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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
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第六章

(一)


 ほのかになつかしさを感じさせるほど、おだやかな冬が過ぎ去っていた。衣替えには、まだ早すぎた。でも政晴の冬物の厚手のコートや羽毛入りのジャンパーを団地の納戸に片付けるには、もう十分なあたたかさである。

 防虫剤はあったかしら?

 美沙がそう思ったとき、ドア・チャイムが軽快な音を立てた。

『ピン・ポーン』

 午前十時半である。

 また姑かもしれない。部屋をあわわて見回して、美沙はドアのところに急ぐ。

 しかし、覗き穴から見えるのは、実に怪しげな風体の男である。

「水上さん、水上美沙さん、ご在宅ですね」

 美沙は思わず、チェーン・ロックをかけた。

「奥さん、怪しい者じゃありません」

 こちらをのぞき込もうとしてレンズに近づく顔は、奇怪に歪んでいる。

「どなたでしょうか? 」

「警視庁のものです」

「えっ! 」

 美沙はロックを外さずに、そっとドアを開けた。毛深い手が部屋のなかに伸びて、その先につかまれている黒い手帳が美沙の顔に迫ってくる。まるで美沙をノックアウトするような、すごい勢いに思わず目を閉じていた。次の瞬間、それはまた同じ勢いで部屋の外に出ていってしまった。

 一瞬だけど『警察手帳』と、読めたような気もしたけれど……。

そんなものを見るのは、もちろん生まれて初めてである。それを簡単に信じるには、美沙は都会人でありすぎた。

「本当に刑事さんなんですか? 」

「ええ」

「どのようなご用件なのでしょう? 主人は本日は病院のほうへ出かけておりますが」

「知っています。先ほど職場の方に確認いたしましたから」

「あの、佐沼先生が告訴された事件に関することなのでしょうか? 」

「いえ、実は奥さんが目撃された飛び降り事件のことで、新たな事実がわかったものですから」

どうやら、本物の刑事らしい。

 しかし、美沙はまだ警戒して、チェーン・ロックを外さない。

「ここで、お尋ねしてもいいですよ。ただ、わたしは地声が大きいものですから、団地中に響くような声が出ちゃうかもしれませんがね」

 美沙は仕方なく、刑事を団地サイズの狭い玄関に迎え入れた。

 ドアの内側に入ると、村山は急に小声になる。

「わたし、警視庁捜査一課の村山と申します」

「はあ」

 差し出された名刺を見る美沙の耳元にささやくように声を出す。

「ずいぶんあったかくなって来ましたね」

にっこりと笑顔を見せる。手に持った安物のコートの襟が擦り切れている。

整髪料の臭いが少し気になるけれど、それほど悪い人間ではないようだった。

「お茶をさしあげますわ。どうぞ奥へ」

 村山はリビングのソファにゆったりと座る。

「きちんと片付いてますね」

姑の急襲に備えてのことである。

「奥さんは、医学博士の笹川由香里先生とは、中学、高校と同級生だったらしいですね」

「えっ、いいえ。同じミッション・スクールでしたけれど、同級だったのは高校の三年間だけですわ」

「このあいだテレビで見ましたが、大変、お美しい先生ですなあ」

「はあ……」

「あっ、奥さん、奥さんも十分にお美しいですよ」

「あの、もうじき義母ははが来るかもしれませんので、ご用件はお早めにお願いしたいのですが」

「義母とおっしゃると、水上先生のお母さんですな。何歳になられます? 」

「あの、義母の年齢が、このあいだの転落事件となにか関係するのでしようか? 」

「いや、関係しません、おそらく。まあ、そう、お怒りにならずに。この『おそらく』というところを追求する、しないが刑事が一流になれるか、どうかの瀬戸際なんですよ」

『一流の刑事』ということに、どんな意味があるのかしら?

「義母は五十八です」

 美沙はぶっきらぼうに答える。

「うーむ、息子さんが刑務所に入れられたりしたら、悲しまれるでしょうなあ」

「なんですって! あの人に、そんな疑いがかかっているんですの」

「驚かれるでしょうね。このことを知ったなら」

「教えてください」

「ご主人のごようすで、このごろどこか変だな、と思われたところはありませんかな? 」

「いいえ、特に」

「変ですなー。この前お会いしたときには、随分お疲れのようすでしたが」

「あの、うちの人とも会われたのですか」

「おや? 聞いてらっしゃらないのですか? おかしいですな。ご主人は秘密主義なんですか」

「そんなことはあませんわ」

そういえば、研究室に刑事が来たとか、夫が言っていたような気がする。でも、こんなとんでもない人物が来た、とは言ってくれなかった。

「まあ、いいでしょう。東和大学の研究室をおたずねしたのはずいぶん前のことでしたから。わたしは、いまでもあの大学には、なにかがあるって、にらんでいますので」

「あの、どんな容疑なんでしょうか? 」

「ずばり、殺人です」

「えっ! 」

「どうやら、カルテにも偽造があるようです。医師法違反、薬事法違反の疑いもあります」

「こ、殺されたのはだれなんですか」

「まあ、それは捜査上の秘密で、いまは正確には申し上げられません。今日の所は、被害者は複数になる可能性があるとだけ言っておきましょうか。そのなかの一人で飛び降りに見せかけて殺されたのではないか、という疑いのある人物がいます。そこで、本日、詳しい状況をお聞きしようと、おたずねしたわけなのです」

「その飛び降りた人というのは、まさか、あのわたしが……」

「はい、この団地の主婦・倉田真由実さんです。まさに奥さんが目撃なされた人物です」

「でも、あの方は他殺ではなくて、自殺のはずですが」

「奥さん、『偶然』ってこと、信じますか? 」

「いえ……なんのことですか? 」

「偶然なんですよ」

 気味の悪い笑いが唇に浮かんでいる。

「おっしゃっていることの意味がわかりません」

「いや、もうすぐわかりすぎるくらいに、わかるようになると思いますがね」

なんて、思わせぶりな言い方なのかしら? それにこの整髪料の臭いには、もう耐えられない。早く換気扇を回したいわ。

 美沙は、村山警部をリビングに入れたことを、もう、すっかり後悔していた。

「ご主人は、五号棟にひんぱんに出入りなさっていたことはありませんか? 」

「五号棟は、一階に集会所がありますから、うちの人もときどき出かけますが」

「倉田さんは五号棟に住んでいらしたんですよ。集会所の二つ上の三階です。ちょっとした『偶然』ですがね」

「そうなんですか? じゃあ、なぜあそこで……」

「そう、なぜ東十一号棟で飛び降りられたんでしょうな? 五号棟は、こちらと同じ十三階建て、ところが東十一号棟は七階建てじゃないですか。死ねる確率は、まあ正確には言えませんが、五号棟の方が確実に上でしょう。おかしいと思いませんか」

