最後の戦のお話(14)
斬る――
雪月 桜が幾千と、幾億と繰り返した、単純明快な行為。
これまでに、どれだけのものを斬ったことだろう。
鎧。兜。槍。刀。弓。銃。
身を守る為の、また他者を害する為の、あらゆる武具。
獣。
人。
獣でも人でも無い、数多の生物。
桜にとって斬る事は、呼吸をする事にも等しい。
然し――それは飽く迄も、〝尋常のもの〟を斬る場合である。
桜は今、巨大な城を相手取り、黒太刀『斬城黒鴉』を振るっていた。
叩き落された地上階から、階段を駆け上がり、一つの階層を存分に斬り回って、また上へ。
――これが、城を斬るという事か。
桜は今、前人未到の領域へ踏み込んでいた。
刀で城を斬ろうなどと、誰も考えない。桜でさえ、今日、この日まで、実際にそうするなど考えもしなかった。
何千もの人を呑み込んで揺らがぬ、巨大な建築物――その強度は、桜の想像力を遥かに上回っている。
二度や三度、強く斬り付けた所で、まるで城は揺らがない。
数本の柱を斬り倒し、壁を数間に渡って切り刻んだとて、その程度では城は揺らがないのだ。
一度刀を振るえば、それで終わるのが、〝斬る〟という事である筈だった。
城は、一刀では倒せない。
数百の斬撃を重ねて、ようやっと揺らぎ始めるのみだ。
だが――だからこそ、雪月 桜は燃える。
飽かずに繰り出される斬撃は、ついに一つの階層を斬り潰し――天井が落ち、頭上に迫る。
斬。
頭上からの重量に潰される寸前、桜は天井を切り裂き、上階へと飛び込んだ。
巨獣を腹の中から食い破るように、桜は二条城本丸を、内側から切裂いて行く。
本丸を締め付けるように、天守閣から這い出した大蛇――紫色の壁は、城内の至る所に入り込み、畳や天井、壁や柱に喰い込んでいた。
それも、斬る。
一太刀ごとに轟く断末魔の叫びも、もはや、桜の耳には入らない。
〝エリザベートだったもの〟の内臓と化した本丸の内に、剣撃の華が咲いていた。
〝エリザベートだったもの〟の意識は、城一つを丸ごと体として存在していた。
喰らった数千の命全てを、己の肉とし、鎧とし、刃とし――巨大な怪物の集合体と成り果てた姿に、もはや〝大聖女〟と呼ばれた女の面影は無い。
――殺してやる。
――殺してみせろ。
矛盾する二つの意識を抱えて、彼女は、自分の体の一部を、体内の異物を殺す為に差し向ける。
その試みの全てが、虚しく潰えて行く。
溜め込んだ命を、ありとあらゆる獣の形へ変えて差し向けても、雪月 桜は、村雨は、殺される事なく戦い続ける。
そんな二人が、彼女には愛おしくてならなかった。
もはや遠く昔となった、街の残骸の前で涙した日――あの時も、自分を否定しようとした男が居た。
神の道を歩む彼女を、教え導く立場だった老神父。
彼は結局、彼女の叫びを否定しながら、最後は神の無力を証明するに留まったのだ。
もし、あの時、老神父を殺そうとした自分を、誰かが力尽くでも止めていたのなら――
或いは、どのような偶発的な要素でも良い、老神父を殺す事の出来ぬ理由が生まれていたのなら――
彼女はきっと、神の奇跡を信じ続ける事が出来たに違いない。
――自分は、過ちを叫んでいる。
本当は三百年も前に、その答えに辿り着いていたのだろう。
結果的に、窮地から人間が救われなかったとしても、或いは善良な人間が苦しみを得たとしても、それは神の咎では無いのだ。
神とは――〝何をするでもないもの〟なのだから。
神とは、〝そこに在る〟ものだ。
人の身を刃から遠ざけたり、天災から街を救うような、物理的な力など持たない、一つの概念、一つの思想が、神だ。
ただ、遍く世界に神の目が有ると信じる人間が、神の意思に適うように己を律し、慎み生きる事――その為に得られる恩恵こそが、〝神の恩寵〟なのだと――
