トイレに置かれていた二個のポリ袋のうち一個から火が出ているのを通りかかった会社員が見つけ、近くの営団地下鉄丸の内線新宿駅改札口にいた職員に通報した。職員が水をかけたところ、白い煙が噴き上がり、吸い込んだ四人の職員がのどの痛みを訴え、病院で手当を受けた。警視庁が調べたところ、燃えた袋に顆粒状のシアン化ナトリウム二リットル(約二キログラム)、もう一つの袋には液体の希硫酸一・五リットルが入っていた。両方を混合すると猛毒の青酸ガス(シアン化水素)が発生し、微量で人を殺すことができる。警視庁捜査一課は混合していた場合、一万三千人以上を殺害できるガスが発生していたと試算、無差別殺人を狙った犯行として新宿署に捜査本部を設け、殺人未遂容疑で調べを始めた』
それは平成七年五月六日のオウム事件を伝える朝日新聞夕刊であった。
「あの、これ、なんでしょう? 」
「まあ、とにかく、おれについてこい」
庁舎の長い廊下を走って、村山と吉野は、検死官の磯部の部屋に飛び込んでいた。
「おい、試験管なんか洗っていないで、この記事を読め」
検死官は突然現れた村山の態度に別段、驚くようすもなく、記事に目を通す。
「どうだ。このシアン化なんとか、というやつの顆粒とあの硫酸が混ざれば、青酸ガスが発生するんだぞ」
「シアン化ナトリウムでしょ」
磯部は別にあわてるふうでもなく答える。
「ええ、わたしも最初からその可能性がある、と思っていました」
「じゃ、あのときなぜ、それを言わなかったんだ」
「だって、聞かれませんでしたから」
「なんだと! とにかく、すぐに遺体と遺留品から、その薬品を探し出すんだ 」
「あの検死のときに、もう、すでにやっています。シアン化ナトリウムの痕跡を探しました。でも、どこからも見つかりませんでした」
「くそっ。 そんな奇妙な毒を所持しているものなんか、めったにいるわけがない。おい、吉野、東京中、一軒一軒しらみつぶしで入手ルートを調べるんだ」
磯部は、吉野の顔を気の毒そうに見つめる。
「一般的には青酸ソーダという名前で広く知られて、販売されているものですから、かなり時間がかかると思いますよ。青酸ソーダも硫酸も、ともに『毒物および劇物取締法』でそれぞれ『毒物』、『劇物』に指定されていますが、厳重に保管する義務があるだけで、届け出や登録の必要はないのです」
「あんな簡単に人間を殺せるのにか? 」
「毒ガスとなるのは二つの薬品を混ぜた場合だけですから。そんなこと言えば、水だってナトリウムと反応すると大爆発を起こす危険物になってしまいますからね。青酸ソーダはメッキや金属の焼入れには必ず必要なものです。メッキ工場では、通常、キロ単位で大量に保管されているものです。大学の研究室だけでなく、高校の化学教室にも普通にあるものですよ。全部の所在を確認するのは、とても無理でしょう」
「だから化学ってのは嫌いなんだ」
「ところでもう一方の薬品である硫酸の入手経路はつかめたんですか? 」
磯部の質問は、さらに村山の痛いところを突く。
十五リットルもの硫酸が、どうやって、あの標本室に持ち込まれたのか、という疑問の捜査の方も、まったく進展していなかったのだった。
「うーん、これじゃ、検事がどう頑張っても、起訴できないぞ。『空中のどこかから、その青酸ソーダが降ってきて、たまたま偶然、幽霊によって運び込まれた硫酸の瓶のなかに落ちました』じゃ、なあ」
村山の目が突然輝き出す。
「ひょっとして司法解剖にかかわった医師が、捜査を混乱させようとして、青酸ソーダをポケットに隠したんじゃ、ないだろうな」
「宇田川教授は、そんなことをする人物ではありません。そんな無茶ばっかり言っていると、いつまでたっても警部にはなれませんよ」
村山が最も気にしていることを、磯部は平然と言う。