「そうですね」

「そうでしょう。ここを建てた公団に確認しました。東十一号棟の付近は、昔は神田川の支流が流れていたところで地盤は、あまりよくなかったらしいですな。そこで七階以上は建てられなかったということです」

「そうですか」

「奥さん、高所恐怖症じゃないですか? 」

「いいえ」

「そうでしょうなあ。わたしなんか、とってもこんな高い部屋には住めません。足がすくんじゃってね。でも、『すまじきものは宮仕え』ですな。仕方がありません。東十一号棟の屋上の倉田真由実さんが飛び降りたところに立ってみたんですよ。風が弱い日で助かりましたよ。強風だったら、とってもあんな屋上の端近くになんて近よれませんよ」

 いかつい顔に似合わず、遠くを見るようなやさしい目になる。

「東十一号棟から西方を見て、わたしは愕然としました。そこからは四棟ほど、地盤の関係で七階建ての建物が続いています。そして中央広場をおいて、その先に立っているのが、この西一号棟なんです。もうおわかりでしょう? 」

「あの、なんのことでしょうか? 」

「倉田さんは七階建の屋上から西方に向かって飛び降りました。ここは十三階建ての西一号棟の八階です。ちょうどこの部屋あたりを、真正面に見すえるようにして飛び降りた計算になるのです」

「えっ! 」

「繰返しになりますけど、倉田さんは、どうして自分の住んでいた十三階建ての五号棟ではなくて、そこを自殺の場所に選んだんでしょうね」

「わかりません。わたしには」

「本当に、『偶然』に、そこを選んだんでしょうか? 」

「警部さん、なにをおっしゃりたいのでしょうか? わたしは頭が悪くて、よくわかりません。お帰り願えないでしょうか? 」

「あと、ひとつだけ、どうしてもお知らせしておきたい『偶然』があります。それを聞いていただければ、すぐにお暇いとましましょう」

「なんでしょう」

「ご主人は、倉田真由実さんの肉体を知っているのです」

「えっ! 」

「はっは、浮気をしていたとか、不倫関係というのではありませんよ。ご主人の患者さんだったんですよ」

「知りませんでした」

「それは、おかしいですなあ。あの飛び降りを目撃した奥さんに、そんな大切なことを話さないでいるなんて。倉田さんは妊娠五ヶ月目まで、東和大学病院の産婦人科に通っていました。不幸にして流産してしまいましたが、カルテの担当医師の蘭に記載されている名前は『水上政晴』。これは間違いのない事実です」

「主人は、なぜそんな大切なことを言ってくれなかったんでしょう」

「やっぱり、ご主人は秘密主義なんでしょう。ところでご主人は日記のようなものをつけてらっしゃらなかったでしょうか? そのようなものがあったら、見せていただきたいんですよ」

 村山は、かるく頭をかく。

「いいえ、そのようなものはありません。研究室のパソコンで日記をつけているかもしれませんが」

 べったりと頭につけているポマードのひどくいやな臭いがさらに広がる。

「そうですか。まあ、いいでしょう。奥さん、あの飛び降りがあった日の、ご主人のアリバイについてお尋ねしたいのですが 」

「あの日、わたしは気分が悪くなって団地の近くの診療所で休んでいました。夕方おそく八時頃、わたしのところにやってきてくれました。研究室の仕事が六時には終わるので、そのあとすぐにかけつけてくれたんだと思います」

 村山は、唇の端を歪ませる。

「あの日は、ご主人は病院には行ってません。昼過ぎに体調不調とかで欠勤したい、という連絡があっただけです」

 そうだ。思い出したわ。確かにあの人は、あの日、病院にいなかった。今夜も遅くなる、と言っていたけれど、実際に夫の行動の何割を、わたしは知っているのだろう。

 それにしても、この刑事はどうして、こんなに激しく頭をかくのかしら? あんな汚い手でいろんな所を触られたらたまらない。

「すいません、本当にもう帰ってください」

 ソファから立ち上がった村山はじっと美沙を見下ろす。

「奥さん、あなたはきっとなにかを知ってますよ。ご自分では気がつかないかもしれませんが、真実の一端を、あなたはもうしっかりと、つかんでいるはずなんですよ」


 あの刑事は、どうして夫の日記のことなんか知りたがっているのかしら。

研究室に移ってからも月に一、二回ある、政晴が病院で当直している夜である。一人でとった夕食のあと、美佐子は、団地の四畳半の和室を改造した夫の書斎に自然に足を運んでいた。

 そして、もう、あまり読まなくなった雑誌類の奥に隠されるように置かれていた、黒いビニールの背表紙の日記帳を探し出してしまっていた。

『HADでもない。まさか本物のXYだったとは、とても信じられない。しかし、もしそうなのだとしたら、これはどんなことがあっても、口が裂けても美沙には言えない』

 新しいパソコンを手に入れてから、夫はもう手書きで日記は書かなくなった。去年の日記は、研究室に移る直前の三月まではびっしりと文字がうまっていた。もっとも内容は、天候と、その日の手術の感想がほとんどであった。ときどき『美沙誕生日』とか、書かれてあって、それがほほえましかった。

 四月からは、ほとんど白紙の日記のなかで、たった一日、十一月八日だけ、文字が書き込まれてあった。でも、いかにも切迫したその表現とは裏腹に、美沙にはさっぱり意味がわからなかった。

HADってなんのことかしら? こんな医学用語があったのかしら? 『医療ツゥディ』でも聞いたことがない。

とりあえず英和辞典を引いてみたけれど、『HAD HAVE(持つ)の過去完了形』と載っているだけである。重さと厚さで周囲を威圧するような医学関係の専門書は、どこから手をつけていいのか見当もつかない。

