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そして天使が・ふ・え・て・い・く  作者: 高沢テルユキ
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第五章

(一)


 入口のガラスのドアに書かれている『カドクラ・メンタル・クリニック』の金文字が冬の午後の光に反射して輝いていた。


 ここは角倉が個人経営している診療所であった。新宿西口のオフィスビルの一室を借りて開業していたのだ。

「角倉といいます」

 ハンサムだけど、夫より頼りない感じの若い医者に、美沙はとまどう。

「詳しいことは水上先生からお聞きしております」 

 詳しいこと?

 わたしがなにを、こんなに苦しんでいるのか、あの人は本当にわかっているのかしら?

 モス・グリーン系の色調で統一された室内も、とっても明るい雰囲気だった。けれども、美沙は、もうこのクリニックに来たことを後悔していた。


「差し上げたお薬をお持ちですか?」

 バックから取り出された白いカプセルを角倉はじっと見つめる。

「今日も飲まれてきたのですか?」

 美沙はゆっくりと頭を横にふる。

「それはよかった。これから診察で別のお薬を使うので、それと複合作用が起こるといけないですからね。で、ふだんの生活では、これまでにも頭痛とか息苦しくなるようなことはありましたか? 」

 美沙は、まだ返事ができない。

「朝、何時ごろから目まいが起こっていたのですか? 」

「……九時ぐらい……いや違うわ、もうちょっと遅く、十時ごろです」 

ようやく答えが出たあと、家族のこととか幼いころの記憶に関しての問診が三十分も続いた。

 一人の人間にこんなに時間をかけてもいいのだろうか、と美沙は思う。


「ちょっと立ち入ったことになるかもしれませんが、」

 少しためらうような瞬きに続いて、角倉がそれから尋ねたことは夫婦の性生活に関する質問であった。それはよくも、ここまで微に入り細に入り質問できるものだと聞かれるほうが呆れるほど密度の高い問診であった。

それにも三十分以上の時間がかかり、それだけで美沙は、精神的なエネルギーの大部分を使いきってしまっていた。


「では、次にロールシャッハ・テストをしたいと思います」

「ロールシャッハ? 」

「はい、普通、抽象画のような絵を十枚ほど見ていただいて、その絵から受ける印象などをお答えいただくものです。奥さんの場合には、簡易的に何枚かの絵をゆっくりと見ていただいてじっくりとお答えしていただきたいと思うのです。この絵は、わたしがコンピュータで作ったオリジナルの絵です。リラックスして心に思い浮かぶままに答えてください」

 角倉は『ゆっくり』、『じっくり』というところを意識的に強く言う。

 口からでまかせに、なにかを言って、早く家に戻りたいわ。

 そう思う美沙の目の前には奇妙な絵が出された。

「これはなんに見えますか? 」

 最初の絵には、なにか丸いものが見えるようであった。

「『缶詰』のようにしか見えません」

「缶詰だけですか? 缶切りは見えませんか? 」

「ええ、見えません」

「これは? 」

 次の絵は四角いもののなかにごちゃごちゃとした細かい文字のような模様が広がっていた。

「『列車の切符』ですね」

「使われたものですか? 」

「まだ、改札を通ってないものです」

「使われてない切符ですね」

「ええ」

「はい、わかりました。次はどうでしょう? 」

「なにかの『花の蕾』です」

「なんの花に見えます? 」

「ちょっと思いつきません」

「そんなことはないでしょう」

どうして、こんなに花の名前を知らないのかしら。花のもつ可憐さは、わたしの心とあまりに、ほど遠いものだったからかしら。

 美沙は目を凝らすように見つめるが、ますます花の蕾らしくなくなっていく模様にとまどうだけである。

「まあ、いいでしょう。じゃこれは? 」

 いつまで続くのだろう? こんなにうんざりした顔を作っても、この医者はなんとも思っていないのだろうか?

「あの、まだでしょうか? 」

「ええ、もう少しですから」

 角倉は、また違う絵を出した。

「『さなぎ』です」

 美沙は、もうそれを見もしないで早口で答えた。

「次はどうでしょう? 」

「口紅です」

「新品ですか? それとも、かなり使い古したものでしょうか? 」

「まだ一度も使ったことのない今年の新色のリップです」

 無責任に話せばいいのだと思うと、急に饒舌になる美沙だった。

「おもしろい傾向が現れてきました」

 おもしろい?

 この医者には、わたしの苦しみも悩みも絶対に理解できるわけがない。


 美沙は、腕時計を見る。もう午後二時を過ぎていた。

「お時間は、あるんでしょう? 」

「まだ、なにかなさるのでしょうか? 」

「ちょっと催眠療法をやってみましょう」

 あの帰りたいのですが、と言おうとして、美沙は、自分を見下ろす角倉のあまりに澄んだ瞳に少し驚いていた。

「これは、軽い鎮静剤です」

 ソファのようにゆったりと作られた革張りの診療台に横になると、美沙はすぐにシロップを飲まされる。上等な紅茶のようにわずかに品のある甘さを含んでいた。


「さあ、軽く深呼吸してください」

 手足の先がほんの少し暖かくなり、やがて重くなってきた。呼吸も深くなる。頭のなかから意識が遠くなっていくようだ。美沙は自然にまぶたを閉じていた。

「さあ、気持ちを楽にして、心を縛っているものを、ゆっくり解き放すように自由な気持ちになってください」

「はい」

 さらに一分もしないうちに、全身が鉛のつまったように重くなって、ピクリとも動かなくなった。


「あなたはいま、ご自宅にいます」

 体は、動かないのに心は冴えわたってきた。

「ええ」

「ご主人は病院に出かけましたよ。さあ、あなたは一人です。あなたは自由です。さあ、これからなにをします? いつもしていることを、ここでやってみてください? 」

「義母ははが」

「え、えっ? 」

「義母が見上げています? 」

 言葉もスムーズになる。奇妙な薬だと美沙は思った。

「お姑さんのことですね」

「ええ」

「あなたを? 」

「はい」

「どこから、見上げているのですか? 」

「あの、いやらしい所から」

「いやらしい所? 」

「騒がしい子供たち」

「えっ」

「義母が子供たちと手をつないで見上げています」

「ご主人のお母さんがですか? 」

「ええ」

「なにか話してませんか? 」

「『飛び降りろ! 』って、言ってます」

「ご主人のお母さんがですか? 」

「子供たちも叫んでます」

「どんな言葉でしょう? 」

「『飛び降りろ』です。団地の中庭から響きます」

「同じ言葉ですね」

「ええ、わたしは飛べません」

「そうでしょう」

「主人も背中から声をかけます」

「あれ? 職場に出かけていたのではありませんか? 」

「いいえ、『まだ、飛び降りないのか』って言うのです」

「どうして、飛び降りないといけないのですか? 」

「わかりません」

「ほかに声は聞こえませんか? 」

「団地の窓という、窓から聞こえてきました」

「どんな声でしょう? 」

「『まだ? 』って言う、とってもいやらしい声です」

「その人たちは、どうして、『まだ? 』って言うんですか? 」

「わかりません。でもわたしは飛べません。まだ命が惜しいからです」

「それは当然でしょう。ところで布団を干している家はありませんか? 」

「義母のたずねてきた次の日です」

「えっ? 」

「その日は、かならず布団が干せないんです」

 わたしは、なにを言っているのだろう?