今ならば彼女は、胸を張って言える。
神は人間を救わない。
人間を救うのは、神を信じ、人間を信じる人間だ。
人間を疑い、神への信仰を捨てた人間が――人間を救う神に、成り代わって良い筈が無い。
その過ちの全てをつまびらかにしたのが、雪月 桜と村雨だった。
お前は人間を信じていないと、桜は、振るう刃の如く、鋭く突き付けた。
お前はやり方を間違えたのだと、村雨は、友を諭すように、優しく答えを差出した。
一人きりで歩む道は苦しいと、桜は、そうでない自分を誇るように見せつけた。
たった一つ、彼女が最初に抱いていた想いだけは――人間への愛だけは間違っていなかったと、村雨は、切々と〝エリザベートに〟訴えた。
もはや〝彼女〟に、雑念は無かった。
力の限り、魂の限りを尽くして、殺すか、殺されるかをしようと思った。
――もし、殺されたなら。
殺されたなら、それで終わりだ。
拝柱教という教えは、この地上から消え去り、エリザベートという女が抱いた大望も潰える。
何もかもを信じぬまま、ただ神の座を求めた女が死んで、乱が終わる。
その後の世界に自分はいないが、それだけの事だ。
だが、もし――
――もし、殺せたなら。
その時は、また、聖女を気取ってみようかとも思った。
前と同じように、聖書を開いて読み聞かせたりもしながら、その矛盾を突き、神は人を助けないと教え――
ただ、それだけでは終わらせない。
人を救うのは、人なのだと、誰かに教えてみたくなった。
どんな顔をされるだろう。
もしかしたら、何を言っているのだと呆れられるかも知れない。
それも当然だ――そんな事を知っている人間なんて、何処にでも、どれだけでも居るだろう。
けれど、知らない人間だって居る。
その、ほんの一握りかも知れない、そういう事を知らない人間の為に、新しい教えを説いて回りたいと、彼女は思った。
神は人を救わない。
然し、神を心の中に抱く事で、人は人を救えるのだと――
斬。
〝彼女〟の臓腑が、ずたずたに引き裂かれる。
城一つにまで膨れ上がった体の中で、桜が、手の届く何もかもを斬っているのだ。
その苦痛は、筆舌に尽くし難いものであった。
人の身であった時さえ、尋常の体ならば死する程の痛み――それが、肥大化した体の分だけ増しているのだ。
――死んでも良い。
それでも、手は緩めなかった。
――死なぬなら、もっと良い。
もう、半ば以上も殺し尽くされた命を振り絞って、〝彼女〟は桜を殺そうとする。
数種の生物を無理に一塊にしたような何かが、紫の壁から這い出し、桜の元へと迫り――
村雨が、割って入る。
人狼の本性を全て解き放ち、狼面と化した村雨は、靴を脱ぎ捨て、素足で蹴りを放った。
足の爪が、小さな刃となって、紫の肉体に喰い込み、斬り裂く。
手の指が、これも短い槍のように、容易く肉を貫き、奥の骨を掴む。
村雨に守られて、桜は、敵に目もくれぬまま、城を斬って走り回る。
二人は、言葉も、視線さえも交わさない。
そのようなものは必要無いのだ。
同じ場所に、同じ目的を持って立つ――それだけで、
桜は、村雨に背を預けられる。
村雨は、桜の為す事を信じ、その後押しに専念できる。
――嗚呼。
感嘆――溜息さえ零れるような、無上の信頼。
もはや〝彼女〟に、為す術など残されていなかった。
打つ手の全ては破られて、体は切り裂かれ、崩れてゆく。
血が喉をせり上がり、口から外へ零れるように、桜と村雨は本丸の中を、上へ、上へと駆け上がり続け――
そして、『斬城』は、成った。
地上に落ちた天守閣の中には、蛇に食い破られた女の体が横たわっている。
先には、確か、亡骸であった筈の体――
それに今、魂の火が、今一度だけ宿っていた。
「――私は、地獄へ落ちるのでしょうね」