 ここにはきっと、あの穏やかな夫を『口が裂けても』と思いつめさせる何かが入っているんだわ。

 美沙は、机の上の、ノートパソコンをじっと見つめるのだった。


「由香里、起きてる? 」

 いろいろ難しいことを知っていて、しかも真夜中に気軽に相談できるような友達は、ただ一人しかいない。

「ええ、ちょっと論文で思いついたことがあったから、さっきからパソコンに向かっていたところよ」

 受話器の向こうから聞こえてくる声には、少し疲れが混ざっていた。

「ねえ、ちょっと変なことがあるの? 」

「なにか用事なの? 」

「政晴のことで、あなたなら知っていることがあるかも知れないと思って」

「浮気の相手かしら」

「そんなんじゃないの。今日のお昼、警視庁の刑事さんが来たのよ。最初は、てっきり佐沼先生が告訴された事件のことだと思ったの。でも聞いていったのは、あの人のことばかり。変でしょ」

「やっぱり、あのことかしら? 警察もヒマなのね」

「あのことって? 」

「これは学内でも閑口令がしかれていることだけど、あなたには話さないわけには行かないわよね。でもご主人に問い質したりしちゃだめよ。絶対に」

「わかっているわ」

「実は水上先生の担当の患者さんが、この半年のあいだに、三人も死んでいるの。もちろん医療ミスなんかじゃないわよ」

「その、三人とも自殺だったのね。刑事さんも、そんなことを言っていたわ」

「ええ、そして先週水曜日の夜、四人目が自殺を企てたのよ」

「四人目ですって! 水曜日は確かに帰宅が遅かったわ。でも夫はそんなこと少しも言ってくれなかった」

いつから、こんなに秘密主義になってしまったんだろう。

「あなたに、心配をかけたくなかっただけよ。その人は先月、双子を生んだのよ。一人は極めて奇形児ですぐに息を引き取ったの、もう一人は、多臓器不全といって、心臓も肺もうまく形成されていない超未熟児だったのよ。おそらく、それを気に病んでいたんだわ」

「その人も夫の患者だったのね」

「本当は五つ子だったんだけど、四ヶ月前に、ご主人の手で減胎手術を受けて、お腹のなかで三人の胎児を人工流産したのよ。どうもその手術以来ノイローゼ気味になっていたの」

「その人も、飛び降りたのね」

「いいえ、ベットで首を吊ったのよ」

「そんな低いものでできるの? 」

「ええ、ベッドの手すりの上に薬とか、身の回りの品をちょっと置いておく台があるでしょ。高さは一メートル、いや九十センチぐらいよね。そこにガウンのひもをかけて、床に横たわったのよ」

「その人は助かったのね」

「一命はとりとめたわ。でも脳の血流がずいぶん長いあいだ止まっていたみたいで、意識はまだ回復していないのよ。植物状態になってしまったの」

 救急病院にいたころは、患者さんの症状までも、夫はよく話してくれた。あまりに専門的でわかりにくところや、あまりに悲惨で驚くようなこともあった。でも、布団のなかで語ってくれるのを、夫の体温を感じながら聞くのが好きだったのに。

「ところで、刑事さんがあの人の日記のことを聞くの。きちんと日記をつけていたのを知っていたわ。でも、そんなものありませんって言っておいたわ」

「賢明な答えね」

「それで悪いと思ったけれど、パソコンを開いて、日記を見てみようと思ったのよ。でもいきなり、パスワードっていうのがあって、どうしても中身が見られなくて、あきらめたわ」

「机の引き出しのなかとかに、パスワードを書いたメモがあるかもしれないわよ」

 探してみても、どこにも、そのようなものは見つからなかった。

 美沙は、そこで少しため息をついた。

「ねえ、関係ないかもしれないけれど、HADってなんのことかわかる?」

「わからないわ」

 由香里さえ知らない用語があるんだ。

 美沙は、もうその言葉のことは忘れようと思った。

「ところで、佐沼教授が告訴された事件は、結局どうなったの? 」

「ええ、ダウン症の子供を生んだ母親から、妊娠六ヶ月目には、わかっていたはずなのに、知らせなかったって訴えられた件でしょ」

「知っていたら堕胎していたということなの? 」

「教授が仮に、ダウン症の子供の研究をしたくて、意図的に母親にそのことを知らせなかったとしても、その裁判は教授の勝ちだわ」

「なぜ? 」

「そういうふうに胎児が異常だということを理由にしての堕胎は、もともと母体保護法では認められてはいないからなのよ」

「じゃ、堕胎はどういうときに認められるの? 」

「その子を堕胎しないと母親の命が危ないときだけよ。母体保護法には経済的理由という項目もあるけれど、それは子供を堕胎しないと母親がお金に困って、間違いなく飢え死にするという場合だけなの。今の日本では、母親が未成年であっても、こんなことは考えられないでしょ」

 受話器の向こうで由香里が少し息をついだ。

「そして、天使が・ふ・え・て・い・く」

「えっ? 」

「なんでもないわ。そうそう、このあいだの血液検査の結果ね、来週にはわかると思うから、また、そのときに病院に来て」

「ええ、でもずいぶん時間がかかるのね」

「まあ、DNAも調べるとどうしてもそうなるのよ。さあてと、論文、論文」

 由香里は、明るい声に戻っていた。






(二)


「お疲れさま」

 当直の翌日の夜、それも十時過ぎに、ひどく疲れたようすで夫が研究室から帰ってきた。

 救命センターにいたときにも、疲れて帰ってくることは多かった。けれど、こんなにも心の底からやつれて見えたことなど一度もなかった。

 以前の夫の疲れは、そう七時間とか八時間、熟睡すれば消し去れそうなものだった。このごろの疲れは、ひどく不吉なことだけど夫が命を亡くすまで、消し去ることのできないようにさえ美沙には、見えた。

「お風呂はわいているけれど」

「今日は、やめたよ」

「わかったわ」

 そう言って、夫が起きてから、明日にでもいろいろゆっくり聞けばいいと思うには美沙は、まだ若すぎた。夫を詰問する声が、いつのまにか唇から出ていた。

「あなた、わたしになにか隠しているの? 」

「なにかって? 」

「昨日の昼間、警視庁の刑事さんがいらしたわ」

「村山っていう不気味な刑事のことか? 」

「あなたの研究室にも行ったって言ってたわ」

「なにを聞いたか知らないが、誇大妄想だけじゃなくて、あの刑事どこか精神的におかしいんだ。忘れることだな」

「でも……」

「昨日の当直は、まるっきり戦場だったな。喘息のおばあちゃんが真夜中に突然、心停止したと思ったら、そのあと立て続けに急変患者が二人も出た。朝になって、研究室のソファで仮眠していたら、突然起こされて、学長の遠い親戚にあたる十七歳の高校生の手術に人が足りないんでどうしても、ということで応援にかり出されたんだ。