「どうして、ですか? 」

「とっても布団が重いんです」

「どのくらい? 」

「両手が痺れそうになるくらいです」

「どうして、そうなったのかわかりますか? 」

「聞こえます」

「えっ! 」

「あの声が」

「どこからですか? 」

「谷底です」

「どこの? 」

「わたしの団地の谷底から、騒々しく」

「『飛び降りろ』って、ですか? 」

「いいえ、違います」

「どう言っています」

「『布団を落とせ! 』って言ってます」

「布団? ですか」

「はい」

「ご主人は、どこにもいませんか? 」

「いいえ、夫は背中から声をかけます」

「どういう声ですか? 」

「『まだ、布団を落とさないのか』って」

「わたしにはできません。まだ布団がもったいないからです」

「そうでしょう。ところで……」

 そこで美沙の記憶は、ぷっつりと途絶えた。なにを質問され、なにを答えたのかも、まったく覚えていないのだった。


 時刻は、四時を過ぎていた。

 美沙は、まだ診療台の上に横たわっていたのだ。

「気がつかれましたね」

「ええ」

 起きあがって、靴をはこうとする美沙の肩を角倉の大きな手がやさしく押さえ込む。

「いえ、そのまま、そのまま。まだ、少し頭がふらふらするかもしれませんから。基本的な傾向がつかめましたので、簡単に説明させていただきたいのですが」

「ええ」

 来院してから三時間半たっていた。けれども、こんな短時間でわたしの悩みの原因などわかるわけがない。

 このとき美沙は角倉を、にらみつけるような目をしていたんだと思う。


「まず、ロールシャッハ・テストの結果なんですが、奥さんの答えられたものを、ここにまとめてみました」

 角倉は、週刊誌ほどの大きさの白紙に書かれたメモを出す。

『缶詰、列車の切符、花の蕾、さなぎ、口紅』

「これは? 」

「奥さんが、ロールシャッハ・テストで答えられたものですよ」

 なんの関連もない言葉の連続に、美沙は医師の意図を疑う。

「まあ、これは後でご説明するとして、まず睡眠療法の結論の方をお話しましょう」

 美沙は返事をしないで軽くうなづいた。


「奥さんは、『まだ』という言葉を極めて多用しておられましたね」

「そうでしょうか? 」

「それは『まだ、子供ができない』と、いうことの脅迫観念だと思われますが」

 あまりに突飛な言葉に美沙は笑い出しそうになっていた。

「そんなことはないと思います。夫も、わたしも子供をそんなに欲しがっていませんから」

「いいえ、おそらく布団を干せないのは、団地の中庭から響いてくる子供の声を聞きたくないという深層心理からでしょう」

「まさか! そんな」


「じゃ、もう一度このメモを、よーく見てください」

『缶詰、列車の切符、花の蕾、さなぎ、口紅』

「いいですか。『缶詰』は、まだ缶切りで開かれてないものです。列車の切符も、まだハサミの入っていないもの。花の蕾は、当然ですが、まだ咲いていないもの。さなぎは、まだ成虫になってないもの」

 美沙は体が震えだすのがわかった。

「確かに、わたしは、『まだ一度も使っていない口紅』と……」

「そうでしょ。すべてに『まだ』という深層心理が働いているのです。『まだ子供ができない』と、いう重い負担に耐えかねている心の叫びなのでしょう」

「でも、正直に言いますが、わたしはほとんど絵なんか見ないで、口からでまかせに言ったんです」

「はい、それでいいのです。そのときに、間違いなく、心の奥底にあるものが唇を通して湧きだしてきたのでしょう」


 その瞬間、美沙は、角倉の言葉が間違いないことを悟った。

 そして、このことは夫には言えないことであることも。 

「あの、この結果はうちの人にも知らせるのですか? 」

 角倉の瞳は、その誠実な光をあふれさせるかのように輝きだす。

「いいえ、たとえご夫婦であろうとも、他人に診察の秘密をもらすことは決してありませんから、ご安心ください」





(二)


「どうだったの? 生まれて初めて受けた精神分析の感想は? 」

 今日の由香里は白衣の下に淡いベージュのワンピースを着ていた。

「人間って本当に、自分でさえ思いもかけない秘密を持っているものなのね」

 美沙は、自分でも気に入っている花柄のブラウスに落ち着いた淡いグレーのスカートである。

「どんな秘密なのかしら? 」

「それは……」

 由香里は両耳を押さえるようなしぐさをする。

「だめだめ、なにも聞きたくはないわ。個人の秘密は、知らされた相手の人間も苦しめることがあるのだから。ときには当人よりも重い心の負担になることもあるのよ」

 そういえば、由香里が花柄の模様の服を着たのを見たことがない。どうしてなのかしら? バラの花模様なんか、とっても似合いそうなのに。ひょっとしたら、そういうことも『個人の秘密』なのかもしれない。


「全部の質問に正直に答えたの? 」

「いいえ、適当に嘘をついたところもあるわ」

「それは良くないわ。アメリカでは『夫には嘘をついてもいいけど、弁護士と精神分析医には嘘をつくな』っていう格言もあるのよ」

「ねえ、あの角倉先生って、どういう人なの? 」

「うちの大学出身の先生で、もともとは精神科の研究室にいたのよ。実家がとてもお金持ちで、研修医になると同時に学校の外に精神科のクリニックを開いたの。そう、美沙が行ったところよ。まあ、それはそんなに珍しいことではないんだけれど、そこでは、主任教授の久保寺先生の理論とは、まったく違う診断法や治療法ばかりやっていたのよ。それで、研究室のなかでうまくいかなくなって、佐沼教授の産婦人科に移ってこられたのよ」


「産婦人科で精神科の先生のする仕事ってあるの? 」

「マタニティ・ブルーとか、いまいろいろ問題になっているでしょう。出産を控えたお母さんたちの精神衛生を保つことも、とても重要なことなの」

「ふーん」

「というのは表向きの理由。角倉先生は、元々は小児精神病を研究テーマに選んでいたんだけれど、これから胎児の精神医学にチャレンジしようとしているのよ。佐沼教授も、胎児の研究にはとっても意欲的な方だから、ふたりとも話があうみたいなのよ」

「ほんとうに優秀な先生なのね。このあいだ、問診を受けて特にそう思ったわ」

「だけど、少しおかしなところもあるの。角倉先生が久保寺教授とぶつかって研究室を飛び出したでしょ。ふつうの大学病院だと、そういう場合には、ほかの病院に就職するしか生きる道はなくなってしまうものなのよ。でも佐沼先生の好意で、産婦人科に移ってきたことも異例なら、講師のポストが与えられたなんてことは、もっともっと異例なことなのよ」

「ふーん、いろいろと難しいところなのね」

「まあ、美沙ったら他人ごとみたいに言って、あなたのご主人が、ここに来て講師になったことも、すごく異例なことなのよ。それで昔からいて、まだ助手の人なんかには、そうね、妬むような人もいないではないのよ」

