雪原の夢のお話(2)
奥州への道は、東海道に比べてあまりに寂れていた。
賑わう街も幾つか有るが、江戸や京を見慣れてしまった目には、片田舎の村とさして変わらない。道は整備されておらず、所によっては砂利の為か、鋸の様な路面が出来ていた。
叶うならば馳せて行きたいが――知らぬ土地、案内人もいない。人の流れに乗る事も出来ない。傷を癒しながらの道中、自然と歩みは遅くなる。
水戸を抜けてから、仙台藩の城下に至るまで十日。北上し、南部藩の領地に至るまで、更に十日。
そして――目的地はさらに北西。奥羽山脈の麓にある、小さな村であった。
「……遠いな」
十一月も終わりに近づいて――奥州は、記録的な豪雪に襲われていた。
此処までも道は悪かったが、それはまだ道と呼べるだけましだった。
今、桜が歩いているのは、道とも呼べぬただの平野。腰まで埋まりかねない程の大雪が、世界を白く染めている。
誰もいない。戯れに叫んでみようとも、声は雪に吸われて消える。見渡せば視界の全てに、生物の気配はおろか足跡も見つからなかった。
空は青く晴れ渡っていたが、然し日光が有ろうとも、この雪が溶けて消える事は無い。寧ろ表面だけが溶けてしまった為、夜間には氷になるだろうと予想出来た。
早くこの雪原を抜けてしまいたい――然し、目印になるものと言えば、自分の足跡くらいしか無い。ただ、ただ、桜は歩き続けた。
奥州の――それも、山脈より東の雪は、さらさらと乾いている。雨雲が山脈を東へ抜ける際、湿気を奪い取られるからだ。
然してこの粉雪は、積もれば圧縮され、重く硬くなる。積もった高さに比例せず、桜の脚が雪に埋まるのは、膝を少し過ぎる程度までだ。
一歩ごとに力を込め、脚を引き抜き振りあげ、可能な限り遠くへ振り落とす。新雪の上では、かんじきも気の慰めにしかならない。平地を歩く倍の時間を掛けて、半分の距離も進まなかった。
「雪は慣れているが……うーむ、遠い」
独り言が多くなる。そうでもせねば、足音と風の音以外、鳥のさえずりさえ聞こえてこないのだ。
気も狂わんばかりの静寂を、踏み散らし踏み散らし歩いて――まだ、何も見えてこない。
歩く事、辿り着く事ばかりを考えては、強靭な心も摩耗する。桜は自然と、己の過去に思いを馳せていた。
雪月桜が鮮明に思い描ける最も古い記憶は、雪に沈んだ己の右足だ。
今に比べればあまりにも小さい――弱弱しい、子供の足。引き抜こうと悪戦苦闘して、履いていた毛皮の靴が脱げた。
弾みで転び、仰向けになる。あの時も空は、残酷なまでに青かった。
周りに、風を遮るようなものは何も無い。分厚い外套も、小さな体を完全に守ってはくれず――抱きしめてくれる大人も、誰もいなかった。
何故、誰もいないのか。それは思い出せない。ただ――三歳の子供がただ一人、異郷の雪原を歩いていた事だけ確かに覚えている。
泣いていた様な気がする、喚いていた様な気がするが――なんと言ったのかは、やはり思い出せない。慰める者もなく、口を開ければ寒いだけなので、無理にでもしゃくりあげるだけに留めた。
三歳の幼児が己の感情を制し、泣き声を抑える――平時ならば無理だ。然し、そうしなければ死ぬと思えば、泣きたくとも泣けぬのだ。
歩いて、歩いて、歩き続けて――誰かの足跡を見つけ、心に歓喜が込み上げた。喜び勇んで足跡を追いかけ、数歩ばかり進んで気付く――これは自分の足跡だ、と。
目印の無い雪の上。大きな円を描き、結局は元の位置に戻ってきた。幼い思考力でも、自分の歩みが無駄だったとは気付いた。
ここまで思い出し、苦笑する。今の自分ならば、両足の歩幅を揃えて歩くなど容易い事だ。あの時にもそう出来ていれば――悔いても、時間は戻らない。
懐かしく、辛く苦しい記憶。思い返す頃には、日は遠くの山へ沈んでいた。
銀の大地を茜が染めて、眩しく、また果てなく美しい。これを一人で眺める事が惜しくてならず――また来ようかと、小さく小さく呟いた。
歩いても歩いても、雪原は続いていた。
ともすれば自分の目的を忘れかねない程、どこまでも続く白景色。空から照らす光源は、何時しか月に取って代わられていた。
思うに、太陽とは慈愛の具現である。闇を見通せぬ人間に、無条件で明かりを提供し、また暖かさを提供する。善人も悪人も、大人も子供も分け隔てなく――太陽が有るから、人は昼間に生きるのだ。
然して、月は無情である。美しく空に佇みながら、その温度を分け与えようとはしない。人が絶望しきらぬ様に光を与え――だが、闇の全てを照らしだしてはくれぬのだ。
もしも月の無い夜であれば、その小さな子供は、とうに歩みを止めて凍え死んでいただろう。