 おれが手術室に入ったときには、麻酔医が患者にガスを吸入させてから、もう十時間もたっていたんだ。補助役の脳外科医がふらふらになっていて、おれが代役になったんだけど、たぶんダメなケースになるだろうなあ。脳腫瘍の末期で手術は完全なギャンブルだったからな。開頭も手際よくやれば三時間でできたのに、あの助教授のやろう。丁寧にやろうって、急に言い出して、五時間だよ。五時間も開頭して、後遺症が残らないとでも思っているのかね」

久しぶりに聞く夫の饒舌だった。それが疲れすぎた心の吐息であることを理解するには、美沙はまだ、知恵も愛情も不足していた。

「ねえ、手術のことは、いいの。それよりも、もっと大切なことを、わたしに教えてくれてもいいじゃない! 」

「そんな大声だすなよ。頭に響くよ」

「あなたは、あの飛び降りた倉田真由実さんと、どういう関係だったの! 」

「どういうって、あの刑事がまた変なことを言ったのか? 」

「倉田さんがあなたと関係して、それで思い悩んで自殺したようなことを言っていたわ」

「ふん、バカバカしいったらありゃしない。おまえは、おれとあの頭の変な刑事とどっちの言うことを信じるんだ」

「だって……」

「頼むよ。静かにしてくれよ。話は明日、起きてからだ」

 政晴は、シーツの上に倒れるように横になると、すぐに寝息をたてはじめた。

 初め、疲れのしみこんだ顔が、寝息の一息ごとにやわらかい表情に戻っていくのを見ることは楽しいことだった。明日の朝には、いつもよりおいしい朝御飯をつくってあげよう。

 掛け布団の他に、夫の体に、さらにもう一枚、毛布をかけようとしたときだ。夫の寝息には思いもかけない名前が浮かんだ。

「由香里」

 美沙は息が止まりそうになる。


「おい、朝飯ができてないじゃないか。勘弁してくれよな。あの刑事のやつ告訴してやる」

 当直開けの休みをとっていた政晴は、十時過ぎに起き出してきていた。

「あの警部のせいじゃないのよ。あなた昨日の晩、寝言で『由香里』と言っていたわ」

 実際には『由香里、ぼくのいうことを聞いてくれって』叫んでいたのだ。

「そうよ。そうなのよ。どうせ、わたしは由香里の身代わりなんだわ。あなたは今でも由香里を愛していて、由香里の美しさの虜になっているんだわ」

「違う、そんなことはない。彼女は友達としては最高だった。しかし、あまりに優秀すぎて、きっと一緒に暮らしたら疲れてしまうような気がしていた。彼女と結婚しようなんて考えたことは一度もないよ」

 優しすぎる夫の言葉も、今朝の美沙の心には空しく響くだけである。

「ほんとに? わたしは、こんなになにもできない人間なのよ。それに、わたしの心はすぐに不安定になってしまうし」

「初めて、彼女からきみを紹介されたときに、いままでだれから見たこともない、とっても脆いものを感じたんだ。どうしても守ってやらなければ一人立ちできない儚さも。それがきみの生い立ちからくるものだと知って、きみを愛して、守れるものは自分しかないと知ったんだよ」

「いまのままの、わたしでいいの? 」

「ぼくは、きみのすばらしさに惹かれたんだよ」

「でも」

 美沙は、暖かすぎる夫の言葉聞いて、口をつぐんでしまった。

 政晴は、もう一つ別の寝言をいっていたからだ。

『教授、僕はあなたを絶対に許せない』

さらには、もっと恐ろしい言葉まで。それは、低く押し殺すような声で、

『ひ・と・ご・ろ・し』と。





(三)


「どうだね。今度のユニットは素晴らしいだろう」

 正面の椅子に座っている政晴に、柔和な表情を見せながら、佐沼はほっとしたように声を出す。

ガゼット社から届いた、できあがってきたばかりの新しいファイバーの機能と操作法の概要説明を、ちょうど終わったところである。

「教授、どうか、このファイバーを核医学研究所に移すことはおやめください」

「おや、きみはいままでなにを聞いていたのかね。これにはヨウ素二三の照射が、どうしても必要なんだよ」

「胎児にそんな危険な放射能を照射して、教授は、なにをなさるおつもりなのですか? 」

「先天的な染色体異常をもった子供を、胎児の段階で治療するための手がかりを得るための実験をするつもりだよ」

「わたしは、もうこれ以上、子供の命を犠牲にする研究には耐えられません」

 佐沼は、やわらかな笑顔を作る。

「きみは、この一年間、とってもよくやってくれた。きみの技術は、この大学の外科医でも最高のレベルだ。どうしてもきみの腕がほしいんだよ。まあ、それできみのことを少し酷使しすぎたのかもしれないな。少し休暇でもとって、体をやすめたらどうだね。そのあとぼくと一緒に、この新しいファイバーをやろう」

「半年前、あなたは、あんなに反対していた多胎妊娠の中絶をなさった」

「仕方がない。母体を守るためだ。母体側の適応は法的にも倫理的にも認められているはずだ。それがどうかしたのかね」

「あれは、五胎の胎児を間引いてニ胎にする手術でしたね。あのときファイバー・スコープを見ていて、どうしても不思議な気がしました。教授が最初に脳にマイクロ・チューブを差し込むように指示した胎児は、もっとも発育のいいものでした」

「あっ、あれは一番表側にいた胎児だったからだ。あのときは、まだチューブは試作段階だった。生き残るはずの胎児に傷をつけるわけにはいかないからな」

「いえ、違います。次に心臓中隔欠損症の練習用にするように指示された二胎は、いずれも子宮の一番奥にいたもので、順調に発育しているものでした。大きさが一センチにもならない胎児の心臓にチューブを突っ込んでメスの性能をテストしたんですよね。そのせいで、あっという間にあの小さな胎児の心臓は破裂してしまったんですよね」

「当然じゃないか。あれであのメスの性能は確認されたわけだ。改良の余地があることもはっきりした。残りの二胎には傷をつけなかったし、母体にも悪影響を残さなかった。さすがに、ぼくが見込んだだけのことはある。きみの腕は確かだ。あの手術は大成功だったはずだ」