仰向けに、天井を仰いで倒れたまま、エリザベートは言う。
それを聞く者は、雪月 桜と、村雨だけであった。
否とも、応とも、答えは無い。
或いは何か、言葉が返ったのかも知れないが、それはエリザベートの耳には届かなかった。
塵は塵に――
エリザベートの体は、塵に還ってゆく。
自らに施した不死の呪いは、その解ける日には、亡骸さえも残さず奪いとるのだ。
「あるいは、地獄さえも〝無い〟ものなのでしょうか」
だが、エリザベートは、安らぎに満ちた顔で微笑んでいた。
神は人を救わない。
もしかすれば、そもそも神など居ないかも知れない。
だから、死の後には永遠の安らぎなど無く、また永劫の責め苦も無い。
人の命は、現世で終わる。
その後には、ただ、無だけが横たわる。
もはや何かを思い、喜ぶ事も苦しむ事も、全ては不要になる。
何も見えぬ目で、エリザベートは、桜と村雨を探した。手に、人の体温より少し熱い温度を感じる。
村雨が、エリザベートの手を握っていたのだ。
エリザベートは、殆ど力の入らぬ手で、村雨の手を握り返した。
「〝空の空、空の空、全ては空なり〟――私の師が、私に最期に与えた言葉でした。同じ書から私もまた、貴女達に最期の言葉を残したいと思います――〝二人は一人に勝る、其はその労苦のために善報を得ればなり〟」
村雨の手の中で、エリザベートの指が、塵となって崩れ落ちる。
穏やかな風が吹いて、さら、と塵を攫って、何処かへ流れて行く。
「貴女達の生に幸いがあらん事を――――ありがとう」
最期の声を運ぶ風は、暖かかった。
誰の心をも安らぎへ導く、穏やかな風だ。
柔らかな歌声のように、風は何処かへ流れて行く。
そういえば、もう暫くの間、雪が降っていない。
道の傍らに積もった雪は、眩き光を受けて緩み、水となって大地へ浸み込んでいく。
街を出て、何気なく道端に目をやれば、きっと花が幾つか開いて、小さな虫を集めようとしているだろう。
獣達は穴倉を出て、野山に満ち、鳥は遥か高い空に、悠々と翼を広げて歌う。
誰かが死んで、誰かが生まれてくるように、季節は過ぎ、季節は還る。
長い、長い冬が終わって、日の本に、今、春の風が吹いた。
春眠暁を覚えずとは、良くも言ったものだ。
春のまどろみの心地良さは、何にも変えられない。
冬の透明さを残しながら、命を育む暖かさに満ちた大気が、風に振り回されて、家屋の中にまで入り込んでくる。
大気は、外の匂いに染まっている。
若草や花、目を覚ました雑多な生き物の放つ、あらゆる香りを混ぜ合わせた空気は、人をも、己は獣の一種なのだという納得と共に落ち着かせる。
布団を被っていても、寝苦しさが無い。
かといって、布団から転び出たとしても、然程の寒さを感じない。
そういう気候であるから、何時までも眠りから覚めず、夢に揺蕩っていられるような心地良さがある。
有る、のだが――
「う~、う~……」
そんな春の日に、呻き声を上げている少女が居た。
二日前、戦場から戻ってくるや、引っくり返るように眠り始めて、今まで全く目を覚まそうとしなかった、村雨である、
堀川卿が軽く頬を叩いても、寝返りを打つばかりで、声一つ上げなかった村雨だが――
うなされている原因は、ろくでもない悪夢であった。
巨大な城が倒壊し、自分の上にのしかかってくるという、珍妙な夢を見ているのだ。
夢の中で村雨はぺたんと潰されて、まるで和紙か何かのようになって、ひらひらとはためいている。
すると、そこに何故か、火が近付いて来る。
どういう道理であるかは夢の事ゆえに分からぬが、紙のように薄くなっている村雨は、紙のように良く燃えた。
「あつい~……」
時折、手足をもぞもぞと動かして熱から逃げようとするのだが、熱源はがっちりと村雨を捕らえて離さない。
