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灰色の少女と黒い女(下)

 ――私は、幸せだ。


 雪月 桜は、夜気を腹の底まで吸い込みながら、春の香の中で陶酔に浸っていた。

 体に刻まれた痛みが、酷く心地良いのだ。

 特に、首――頭蓋へ集中した打撃が、首を痛めつけている。

 関節を極められた右肘は、負傷する前に引き戻したが為、さしたる痛みは無いが、僅かの違和感は有った。

 顔の皮膚は、右目の周辺が裂けて血を流している。血が目に入ろうが、元々見えぬ右目だと、拭う事は無かった。

 正常な筈の左目も、視界がぶれている。

 頭部への打撃が脳を揺さぶり、桜の身体機能を少しずつ壊し始めていた。

 全身全霊で体を駆動させながら、自分が全力を発揮出来ていないのを、桜は如実に感じ取っている。

 村雨の技量が、桜の力を封じているのだ。

 刃の間合いを外し、容赦無く死角を狙い、正々堂々と封殺を企む――己の力が及ばぬ事を知っている者の戦い方で、村雨は桜と張り合っている。

 重さの乗った、良い蹴りだった。

 打たれたのがか弱い子供ならば、誇張抜きに首が飛んでいてもおかしくない、人域を外れた蹴り。充分に鍛えた武術家でさえ、まともに受けるのなら、死を前提に考えねばなるまい。