「わたしをだまそうとしても無駄ですよ」

政晴は、すさまじい目つきになって佐沼をにらみつける。

「な、なにを言いたいんだ」

「今日、研究室を抜け出して病院を回診するようなふりをして、あの母親の病室に行きました」

「ふーん」

 佐沼は、政晴の怒りなど全然相手にしない、とでもいうように鼻息で返事をする。

「あの母親は植物状態になっていました」

「それがどうしたんだ」

「生まれた子供は、二人とも、超未熟児でひどい奇形児でした。一生歩くことも、話すこともできないでしょう。一人はすでに亡くなって、もう一人の担当医に聞いたところ『どんな治療をしても一歳の誕生日までは生きられない』と、言ってました。母親はひどいノイローゼなっていて、精神科医のカウンセリングを毎日受けていたということです。そしてついに首をつって自殺するところまで追いつめられてしまったのです」

「おや、そうだったかな? 」

「とぼけないでください。あなたは最初から、それを目的にして、あの手術をしたんだ。奇形な胎児を生かして、正常な三人の子供を殺したんでしょ。意図的に」

「偶然だよ、きみ。じゃ、きみは奇形児を殺して、正常児を生かすべきだったと言うのかね。あの段階ではそんな判別をすることは無理だ。たとえ、そのようなことができたとしても、それこそ胎児側適応を禁止している母体保護法に違反することになるんだよ。胎児は、いや人間はその機能、あるいは器質によって、決して差別されるべきではないんだ。それを許せば、ナチスがやっていた優生思想につながってしまうんだ。その結果がいかに悲惨なものになるかは歴史が証明している。すぐに第二次大戦中のユダヤ人虐殺や、精神障害者虐殺のようなことが起こることになってしまうんだ」

「崇高な理論で、悪魔の選択を覆い隠すおつもりなのですね」

「悪魔の選択だと! 失敬な。ぼくは天使を作っているんだ」

「この世の空気を、ほんの一瞬吸っただけで、あとはずっとあのホルマリンの液のなかに漂っているだけの子供が天使なのですか? 」

「そうだよ。きみには見えないのかね、あの天使たちのやさしい微笑みが。医学の進歩のために、文字どおり全身全霊で献身している姿が」

「献身? ここのコレクションに加わっていく胎児の数がふえていくだけじゃないですか。そうか、わかった! 」

 政晴は椅子から勢いよく立ち上がる。

「いま、やっとわかりましたよ、教授の意図が。あのチューブになぜ吸引装置がついていたのかも。生きている胎児から脳を吸い出して、無脳児を作ろうとしていたんですね。あの胎児の脳手術が無脳児のサンプル作りの練習だったなんて……。胎児の心臓手術も無心児を人工的に作るためだったんだ! 」 

佐沼は、政晴の視線をそらすように、窓の外を見る。

校内に多く植えられている楡の枝先で蕾がふくらんでいく。

「きみは、なにもわかっていない。実に無礼な態度だが、ぼくは極めて寛大な人間だ。手術の秘密を絶対に口外しないと誓うなら、今日、ここでの無礼な態度を許してやってもいい」

「教授、わたしは、あなたを許しません」

「なんだと! 単なる講師の分際で許す、許さないもないだろう」

「あなたを胎児の殺人罪で告訴します」

「ふん、バカバカしい。おまえ、本気で言っているのか! 」

「母体保護法にも医師法にも、完全に違反しています」

「あの手術のカルテの担当医の欄には、みんなおまえの名前が載っているんだ。おまえは自分自身を告訴することになるんだぞ」

「そうか。救命センターから、わたしを呼んだのも、みな、あのカルテに名前を記載するためだったんだ。この研究室のことをすべて世間に曝露します」

「ふん、そんなことできるわけがない。そんなことを企てるだけで、きさまなんか、 二度と大学病院の廊下を歩けなくなるんだぞ」

「もし告訴させないとおっしゃるなら、あなたには、もっと手ひどいことが待っているはずです」

「ふん、不愉快だ。きさまのような頭の悪いやつと話をしているのは、時間の無駄だ。出て行きたまえ」

「教授、わたしはどうしても、忘れることができないんです。あのサクランボの実のような小さな心臓が破裂したときの音が。すくすくと育って、いまごろは母親に本物の天使の笑顔を見せていたはずのあの子供たちのことが……」

「やっぱりか。そんなことだと思った。嘆かわしい。そんなちっぽけなセンチメンタリズムで、医学の進歩を阻止しようというのか。いやしくも医師の国家試験に受かった人間がそんな程度の低い倫理観で、この偉大な研究に水をさそうというのなら、残念だが、きみには、この神聖な世界で生きる資格はない。死んでもらうよ。この医学界から抹殺されても仕方がないってことだからな」

「あなたには、人間の心がないんですか」

「ふん、このぼくを愚弄するために、こんな神聖な場所を使い続けるつもりか。すぐに出ていけ。もう二度と研究室には来なくていい! 」

政晴はゆっくりと教授室のドアに向かっていった。

 振り向くと、憎悪に満ちた佐沼の顔が見える。テレビ画面では決して見ることのできない悪魔の瞳を燃え上らせて。


「教授、わたしは、きっとあなたを殺すでしょう」

 ノブに手をかけた政晴は、そう言い捨てると部屋から大股で出ていった。




(四)


「みなさん、静粛にお願いいたします」

 由香里の声が広い会議室に響く。


 教授会なんてものがごくごく退屈なものであることは、だれでも知っていることだった。毎月第三金曜日に定例で行われていたのだが、なにかと口実を設けて欠席する者が多いのが普通である。しかし、この日ばかりは、講師以上で構成されている東和大学医学部の教授会は盛会である。

病気療養のため部長引退を表明した外川教授に代わる新たな医学部長の選挙の告示、つまり立候補表明が行われることになっていたからである。

 外川が来月から副理事長という名誉職につくことになるという報告があり、事務局から形式的な連絡事項の説明があったあと、いきなり先制攻撃をかけたのは、整形外科の江波教授である。この選挙の大勢は佐沼に固まっていた。しかし、佐沼よりも五歳も年長である江波にとって、学部長になれる最後のチャンスである。