兎に角、重いわ暑いわ、おかげで呼吸も苦しいわ喉も渇くわで、いかに春とて、これ以上も惰眠を貪れぬようになった頃合い、
「暑いわーっ!」
村雨は、髪から顔に滴る程の汗を掻きながら、熱源を思い切り蹴り飛ばしつつ起床した。
蹴り飛ばされた熱源は、未だにすうすうと寝息を立てている。
隣に眠っていた雪月 桜が、両手でがっしりと、村雨を抱き締めていたが為の悪夢であった。
「はー、はー……ったくもう」
酷くすっきりしない目覚めを迎えてみれば、その元凶はまだ、春のまどろみに浸っている。不公平を感じた村雨は、桜を蹴り起こそうとし――やめた。
汗の滲む服――着替えずに寝たが為、返り血も酷い――を脱ぎ、用意されていた寝間着に着替えた村雨は、とことこと軽快な足音で歩いて行き――
暫くして戻って来た時、村雨が抱えていたのは、大きな湯たんぽであった。
厨房で、沸かしたての湯をたんと入れてもらった湯たんぽを、布団と、自分の着ていた服で包み、そうっと桜の横へ置くと、
がしゅっ。
と、まるでとらばさみのような勢いで、桜はその布団を、両腕で抱き締めた。
熟睡している桜の横に、何か手頃な大きさの物を置くとこうなる――熟知している村雨は、その様を見届けるや、笑い声を押し殺してまた部屋を出て行く。
雪月 桜が、火の番よりも酷く汗を掻いて跳ね起きたのは、それから暫くしての事であった。
「任官式?」
「うん」
「誰の?」
「私達を含む大勢の」
「何故」
「何故って言われても」
さて、風呂で寝汗を流し、代えの衣服に袖を通して、ようやく人心地ついた二人である。
二日絶食した分を取り戻すように、大量の朝食を喰らいながら、二人はこれからの予定について話していた。
というのも、先に目を覚ました村雨が受け取っていたのだが、書簡が届いていたのだ。
曰く――
先の戦で功を上げた者に、政府より恩賞を与える。ついては何時何時の日の、どの時間に、どこへ来い、と――兎に角、そういう内容の書簡であった。
ここ数十年、日の本では大きな乱も無かった。この機に恩賞を与えぬでは、何時、政府は恩を大々的に売るのかと、何を置いても盛大に任官式をやりたいのだろう――等と村雨に入れ知恵したのは、堀川卿である。
「ふーむ……私達に官職を、本気で与えようという腹積もりだと……思うか?」
「違うだろうねー、貰っても困るし」
「だなあ。片田舎の警察長官なぞ任されたとて、勅使を打ち据える程度しか出来んぞ」
「勅使が全部、督郵みたいな人間だと思うのはやめた方が良いと思う」
白米をかっ込む速度は尋常を遥かに超えているが、のんびりとした会話であった。
書簡は数枚の組になっていて、仰々しい文章で任官式への出席を要求してきたのが、まず一枚。
残り数枚に、どこの誰それにはどういう官職を与えるだの、その官はどういう権限を持ち、任地は何処であるだのと、あれこれ記されている。
桜は、右手に箸、左手に書簡と行儀悪く構えて、任官表の中から、知った名前を探していた。
「……この、一番上に書かれている名、中大路とは誰だ」
「新しい兵部卿だってさ、政府のお偉いさんだよ。……顔は見てるじゃない、堀川卿に全部任せてた、本陣の」
興味の無い人間を詳しく覚えていない桜は、暫く眉を寄せて、中大路とはどんな人間かを思い出そうとし――
「ああ、あの髭の?」
「あの髭の」
「……あいつ、本陣に籠っていただけではないか」
思い出した桜は、なんとも気の抜けた顔になった。
例えるなら、算術の難題を突きつけられた、寺子屋の子供のような顔と言おうか――何を何処から理解すれば良いのか分からぬという、そんな顔である。
「そういうもんなの」
村雨は、その問題を深く考えず、自分も食事を続けながら、桜が持つ任官表を覗き込む。