 そんなものを、視界の外から――つまり、防御出来ぬように、打ち込んできた。

 だが、桜は知っている。

 村雨にはまるで、桜に対する殺意など無いのだ。

 有るのは、信頼感。この〝獲物〟は、この程度の攻撃で死にはしないと知っているから、全力で蹴る、全力で打つ。

 万が一にも、やり過ぎてしまうという事が無い――そう信じているから、加減をせず、弱点を狙う。

 一方で村雨は、桜の殺意にも気付いているだろう。

 憎しみの一片たりと混ざらない、単純な、純粋な殺意を撒き散らし、桜は村雨へと近付いて行く。

 振り回し、巨木がへし折れる程に投げつける――殺意無くては出来ぬ技だろう。

 少なくとも、他の誰がそうでないと言おうとも、雪月 桜はそうだった。

 自分が全力で戦うなら、途中で手を止めぬ限り、相手が死ぬ。自分の全力を受け続け、自分に勝る者など居る筈も無い。そう信じて、これまでを生きてきた。

 それが――ほんの数か月で、二度、裏切られた。二度、負けたのだ。

 力への確信の揺らぎは、力に支えられた絶対の自我の揺らぎでもあった。

 それでも一度目は、悔しさと、敗北に勝る恐怖が、桜に折れる事を許さなかった。

 自分が戦えぬなら、自分ばかりでない、この少女をも失うのだと――己への落胆以上に恐ろしい事、片恋に焦がれていた少女を失う恐怖が、桜を支えて、敗北を乗り越えさせた。

 それから、さしたる時間も過ぎていない。

 桜は強くなった。だが、村雨は、それ以上に強くなった。

 戦いの技量という面でも、精神の面でも、見違える程に強く育った。

 桜はもう、村雨を守らなくても良い。それどころか、自分の背中を預け、窮地には助けを求める事さえ出来る。

 村雨が生きていく為に、雪月 桜が手助けをする必要は無くなったのだ。

 だが、桜は気付いていた。

 村雨が生きる為に、自分の存在を必要としなくなったとして――自分はどうしようもなく、村雨を必要としているのだ、と。

 平坦な道を歩くだけの時間も、村雨が隣に居るならば、それだけで飽きる事など無い。

 幾百幾千の敵を前にしたとて、村雨が隣に居るならば、不敵に笑って戦いに挑むだろう。

 飯を喰らう姿、眠る姿、自分以外の誰かと話す姿さえ、それを眺めているだけで、心は安らぎで満たされる。

 共に過ごすひと時の為、命の全てを賭けても良いと言える程に、雪月 桜は村雨を愛しているのだ。


 ――幸せな恋をした。


 桜は、敗北に慣れていない。


 ――私など、もう要らぬのかも知れん。


 勝ち続ける己こそが〝雪月 桜〟なのだと、かつての桜は信じていた。

 一度の負けで揺らぐ事があろうと、その揺らぎを心の底に眠らせて、戦の終わる日を待ち望み、血飛沫の中に刀を振るって来たのだ。

 それが、二度目の敗北で、崩れた。

 狭霧 紅野と狭霧 蒼空、二人の望みを力で止められず、そして二人の死を、心が、美しいものだと感じてしまった。

 完膚無きまでに、自分は負けた――それが、悔しくもなかった。

 一度、負けた。その事が桜に、諦めを覚えさせたのかも知れない。或いは、既に揺らいだ己への信頼が、悔しいと感じる事すら放棄したのかも知れない。

 村雨は、強くなった。きっとこれからの生の間、幾度も勝利と敗北を重ねながら、その何れをも糧にし、強く、強く、死の間際まで強くなり続けるのだろう。雑事にあれこれと頭を悩ませ、余計な気苦労を背負い込みながら、ぎゃあぎゃあと文句を喚きつつ、その全てを投げ捨てずに生きていくのだろう。

 全くそれは眩い生き方だと、桜は思った。

 利害の有無を問わず、村雨の周りには人が集まって、人の中で村雨は生きていく。その中には、桜より賢い者も、桜より善良な者も――もしかすれば、桜より強い者も、現れるかも知れない。

 自分は――雪月 桜は、弱くなった。

 きっと、技量を言うならば、自分はまだ強くなる。だが、そういう表面的な部分では無く――武力への矜持や、意思を押し付ける傲慢さ、蹂躙を良しとする冷淡さ――強さに繋がる悪徳が、自分の中で薄れて行くのを、桜は感じている。

 村雨とは違う、暗闇に紛れて黒い翼を広げる生き方が、自分なのだ、と。

 人として生きる事が、強さに繋がるのが村雨であるなら、良き人であろうとする事が弱さに繋がるのが雪月 桜であると、桜は信じているのだ。

 今日より明日、明日より明後日、自分は弱くなっていく――


 ――怖いな。


 強い自分が、壊れていく。

 村雨に愛を告げ、愛を受け入れられた自分が、過去のものへと成っていく。

 何時の日か、自分が、村雨に遠く及ばぬ弱い生き物になる日、その隣に果たして村雨は立っているのか――?

 自分は、村雨の眩さに耐えて、その隣を歩き続けられるのか――?

