表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
182/187

最後の戦のお話(14)

 斬る――

 雪月 桜が幾千と、幾億と繰り返した、単純明快な行為。

 これまでに、どれだけのものを斬ったことだろう。

 鎧。兜。槍。刀。弓。銃。

 身を守る為の、また他者を害する為の、あらゆる武具。

 獣。

 人。

 獣でも人でも無い、数多の生物。

 桜にとって斬る事は、呼吸をする事にも等しい。

 然し――それは飽く迄も、〝尋常のもの〟を斬る場合である。

 桜は今、巨大な城を相手取り、黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』を振るっていた。

 叩き落された地上階から、階段を駆け上がり、一つの階層を存分に斬り回って、また上へ。


 ――これが、城を斬るという事か。


 桜は今、前人未到の領域へ踏み込んでいた。

 刀で城を斬ろうなどと、誰も考えない。桜でさえ、今日、この日まで、実際にそうするなど考えもしなかった。

 何千もの人を呑み込んで揺らがぬ、巨大な建築物――その強度は、桜の想像力を遥かに上回っている。

 二度や三度、強く斬り付けた所で、まるで城は揺らがない。

 数本の柱を斬り倒し、壁を数間に渡って切り刻んだとて、その程度では城は揺らがないのだ。

 一度刀を振るえば、それで終わるのが、〝斬る〟という事である筈だった。

 城は、一刀では倒せない。

 数百の斬撃を重ねて、ようやっと揺らぎ始めるのみだ。

 だが――だからこそ、雪月 桜は燃える。

 飽かずに繰り出される斬撃は、ついに一つの階層を斬り潰し――天井が落ち、頭上に迫る。

 斬。

 頭上からの重量に潰される寸前、桜は天井を切り裂き、上階へと飛び込んだ。

 巨獣を腹の中から食い破るように、桜は二条城本丸を、内側から切裂いて行く。

 本丸を締め付けるように、天守閣から這い出した大蛇――紫色の壁は、城内の至る所に入り込み、畳や天井、壁や柱に喰い込んでいた。

 それも、斬る。

 一太刀ごとに轟く断末魔の叫びも、もはや、桜の耳には入らない。

 〝エリザベートだったもの〟の内臓と化した本丸の内に、剣撃の華が咲いていた。






 〝エリザベートだったもの〟の意識は、城一つを丸ごと体として存在していた。

 喰らった数千の命全てを、己の肉とし、鎧とし、刃とし――巨大な怪物の集合体と成り果てた姿に、もはや〝大聖女〟と呼ばれた女の面影は無い。


 ――殺してやる。


 ――殺してみせろ。


 矛盾する二つの意識を抱えて、彼女は、自分の体の一部を、体内の異物を殺す為に差し向ける。

 その試みの全てが、虚しく潰えて行く。

 溜め込んだ命を、ありとあらゆる獣の形へ変えて差し向けても、雪月 桜は、村雨は、殺される事なく戦い続ける。

 そんな二人が、彼女には愛おしくてならなかった。

 もはや遠く昔となった、街の残骸の前で涙した日――あの時も、自分を否定しようとした男が居た。

 神の道を歩む彼女を、教え導く立場だった老神父。

 彼は結局、彼女の叫びを否定しながら、最後は神の無力を証明するに留まったのだ。

 もし、あの時、老神父を殺そうとした自分を、誰かが力尽くでも止めていたのなら――

 或いは、どのような偶発的な要素でも良い、老神父を殺す事の出来ぬ理由が生まれていたのなら――

 彼女はきっと、神の奇跡を信じ続ける事が出来たに違いない。


 ――自分は、過ちを叫んでいる。


 本当は三百年も前に、その答えに辿り着いていたのだろう。

 結果的に、窮地から人間が救われなかったとしても、或いは善良な人間が苦しみを得たとしても、それは神の咎では無いのだ。