二人の知っている名は、あちこちに有った。だが、そのいずれもが重役でなく、名ばかりの小さな役職か、或いは体良く働かせる為の、下っ端に過ぎない官職か。
名乗れば堂々と箔がつくような職には、二人がまるで知らぬ名前ばかり並ぶ。
きっと、その中に並ぶ名前の誰一人、戦場で、前線に立ち、敵と斬り合ってはいないのだろう。
冬の山城で寒さと飢えに耐え、味方が少しずつ減っていく恐怖に耐えながら、援軍を待ち続けた者とていないのだろう。
そういう人間は――もう、要らぬのだ。
「……そうか。終わったのだなぁ」
「まあねえ。うちの師匠みたいな人ばっかり、お役人になってても困るしさ」
『錆釘』の面々や、村雨の部下の亜人達は、それこそ肩書きと、一度の報奨金を得られるだけの名誉職を授けられるらしい。
堀川卿だけが、上手く根回しでもしたものか、海外諸国を真似て制定された〝爵位〟なるものを授けられている。
桜と村雨の名は、それぞれ全く切り離されて、任官表の真ん中の辺りに乗っていた。
「私達は、運が良かったのだな」
「……そうかもね。こんな古臭い戦なんか、この国はもう、やるつもりは無いんだろうから」
その後、暫くの間、しんと静まり返った部屋の中で、二人は黙々と飯を食った。
眠っていようが、起きていようが、生きているなら腹は減る。
満足行くまで喰ってから、ようやく桜は、
「洛中の見納めだ。出向くとするか」
小袖も袴も真っ黒の、平常と何も変わらぬ姿で、まるで散歩をするように歩き始める。
荷は――愛用の刀達と、懐に入れた胴巻きくらいのもの。
村雨もまた、平服に籠手だけを身につけて、殆ど身一つで『錆釘』の宿舎を出る。
見送りに出て来る者も無い。
出立の挨拶に回る事も無い。
思いつきのように、ふらりと、行くのであった。
任官式の場は、御所であった。
日の本で最も尊い者が住む、神聖な場所。
本来ならば、立ち入る許しを得る事さえ、市井の者には夢また夢の空間に、人間がすし詰めにされていた。
無論、建物の中ではない。
如何に許しを得て訪れた者とて、御所の庭に立つ事を許されても、本殿に上がるまで許されている者は僅か――加えて、本殿に押し込もうとすれば、手狭に過ぎる人数でもある。
式の次第は、学の無い者にまで理解が及ぶよう、極めて単純化されていた。
読み上げの男が居て、誰かの名を呼ぶ。
呼ばれた者が、何をするでもなく、ただそれを聞く。
また、誰かの名前が呼ばれる――そんな調子である。
名を呼ばれた者が、其処にいようが、いるまいが、何が変わるでもない。
名を呼ばれた者に、着任の意思が有ろうと無かろうと、それは後々に確かめれば良い事であり、この日は事情を斟酌されない。
「……なんともまあ、大雑把なやり方を」
桜は、半ば呆れ、半ば面白がりながら、御所の庭をふらふらと歩いていた。
?き集められた者達も、ひとところで立ち続けるような、律儀な者はそう多くない。思い思いに歩き回り、見知った顔と集まって話し込んでいる。
女としては長身の桜だが、これだけの人間がいると、背伸びをしても全体は見渡せない。時折、ちょんと小さく飛び跳ねては、見知った顔を探した。
探して、見つけたとて、それでどうしようという考えも無い。ただ、知った顔が自分と同じように、退屈そうな表情で立っているのを見ると、なんとなく落ち着くのであった。
桜の交友関係は、極めて狭い。
江戸ではまだ、幾らかの人付き合いがあったが、それもひと月やふた月で生まれた関係では無い。
元々、人とあまり馴染まぬ性質なのだろう。
利害であったり、道であったり、そういうものが一致しない相手と、無条件で親しくなるという事が苦手なのだ。
桜は、少し遠くに、松風 左馬を見つけた。
左馬は、旅支度を済ませた格好で其処に居た。