 先の事は分からない。

 分からないから、怖いのだ。


 ――それでもな、一つだけは分かるぞ。


 それは、今、この日の事だ。

 照らす明かりは月と星だけの、世界に染み渡るような夜の中、正面から向かい合う愛しき敵の姿。

 自分を見透かして――理解して。

 自分の思惑を否定する――その恐怖は錯覚だと慰める。

 確かな今の幸福を抱き、共に眠ろうと迷い言を囁いた自分を、言葉では無い、力で思い知らせようと、至上の愛を拳愛に乗せてくる村雨が居る。

 雪月 桜は弱い生き物では無いと信じ、致命の技を、絶命に足る技を、殺意無きままにぶつけてくる村雨が居る。

 この信頼がある限り、桜は、自分がまだ、強い生き物で居られるように思えた。

 あの日、村雨と結ばれた夜と同じ、強い存在のまま――まだ、村雨の傍に居て良いのだと、肯定されているようだった。

 至福――

 刻まれた痛みの一つ一つに、泣けるような幸せを感じる。

 桜は、悠々と、取り落とした黒太刀を拾い上げ、両手で保持し大上段に掲げると、圧し折れた巨木に寄り添うように横たわる村雨へ近づき――


 ――今、私は愛されている。


 空気が、鳴くように弾けた。

 桜の超高速の斬撃が、黒太刀の長さで更に加速され、切っ先が音を超えた、その証であった。

 然し、村雨は、それを逃れていた。

 桜が近づき、振りおろしの動作に入る直前、跳ね起きて、桜の刃から逃れたのである

 まだ、村雨には力が残っている。それが桜には、嬉しくてならなかった。

 どれ程に鍛え上げ、どれ程に修羅の場を潜り、自分の予測の及ばない領域に踏み込んでいるのか、考えるだけでも胸が躍る。


「――村雨! 共に死ぬか!」


 それが、この〝今〟を、〝今〟のままに留められる術ならば。

 命も要らぬ。未来このさきも要らぬ。過去これまでを積み上げた、この身さえも要らぬ。


 ――叶うなら、終わるな、この夜よ。


 桜は永遠に、村雨と、戦いを続けていたかった。






 ――目を覚ましたら、桜の顔が有った。


 まるで、なんでもない日の朝みたいに、横になった私を見下ろしてる、あの人の顔。

 でも桜は、何時もの朝の少し眠そうな雰囲気じゃなくて、なんというか――物凄い顔になっていた。

 笑ってるのは確かだ。

 見方によっては怒ってるようにも見えるんだけど、怒ってはいない。もともとキツい目を更に吊り上げて――左目は更にぐわっと見開いてるけど、多分、怒ってる訳じゃない。

 こんな楽しそうな顔、中々見せてくれないや――

 なんて、思った矢先、何か嫌な予感がした。


「――っ!」


 跳ねる。

 手足を全部使って、立ち上がり切らない内に体を横へ動かし、横たわっていた場所から逃げた。

 それに、ほんの一瞬だけ遅れて、桜の刀が、もう私の目にも見えないような速さで、地面を抉り飛ばした。

 あれが、桜の全力の――当てるとか当てないとか、騙す騙さない、防ぐ防がない、そういう事を全部〝無視〟する一撃。

 一番力を入れられる、真っ直ぐな振りおろしの為に、体の中で一番高い位置――頭上に、垂直に立てた刀を構える。

 横へ動くか後ろへ下がるかすれば躱せるのが、誰だって見て分かるし、頭を狙って振り下ろして来るんだろう事も分かる。

 でも、防御は出来ない。

 見て――いや、見えなかったけど、分かる。あれを受ければ、私の体は、防御に使った篭手ごと真っ二つにされる。

 多分、桜は、私より強い。でも、それ以上に、武器の違いが大きすぎる。

 いつだったっけ、師匠も愚痴ってたっけ……お酒を飲みながら。こっちが刀を殴っても、向こうは痛くも痒くも無いのに、こっちが一回斬られたら死ぬっていうのは不公平だろう――だっけ。

 あの時は、また変な事言ってるなあって思っただけだったけど、今は師匠とおんなじ気持ちです。刀ってずるい。


 ――あれ、そういえば。


 私は今、何をしてるんだっけ?

 思い出す。

 目を覚ましたら、桜が、攻撃の態勢に入ってた。だから、私が逃げて、桜はまた構えた。

 えーと。

 ああ……そうだ。私は今、桜と戦ってて、思いっきり木に投げつけられて――


「っ、た、痛ぁ……!」


 思い出した瞬間、左腕の、骨の何処かから、凄い痛みが飛び出して来た。

 骨の中から肉に染みて、肌にまで刺さってくるみたいな、本当に、飛び出すって表現がぴったりの痛み。

 木に投げつけられて、ぶつかる瞬間、左腕の篭手で防御した。多分、その時の衝撃で――折れたか、罅が入ってる。

 いや、多分、ちょっと折れてる。前にそうだったし、まず間違いない。

 とんでもなく強い――強すぎる。

 この数か月、かなりの無茶をしてきた。戦場に連れ出されて、矢と槍の中を走り回りもしたし、道場破りの真似事で何回も殴ったり殴られたり蹴られたり投げられたり極められたり。人殺しを捕まえてもみたし、この国で一番偉い人の誘拐もして、そして、最後の戦を終えて、やっと此処に居る。

 その中で出会ったどんな怪物より、桜の方がよっぽど怖いと思った。

 桜はきっと、この戦いの中で機会があれば、私を本当に殺すんだろう。

 その後で――きっと、私を何処か、誰にも見つからない場所にでも運んで、そこで自分も死ぬ。そういう綺麗な形の死に方とか好みなんじゃないかな、多分。江戸でも時々、心中物の本とか読んでたし。

