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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
5章 『疾』
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104 再出発

「ねえ、疾。忘れているようだから聞くけれどね」

「何だよ」


 胡乱げに眉を寄せ、疾は母親を見返す。母親は、首を傾げたまま、尋ねてきた。


「疾が「真面目」だったのは、いつ?」

「は?」

「いつから、いつまで?」


 何を今更、と思いつつ疾は答えようとして──言葉を止めた。ゆっくりと、目が見開かれていく。


(……今更?)

「疾?」


 にこりと笑って促す母親に、疾は目を閉じた。


(なるほど、な)


 納得する。



『人はね、時間が在ればあるほど、余計な事を考えるの』



(時間が、ありすぎたのか)


 そう思って、苦笑が漏れる。


(……気付いていて、言わなかったわけだ)


 全ての始まりだった、半年間。

 それまでに積み上げてきたものが全て壊れてしまったゆえに、疾の心は再構築を必要とした。再構築の材料として、直近の記憶を選んだからこそ、半年程度で復帰できたのだろう。

 けれど、そこに記憶の「歪み」が生じた。

 その後、アリスとの決着を切欠に、一旦は「歪み」もリセットしたつもりでいたが……そもそも、壊れた原因である傷が癒えきったわけではなかった。魔術師からの襲撃に、……その先に見え隠れする総帥の影に、自分でも割り切ったつもりでいたけれど、心の奥に残る怯えは拭い去れなかった。

 魔術師を罠に落としても、目的を持って日本へ向かっても。母親がこれまで一度も反対しなかった理由は、そこにあったのだ。


(認めるしか、ないな)


 恐怖から無意識に目を逸らしていたからこそ、焦りを生む。否定しても意味がないのに、それでも逃げ続けたのは……向き合うのに、時間が必要だったからだ。

 けれど、時間がかかりすぎた。

 だからこそ、『余計な事を考えた』。


 目を開けて、黙って答えを待っていた母親に肩をすくめる。


「……もう6年も前の、でも、たった3年間の話だったんだな」

「そうね。楽しかった?」

「まあ、それなりには」


 楽しかった。

 ぬるま湯に浸るような平穏。浅く広く、優しい関係。

 フランスで過ごした、ただただ退屈を持て余す日々は、それなりに楽しかった。

 争いもなく、和やかな好意に包まれた──刺激のない毎日。


「なんで、あんな事させたんだ?」


 疾にそうあれと諭したのは、目の前にいる母親だ。

 幼い頃は気に入らない相手には迷わず反発して、周囲と敵対していた疾を、母親は全力で叩き潰して従わせた。

 周囲と敵対して屈服させるのではなく、──周囲を納得させて和を保つ方法を教えた。


「必要だったからよ。……才能に振り回されないためにね」


 何らかの感情を含ませて答えた母親の言葉に、疾は納得した。


 ──かつての疾が周囲に反発していたのは、理解出来なかったからだ。

 言動の不一致、感情に任せた振る舞い。何の意味も持たないそれらを、さも正義のように振りかざす愚かさ。明らかに自分よりも低い能力で、のろのろと動く姿。

 それらを見せつけてくる「大人」達に、「子供」だからといって、疾が従わなければならない理由が、少しも理解出来なかった。

 だから、幼いなりに力尽くで見せつけようとした。自分こそが、上位であるのだと。


「まあ……危ない綱渡ってたよな」


 様々な経験をした疾だから、分かる。10にもならない子供がそれを続ければ、どこかで暴力に押し潰されていただろう。

 だから、その前に母親が叩き潰した。絶対的な上位者として、疾を屈服させたのだ。


「過ぎた才能は、……力で押し潰されかねないから。私はそれを近くで見てきたわ」


 一度遠くを見て、母親は疾に視線を戻し、微笑みかけた。


「貴方を納得させるには、一番良いと思ったの。合理的だったでしょう?」

「そうだな」


 圧倒的な才能の差をもって従わされた疾は、確かに不安定だった足場が安定した感覚を覚えた。不透明だった行き先を示され、ひたすら進むのは、楽で、単調で、……どこか安心した。