「動議を提出したいと思います」

 やせた体を伸ばすようにして声を出す。

「なんでしょうか? 」

 この日の進行役で、議長席に座っていた由香里が不審の声をあげる。

「医学部長選挙の告示が、本日、まもなく行われると聞いておりますが、その立候補の資格にある制限を設けるべきだと思うのですが」

「どのようなことでしょう? 」

「単刀直入に言って、このなかに業務上過失傷害という重罪で告発された方がいらっしゃる。その方には医学部長の選挙からは自主的に立候補を辞退していただきたいのです」

 それが、佐沼のことを指していることを知っている参加者全員が息を止める。しかし、すぐにその沈黙を破るような激しさで声をあげる者が出た。角倉である。

「江波先生は、実に奇妙なことをおっしゃられる。有罪が確立するまでは無罪というのは、民主主義社会、いや文明社会での常識ではありませんか? そのようなことを理解できない人物こそ立候補を辞退すべきであると信じます」

 パラパラと拍手が起こる。その人物をチェックするように佐沼が顔を見回すと、いっせいに大きな拍手となった。その場で腕組みをしているのは、法医学の宇田川教授と、精神科の久保寺教授だけであった。


 江波は、こんなことではひるまないと決心でもしてきたのだろう。角倉をにらみつける。

「ふん、あなたがカウンセリングで用いている薬が、薬事法違反すれすれものであることを、わたしが知らないとでも思っているのですかな。佐沼グループには、どうも違法性の臭いがぷんぷんする。警視庁の警部が捜査をして、いろいろと嗅ぎまわっていることも、わたしのところに聞こえてきておりますぞ」

「わたしは佐沼教授の研究室に属しておりますが、佐沼グループなどというグループには入っておりません。それより江波先生こそ、グループを作って今日の教授会に臨もうとして、昨晩、赤坂のフェアウェル・ホテルで会合を開かれたのではありませんか。実は、わたしは、そこに集われたかたのリストもここに持っております。選挙は公明正大でなくてはいけないのではないでしょうか? 」

この事実は田所が私立探偵を使って調べだしていたものだったが、この発言の効果はあまりに絶大であった。この争いを他人事だとゆったりとした気分で聞いていた何人かの顔色が急変するのが見えた。

「先生は、その会合のあと国会議員の面高先生とも、お会いになってらっしゃいますね」

「たまたま廊下ですれちがっただけだ」

「いいえフェアウェル・ホテルのスウィートルームで、親しく密談なさたのではないのですか。先生は、いままでトヤマから、いくら受け取っていらっしゃたのですかな」

「違う、違うんだ。誤解だ。ガゼットの専務が会いたいということでその部屋に入ったら、トヤマ製薬の面高会長がいたんだ。罠だ。あれはだれかが仕掛けた罠だったんだ」

 江波のしわがれ声は、会議室の動揺をさらに広げる。

 ガゼットの牙城であるこの大学に、トヤマが進出しようとしていただなんて。

 そのことは由香里でさえも初耳であった。

「トヤマの面高会長と組んで、佐沼先生を告訴させていたのが江波先生だったとは」

 うめくようにつぶやくのは宇田川教授であった。

「江波先生がそんな卑怯なかただったとは知らなかった」

久保寺教授は憎悪をこめた目で江波をにらみつける。

いずれにしても、老獪な精神科医は、この時点で江波を切り捨てることを決意したようだ。精神科の講師たちも、ほっとした顔になる。

一方、江波は青白い顔のまま、さらに声のトーンをあげていた。

「佐沼先生は医学部長になられたら、研究予算でどのようなことをなさりたいのかな? どのようなことに予算を重点的に配分なされようとしているのでしょうか? 」

「医学部全体に役立つように人ゲノム・センターを作ろうと思っております」

小さな声で佐沼が答える。

「あなたは嘘つきだ。そこは実際には胎児、新生児の遺伝子治療データベースになるという情報をわたしは手に入れました。佐沼先生は、ご自分の研究のためだけに学部の予算を使われようとしているのですぞ」

「予算、予算とおっしゃるが、江波先生が医学部長になられたら、各研究室への予算配分が減ることは間違いないでしょうな」

 独り言のような外科の講師の発言も、江波の耳には入らなかったのだろうか。さらに、しわがれ声をあげる。

「佐沼先生は、ファイバー系の技術にご執心のようですが、極めて危険で、かつ違法な実験をそれで行おうとしているのではないかという内部告発も、わたしのところに届いております」

「それは……」

 発言しようとして、角倉が美しい眉を持ちあげる。

「きみに聞いてるんじゃない。佐沼先生ご自身のお考えを、お聞かせ願いたいと言っているんだ」

 江波のうわずった声が会議室にむなしく響く。

「佐沼先生は、ガゼット社と癒着しすぎているのではありませんか」

 最後の江波の声は絶叫に近くなっている。しかし、その言葉は教授たちの失笑をかっただけである。

「佐沼先生、なにかお言葉がありましたらどうぞ」

 由香里の唇にも、わずかに失笑の余韻が残る。

「さきほど江波先生がおっしゃった警視庁の疑惑に関してですが、すべて水上という講師のしたことであることが判明いたしました。水上は、まもなく辞表を提出することになっております。わたしの身辺には、どのような刑事的な疑惑も起こっておりません。したがって、わたしの部屋を刑事が訪ねてくるなどということは、過去にも、これからも決して起こりえないことです。誤解のないように、これだけは申し上げておきたい」

「では、本日の主議題に移りたいと思います。もし推薦人があれば医学部長に立候補してもよい、と考えておられる方の挙手をお願いします」

 江波がすぐにまっすぐ手をあげ、佐沼はヒットラーの軽い敬礼のように、手のひらを耳のあたりまで遠慮がちに持ち上げる。

「二名の方が立候補を表明なさいました。それでは、推薦の拍手をいただきたいと思います」


 この大学の医学部長選挙の立候補者は、教授会で立候補を表明することができるのだが、そのときに一名以上の教授の推薦が必要であった。ここまでは、どこの大学でも似たりよったりであるが、その推薦が文書ではなく、その教授会での拍手でないといけないという点で、一風変わった制度になっていた。

 その後、講師以上全員による記名選挙となるのだが、立候補の推薦の拍手が、実質的には医学部長選挙そのものである、と言っても差しつかえなかった。ともかく、人間がいつのまにか発明した左右の手のひら同士をぶつけあって音を立てるという筋肉の動きが、医学部長を決めるのであった。つまり、拍手する瞬間までは、だれを推薦するかは不確定という点で、過去には意外などんでん返しもあったのである。