片手に持つのは、普段飲んでいるのより上等の、舶来の酒瓶。麦や稲の穂のような、艶やかな酒が、瓶に収まっている。
――少し、たかりにゆくか。
その時、人の群れを掻き分けて行こうとした桜が、まだ数歩と行かぬ内、別な方向から、左前の前に、村雨が駆け寄っていた。
人の群れの喧騒で、左馬と村雨の声は、桜の元まで届かなかったが――
まず、村雨が、人の群れの中からにゅっと生えるように、左馬の前に現れたのが見えた。
左馬は、あまり動じていない風を装っていたが、視界の外から村雨が現れた瞬間、軽く仰け反ったのを、桜は見逃さなかった。
口の動きを見るに、村雨ばかりが長く喋って、左馬は二つか三つ、短い言葉を返しているだけのようだったが――
――おや、珍しい。
亜人嫌いの左馬だと言うに、その顔が、少し楽しそうに、桜には見えたのだ。
村雨が何か失言でもしたか、拳が村雨の頭に振り落とされ、痛みで村雨がしゃがみ込む。その隙に、左馬は、村雨に背を向けて、何処かへと歩き始めた。
何処へ行くのか――走り寄り、呼び止めて聞こうかとも思ったが、止めた。
珍しく、穏やかな笑みを浮かべている友人を邪魔したくないと――桜は、そう思ったのである。
生きていれば、何処かで出くわす言葉もあるだろうと、そんなあっさりとした別れであった。
村雨は、また人の波を掻き分けて動き回る。
その間に、知った顔を幾つも見つけたようで、すれ違う度に手を挙げ、朗らかな笑みを振りまいている。
楽しげであった。
人と触れ合い、人と語らう事を楽しめるのが、村雨という生き物である。
それを見ている桜は、知らず知らずの内に、自分の口元まで緩んでいた事に気付いた。
――私は、笑っていたのか。
桜には、ちょっとした驚きであった。
誰かが楽しんでいる姿を見ているだけで、自分が退屈であろうとも、手持ち無沙汰であろうとも、それだけで幸せであるなどと――自分がそんな、慎ましい人間だとは思っていなかったのだ。
村雨といると、自分が幸福であるから、楽しい。そういうものだと思っていた。
桜は、自分を弁えている。
自分が善良な人間ではなく、法や道理より自分の感情を優先する、結局は身勝手な人間であると知っている。
だから、自分が、自分の楽しみなどどうでも良いのだと達観している、その事に驚いたのだ。
――心が老いたか?
僅か数ヶ月。
されど、数ヶ月。
戦は確かに、桜の心の在り方を変えたのだ。
それが、老いと呼ぶものか、成長と呼ぶべきものかは定かでは無いが――桜は、物分りの良くなった自分を皮肉って、老いたと言葉を選んだのである。
心の老いを自覚すると、不思議と桜は、体が軽くなったような心地になった。
人の波を、誰にぶつかる事もなく、ゆるゆるとすり抜けて歩き、村雨を追う。
村雨の足にはとても追いつけない、のんびりとした速度である。
桜の視線の先で、村雨は沢山の人間と笑い合い、桜はたった一人、それを遠目で見て微笑み続けた。
式の次第は進み、読み上げの男が、端の役人の名を呼び終えて、拍が付く程度の官位授与者の名を呼び始めた頃合いである。
この辺りからはもう、桜の知っている名前など、殆ど出てこない。そろそろ村雨と合流するかと、足を速めようとした時――桜は、背後に誰かが立ったのを、気配で感じ取った。
「……ね、ね」
「おっ――」
背後の声は、耳打ちをするような距離にまで近づいて来る。
周囲から浮いて見えぬよう、自然な速さで振り向くと、そこには狭霧 蒼空が、町娘のような安布の振袖を着て立っていた。
昼夜を問わず人目を惹く白髪は、頭からかぶった被衣で隠しているものの、あんまり当たり前のような顔をしてそこにいるので、桜も面食らった。
「お前、少しは隠れるという事をだな……」
何せこの狭霧 蒼空、今はお尋ね者の身の上なのだ。
二条城の戦の後、狭霧 和敬の首は、三条河原に晒された。