「そんなこと一度も聞いていないわ」

「きっと、あなたに変な心配をかけたくないのね」

「わたしって、あまりに世間知らずなのね。政晴には、やっぱりあなたみたいな奥さんの方がお似合いだったんだわ」

 美沙の最後の言葉は、まったく聞こえないふりをして、由香里は机の上にかなり厚いコピーを置いた。


「これ読んでみない? 」

「これは? 」

「来月号の月刊『文秋』の記事のゲラ刷り原稿よ」

『遺伝子治療の専門家』特集である。『佐沼・笹川メソッドの発明者』と書かれてあった。

「このメソッドというのは? 」

「血液の染色体異常を調べるのに簡易的な方法で、教授と一緒にわたしが発表したものなのよ」

「すばらしいわね」

 記事の内容は、しかし、やや専門的で美沙には難し過ぎた。

 それよりも美沙の注意を引いたのは、何枚もある由香里の写真だった。

 万が一わたしが、こんなグラビアに載るようなことがあっても、こんなふうにきれいに写ることはない。

 そう思って、目の前にいる本物をよく観察してみた。

 由香里は化粧がうまい。化粧の乗りがいいのだろうか? どこからが本当の皮膚で、どこからが化粧なのか区別がつかない。女も三十を過ぎればいろいろなくすみとか染みとかが化粧の薄い皮膜を破って、表からも見えるようになるはずなのに、不思議なほどつやつやとしてきれいな肌だ。

 まだ男を知らない乙女のような清らかさ。学生時代から、あんなに男に持てたのだから、そんなはずはないのに。


 こんなことは絶対に聞けないけれど……。

「あなた、処女じゃないの? 」

 由香里は急にまばたきをすると、呼吸をとめた。そしてすぐに、なにごともなかったかのようにおだやかな表情にもどった。

「まあ、やだわ。美沙ったら、なにを言い出すの」

「あなたの肌には少しも、くすみがないじゃない。少女のようだって思ったの。そしたら急に『処女じゃない? 』って、聞きたくなったのよ」

 由香里は、あわてたように机の引き出しをあけて、なにかを探し始める。

「それ、連想治療の後遺症よ、きっと」

 小さな採血管を取り出した由香里は、その目盛をじっと見つめる。

「ねえ、ところで、これから、あなたの体を見させてくれない? 」

「わたしの裸を? 」

「冗談よ。内視鏡を使ったりしないわ。ちょっと軽く血液検査するだけなの」

「なんのためなの? 不妊とか、そういうことを調べるの? 」

「ええ、血液中のホルモンの量を調べるだけで卵管の炎症も調べられるんじないかっていう提案を学会にしようと思っているの。それで論文を書いているんだけど、ちょっとその参考にしたいの。それに、神様が美沙の体をどんなに美しく作ってくれたかも、血液を通して見てみたいのよ」

 わたしのことを美しいだなんて。

 冗談だとわかっても美沙は、うれしい気分になる。


「いいわ、由香里のためになるのなら」

 左腕の血管に針がさされ、赤い血が採血管に集められていく。

「ねえ、こんなことを質問するのは、初めてだけど、由香里は結婚しないの? 」

「はは、他の人からは聞き飽きた質問ね。よい相手が見つかればとでも答えておくと、たいていの相手は満足して、その野蛮な質問から、わたしを解放してくれるわ。でも美沙の質問なら正直に答えないわけにはいかないわね。たぶん結婚はしないと思うわ。いまの仕事と研究に十分に満足しているから。それに大切な政晴さんは、あなたに取られてしまったんだし、」

「また、そんなことを言う」

「うそよ。本当は家庭を持つひまなんて、ちょっともないくらいに忙しいのよ」

「じゃ、子供もいらないってことなのね」

「ええ、確かにそうなるかもしれないわね。女は子供を生むための機械ではないのだし」

「男の人は、子供を生んでくれることを期待しているのかしら」

 そんなそぶりのない政晴のことを思い浮かべる。


「いずれにしても女が子供を生める時間は、ほんのわずかしかないの。膣口も開いていない、つやつやの肌の赤ちゃんを診察したあと、すっかり閉経してしまって膣乾燥に苦しむ老女の体を診察することがあるのよ、産婦人科ってとこは。そのたびに思うけれど、女の体は時計なんだわ」

「時計? 」

「時計の定義は、『時間とともに変化して、時の流れを知らしめてくれるもの』でしょ。だから『いつまでも若々しく』なんていう目標は、実は意味のないことなのよ。時間を止めてしまうことなんて、だれにもできないことなのだから」

「それは、由香里のようにきれいな人の言えることだわ。だんだん肌が荒れてくるし、だれにも素顔なんて見せられない普通の女には、つらい言葉だわ」

「そんなことないわ。顔の染みだって大切な印なの。人はみなMORTALモータル なものとして、この地上に現れ、そして消えていくものなのよ。それを忘れないことのほうがきっと、ずっといい生き方をできるんだわ」

「モータルって? 」

「英語で『必ず死ぬべき者』っていう意味よ。あなたも、そして、もちろんわたしも。そしてだからこそ一瞬一瞬を大切に生きなければいけないんだわ。そのために必要なのは時計でしょ。化粧で顔を隠すことは、その時計を狂わすことになるのよ」

 つやつやと輝く肌の由香里が死ぬときがあるなんてことは、美沙には想像もできない。


「でも女性として、これからどうやって生きていくの? 」

「わたしは女性であるということは意識しないわ。女性であることは、決して変えられないのだから。でも『女性である』ことがある種なんらかの限界を示す言葉なら、その限界に縛られたくはないの」

 素晴らしい言葉だわ。

 こんなにはっきりとした、女の自立の宣言はテレビでも、どんな評論家からも聞いたことはない。

 その瞬間、由香里にだけは、いつまでも今のままでいて欲しいと、美沙は願っていた。






(三)


「あの、このあいだ、両親は健在ですって言いましたけれど、実は現在の両親は、わたしを本当に生んでくれた親ではないのです」

 翌週、美沙は再び角倉のクリニックを訪れていた。


「ほう」

「わたしは生まれて三ヶ月にしかならなかったのですが、ちょっとした事故で両親とも亡くなってしまったのです」

「交通事故なんですか?」

「えっ、ええ」

「そうですか、確かに自動車は、人に利便を与えるツールであると同時に、人を死に至らしめる凶器としての側面も持っていますからね。わたしは殺人者にはなりたくないので、未だに車の免許はとっていないんですよ」

 大げさにうなずく角倉はクルマ社会に対してどんな恨みを持っているのだろう。美沙は不思議な思いで角倉の形のいい鼻腔を見あげていた。

「その事故は鉄道関係だったと聞いています。詳しいことは、わたしにも、よくわからないのです。まだどんな記憶もないときだったので、周りの人に教えてもらったことを信じるしかないのですけれど……」

 あの悲惨なできごとさえ起こらなかったなら、古い写真のなかでしか知らない両親のあたたかさを、この肌で直に感じることができたのに。

 一度でいいから『美沙』と自分の名前を呼びかけてくれる父や母の声を聞きたい、と願っていた少女時代のことも思い出していた。

「いずれにしても奥様は、交通遺児というわけですね」

「ええ、まあそうですが、でもいまの両親は、生んでくれた母親の姉夫婦ですから、ちゃんと血のつながりはあるんです。それにわたしを本当の子供以上に大切にしてくれましたから」

 なぜだろう?

