56 代償
「っがぁ……っぐう、ぁあ……っくそっ」
ありとあらゆる非難の声と石を投げつけてくる連中をあしらい、姿をくらまし見失わせてから、渡った世界。自室を目にして安全を確信した瞬間、堪えていた痛みが一気に押し寄せた。
床に崩れ落ち、込み上げる悲鳴を必死で噛み殺す。魔力が膨れあがる苦痛と、怪我による苦痛、魔力不足で無理に世界を渡った反動による苦痛。それら全て、歯を食いしばって堪え、疾は床を這うようにして進む。
鉛のように重たい腕を持ち上げ、箪笥にしまっている魔石を、指先で引き寄せる。こぼれ落ちて床に落ちたそれを、必死で握り込んだ。
吸い上げるように魔力を補充する。魔力の器が大きくなった分は、大気中の魔力から補充されるが、元々の魔力不足までは補われない。
そうして魔力がある程度回復したら、続いて魔石に直接回路を組み込んだ魔道具を手に取る。治癒魔術を組み込んだそれを発動させると、体のあちこちに響く痛みが少しずつ癒えていった。
「はー……」
痛みが消えて、知らず安堵の吐息が漏れる。そのままぐったりと伏せた疾は、ベッドに行く気力も無く、意識を失った。
どのくらい眠っていたかは分からない。けれど、目を覚ました疾は、顔を顰めて舌打ちを漏らす。冷たく固い床で長い時間倒れていた時特有の強張りに、身体が鈍く痛む。
「っち……」
やっぱりあの時、助けを求めて奔走したのは無茶だったか。だが、流石に知らぬ顔で帰る気にはならなかったのだから、仕方が無い。出来ることをせずに見捨てるのと、出来ることをした上で切り捨てるのとでは訳が違うのだ。
「どのみち自己満足だけどな……」
自嘲気味に溜息をついて、疾はゆっくりと起き上がった。傍らで振動していた端末を取り上げ、画面に触れる。
『疾?』
「悪い、寝てた」
『こんな時間に? 体調悪いの?』
心配げな母親の声に時計を見れば、昼下がりの時刻だった。戻ってきた時間は分からないが、半日以上は人事不省に陥っていただろう。苦笑して告げる。
「ちょっと、魔力切れ起こしかけた」
『……気を付けなさいよ? 命に関わるんだから』
「分かってる。大事を取っただけだ」
……実際にはかなり危険なレベルだったわけだが、それは言わない。幾ら頼れと言われても、1人日本に渡った以上、無闇に心配はかけまいと心に決めていた。
自暴自棄になったわけでも、自分の体を軽視しているわけでもないけれど。自分が引き起こした結果は自分で引き受けて、何とかなる分にはわざわざ報告しない。手に負えないならば助けを求めるが、まだその状態ではないと疾は判断した。
「約束したからな、生き延びるって。死にそうになったらとっとと逃げるさ」
『死にそうになる前に、逃げて良いんだからね? 疾が傷付かなきゃならないなんて、ないんだから』
「ん。お袋が心配するような無茶はしねえよ」
さらりと嘘をつく己に、苦笑する。いつの間にか口先で相手を安心させる術を覚えていた、偽りだらけの自分は、嫌いじゃない。……けれど。
『嘘』
「……」
『貴方、嘘つく時はトーンが4分の1音上がる。……無茶、してるのね』
「……ったく」
本当に、母親には敵わない。自分も知らない細かい癖まで把握されていて、苦笑いを浮かべるほかなかった。
「気を付けてるよ」
『……頼ってもくれないのに……」
「十分頼ってるだろ。金銭面とか、情報とか」
彼女のハッキング技能やそれに連なる恩恵に、何度助けられたことか。いざという時に武器とするなら、これ以上なく信頼がおける。
『そうじゃなくて! 怪我したら、うちに帰ってくるとか!』
「……現実的じゃないぞ、お袋。落ち着け」
心配の余り取り乱しかけている母親を宥めて、疾は柔らかい言葉を投げ掛けた。
「俺は、大丈夫。ちゃんと、無事だから」
『……』
「怪我もなるべくしないように、気を付ける。……無茶するのも承知の上だろ? 命に関わる無茶だけは、しないようにするから」
『……絶対よ』
「ああ。俺も死にたくないし」
軽やかに言えば、母親が少し笑う気配がした。
『うん。大丈夫ね。……じゃあ、もう少し休んでおきなさい。お休み』
「ん、お休み」
通話を切った疾は、苦笑混じりに腰を上げる。体中血と汗で汚いまま気を失っていたから、取り敢えずシャワーを浴びて、それから改めてベッドで休みたい。
理解して、心配してくれる家族がいる。
だから疾は、味方も敵も誤解を解かない。解く必要も無い、解かない方が有利だから──利用して、欺き通す。