誇張無しに並べられた無法の度合いでさえ、世に例を見ぬ大罪人よと、衆人が口極めて罵る中、当の本人の首だけは、不敵に笑ったまま、台座に乗せられていた。
その左右に、他の誰かの首は無い。
世が世なら、そして狭霧和敬に親族が居たのなら、和敬の首の隣には、ずらりと連座の打ち首が並んだ事であろう。
狭霧和敬の親族は、公的には二人の娘のみ。
その内の片方、姉の狭霧 紅野は、比叡山城にて大将を務めた事と、二条城決戦に於いては和敬の首級を挙げた事を手柄とし、罰せられはしなかった――が、任官表の中に、名前を載せてもいない。
そして、妹の狭霧 蒼空は、和敬の命の侭に幾人をも斬ったと、これまた大罪人として賞金を掛けられていた。
仮に蒼空を役人に差し出したのなら、その先十年は飢えを知らずに生きられるだろう大金である。
差出す形が、体全てであるか、首だけであるかで、付けられる値は変わらない。
つまり狭霧 蒼空は、捕えられれば直ぐにでも首が飛ぶ身の上であり、そうでありながら堂々と、白昼に御所にまで出向いているのだ。
「然し、なんだ……お前も、中々に大変だな」
「……?」
桜の言葉の意図が分からぬのか、蒼空は首を傾げる――頭の上で、被衣が斜めに垂れた。
「これからどうするつもりだ。……先に行っておくが、逃げるというなら、この国の中はあまり勧めんぞ。西国から船に乗れば、その後はどうにでもなろう」
孔雀が日の本の山中に居たら、何時までも隠れ潜んでは居られないのと同じだ。いかに蒼空の剣の腕が神域とて――或いは神域の技量があるからこそ――日の本の中で、隠れ潜んで生きて行く事は出来ぬだろうと、桜は感じていた。
翻って海の外に目を向ければ、日の本なぞ、ちっぽけな小石にしか見えぬ程、広い世界が広がっている。
そこへ行けと、桜は言うのである。
「案外な、剣の他に芸の無い身だろうが、その日の飯くらいはどうにでもなるものだ。私も昔は、山賊崩れから剥ぎ取った数打ち一振りを手に、あちらこちらと廻ったものだったが――お前の腕なら、そこは私より楽だろう」
「………………」
「まあ、三年か、五年か、そんなものだろうな。それですっかり世の中が、お前という人間を忘れる。その頃には、戻って来るか、戻って来なくても良いかも決まっているだろうて」
まるで、寒村から江戸へ出稼ぎに行けと言うような口振りであったが、桜が蒼空を押し出そうとするのは、世界に対してである。
蒼空は、首を傾げ続けるばかりであった。
そもそも狭霧 蒼空という人間の世界は、洛中とその周辺ばかりなのだ。
全く実感が湧かない――海の外へ出る自分、西国へ向かう自分が、想像もつかない。いつも通りの、浮世離れしたぼんやり顔のまま、首を斜めに傾けて固定してしまった。
「……難しいか?」
「ん」
この問いには、いやにはっきりと答えつつ、蒼空は首を縦に振る。桜は思わず、両肩をがくんと落としてしまった。
うなだれながらも、桜は笑う他にする事を選べなかった。
狭霧 蒼空は、奇跡のように無垢な人殺しだ。
この日の本で、おそらくは誰よりも優れた剣の技を持ち、幾百人と斬り殺してきた経験を持ちながら、心根は幼い子供――ものを知らず、理を知らず、だからこそ穢れも無い。
案外、どうとでもなるのかも知れない。
風に背中を押されるまま歩いていった先で、水の流れを追い掛けて走った先で、なんとなく気の向いたからと出向いた先で、どうにかこうにか、出会う物事を通り過ぎていけるのかも知れない。
起用にやり過ごすのではなく、狭霧 蒼空そのもののまま、猫のような気紛れさで、引くも超えるも自由に生きる、そういう姿を桜は思い描いた――
いや、見たくなったのだ。
狭霧 蒼空が育ち、無双の剣技はそのままに、見事に人と成った姿を、桜は見てみたくてたまらなかった。