「では、まず佐沼教授を推薦なさるかた拍手をお願いします」

由香里がそう言い終わる前に、万雷の拍手が教授のあいだから起こる。

「では続きまして、江波教授を推薦なさるかた、拍手をどうぞ」

不気味な沈黙が支配する。真っ先に拍手すると見られた宇田川教授も凍りついた表情で腕組みしているだけである。江波は昨夜ホテルに集まった十数人の笑顔を思い浮かべる。

 帰りには、必ず推薦すると、口々に約束していったはずの教授たちのうち、だれひとりとして江波を推薦しようとはしないのである。

 拍手をうながすかのように、江波はさかんに咳払いを始めるが、それがいっそう江波の孤独とみじめさを深めるようである。

「残念ながら江波先生には推薦人がいらっしゃらないようです。それでは、立候補をあきらめていただくしかありませんね」

「あーっ」

 そう叫ぶと、江波は突然、立ちあがり、すぐに頭をかかえて席にうずくまった。


 こいつをどこの大学に追い払えばいいかな。まあ、ここまで惨めな姿になったのなら、飼い殺しにしておいてもいいか。

 がっくりと肩を落とした江波に、気遣うような勝者の視線をあびせながら、佐沼はゆっくりと感慨にふける。

 とうとう、これでわしも、医学部長か。十八歳のときに、この大学の受験のために鳥取の山奥から、上京して四十年。やっとこの学部の頂点に立てることになったんだ。

 しかし、すぐにいつものように傲慢な思いが佐沼の心を満たし始めるのだった。

 そうなると五年後には、まちがいなくここの学長に就任だ。七十歳まで無事に勤めれば、長年の医学界への貢献に対して、おそらく勲一等はまちがいないだろう。文化勲章も可能性が十分にある。ノーベル賞、まさか、わしはそれほど変わり者じゃない、はは……。

「あらためてお聞きしますが、佐沼教授以外に立候補なされる方は、いらっしゃらないのですか? 」

 笹川助教授は、今回も期待以上に働いてくれた。けれども、いつかは切り捨てなくてはいけない女だ。だが残念ながら、いまはあまりに利用価値がありすぎる。

 佐沼の思いを知っているのかどうか、由香里の声はあくまで冷静である。

「規定により無投票当選となりますが、いちおう選挙は来週の臨時教授会となっておりますので、本日は佐沼先生に立候補の受託演説をおこなってもらいたいと思います」

 由香里の席のすぐ横に用意されている演壇にむかって、佐沼はゆっくりと歩み出す。 

 手際よく用意されている草稿を、由香里から受けとる。この草稿は田所がほとんど仕上げたものだった。しかし、医学的な専門用語のチェックを由香里も頼まれていて、二割ほどは由香里の作でもある。

 この二人の女性がいなければ佐沼は大学教授として、いや社会人として生きていけるのだろうか? 実際には、そういう疑問が起こってもおかしくはない状況だった。


 佐沼は胸のポケットから、太い黒縁の眼鏡を、おもむろに取り出した。それはゆっくりとした動作で、艶のある鼻梁にかけられていた。

「不祥、わたくしのような力の足りない者が、医学部長候補として、多くの先生がたのご推薦を受けることになるとは、本日まで、まったく夢にも思いいたりませんでしたが、」

 まったくその通りかもしれないわ。

 由香里は心のなかで大きくうなずいていた。

 佐沼は草稿を演壇の上に広げ、用意された水差しからコップに水を注いで軽く口をつけた。

「こ、これは、」

 突然、佐沼の表情が激変した。演壇に立ちつくしたまま、なにかに追いつめられたような顔色になる。

「そ、そんな……」

 急に失語症になったかのように、口をつぐむ佐沼を、教授たちは不思議な顔で見あげる。そして三十秒以上、時間が過ぎる。

 佐沼教授が、この草稿を目にするのは初めてだった。でも、その内容は日頃、佐沼の言っていることを適当にそつなくまとめたものだから、読むのはたやすいはずだった。

「先生、先にお進みください」

 たまりかねたように、口を開く由香里の声も耳に入らないようである。

「だめだ! 」

 突然、会議室のドアに向かって、佐沼が走りだしたのだ。






(五)


「だめだ! って言うんだな、この令状では」

 佐沼が演壇に向かって歩き始めたころである。教授の部屋を二名の刑事が訪ねてきていたのである。

「ええ、そうどす。これでは小寺光代はんという患者はんのカルテだけを出すようになってます。もうそれは病院の方からお渡ししたはずどす」

 村山の視線にひるむようすも見せない田所洋子である。

「そこを曲げてお願いしたいのです。水上先生の全患者のカルテがそこの端末から打ち出せるようになっているんでしょ。ここに光ディスクを持ってきました。これに書き込んでください」