 でも、間違い無く言えるのは、桜は、私が大好きなんだって事。これはうぬぼれじゃない――でも、惚気だったりはするかも知れない。

 私は誰よりも、桜の事を知っているんだって、私は思ってる。


「――村雨!」


 名を呼ばれて、構えで応えた。

 踵を浮かせて、両腕は頭を挟むように置いて、少し右足寄りに体重を乗せて。拳より足の方が、自由に打ち出せる形になる。

 正直、まだ動けそうな自分に驚いてる。

 昔の――桜と出会う前の私だったら、絶対に立ち上がれなかった。

 今だって、体のあちこちが悲鳴を上げてるし、息を吸って吐くだけでも背中が痛むけれど、でも、痛いだけだ。

 動ける。

 桜が、あの大上段の構えから攻撃に移る前、両腕と両肩の筋肉に力を込める予兆を見て、刀が動くより先に、横へ動いて逃げられる。

 私は強くなった。

 桜に守られるだけの私じゃない。桜の隣に並んで歩いて、隣に並んで戦える私になれるようにって、強くなった。

 でも――だから、かな。桜を寂しくさせちゃったのは。


「共に死ぬか!」


 桜は、どう殺しても死にそうにない顔で笑いながら、私の方に近づいて来る。

 まだ、両腕に力は入っていない――幾ら桜だって、あの〝斬り降ろし〟は、そうそう乱発できるものじゃないんだろう。

 巨大な岩を動かそうとすると、最初はゆっくりと動いて、力が伝わるにつれてだんだんと、速く動くようになる。

 それと同じで、桜の両腕に力が全て伝わるまでに時間が掛かり――伝わり切ったら、動き始めた岩が止められないのと同じで、絶対に止まらない斬撃が、目に見えない速さで降りて来る。

 避け方を間違ったら即死だな、なんて、呑気に考えたりもしながら、


「冗談じゃない!」


 私は、桜へ向かって進む。

 拳と足、牙――私の武器はこれしかない。

 桜の間合いは、体から一尺半離れたくらいから始まって、六尺先まで。

 私の間合いは、完全に触れ合ったところから、広く見積もって三尺。

 武器の性質の違い、戦い方の違いが、間合いの差を作る――とにかく、踏み込まないと何も出来ない。

 桜は、剣士らしくなく、無造作に、両足を交互に出して歩いて来る。その右足が着地して、左足が浮いた瞬間、私は一気に踏み込んだ。

 ひゅっ。

 予兆無く、刀が降って来る。

 右足一本だけを軸にして、殆ど腕の力だけで、桜は刀を振り下ろして来た。それでも、師匠に連れ出された戦場で見た、どんな剣よりずっと速い一閃だった。

 受ける?

 それとも、横に流す?

 自分が左側に跳びながら、右腕の篭手で外に弾けば、これなら流せるくらいの威力だ。けれど、真っ直ぐ進むのに比べて、詰められる距離が短くなる。

 両腕の篭手を交差させて、交点で受ければ、そのまま真っ直ぐに進める。けれど、何処かが折れてる左腕に衝撃が響いて、きっと滅茶苦茶に痛い。

 私は、受ける方を選んだ。

 一瞬の事だから、どっちがいいのかなんて冷静には考えられない。ただ私は、桜に近づきたかった。

 がんっ! って音と、金槌何十回分かの衝撃を一回に合わせたような痛みが左腕に走ったのが、殆ど同時。間合いを一歩、奪った。

 もう一歩――

 進むより速く、視界の右側で、桜の左肩が大きく動いたのが、見えた気がした。

 殆ど勘で、右の篭手を頭に斜めに被せつつ、身を沈めて前へ――刀が篭手にぶつかり、滑るように反対へ抜けて行った。

 防いだ――折り返しが来る!