日が沈んで直ぐ、強い風が吹き始めた。雪が落ちて風に混じり、吹雪と化して雪原に吹き荒れた。
それが――記憶の中の出来事なのか、桜はもう分からなくなっていた。今、歩いている桜も、記憶の中の幼い桜も――いや、自分の名も忘れた小さな子供も、共に吹雪に翻弄されていた。
「寒いな……寒い」
きっと似た様な事を、幼い頃にも嘆いたのだろう。
幼子にとって世界とは、自分と親と、そして目に入る狭い地域だけ。両親が傍にいないという事は、敬虔な信徒が神の慈悲を失うにも等しい事だった。
「ああ、馬鹿馬鹿しい」
救いが得られない事は、神の愛を学んだ今ならば分かる。
助けを求めている内は、厳格な神は何もしない。助けに辿り着こうとしなければ、小さな火の一つさえ与えてくれない。
だが――幼子に、何が分かろうか。
おかあさん、おとうさんと呼び掛けた。誰も応えはしなかった。
何故、縋ろうとしたか――そう呼べば、人肌のぬくもりに包まれるのが常だった。身を刺す寒さから逃れたかったのだ。
求めても、求めても与えられないと知った時、幼子は過去を思い出そうとした。丁度、今の桜と同じ様に。
「懐かしい?」
「いいや、さっぱり」
人は死に直面すると、生き延びる為に過去の記憶を探るらしい。三歳の子供が縋る記憶に、生きる為の道など無かっただろうに。
「疲れたでしょ、休まない? 急がなくたって、土地は逃げていかないよ。逃げていくのはあなたの記憶だけ」
櫛の歯の様に抜け落ちる。縋る心が抜け落ち、流す涙が枯れ、己の名さえ薄れて果てた。誰にも呼ばれない名前など――覚えているだけ、無意味だったのだ。
「どうして、あの時に立ち止まらなかったの? そうすれば、今まで苦しむ必要は無かったのに」
全く、その通りだ。雪の上を歩くのは、堪らなく辛い行為だった。過酷というも生ぬるい、孤独を刻まれる旅だった。
「……寒かったからなぁ」
何故、足を止めなかったか――歩いていれば、少しだけ暖かかったからだ。脚の痛みより、肌の冷たさが辛かったから、動き続けようとしたのだ。
「ところで、お前は誰だ?」
遠い昔の様に、ただ一人で雪原を歩きながら――桜は、隣を行く声に問いかけた。
「私は私、あなたはあなた。私はあなたじゃないけど……あなたの中の一人だよ」
得心の行かぬ答えではあるが、成程、確かに聞き覚えのある声だ。それも一度や二度ならず、寧ろ近くに居る事を当然と思う程の――
「……なんだ、村雨か」
膝まで雪に埋もれる桜の横を、裾も濡らさず村雨は歩いていた。
ここに村雨が居る筈は無い。あの夜、仮初の別れを告げた――それを無為にするなど、決して有り得ぬ事なのだ。
「そういう名前、なのかもね。ダーもニェートも言い辛いけどさ」
口調、声の調子、記憶の中の村雨と何も変わらない。だが――例え村雨が極北の人狼だとしても、人の姿のまま、薄絹一枚で、この雪原を歩くとは思えない。
雪に足跡も残さず、村雨の姿をした何者かは、桜に速度を合わせて歩く。自然、顔の高さは普段と逆で、桜より上に置かれていた。
「何をしに来た?」
「あなたを止めようと。今からなら、多分戻る方が楽だよ?」
桜は耳を貸さず先へと歩み続ける。それを〝村雨〟は、弾む様に追いかける。
「寒いでしょ、寂しいでしょ? 進んでも誰もいない。何処まで行っても誰もいない。疲れるばっかりで、全然結果は見えてこないし……だーれも助けてくれない」
確かに、視界の何処にも人はいない。昔の、記憶に残る景色のままだ。
「でも、引き返せば人の街に戻れる。暖かい食事にお風呂、布団で寝る事だって出来るんだよ。あなたの好きな美人に御酌をしてもらって、好きな様に――」
「飯盛女を抱いて、か?」
「そーいうの、好きでしょ」
確かに、と苦笑しつつ、桜はやはり先へ進み続ける。横を歩く〝村雨〟が、幾分か不機嫌な顔をした。
「今は、あの時とは違うんだよ。戻ろうとすれば戻れる。戻る自由が有るのに、どうしてそうしないの?」
「そうだな……確かにあの時は、どうにもならんから歩いていたか」
自分の力でも、庇護者の力でも、決して救いには届かない。そんな時、人は無意識のうちに――大きな存在に、祈りを捧げてしまう。
信仰心の強いものならば、神を自分の支えにしようと、聖書の語句でも唱えるだろう。不信心な者でさえ、神の名を口にせずとも、助けてくれと何かに祈る。
だが――本当に、それこそ平原に積もった雪の様に、深く果てない絶望に晒された時――人は、差し出そうとしてしまう。
例えそれが、どれ程に無価値なものであろうと、自分が手放せるものであれば。
例えそれが、どれ程に崇高なものであろうと、手放し得るものであるのならば。