 聞かれもしないのに、美沙は、めったに人に話さないことを角倉に話していた。

「そのご両親は現在も都内にお住まいなのですか? 」

「いいえ、父が定年を迎えたあと、世田谷の住居を引き払って、千葉の九十九里の海岸の近くに引っ越してしまったのです。わたしは、なんだか捨てられたような、寂しいような奇妙な気分なんです」

「ご両親とのあいだに、ちょっとした心の溝ができてしまっているのかもしれませんね」


 角倉のやさしい微笑みは、美沙にあることを思い出させていた。

「わたし、高校生のときにも、こんなふうにカウンセリングを受けたことがあるんです」

「どんな症状だったんですか? 」

「ええ、変な夢をつづけて見るようになって、四角い箱のなかからだれかがわたしのことをじっと、のぞいている夢なんです。その人は初めにこにこしているんですけれど、そのうち急に涙をボロボロと流し出すのです。わたしは、その人の顔を見ていると、なつかしいような悲しいような胸をしめつけられるような気持ちになるのです」

「それは男の人ですか? 女の人ですか? 」

「それが、よくわからないのです」

 角倉は、急に興味をおぼえたように、美沙のほうに椅子をひきよせ、体を近づけてきた。

「そのうち、そうなんです。高校二年になったときです。夢のなかの箱から突然、いろんなものがたくさんあふれ出てくるようになったんです」

「その箱は、どんな色でした? 」

「とっても派手な、真っ赤とか真っ青とか、黄色とかが、ごちゃごちゃにまざった箱でした。わたしは気持ち悪くなったんですが、前に見た夢と同じように、なんだか奇妙な、なつかしさを覚えてしまうのです」

「箱からあふれてくるものは、なんでした? 」

「それが細かいものばかりで、そうです! 」

 美沙は急にそれが、とっても小さな人形だったことを思い出していた。

「赤い服を着た人形です。そうです。あの日、団地の屋上から飛び降りていったのと、ちょうど同じ光景だったんです」

「ほーお」

「あるとき、わたしは家の納戸のなかで、急に気を失って倒れてしまったのです。気がつくと、嘘みたいなんですが、あの夢のなかで見たのとまったく同じ形で、色だけは違って、そうつやつやと真っ黒に塗られた箱を手に持っていたのです。たぶんなにかのお祝いで両親がもらったものだったのでしょう」

「気を失ったのは、どのくらいの時間でした? 」

「覚えていません。きっと長いあいだ夢のなかで見ていたものと、そっくりの箱があるのに驚いたんだと思います。でも、不思議なことに、その日から、もう二度とその夢は見なくなってしまったのです。いまでも、あれはなんだったのかしら、と思うのです」

「その箱はいまでもあるんですか? 」

「ええ、わたし、それに『鏡のハコ』って名前をつけているんです。上蓋の内側に鏡が張ってあるんですよ。ときどきそう、悩みがあるときにとか、その鏡に素顔を映していろんなことを考えるんです。特に答えが出るとか、そんなことはなんですよ。でもなぜか気持ちが和らぐのです」

 とりとめもない美沙の話を聞いていた角倉は、穏やかな笑顔でゆっくりとうなずいていた。

「なかなか興味深いお話ですね。今日は前回よりも、少し強めのお薬を使ってみましょう。もっともっと心の奥を調べることができますから」

 今日の美沙は、心から素直にうなずくことができた。


 前と同じシロップを飲んで、美沙は診療台に横になった。

「ちょっとチクリとしますが点滴もしましょう。静脈にお薬を入れますから」

 いつのまにか、奥の調剤室から角倉が点滴ボトルを運んできたいたのだ。

「お薬が効きだすまで、ゆっくりしていてください」

 ほとんど痛みも感じないうちに、前回の治療のときと同じように手足が重く暖かくなってくる。

「あっ、川の音」

 美沙はいきなり口を開いた。

「どこの川ですか? 」

「せせらぎの音だわ」

「この前と同じように団地の中庭から響いてくる音ですね」

 美沙は首を振る。

「ううん、違う。ほんものの谷川の音」

 美沙の話し方は、子供っぽくなっていく。

「いま何年生なの? 」

「中学生」

「中学何年? 」

「違うわ。高校の二年だわ。クラスの友達と旅行に行ったの」

「クラスの男の子? 」

「ええ」

「二人だけで? 」

 少しためらってから、美沙は、ゆっくりとうなずく。

「ご両親には、内緒で」

「ええ、お父さんにもお母さんにも知らせなかった」

「二人はそこで結ばれた? 」

「ええ……いいえ」

「どっちなんですか? 」

「そんなこと、ないわ、わたしたち」

「ペッティングとか、キスとかも? 」

「キスは」

「したんですね」

「ただわたしの唇の上に、だれかの唇が」

「唇を重ねたんですね? 」

「唇に、なにかが当たったの」

 美沙は自分の唇に人差し指をつける。

「それは、なんだったんですか? 」 

「耳元に、ささやきも聞こえます」

 頭も手足も鉛のように重くなってきた。

「それは、小川のせせらぎでしょ」

 美沙は、けだるく首を振る。

 その声は『ぼくはきみが好きだ』と、言っている。

「なんですか? 」

 鉛が詰められたような肺のせいで、呼吸までおそくなってきた。

「唇に当たったのは、相手の男の人の唇なんでしょ」

 角倉の声は、やや神経質に尖る。

「いいえ」

 声がかすれてきて、もう角倉の耳にまでは届かない。唇がわずかに動くだけである。

「奥さん、どうしたんですか? 奥さん」

 美沙の視線は、突然、宙をさまよいだす。

「しっかりしてください、奥さん。しっかりして……」

 不意に部屋全体が傾いてくる。窓が平行四辺形になったと思ったら、すぐにぐにゃりと歪みだした。エアコンの吹き出し口からひどくねじれた虹色のミミズのようなものがグニャグニャと飛びだしてきた。それが空気であることに驚いて、角倉の顔を見上げると、端正な鼻が急にねじれながら伸びて金色に輝きだす。

 そして突然、点滴のボトルも銀色に光り、飛行船のように空中に漂い始めた。


 二時間後、意識をとりもどした美沙は診療台に横たわっていた。

「お薬が、体にあわなかったようですね。少し効きすぎたみたいですが、どこかに痛みはありませんか? 」

 あんな鮮烈な幻覚を見てしまえるだなんて、どんな強い薬だったのだろう。両手足の重いような感じ。それに下半身にはずっしりとしたにぶい痛みが走る。

「ちょっと、この錠剤を飲んでみてください」

 角倉の取り出した青い色の錠剤を飲んで横になっていると、すぐに痛みは消えて、不思議なほど爽快な気分になってきた。

「かなり楽になりました。そろそろ帰りたいのですが」

角倉は、次第に明るくなっていく美沙の顔色に、ほっとしたようすを見せる。

「白いカプセルはやめにして、これからはその薬を飲むようにしてください。用法用量は同じです。気分が落ち込んだときなどに飲むと楽になりますから」

 角倉は、ピンクのピルケースをポケットから取り出した。そして、そのなかに入っている青い錠剤を確認するようにして美沙に渡した。

「もう大丈夫でしょう。では、今日の診断の概略を説明させてください」

「はい、お願いします」

 美沙の声は、期待に少しはずんでいた。

「あなたは、高校のとき同級生の男の子と旅行に行きましたね。そこでキスをして、さらに深い肉体関係をもった」

「えっ? 」

 あまりに意外な言葉に美沙は驚く。

「ご主人には、それを秘密にしているのでしょう。そのことの引け目があって、団地の底から響く子供の声から逃れたくなっているんですよ。男の子と旅行に行ったときに泊った宿は、谷川の傍にあった。子供の声がその谷川のせせらぎに聞こえるからです」