 前に出した右足を軸に、体を左回転させる。

 向かって来る刀じゃなく、それを握る桜の手首に右腕を叩き付けて喰いとめながら、背中で桜の胸を押し――


「だあぁっ!」


 回転の勢いを左腕に乗せ、肘を、桜の左脇腹へ。左腕が痛むけど、そんな事は忘れた。

 止めた手首に右手を掛け、肩の上に担ぎながら引く。前のめりになった桜の体を、自分の背に乗り上げさせ、腰で跳ね上げて投げる。

 桜は、受け身を取ろうともしないで、少し背中を丸めただけで地面に落ちた。

 その顔を、思いっきり踏んだ。

 頭を、横から蹴った。

 刀を持った手首を捕まえたまま、投げ落とされた桜が反撃に移る前に、桜の頭を揺らして置きたくて――固い踵に体重を乗せて、踏み蹴った。

 踵で踏めば、子供でも大人を殺せるって、師匠に習った。死ぬ技だから、使う時は出来るだけ加減をしてきたけど――桜になら、全力を出して良い。

 頭が、どんな石が落ちてるかも分からないような地面に触れている状態から、靴を履いたままで踏むような暴挙も、桜になら、やっていい。

 だって――桜は、私よりも強いから。

 ほら、直ぐに動いた。

 私の足を掴もうと、桜が左手を動かす。大袈裟なくらいに飛び跳ねて、私は桜の手から逃げた。

 桜は、顔の血を袖で拭いながら、まだ笑って、すらりと立ち上がる。

 これでまた、近づく所からやり直しだ――楽しいなぁ。

 強い生き物と戦うのは楽しい。これは、私が人狼だからかも知れないし、もしくはそういう生まれとか関係無しに、私がそういう性格なのかも知れないけど、兎に角、楽しい。

 桜も、私と同じような生き物――強い相手と戦って勝つのが、大好きな人間だ。


 ――桜は、楽しんでくれてる?


 そうだ。なんて、答えが聞こえたような気がした。

 これも、うぬぼれじゃない。今、私は間違いなく、桜を楽しませている。

 今、この瞬間、この幸福を抱いたままで死んでしまっても良いって思えるまで、桜を私に溺れさせている。


 ――でもね、桜。あなただけじゃないんだよ。


 桜の横薙ぎの斬撃を躱しながら、空いた脇の下に拳を撃ち込む。

 すぐにやってくる次の斬撃を篭手で受けて、押し戻される。

 低い姿勢で近づくと、膝が迎撃に迫って来た。これなら受けても死なない――喰らいながら、思いっきり腹に蹴りを打ち返した。

 殴る、蹴る、防ぐ、躱す。繰り返す度、体の全てに手応えが帰る。

 私の全てに触れた桜の体を、打ち、打たれる、もう熱にまで変わった痛みの手応え。

 誰を殴る時よりも、胸の空く想いだった。

 誰を蹴る時よりも、胸の昂る想いだった。

 誰を防ぐ時よりも、胸の躍る想いだった。

 誰を躱す時よりも、胸の高鳴る想いだった。

 強い相手と戦っているから、幸福なんじゃあない。

 桜と戦っているから、私は幸福なんだ。


 ――ごめんね、不安にさせて。


 私は、桜が好きなのに。

 強いあなたが好きなんじゃなくて、あなたそのものが好きなのに、そう言ってあげた事、あんまりなかったかも知れないや。

 だから、怖くなったんだよね。

 あなたはどんどん丸くなっちゃって、我慢する事を覚えて――いい人になっちゃった。昔のまんまの、もっと性格が悪くて、横暴で、残酷な自分だったら、紅野や蒼空を死なせなかったって思ったんでしょう?

 自分が弱くなっていくみたいで、だから、私が離れていくかも知れないって思ってさ。

 馬鹿みたい。

 そんな事で捨てるような相手だったら、体を許しちゃいませんよーだ。

 あれ、かなり勇気を出したんだからね?

 初恋の相手は、同じ群れのちょっとかっこいい男の子で、この国に来てからも、いいなーって思った人は全部男の人で、そんな私がさ、女のあなたを好きになって――

 おかしいのかも知れない、気の迷いかも知れないって自分に言い聞かせても、あなたはずけずけと私の頭の中に居座り続けるんだもん。本っ当に厚かましい!