 神とは――〝何をするでもないもの〟なのだから。

 神とは、〝そこに在る〟ものだ。

 人の身を刃から遠ざけたり、天災から街を救うような、物理的な力など持たない、一つの概念、一つの思想が、神だ。

 ただ、遍く世界に神の目が有ると信じる人間が、神の意思に適うように己を律し、慎み生きる事――その為に得られる恩恵こそが、〝神の恩寵〟なのだと――

 今ならば彼女は、胸を張って言える。

 神は人間を救わない。

 人間を救うのは、神を信じ、人間を信じる人間だ。

 人間を疑い、神への信仰を捨てた人間が――人間を救う神に、成り代わって良い筈が無い。

 その過ちの全てをつまびらかにしたのが、雪月 桜と村雨だった。

 お前は人間を信じていないと、桜は、振るう刃の如く、鋭く突き付けた。

 お前はやり方を間違えたのだと、村雨は、友を諭すように、優しく答えを差出した。

 一人きりで歩む道は苦しいと、桜は、そうでない自分を誇るように見せつけた。

 たった一つ、彼女が最初に抱いていた想いだけは――人間への愛だけは間違っていなかったと、村雨は、切々と〝エリザベートに〟訴えた。

 もはや〝彼女〟に、雑念は無かった。

 力の限り、魂の限りを尽くして、殺すか、殺されるかをしようと思った。


 ――もし、殺されたなら。


 殺されたなら、それで終わりだ。

 拝柱教という教えは、この地上から消え去り、エリザベートという女が抱いた大望も潰える。

 何もかもを信じぬまま、ただ神の座を求めた女が死んで、乱が終わる。

 その後の世界に自分はいないが、それだけの事だ。

 だが、もし――


 ――もし、殺せたなら。


 その時は、また、聖女を気取ってみようかとも思った。

 前と同じように、聖書を開いて読み聞かせたりもしながら、その矛盾を突き、神は人を助けないと教え――

 ただ、それだけでは終わらせない。

 人を救うのは、人なのだと、誰かに教えてみたくなった。

 どんな顔をされるだろう。

 もしかしたら、何を言っているのだと呆れられるかも知れない。

 それも当然だ――そんな事を知っている人間なんて、何処にでも、どれだけでも居るだろう。

 けれど、知らない人間だって居る。

 その、ほんの一握りかも知れない、そういう事を知らない人間の為に、新しい教えを説いて回りたいと、彼女は思った。

 神は人を救わない。

 然し、神を心の中に抱く事で、人は人を救えるのだと――


 斬。


 〝彼女〟の臓腑が、ずたずたに引き裂かれる。

 城一つにまで膨れ上がった体の中で、桜が、手の届く何もかもを斬っているのだ。

 その苦痛は、筆舌に尽くし難いものであった。

 人の身であった時さえ、尋常の体ならば死する程の痛み――それが、肥大化した体の分だけ増しているのだ。


 ――死んでも良い。


 それでも、手は緩めなかった。


 ――死なぬなら、もっと良い。


 もう、半ば以上も殺し尽くされた命を振り絞って、〝彼女〟は桜を殺そうとする。

 数種の生物を無理に一塊にしたような何かが、紫の壁から這い出し、桜の元へと迫り――

 村雨が、割って入る。

 人狼の本性を全て解き放ち、狼面と化した村雨は、靴を脱ぎ捨て、素足で蹴りを放った。

 足の爪が、小さな刃となって、紫の肉体に喰い込み、斬り裂く。

 手の指が、これも短い槍のように、容易く肉を貫き、奥の骨を掴む。

 村雨に守られて、桜は、敵に目もくれぬまま、城を斬って走り回る。

 二人は、言葉も、視線さえも交わさない。

 そのようなものは必要無いのだ。

 同じ場所に、同じ目的を持って立つ――それだけで、

 桜は、村雨に背を預けられる。

 村雨は、桜の為す事を信じ、その後押しに専念できる。


 ――嗚呼。