「えっ、ええ」

「どうです、ズバリでしょ」

「ええ、確かにそういうことがありました」


 コートの襟を立てながら、美沙はステンレスに輝くクリニックの建物を見上げていた。

 この建物って、さっき幻覚のなかで見た飛行船に似ている。でも、もう二度と、ここを訪れることはないわね。

 角倉には、一言も言っていなかったが、美沙の行った高校はミッション系の女子校で、同級生の男の子なんてものは、一人も存在しなかったからだ。





(四)


「ねえ、あの角倉先生って、やっぱり少し変な気がするの」

 美沙は今日も由香里のところに来てしまっていた。外来の最後の診察が終わるのを待って、一緒に長い廊下を歩いて研究室に戻ってきたのである。


「心の内側に、なにかまた新しい発見はなかったの? 」

 由香里は、ブルーマウンテンの豆をキャビネットから取りだした。

「千葉に行ってしまった両親とのあいだに心の溝ができているって言われたことがすこし気になったけれど……」

「まだ、いいじゃない育ててくれたご両親がちゃんと生きているだけでも」

 美沙は、はっとする。

 由香里の父親は二年前に肺ガンで亡くなっていたのだ。そのあまりに悲惨な末期症状を看取った母親も、やがてあとを追うように心臓発作を起こして亡くなってしまったのだ。ふたりともまだ五十代という、あまりに若すぎる死であった。

「由香里のお父さんって、確か国立大学の医学部の教授じゃなかった? もし生きていらしたら、いまの由香里のことを誇りに思うでしょうね」

「そんなことないはずよ。ただただ躾に厳しいだけだったから。学問に関しては特に間違いを許さない人だから。論文の下書きなんかを持っていって何度叱られたことか。娘として父親に甘えた記憶もないのよ。でも確かにわたしはこの世界で天蓋孤独になってしまっているわね。いまは」

『孤独』という言葉と由香里を、どうしても結び付けて考えられない美沙である。

「なにを言っているのよ。わたしがいるじゃない」

「あなた? あなたじゃねえ、ぜんぜん頼りにならないけど」

 由香里は、茶目っ気たっぷりに笑顔を作る。

「まあ」

 二人は、高校時代のように声をあげて笑い出していた。

「ところで精神分析の話の続きだけれど……まだ検査の途中らしいの。でも、もうあのクリニックに行くのはやめようと思うの。あれ、このこと角倉先生には聞こえないわよね」

「大丈夫よ。角倉講師は、今はいないの。学校にいるのは、午前中だけだから」

由香里はコーヒー・メーカーのスイッチを入れた。豆の砕かれる音といっしょに、鼻孔には、ブルーマウンテンの香りがひろがってくる。

「お仕事は、午前中だけなの? 」

「ええ、ここに来ても、とくに研究課題なんかはなくて、パソコンでインターネットの画面を、のぞいているだけで帰ってしまうのよ」

「精神科の先生って楽なのね」

「まあ、そうかもしれないわね」

 コーヒー・メーカーは、豆を蒸す穏やかな音に変わる。

「わたしは産婦人科を選んだことを後悔することもあるの」

「高校のときから、医者になれたなら産婦人科に行きたいっていってたでしょ、あなた。自分の出産のときにも、いろいろ参考にできるからって張り切っていたじゃない」

「まあ、いつになるのかしら。その前に結婚もしないといけないんだし」

あの歯切れのいい、自立宣言はどうしたのかしら? こんなあいまいな口調になっている。でも、きっとこちらの方が本音なんだわ。

「だって、扱っているのは、おめでたいことばかりでしょ。人の幸せを手助けできるなんて羨ましいわ」

「こんなことを言っちゃいけないけど、さっきの最後の患者さん、おめでたい顔に見えた? 」

「なんか死にそうなほど青い顔してたけれど、つわりのひどい人もいるのね」

「美沙はなんにも、わかってないのね。神様は、ときどきとんでもない間違いをおかすの。そして医者は、どんどん信仰心というものをなくしていくんだわ」

 由香里は、少し疲れを含んだ溜め息をつく。


「産婦人科って、産科と婦人科に別れているのを知らない人もいるくらいだから」

「あら、どう違うの? 」

「二つの科は、まったく違うのよ。平たく言うと、産科は正常で婦人科は異常なの。今の人のカルテを読んであげましょうか? 」

 由香里は机の上のパソコンの画面を開く。

「三十二歳主婦。子供が二人いるの。五歳と三歳で、男の子と女の子。ご主人は四十歳。住所は成城学園で、庭付きの広い一戸建てに住んでるみたいよ」

「わあ、うらやましい」

 由香里は、事務的な声になって続ける。

「三人目の子供ができたって喜んでいたみたいなの。近所の馴染みの産院に通っていたんだけど、つわりもひどすぎるし、超音波の影がどうも変なので、紹介状を持って、ここにやってきたのよ」

「妊娠じゃなかったの? 」

「子宮癌の末期よ。胞状奇胎が癌化して、子宮の壁も破れて、腹腔にまで癌がばらばらに飛び散っているわ」

「そんなこと、診療台で見ただけでわかるの? 」

「あの症例は研修医時代から何十例となく見たわ。レントゲンなんか撮らなくてもわかるわ。これからの検査は、医学的には、ほんの形式的なものになるわ。あとは、どういうふうに告知するかだけだわ。背中を触診してすぐにわかったけど、肝臓にもちゃんと転移していたわ」

 理系らしい、切れ味のいい口調に変わっていた。

「まあ」

「よくて、あと半年持つかどうか」

「そんなに悪いの」

「上の子供が小学校に入学する姿を見られる確率はゼロよ」

「そんなことを告知するの」

「うちの病院は、なるべく本人に告知する方針なの。保険の問題もあるから」

「保険って? 」

「ねえ、美沙。アメリカでは癌を告知するのが当たり前でしょ。なぜだかわかる。それは宗教的な環境とか、医者の倫理が優れているからじゃなくて、患者から告訴されるのが怖いからだけなのよ。あちらでは癌保険に入っている人が多いでしょう。入院期間の日数に応じて保険がおりるから、告知が一日でも遅れると、訴訟になるのよ」

「そんな理由で告知される方もたまらないわね」

「告知の仕方が悪いと、精神的なショックを受けたと言って、それがまたまた訴訟の種になるの」

「なにかと人情で左右されてしまう日本と、どちらがいいのかしら? 」

「いずれにしても日本でも、きっとそういう訴訟問題が起こるっていう医学部長の方針で、今年から、どんな病状でも積極的に告知することになったのよ」

「ふーん」

「いまの人の病状は、まだ表に見えないからいいけれど、膣癌の末期の患者の写真を見る?」

「遠慮しておくわ」と、美沙が答える前に、もう分厚い本が机の上に出てきた。

「これ去年、わたしが出した本なの。とっても評判がいいのよ。そうそう、このページ見て」

 由香里が指差したのは中年過ぎの女性の下半身の裸体の写真だった。外陰部に大きな握り拳のようなものが乗っている。表面がゴツゴツしていて青黒い筋も入っていて、小さなカボチャのようにも見えた。

「この腫瘍は糜爛びらんしていて、ひどい悪臭がするの。よくもこんなになるまで放っておけたわねえって、カンファレンスでも他の医者があきれてたわ」

 カンファレンスというのは、患者の病状と、その処置に関する医者同士の公開討論会である。この言葉は美沙も政晴から聞いて、知っていた。 この病院では毎週水曜日の午後に開かれているものだった。