 ……けど、まぁ、そんな人を好きになる私も大概だって事だよ。

 私は、あなたじゃなきゃ駄目。

 私を好きだって言ってくれたあなたとじゃなきゃ、私は駄目なの。


 ――それに、あなたは。


 桜は、弱くなってなんかいない。

 誰かの心に寄り添って、誰かの事を想う――そう出来るようになる事が、弱くなるって事の筈が無い。

 だって、私がそうだった。

 人間のみんなが好きで、誰とでも仲良くしたい、仲良くなりたいって思ってた私より、あなた一人の為にって思った私の方が強くなれたんだもん。

 誰かを大事に想うって事は、強くなれるって事。

 だから、桜が私を想ってくれるなら――あなたは、何時までも強くなりつづける。私がどんなに強くなっても、追い付けないあなたのままで、何時か――私とあなたのどっちかが死ぬ、その時まで。

 だから、あなたは今のままで良いの。

 ちょっと意地悪な所は残ってても、割といい人になっちゃったあなたのままで、私の隣に居て欲しいの。


 ――桜が、刀を振り上げる。私は、桜の正面に立つ。


 嬉々として私の打撃を受けて、私を殺そうと斬り返して来る桜。

 今日、この日、一番の幸せの中で死にたいって、我儘を言う桜。

 ごめんね。

 その我儘だけは、聞いてあげられない。

 代わりに、この後は、いっぱい我儘を聞いてあげる。

 朝寝坊してる時も、まだ眠いって言うなら、一緒に布団の中で昼まで過ごしてあげる。

 旅先で美味しいものが食べたいって言うなら、ちょっとの無駄遣いくらい大目に見てあげる。

 危ない事に首を突っ込む時は、一応止めはするけど、決着が付くまで横に居てあげる。

 夏の熱い中に、黒い服を着たままでべたべたとくっ付いてくるのも、仕方がないから許してあげる。

 茶屋で美人に声を掛けるのは――あれは、やっぱり許してあげない。

 旅先で女郎屋を探すのも禁止。滑稽本を部屋の隅に積み上げておくのも禁止――隠しておくなら許す。

 でも、何処にだって行っていい。

 海の向こうの大陸でも、誰も名前を知らないような島でも、何処へだって着いて行くよ。


 ――桜の両腕が、両腕が、力に満ちて、一回り膨れ上がる。


 だから、今日は、私が我儘を通す。

 私は桜に勝ちたい。


 ――来る。


 ずっと、私より強かったあなた。これからも、私より強く生き続けるあなたに、今日だけは勝ちたい。

 あなたの我儘を許さないくらい強い私になって、私の我儘を、あなたに聞いてもらいたいの。


 ――私は、私と桜の間合いが交わる距離へ、最後の一歩を踏み込んだ。


 桜。

 いままで、桜から貰ってばっかりだった言葉を、これからは沢山返すよ。

 大好き。

 綺麗な顔も、無茶苦茶な性格も、訳が分からないくらいに強い所も、傍迷惑な行動理念も、地味な服の趣味も、なんでも、あなたのものだったら全部、大好き。

 時々、子供みたいな駄々をこねるけど、そんな所だって大好き。

 愛されてないのか、なんて、そんな寂しい思い、もう二度とさせてあげないから。毎日、何回でも、飽きるまで好きだって言い聞かせてやる。

 私自身より、私は、あなたが好き。

 今までに出会った、誰よりも。

 そして、これから出会う誰よりも。

 いつか私が死ぬ時は、あなたに、傍に居て欲しい。

 けれどあなたが死ぬ時、最後に笑って見送る私でもありたい。

 殺してしまったら、あなたの隣に居られない。

 でも、殺したいくらいに愛しています。

 あなたに殺されるなら、どんなに幸福でしょうか。

 でも、私を殺したあなたの事を思えば、どうしたって死ねません。

 愛しています。

 命を賭けて。

 愛しています。


 ――だから!