「――ふふっ」
小さく、短い笑い声。
やけに楽しそうな、心を惹く声だった。
桜は、はっとした顔になって、蒼空を見ようとした。
蒼空は、人の波の中をするすると、遥かに遠く先――任官式の読み上げ係の方へ歩いていく所だった。
あまり大きくない体は、人の群れの中で消えそうにも見えたが、足取りに淀みは無い。
「おい――」
何処へ行く、と、問おうとした。
その声を聞くより先、蒼空は、桜の視界から消えるほどの速度を以て、人の群れを置き去りにし――
ふわっ
と、空を歩くように跳んで、集められた大勢の前に、被衣を捨てた姿を現した。
眩い春の空の下に、真っ白の長い髪を――言葉より尚も明確な名乗りを叫んで。
沈黙――
そして、どよめく。
誰かが、蒼空を指差して、名を叫んだ。
その声に押されたように、蒼空は抜刀した。
「待っ――」
読み上げ係の男は、命乞いの言葉を発しようとしたが、それより先に蒼空の刀は、男を全く傷つけぬままで、任官表をばらばらに切裂いていた。
それから、また跳んだ。
既に警備の兵士達が、蒼空を捕えようと集まり始めているところであったが、蒼空は敢えて、彼等へ向かって跳んだのである。
槍が、さすまたが、蒼空へと突き出される。
その全てを蒼空は、体に届く寸前で斬り落とした。
切断された槍の穂先が落下し、地に触れるより先、兵士達の鎧だけを切り壊して蒼空は駆け抜ける。
誰も、傷を受けてはいない――そうする必要など無いからだ。
狭霧 蒼空は、圧倒的に強かった。
御所の警護の兵は、次から次に繰り出される。
任官式の為に集まった者達からも、何十人か、賞金首を捕えてやろうと欲を出す者が出る。
蒼空を狙う人間が、狭い空間に何百人も集まって――
蒼空はそれを、くるりと爪先立ちで回りながら、見た。
数百の敵意を向けられながら、蒼空は子供のような顔をしたままで、
「もーいいよー」
子供のように、声を張り上げた。
大人になれば、もう声に出す事は無いだろう、懐かしい響きを――これから始まる遊びに胸躍らせながら、なんとも楽しげに、蒼空は言うのだ。
それから蒼空は、平野を行くが如き気軽さで、御所の塀を飛び越えた。
御所の南、開けた太い通りに降り立った蒼空はもう一度、高く声を張る。
「もーいいよー」
すると、応じるように、蒼空の正面から声が返った。
「もーいいかーい」
その声の主を見て、蒼空は眠たげな目を輝かせ、小躍りするように彼女に飛び付き、抱き締めた。
抱き締められた少女は、物騒な得物を掴んだままの腕で、軽く蒼空を抱き締め返すと、
「もう、いいよな」
煙草の匂いの息を思い切り吐いてから、蒼空と同じ顔をして、問うた。
狭霧 紅野。
蒼空の、双子の姉。
それが、白絹を基調とした戦装束に身を包み、大鉞と大鋸を――あの日の戦場で得た得物をそのまま――携えて、待っていた。
「うん……もう、いいよ」
「そっか」
同じ顔をした二人は、並んで歩き始めた。
ゆっくりと、ゆったりと――まるで今日が、なんでもない日であるように。
もし、明日も明後日も同じ日が来ると知っているなら、今日を急ぐ必要など無いと――彼女達の速度は、そう言っているようだった。
無論、それは夢だ。
彼女達にとって〝今日〟は、待ち望んだ日なのだから。
御所から方々へ早馬が走り、援軍を呼ぼうとする――それを二人は、敢えて見逃した。
御所の中の兵士や賞金稼ぎは、もうすぐにでも塀を乗り越え、二人に刃を向けるだろう。
その全てを、二人は望んでいる。
「じゃ、行くかぁ」
「うんっ!」
二人は、遊びに出かける。
最期にたった一度、これから、全力で遊ぶのだ。
それはどんなにか幸せな事だろう――その予感だけで二人は、誰よりも眩く笑い合った。