「このおばさん、とっても和服の着こなしがいい人だったわ。お茶の先生で、膣癌が握り拳より大きくなって正座ができなくなってやっと来院したのよ。問診してみると、『正座できないのは、自分でも我慢できるけど、どんなに強い香水をつけても、ごまかせないこの臭いには耐えられません。一刻も早く取ってください』と、答えるのよ」

「その、奇妙なコブみたいなものを取ってあげたの? 」

「いいえ、血管が腫瘍とともに成長して、組織にからみあっていて、手術をすれば大出血になるから無理なの。いずれにしても、ここまでひどくなったら、もう、どんな療法を使っても人間の手では治せないわ。小指の先の大きさぐらいのときに来院してくれたら、まだ手の施しようもあったのに」

 少し弱くため息をつく。

「小指の先? 」

 美沙は、左手の小指の先を無意識に見つめる。

「その大きさでも癌細胞の数は十億は下らないのよ」

 十億の細胞というのは美沙の頭のなかではどうしてもイメージが浮かびあがらない。

「どんな治療法があるの? 」

「クリトリスも膣も子宮も、肛門も直腸も、それから周囲のリンパ腺もなにもかも切り取って、放射線治療をするってことね」

 美沙は、思わず左手の小指を右手で握りしめていた。

そんな姿になってしまったら、もう女じゃない、いいや人間でもないわ。

「そんなふうになっても助かった、って言えるの? 」

「ええ、間違いなく、医学的には助かったのよ。そうそう、研究室には、標本もあるのよ。見たかったらいいわよ。確か三十五歳ぐらいの患者の体の一部、つまり薄い皮膚に腫瘍を中心とした大陰唇の部分と、それにづづいて膣、肛門が張り付いている標本が」

「やめて」と、美沙は叫ぶこともできない。胃液が喉までこみあげてくるような気がしてきた。顔色が青白くなってきた美沙を、由香里が心配そうにのぞく。

「この話題、ちょっと刺激が強すぎたようね」

 美沙は、少し首を振って立ち直る。

「じゃ、その和服の似合うご婦人はどうなったの? 」

「あっという間に、腫瘍が全部の内臓に転移していって、三ヶ月で心臓停止」

「なんだか、怖くなってくるわ。お医者さんって、わたしにはとてもできない仕事だわ」

「美沙はいいのよ。こんな仕事をする人種じゃないんだから」

 コーヒーがやっとわき上がる。その薫りが漂ってきて、美沙の顔色も、ようやく少しずつ元にもどるようだった。


「ちょっと電子メールを読むから待っていてね」

コーヒーカップを机の上に置いて、由香里はノート・パソコンの蓋をゆっくりと開けた。蓋の内側が液晶画面になっていた。指先を見ないでキーボードをたたき始める。

そっくりだわ。そこに秘密を入れるというところも。

美沙は、今朝、出がけにのぞいた『鏡のハコ』のことを思い出す。「赤ちゃんなんてやっぱりなくてもいいんだ」と、その鏡に向かって独り言をもらしたことも。

そこに映っていたのは、いつも寂しそうな顔を見せている少女の瞳だった。

あの鏡は、割れるまで、永遠に人の喜びを映すことはないんだ。

 美沙は昨晩の夫との会話も思い出していた。

「あなたは子供を欲しくないの? 」

「子供? そんなのセックスの証明じゃないか」

 結婚してからも、子供のことは不思議なほど口にしない夫の顔をじっと見る。

それが政晴の優しさだと思っていたが、本当にそうなんだろうか?

「あなた、このごろ変だわ」

「おまえが少し変になったからだ」

こんな冷たい言い方は、前はしなかったのに。

「あなたは、ひどくいらいらしているし、なんだか顔色も悪くなっている。あなた、わたしに、なにかを隠しているわ」

「佐沼先生の研究室に入ったのは間違いだったのかもしれない」

 ぽつりと口からもれてきたのは、美沙にとって思いもかけない返事だった。

「えっ、どうしてなの? あんなに喜んでいたのに。救急センターにまた戻るの」

「医者もやめたくなってきた」

「どうしたの?」

 政晴はじっと押し黙ってしまった。

このあいだは、シャツに、女ものの香水がついていた。それは、間違いなくサンローランだった。

「あなた、やっぱりこのごろおかしいわ」

寝言では、思いもかけないことを言うようになっていたし……。


 由香里は、ようやくパソコンから目をあげた。

「あなたたちは結婚して何年になるの? 」

「七年が過ぎて、八年目に入ったところかな」

「避妊はしているの? 」

「してないわ」

「いつから? 」

「最初からよ」

「驚いたわ。それって、妊娠を期待しているってことでしょ」

「そうかしら? 」

「七年も避妊をしてなくて子供ができないのなら、ふつうのカップルなら不妊の検査をしているものなのよ」

「検査って? 」

「男性不妊の場合は、精子の運動量検査ね。今はご主人が病院に来る必要はないのよ。性交後、三時間以内に奥さんに来院してもらって、その膣内、子宮内の精子数を数えるのよ。このほうが試験管に精液を出してもらうより、ずっと確実なのよ。女性不妊の場合には内視鏡で卵管とか、子宮のようすを見ることが手始めかしら。

 不妊の原因は、三割は女性側、四割は男性側にあるの。 残り三割は不明なの。でも技術がどんどん進歩しているから、気が変わって、あなたたちも本当に子供が欲しくなったときには、わたしのところに来てね」

由香里は、どうして、こんなに、仕事に熱心になれるのだろう。

 難しい説明を聞きながら、美沙は、またまったく別のことを考えていた。


 今朝、ここに来る前のことである。団地の公園の横で、美沙は、また奥山夫人につかまってしまっていたのだ。

「奥様、もう大丈夫ですか? 」

「ええ」

「そのコート、シャネルじゃございません? 」

「そんな高いもの買えるわけがありません。既製品ですわ」

「でも、とっても素敵ですわ。きっとお高かったんでしょうね。うらやましいわ。わたしたちはバーゲン品ばかり。そうそう、このあいだ、生協のバーゲンで生理用品の安売りがあったでしょ。うち、少し買いすぎてしまったんですの。いつも四百円のナプキンがたった二百五十円なんですのよ。少しお分けしましょうか? 」

 銘柄もわからないナプキンだなんて……。

 返事をためらう美沙におかまいなしに甲高い声は続く。

「奥様、一号棟の戸室さんってご存じ? 自治会でご一緒することが多いんですけど、その方に前回もお分けしたんで、今回も多めに買ったんですよ。でも、なんか、また一年ぐらい不要になる、とおっしゃって、断られてしまったんですよ。ええ、戸室さん、もうお子さまが三人もいらっしゃるでしょ。いっくらなんでもって思ったんですが、でもおめでたいことですから、仕方がありませんわよねえ」

 だれが妊娠して、だれが流産した、とかいう噂はあっという間に広まる。団地ではインフルエンザのウイルスが広がるよりもずっと早く情報が伝わる。

「奥様は、まだおめでたではございませんの」

「ええ……」

「あんなに、お仲がよろいんですもの。すぐにお子さまも生まれますわよ」

 奥山夫人は意味ありげに美沙の下半身に視線を移す。

 わたし、子供なんて少しも欲しくないんです。思いっきり、そう叫べれはどれほど気楽なことだろう。角倉の精神分析を受けるまでは、子供ができないことなど、少しも気にはならなかったのに。結局、団地の主婦たちの会話では、最終的に、そこにもっていかれてしまう。