 けれど。ようやく、自覚した。


「疾。退屈だったでしょう?」

「ああ」

「暇、だったでしょう?」

「そうだな」


 ずっと、退屈だった。

 暇を、持て余していた。

 余りにも思い通りに動く周囲に、余りにも簡単に騙される周囲に。余りにも、ゆっくりと進む時間に。


「物足りなかったし、つまらなかったな」


 するりと出て来た言葉に、母親が微笑む。


「疾。……もう、いいわよ」

「お袋……」

「もう、我慢しなくて良いわ」


 それは、最後の枷を外す言葉。


 一生消えないだろう傷の痛みが、疾を引き留めていた。行き先の見えない不安定な道を進む強さが、結果を引き受ける勇気を、いつの間にか見失っていた。


 それでも燻っていた熱が、絶対的な上位者の一言で、再燃する。


「1度きりしかない、人生だもの。楽しみなさい」

「ああ」


 笑みを浮かべて頷いた疾に、母親はそっと手を伸ばしてくる。頬に触れる手を、今度は払いのけなかった。


「……3年前、貴方は沢山のものを、奪われてしまった。だからこれ以上、なにも、奪われては駄目よ」

「……」

「貴方の人生は、大きく変えられてしまったかもしれないけれど……これからの人生まで、奪わせては駄目」

「そう、だな」


 そうだ。これ以上、奪われて堪るか。


「苦しい思いなんて、いらないな」

「そうよ」

「……良いんだな、楽しんで」

「あら、当たり前じゃない。人生、どうせ暇を持て余すのだもの」


 にこりと、微笑んで。稀代の天才は、断言した。


「例えそれが戦いであったとしても。楽しまなければ、損よ?」

「ははっ」


 本当に、この母親は、見かけを裏切ってくれる。

 余りにも軽い言い草に、思わず、吹き出す。


 カチリ、と。

 疾の中で、切り替わる音がした。


「対外的にはテロリスト扱いの俺に、随分お優しいことで」

「他人から見た評価に、どんな価値があるの?」

「ねえな」


 価値なんて、ない。

 道徳も常識も、置き去りにしてしまえ。


「阿呆な連中がこねくり回す屁理屈に、付き合ってやる義理はない」


 疾が魔法士協会を敵に回すのは、あくまでも、彼らが売ってきた喧嘩を買っただけだ。正義感を持ち込んでこようが、不可能だと常識を諭されようが、関係無い。


「売られた喧嘩は、高値で買って叩き付けなきゃな」

「勿論。買うからには、勝って当然だもの」


 にっこりと笑う母親は、更に続けた。


「それに──楽しいわよ? 思い通りにならないって」

「……」

「何もかも思い通りになるのは、当たり前だもの。面白いのは、予想外の事が起こった時だわ。そうでしょう?」


 疾は、思わず笑みを零した。


「くくっ……そりゃ、想像しただけでわくわくするな」

「ええ、楽しいの。安心して? 私でさえ、何度か経験出来たのだもの。疾もきっと、楽しめる」


 敵が敵なのだから、尚更よ。

 そう言って笑いかける母親に、疾は笑い返した。


「ああ。存分に、楽しみませてもらう」


 道のりは果てしなく遠く、課題は山積み。手札は少なく、戦う為の武器は不足している。

 どう考えても、圧倒的に不利で、困難な状況。


(最高だな)


 何をやっても苦もなくこなせる疾にとって、それは、この上なく贅沢な環境だ。


「じゃ、そろそろ行くな。楽しむためには、相応の準備が必要だ」

「そうね。必要な物があったら、何でも言いなさい」


 笑顔で送りだしてくれた母親は、もう頼れとは言わない。頼っては面白くないと、──頼らずとも、もう大丈夫だというのだろう。


(関係者各位には、気の毒な事だが)


 恨むなら、こんな自分に喧嘩を売った馬鹿共を恨んでもらおう。


「あ、身体には気を付けなければ駄目よ」

「もちろん。倒れて楽しみ損ねたら、損だからな」


 疾はにっと笑って軽口を返し──


 ──災厄としての1歩を、踏み出した。


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