与えられるたった一つの救いを、自分の持つ全てと引き換えにしても良いと、人は祈りを捧げてしまう。
なぜならば、未だ手にしていない救いは、現在自分が手にしている幸福の総量を、常に上回るからだ。
疲れより、孤独より、死より――幼子が恐れたのは寒さだった。
この寒さから逃れる事が出来るなら、自分は何もいらない。
例え手足を失おうと、例え目や耳を失おうと、例え一生玩具や菓子を楽しめなくなろうと。
生まれ落ちてから今までの、愛された記憶の全てを失う事になろうと。
狭い世界の全ての娯楽を、全ての安寧を差し出そうとも、ただ寒さから逃れたかった。
〝神様、私は何もいりません。おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんもあげます〟
〝だから、どうか。どうかこの寒さから、助かるための何かをください〟
夜の平原を、炎が赤々と照らしだす。種火も無ければ燃料も無い。虚空に出現した炎の壁は、瞬く間に雪を溶かし、桜の眼前に一本の道を創り出した。
夜天を炎の柱が焦がす。我此処に有りと叫ぶ様に、熱風は笛の如く轟いた。
あの夜も、こうして生き長らえた。救いの手が差し伸べられるまでの間、小さな体の熱を保ち、命を保ったのは――それまでの生の全てを捨てた、生涯最後の祈りだったのだ。
「今はもう、大丈夫だ」
力を得た。無限の凍土に晒されようと、凍えて死ぬことは無いだろう。
数百里の道を行こうと、鋼の健脚は疲れを覚えない。
「お前が誰かは知らんが、まるで余計なおせっかいだ。私はもう、寂しくない」
そして――永夜を一人で歩む事になろうと、もはや桜は、孤独に怯える事は無い。例え傍らに人影が無くとも、己は一人でないと信じているのだ。
横を歩いていた筈の〝村雨〟は、何時しか幼い子供の姿になっていた。桜はそれを抱き上げ、胸の中で己の体温を分け与えてやる。幼子は嬉しそうに目を細め、聞いたことの無い声で話した。
「代償持ちか、奇縁よの。何れも果ては死ぞ、知りて足掻くか」
「何十年も先の事だ。何れ死ぬなら、せめて死ぬまで楽しみたいではないか」
雪の中に作られた一本の道。海を割った預言者の様では無いかと、桜は己の不信心に笑う。
「そなたが捨て去ったものの重さを、分からぬではあるまい。父も、母も、全ての肉親をも――そなたは、刹那の祈りに換えた。
仮に永らえようと、そなたは決して、肉親を得る事は出来ぬ。子を為す喜びは、あの雪土に埋めて捨てたと思え」
「構わん。顔も覚えておらん親、どうせ生まれぬ子だ。今更、そんなものに未練は無い」
胸に抱いた幼子の声は、山彦の様に反響する。近くに居るのか、遠くに居るのかも分からなくなる。
だが、桜は、声の主が何処に居るのかを気に掛けもしなかった。躊躇いを、迷いを呼び起こし、引き変えさせようとする夢の魔か――そんなものだろうと思っていたのだ。
「顔を伏して生きるは気楽ぞ。苦痛に耐えるよりは寧ろ、快楽に耽りたいとは思わぬか?」
「日の光もろくに拝めぬ生など、剣禍の死より息苦しいわ。私は存分に愉悦に耽る為、遥々奥州まで足を運んだ……もう良かろう?」
桜は、幼子をそっと地面に降ろした。見れば、惚れ惚れする様な黒髪、吊り気味だが力の籠る強い目――幼子の顔は、桜に良く似ていた。
「うむ、良い。なれば来るが良い、此方が山へ。そなたの言が真で有るならば――そなたの身の毒、必ずや癒してみせようぞ。
……無論、此方に空言を申したと有らば――その罪業、必ずや身に還るであろうがの」
幼子は数歩ばかり先へ進んで、霞の様に姿を消す。その先には、揺らめく小さな光が見えた。松明か、或いは囲炉裏の火だ。
「……なんだ、随分近くまで来ていたのだな」
暫く歩けば、分厚い板戸の前まで辿り着いた。雪国の知恵か、屋根の様に板を張りだし、雪に埋もれない様に作られた玄関口――拳で叩き、呼び掛ける。
「旅の者だ、済まんが火と屋根を貸して欲しい! 宿代くらいは払うぞ!」
家の中で、誰かが立ち上がる気配が有った。それを最後まで確かめる前に、桜は急激な眠気に襲われる。
脇腹の傷は、自分の自覚以上に体力を削いでいるらしい。高々一日ばかりの雪中行で、こうも疲労に襲われるとは――他人事のように冷静に、桜は己を見つめていた。
板戸が開き、驚愕に息を飲む音。体が引きずられ、雪を払い落される。親切な家に当たったらしいと内心で感謝しつつ、口に出るのは全く違う言葉。
「……全く、最近は眠ってばかりだな」
宿を借りる家に礼を言うより、先に欠伸と高鼾。我ながら無遠慮だと思いつつ――桜の意識は、夜に飲み込まれて消えた。