 このごろは嫌というほど、そのことに気づかされるようになってしまっていた。

 奥山夫人の言葉に、答える気にもならない美沙である。

 でも、無視すれば気取った女と決めつけられるだけ。

「えっ、ええ」と伏し目がちに答えて、その場から逃れていた。


 美沙は、由香里の白衣をじっと見る。

「由香里が本当にうらやましいわ」

「あなたこそ、専業主婦じゃない。うらやましい限りだわ」

「あなたには、人の命を救う女医という立派な職業があるじゃない。政晴には内緒よ。わたしね、このごろ本当に空しくなることがあるの」

「えっ? どういうこと」

「女は一人でも生きられるって思えるの。女は結婚なんかしなくていいんだ。このごろ本当に、そう思えるようになったわ」

「どうしたの? 美沙」

「わたしは由香里と一緒に、ずっと高校生のままでいられればよかった」

 チャペルで祈っている由香里の姿を見ているだけで胸が痛くなった。あのときのときめきの方が、男と女のときめきより、ずっとずっと大切なものだったような気がする。

「だめよ。政晴さんと別れるようなことをしちゃ」

「なぜなの? 」

「あなたたち二人のあいだには、きっと、とってもいい子供ができそうな予感がするの」

「また子供の話になるのね。子供ができても、わたしには、母親らしいことなんて、なんにもできないような気がするの。きっと、なにか無気味な生き物を見るように突き放してしまうんだわ。子供に乳をやるなんて想像もできなし、なにか気味の悪い生き物のような気がするの。きっと育児ノイローゼになってしまうと思うわ」

 子供は天使だという。本当にそうなのだろうか?

 もし、この世の中に子供というものがなかったら、こんなにも苦しむこともなかったのに。明るい天使の声に、こんなにも暗い心になる人間がいることをどうか忘れないで欲しい。

 子供は残酷、そして子供を生んだ女はみんな残酷だわ。

 進入学や卒業のシーズンで子供の話題しか語られない春は残酷な季節。どこかの雑誌に不妊の女性がそう書いていた。子供のいない夫婦をまるで奇妙な新興宗教の信者のようにみなしている女たち。

 子供がいない女には、この社会ではどのような会話に参加する権利もないのだろうか?

「だから、そう、わたしにとって結婚なんて、あまり意味のないことなのよ」


 由香里は、返事もせずに、なぜか、コーヒーカップを口元に持って、美沙を見つめるだけであった。

「ねえ、夫と同じ研究室になって、やりにくくない? 」

 その問いに、由香里の頬には、聖女の微笑みが浮かんだ。

「そんなことはないわ。わたしは遺伝子のことばかりやっているし、あなたのご主人は、脳外科の手術を手伝ったりしているから、ほとんど顔を合わせないのよ。みんな研究に熱中しているから」

 突然、ドアがノックされて、ひとりの研究員が部屋に入ってきた。

 美沙を見たとたん、「あっ! 」と叫んで、手に持っていたファイルを床に落とす。

 ファイルの拾いかたも、ふだんの政晴らしくなくて、いかにもあわてきっている。

 仕事の連絡にしては、驚き方がやや異常であった。

「おまえ、どうしてここにいるんだ」

 さっきの言葉が聞かれたんじゃないのかしら?

 美沙の方も、ひやりとする。

「あら、あなたこそどうしてここに? 」

 考えてみれば同じ研究室にいるのだから、ここに来ても、少しも不思議ではないはず。しかし、夫の態度には、どうもおかしなところがある。無理に自然さを装おうとして作る笑顔がひきっている。

 由香里、美沙、政晴の三人が同時に、この部屋にいて、夫婦である二人がいちばんぎこちないのは美沙には、とても不自然な気がした。

「わたしたちは高校のときからの友達だから会ってるだけなのよ」

「おい、ここはおれの職場なんだぞ。来るときは、ちゃんと一言断ってからにしてくれよ」

「まあ、へんな政晴さん」

 実はこの返事の方が、美沙にはショックだった。


 由香里は、ここの助教授である。いくら親友であったとしても、この建物のなかでは講師として、きちんと『水上先生』と呼んでいるのに違いないと思っていたからである。

「そうね。お仕事の邪魔になってはいけないのね。わたし、もう帰るわ」

「あら、まだいいじゃない」

「いや、ちょっと、し忘れた買い物も思い出したから」

 そんな嘘を言わなければいけない自分自身を変だと、美沙は思った。






(五)


「先生、これがあの多胎児のうちの一人ですか? 」

 少年のように形の整った角倉の赤い唇が動く。

「うん、いよいよ手に入ったんだ」

「待望のコレクションってわけですね」

 佐沼は、もうこれ以上ないというくらい相好をくずして、ボトルをなでまわす。

「どうだ。これこそ、ぼくの宝だ。神の完璧なミステイクを現しているんだ。欠番だった①のシールを貼ったよ」

 小さな生き物がそのホルマリン液のなかで、半ば腰を浮かすようにして座っていた。

「あれっ? でも単なる無脳児じゃないですか」

「それだけかな。よく見てみろ」

 佐沼は、少し自慢気に笑う。

「あれっ、三眼児なんですね。でもそれも特に珍しいこともないでしょう」

 その子供の額の真ん中には三番目の瞳が光っていた。

「額の単眼の眼球をよく見てみろ」

「あれ、眼球が、なにかの粘膜のようなものでできているじゃないですか? これはいったいなんですか? 」

「子宮だよ」

「母親の体の一部がくっついているんですか? 」

「違う! この未熟児は、脳の代わりに自分自身の子宮を持っているんだ」

「まさか、そんな」

「卵巣も脳の前頭葉の代わりにできている」

「そんな無茶苦茶なこと、信じられません」

「それだけじゃない。睾丸も精巣も持っている。両性を完璧に所持している無脳児なんだ。おそらく世界でも最初の例だろう」

「信じられません」

「DNAもちゃんと調べさせたから今度は、だいじょうぶだ」

「性染色体はXYですか? 」

「XXX/XXYだ」

 通常二つしかない性染色体が六つもあるという、驚くべきケースであった。

「これをさっそく学会に発表するつもりだ」

「脳のすべてが欠損しているのでしょうか? 」

「いや、小脳の一部と海馬だけは残っていた。延髄も破裂していなかった。もし、これが自律呼吸していてくれたなら、人工呼吸器で一ヶ月でも、これを生かせたら……ああ、どんなにすごいことだっただろう」

「で、実際には? 」

「五分と生きられなかった」

 ここで珍しく、佐沼は軽いため息をつく。

「助産婦からこの子を受け取ったのが新人の看護婦だったんだ。額の真ん中にある瞳に驚いて、思わず分娩室の床に投げ落としてしまったんだよ。そのショックで死んでしまったんだ」