 東の山の端に、朱色の光が差す。

 何時の間にか空は、夜の衣を藍に変えて、今また空そのものの色へ変わろうとしていく最中であった。

 遠く逃れていた鳥の声が、獣の息遣いが、野山に帰る。

 その、光と音の雨の中に、二人は居た。


「ふ、ふっ――ふふ、はははっ」


 雪月 桜は、高らかに笑っていた。

 その手の中には、黒太刀『斬城黒鴉』が有る。

 名に違わず、二条の城さえ斬り崩した名刀は――その刀身を、村雨の左肩、皮膚一枚に喰い込ませて静止していた。

 空を仰ぐ桜の目は――左目だけ。

 右の眼球が、抉り出され、村雨の手の中に有った。


「はは、は……はははっ……!」


 眼窩を、血が埋める。だが、その血は僅かに、涙で薄められていた。

 桜は空を仰ぎ、笑いながら、嗚咽を零していたのである。

 残る左目からは透明の、空洞の眼窩からは赤混ざりの涙を頬に伝わらせ、桜は夜明けの風を思い切り肺に吸っては、それが空になるまで笑い、泣いた。

 何が勝敗を分けたか。

 技量か――否。

 それは、意思であった。

 この時を永劫に、繰り返し続けたいと、留まり続けたいと、そう願う者が――この先へ進みたい、新たな時を見たいと、強く願う者に破れた。そう言うのも良いだろう。

 だが、事をもっと端的に表すならば――

 村雨の我儘が、桜に勝った。

 つまり、それだけの事であったのだ。


「駄目だ! やはり、まだ死にたくない!」


 赤い涙を袖で拭い、桜は空へと叫んだ。

 その声に、悲しみの色は無い。

 全ての空虚が満たされた、安堵と充足感の生む、穏やかな叫び――宣言であった。


「私も――」


 村雨も、同じ空を見て――それから、右手の中に視線を落とした。

 手の中の、桜の右の眼球を、村雨は口の中へ投げ込み、噛み砕き、嚥下して――


「――私も、あなたと生きていたい!」


 未だ刃を携えたままの桜の、胸の中へ飛び込み、その背へ腕を回すと、心臓二つを押し近づけるように抱き締めた。

 命の音がする。

 二つ。

 二人ともが、生きている。

 そしてこれからも、生きていく。

 幾年か、幾十年か――五十年には届かぬだろう時を、二人は、共に生きていく、生きていける。そう告げる鼓動が、二人の胸の中に響いていた。

 朝の光が、山から伸びる。

 代わりに、夜の影が消えて行く。

 三つの目は、新たな朝の訪れと、春の野の美しさを目の当たりにした。

 春の色は、命の色。

 春の光は、命の光である。

 新たな季節に生まれた命が、それぞれの輝きを全うせんと生き始める、眩いばかりの季節であった。


「村雨、行くぞ」


「何処へ?」


「さあて、な。一先ずは西だ……ところで、火種はあるか?」


「火種……あるけど、何で?」


「目の奥を焼こうかと」


「却下! お医者様に見てもらう!」


「とは言ってもなぁ……恋人に目玉を抜かれましたとでも、言うのか?」


「そ、それは……その……」


 桜と村雨もまた、新たな季節に、新たに生き始める。

 けれども、もう、二人に冬が来る事は無い。

 季節が巡り、緑の葉は紅に染まり、川面に氷が張ろうと、空をひらひらと踊る蝶が、幾度死に、幾度生まれようと――

 二人を別つものは何も無い。

 死さえも、その力は無い。


「なあ、村雨」


「先に言わせて」


「ん?」


「愛してる」


「……ああ、私もだ」


 それは、桜の花の散る夜の事であり、若草が青々と背伸びし始める夜明けの事でもあった。


 二人の旅人が、沈む月を追うように、西へ、西へと歩いて行った。


 黒い、黒い、真っ黒の、烏のように黒い女と――


 白にもなれず黒にもなれぬ、灰色の狼たる少女の――


 どうにも物騒で血生臭くも、愉快で、にぎやかで、あっけらかんと過ぎて行く日々が、まだ見えぬどこかに転がっているようであった。

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