 きちんと七三に分けられた頭を下げるのは、半年前に捜査一課に配属された新人の吉野刑事であった。

「病院の使命は、ええ特に産婦人科の使命は、患者はんのプライバシーを守ることだけや、いうても過言ではありまへん。この令状では絶対に、お渡しできまへん」

「おい、ことは殺人事件に関することなんだぞ! 」

 たいていの女性は村山の、この大声に驚くはずであった。

「おや、おかしおますなあ。この令状のどこを見ても、そんなこと書かれてません」

「お願いです。打ち出さなくても結構ですから、この画面でざっと見るだけでもだめですかね。もちろん患者さんの秘密は守ります」

 吉野の声には元々無理な願いであるという、後ろめたさがある。

「このモニターをのぞかれることこそ、患者さんのプライバシー侵害以外のなにものでもないどすがな」

「わかった! 患者のデータじゃなくてもいい。水上の書いたレポートと水上の行動日程のすべてを打ち出すんだ」

「お断りします」

 洋子は春色のスーツの襟を立てるようにして背筋を伸ばす。

「かまわん吉野、パソコンからデータを引き出せ」

 キーボードの前に座る吉野の横で洋子は、ゆっくりと受話器をとる。

「どこに電話をかけるんだ」

「弁護士はんを呼ばさしてもらいます」

「弁護士でびびっていて、この仕事ができるか」

「警部、パスワードがわかりません」

 そのときバタンと大きな音がして、ドアが開いた。 

「あっ、教授ちょうどいいところどした」

 秘書の田所洋子の声も、まるで聞こえなかったかのように佐沼は、あわてきっている。

「だれが、こ、こんなひどいことをしたんだ! すぐに、すぐに助けてやるよ。ぼうや」

「教授、どうなさったんどす? 」

 ポケットから鍵を取り出しすのも、もどかしく、開いたドアを蹴破るようにして、標本室に走りこんでいった。

「わーっ、! 」

 ドア越しに、かすかに響いてくるのは佐沼の悲鳴のようだった。

 立ち上がった洋子はドアに向かって歩きだす。そしてオート・ロックで、外部からは開けられないドアのノブを、思わずつかんでいた。

「あーっ」

 警察官の本能を刺激するように、分厚いドア越しに悲鳴は続いている。村山と吉野も立ち上がりドアに走り寄る。

「先生、どうなさったんですか? 」

 吉野の声にも返答はない。

「このドアは、そんな声では中まで聞こえません」

「おい、もっと大きな声を出せ!」

 村山の命令に吉野は声を張り上げる。

「先生! このドアをあけてください!」

 吉野の声も絶叫に近くなっていた。 

「あー」

 しかし、わずかに聞こえた叫びを最後に、標本室からは、物音ひとつ聞こえなくなった。そこにようやく由香里がかけつけてきた。

「どうしたの? 」

「はい、中でなにかの事故が起こったらしいんどす。この部屋に佐沼先生が入られて、突然、大きな悲鳴をあげはって……」 

 そのときドスンという、物の倒れる音が部屋の奥から響いてきた。ちょうど大人の男が倒れたような音である。

「部屋の奥に潜んでいただれかに襲われたっていうの? 」

「ええ、そうかもしれません」

 角倉も息を切らせて、教授室に飛び込んできた。

「教授は、教授はいったいどうなさったのですか? 」

「中でなにかの事故が起こったらしいんです」

「だれか、だれか教授を助けてあげてください」

 角倉の顔には苦渋の表情が浮かぶ。

「どこかにこの部屋の合鍵はありませんか? 」

 その質問に角倉は頭をふる。

「いいえ、ここの鍵は佐沼教授だけが常に持ち歩いていて、だれも無断では入られないことになってますから」

 ドアの隙間からは、奇妙な臭いが漏れてきた。それは人肉の焼けるような臭いである。

「どうもようすがおかしい? 緊急事態だ。ここのガラスを割って中に入ろう」

 ドアのすぐ上にある三十センチ四方ほどの明かり窓を吉野は指さす。

「これは厚さ三センチもある強化ガラスですからカナヅチぐらいのものでは割れません」

 そう言いながら由香里は、あることに気づく。

「待ってください。ここの事務長の金庫のなかに、マスター・キーがあるばすですから」

 金庫のなかに厳重に封印されていて、そのキーを探すのにずいぶん手間どってしまった。教授の悲鳴を聞いてから、もう十分以上、時間が過ぎていた。ところがそのマスター・キーでもドアが開かなかった。

「やっぱりだめどしたか? 」

「どういうことだ」

 村山が洋子をにらみつける。

「この鍵はマスター・キーでは開きまへん。特種な暗号方式になってますから」

「じゃ緊急のときには、どうするんだ」

「そうどすな……そうや、ひとつだけ方法がありますわ。火災報知器のベル鳴らしてもらえます。火災のときには、マスター・キーが使えるように、全館の暗号キーのロックもたぶん解除されるようになってますから」

「たぶんだと。しかたない、吉野、どこでもいいから火災報知器を鳴らしてこい」

 吉野が部屋を出ていって、すぐに非常ベルの音が全館に響き始めた。耳をつんざく大音響のせいで、キーの回るカチリという音はだれにも聞こえなかったが、ようやく標本室のドアのロックが外れたのだった。


 ドアの内側の臭気は、さらに吐き気を催すような不快なものだった。

「あっ! だれも中に入ってはいけまん」

 研究員たちを押しとどめ、村山と吉野だけが、ハンカチで鼻を押さえながら、ゆっくりと標本室に入っていった。

 狭い通路の両側にずらりと並んでいる不気味な標本に、とまどいながら歩いていた吉野の足は、無脳児のボトルの前で止まる。

 吐き気をおさえるために、口元もしっかりとハンカチで押さえる吉野である。

「なに、ぼやぼやしているんだ! そんなもの気にすることはない」

 そう言ったとたん、村山の目と、シャム双生児の四つの目とがあった。

「すぐにこっちに来い」

 内心、ぎょっとした村山の声である。

 標本室の奥には机と椅子、それに応接セットが並んでいた。ひと目でどれもがとても高価なものであることがわかった。そして、そのソファの横に一人の男がうつぶせになって倒れていた。

 吉野が頚動脈を触診すると、すでに脈拍はまったくなかった。

「死んでいます」

「そうだろう」

「佐沼教授か、それともこの部屋に潜んでいただれかかな? 背広はさっき見た教授のものと同じように見えますが、すぐに身元を確認してもらわないとだめですね」

「バカやろう」

 立ち上がろうとする吉野の頭の上から罵声が落ちる。

「鑑識の到着前の現場に、どやどやとお客さんを入れてどうするんだ!」

「でも、この死体が本当に佐沼教授かどうか? 面識のある人間に聞かなければわからないじゃないですか」

「身元なんてものは、あとでゆっくり調べればいい。それより、他に人間が潜んでいるかもしれない。気をつけるんだ」

 そのとき、吉野は床の一部が濡れているのに気づいた。

「なにか液体がこぼれています」

「おい、それはなんだ」

 死体のすぐ横の床に、ぼろぼろの雑巾のようなものが落ちていた。

「犯人の遺留品かもしれません」

 吉野は手を伸ばして確認しようとする。

「だめだ。鑑識の到着前にさわっちゃいかん」

 そのとき突然、かがみこんだ吉野のズボンの裾から白煙があがった。床にこぼれている液体に触れたとたんにウールが燃え上ったのだ。蛋白質の燃えるいやな臭いが鼻をつく。部屋のなかに充満していたのは、この臭いだったんだ。

「おい、気をつけろ。これは硫酸か、なにかの劇薬だぞ」

 床のローズウッドにも焦げ目が広がっている。

「あっ! 」

 吉野の口から、叫び声があがる。

 死体の顔面がどろどろに溶けて、床にくっついていたからだ。

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