「三眼児なんか、ちょっとも珍しくもないのにですか?」

「そうだ、その通りだ。もし、これが命を持っていたなら……おしい、実におしい。まったくうちの看護学校の教育はなってない!」

「でも先生、もし生きられたとして、この子にとっては幸せなことなんでしょうか? 」

「今日のきみはどうかしているね。ずいぶん奇妙なことを尋ねるじゃないか。幸せに決っているじゃないか」

「と、言いますと」

「この子には、大脳がまったくないんだよ。未来を思考するための前頭葉がないんだよ。ある意味で未来こそ、すべての不幸の源だよ。それを思考するツールがないということは、永遠に幸福であり続けられるんだよ。この子の笑顔を見てごらん。これが不幸な子供の笑顔かね」

不確実な未来の重圧こそが、いつの時代でも人間を不幸にしているのではないか。

あらためて角倉は標本の顔をながめる。

「ええ、確かに教授の言われる通りでした」






(六)


「母体保護法ってのは、読めば読むほど奇妙な法だね」

 佐沼は、標本室のなかでゆったりとソファに座っていた。

「例えば、強姦された場合の堕胎を認めている点だよ。強姦されて妊娠してしまった子供、つまり母親の意志とは関係なく妊娠した子供を殺したりしたら、人類は未だに百万の人口にも達していなかっただろう」

「どういうことでしょう? 」

 由香里は、不審な顔になる。

「女を強姦したいという遺伝子を持った男の子がだんだん少なくなっていくからだ。最近言われている男の女性化も、女が勘違いしていることがその一因だと思うよ」

「ずいぶん極端な意見ですわね」

 由香里は来室した目的を早くすませてしまいたくなった。

「教授、遺伝子のシークエンサーの二台目の予算申請をしていただけたのでしょうか? 」

 シークエンサーというのは、DNAの塩基配列を自動的に調べる機械で、遺伝子治療の現場にはなくてはならないものであった。

「あれは、確か二千万だったかな」

「ええ」

「実は理事長と話し合って半額にすることになったんだ」

「えっ、それでは、今年度中には購入できないということですか。残りの半額でなにを買われるのですか? 」

「レスピレーター(人工呼吸器)を、さらに三台購入することにしたんだ」

「なぜでしょう? 産婦人科で使うようなものではないと思いますが」

「生まれた異常児を延命するためには、どうしても必要なんだ。小児科は生きのびる可能性のある子供に優先的に人工呼吸器や保育器を使ってしまう。こちらの思うようにならないんだよ」

「小児科にとっては、当たり前のことだと思います。どうか、こちらの予算を優先させてください」

「シークエンサーは来年でいい。来年には先天異常標本解析センターを作ろうと思うんだ。そこにわたしの標本をすべて移動してDNA解析を行いたいと思うんだよ。きみをそこの所長に推薦してもいいと思っているんだよ。どうだ素晴らしいことだろう」

「全国どこを探しても産科でレスピレーターを持っているような病院はありません。そんなことに予算を取られたら、わたしの方の研究はだめになってしまいます」

「きみには、ほんの一、二年研究の完成を待つだけの忍耐力もないのかね」

「わたしの研究は、いまが一番大切なときなのです。ここで中断したら、ここ五年間の研究はみんなムダになってしまいます」

「そんな大げさなことを言って。うーん、なんとか、いま手持ちの一台のシークエンサーでやりくりできないかね」

 由香里は、佐沼をキッとにらむ。

「教授は、去年の末、十万ドルもの大金を出して、奇形児の標本をロシアから大量に購入されましたね」

「それがどうした。教授会の承認を受けているはずだ」

「資金の承認は受けてらっしゃいません。そのうちの半分以上を転売して、元を取ろうとなさいましたね」

「そんなこと、証拠もなしに」

「証拠も証人もいます。さらには、アメリカのコレクターに転売して得たお金をご自分の口座に振り込ませようとなさったでしょう。これは完全に業務上横領になりますわ」

「だれがそんなことをしゃべったんだ」

「お認めになるんですね」

「あれは西海岸にある大学の研究室が欲しがっていたから、口を利いてやろうとしただけだ」

「そのドクターは医師免許は持っていますが、本当は奇形児標本をコレクターにさばくブローカーなのでしょ」

「どこで調べたか知らないが、ぼくもそのことを知って、取引はこちらから断っている」

「いいえ、あなたはロシアから仕入れた標本が粗悪品や偽物ばかりであることに気づいて、急遽ご自分から取引の中断を申し出たはずなのよ。それは信用をなくすのを恐れたからだわ。いままで、そのブローカーとどれだけ取引をしていたのかしら? あなたを教授会で告発するわ」

「ふん、バカバカしい」

 そのとき、不意に予算のからくりが由香里には、読めてきた。

「今年度はシークエンサーを購入するには、中途半端な一千万というお金が浮きますわね。それで、ぴったり十万ドルの穴埋めができるんですね。そんなことのために、わたしの研究が台無しにされるなんて我慢できません」

 由香里の指摘に佐沼は、ソファから身を起こす。

「じゃ、ぼくも言わさせてもらおう。きみの患者のなかに性染色体異常の患者がいるだろう」

「いったい、どなたからお聞きになったんですか? 」

「やっぱりか。ぼくがどれほど、そういう種類の患者を求めているか、きみは知っているだろう。どうして報告しなかったんだね。

きみと水上君がどういう関係なのかは知らないが、二人だけでこっそりと、その患者の治療を行おうしていたなんて、どういうことなのか説明してもらう。そんな重大なことは、主任教授に真っ先に知らせなくてはいけないことじゃないのかね」

由香里は、だれがそれを調べたのか悟る。

「田所さんですね」

パスワードをかいくぐって、電子メールに侵入したのに違いない。

「いずれにしても、患者さんのプライバシーに関することですから、たとえ佐沼先生であっても、お教えするわけにはいきません」

「ふん、プライバシーだと。それは研究室の外に対する考え方だ。その事例をぼくは学会で発表することにしたよ」

「やめてください」

「いいか。これは命令だ。どんな理由づけでもいい。なんとか、ごまかして、その患者を手術しよう」

「えっ! 」

「麻酔医には、適当に指示しておく。なにかのショックで死亡したことにして、解剖しよう。わくわくするな」

「その人は普通の生活をしている主婦なんですよ。教授、本気ですか? 」

「当たり前だ」

「いくら教授の長年の夢だったとしても、今のお言葉は狂われたのだとしか思えません」

「その患者の名前を教えろ。そしてすぐにカルテを渡せ」

「もし、そのようなことをしたら、あなたを殺人罪で告発します」

「まだ、だれも殺していないぞ」

「じゃ、殺人予備罪ね」

その言葉を聞くと、怒りを押さえきれないかのように、佐沼はげんこつで机の上をたたいていた。

「おまえなんか、この大学から追い出してやる! 」

「そんなことさせないわよ。いままで教授の論文を、わたしはすべて書いていました。去年出した共同著作の本も、教授は一ぺージも書かれていないじゃないですか」

「ぼくの名前があったから、あの本は売れたんだぞ」

由香里は、佐沼をにらみつける。

「いいですか、教授。わたしをないがしろにしたら、今後、一行の論文も書きませんからね! 」

 いままでだれも聞いたこともないほどの大声が標本室に響く。

 佐沼をひるませるのに十分な由香里の怒りであった。

「わかった。わかったよ。今度の患者と、きみがどんな関係かは知らないが、そこまで言うなら、いまの話はなかったことにしよう」

「シークエンサーの件はどうしてくれます」

「うん、考え直してもいい」

「やっと納得なさってくださったんですね」

 由香里は、冷ややかな笑いを唇に浮かべていた。


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