 感嘆――溜息さえ零れるような、無上の信頼。

 もはや〝彼女〟に、為す術など残されていなかった。

 打つ手の全ては破られて、体は切り裂かれ、崩れてゆく。

 血が喉をせり上がり、口から外へ零れるように、桜と村雨は本丸の中を、上へ、上へと駆け上がり続け――






 そして、『斬城』は、成った。






 地上に落ちた天守閣の中には、蛇に食い破られた女の体が横たわっている。

 先には、確か、亡骸であった筈の体――

 それに今、魂の火が、今一度だけ宿っていた。


「――私は、地獄へ落ちるのでしょうね」


 仰向けに、天井を仰いで倒れたまま、エリザベートは言う。

 それを聞く者は、雪月 桜と、村雨だけであった。

 否とも、応とも、答えは無い。

 或いは何か、言葉が返ったのかも知れないが、それはエリザベートの耳には届かなかった。

 塵は塵に――

 エリザベートの体は、塵に還ってゆく。

 自らに施した不死の呪いは、その解ける日には、亡骸さえも残さず奪いとるのだ。


「あるいは、地獄さえも〝無い〟ものなのでしょうか」


 だが、エリザベートは、安らぎに満ちた顔で微笑んでいた。

 神は人を救わない。

 もしかすれば、そもそも神など居ないかも知れない。

 だから、死の後には永遠の安らぎなど無く、また永劫の責め苦も無い。

 人の命は、現世で終わる。

 その後には、ただ、無だけが横たわる。

 もはや何かを思い、喜ぶ事も苦しむ事も、全ては不要になる。

 何も見えぬ目で、エリザベートは、桜と村雨を探した。手に、人の体温より少し熱い温度を感じる。

 村雨が、エリザベートの手を握っていたのだ。

 エリザベートは、殆ど力の入らぬ手で、村雨の手を握り返した。


「〝空の空、空の空、全ては空なり〟――私の師が、私に最期に与えた言葉でした。同じ書から私もまた、貴女達に最期の言葉を残したいと思います――〝二人は一人に勝る、其はその労苦のために善報を得ればなり〟」


 村雨の手の中で、エリザベートの指が、塵となって崩れ落ちる。

 穏やかな風が吹いて、さら、と塵を攫って、何処かへ流れて行く。


「貴女達の生に幸いがあらん事を――――ありがとう」


 最期の声を運ぶ風は、暖かかった。

 誰の心をも安らぎへ導く、穏やかな風だ。

 柔らかな歌声のように、風は何処かへ流れて行く。

 そういえば、もう暫くの間、雪が降っていない。

 道の傍らに積もった雪は、眩き光を受けて緩み、水となって大地へ浸み込んでいく。

 街を出て、何気なく道端に目をやれば、きっと花が幾つか開いて、小さな虫を集めようとしているだろう。

 獣達は穴倉を出て、野山に満ち、鳥は遥か高い空に、悠々と翼を広げて歌う。

 誰かが死んで、誰かが生まれてくるように、季節は過ぎ、季節は還る。

 長い、長い冬が終わって、日の本に、今、春の風が吹いた。

























 春眠暁を覚えずとは、良くも言ったものだ。

 春のまどろみの心地良さは、何にも変えられない。

 冬の透明さを残しながら、命を育む暖かさに満ちた大気が、風に振り回されて、家屋の中にまで入り込んでくる。

 大気は、外の匂いに染まっている。

 若草や花、目を覚ました雑多な生き物の放つ、あらゆる香りを混ぜ合わせた空気は、人をも、己は獣の一種なのだという納得と共に落ち着かせる。

 布団を被っていても、寝苦しさが無い。

 かといって、布団から転び出たとしても、然程の寒さを感じない。

 そういう気候であるから、何時までも眠りから覚めず、夢に揺蕩っていられるような心地良さがある。

 有る、のだが――


「う~、う~……」


 そんな春の日に、呻き声を上げている少女が居た。

 二日前、戦場から戻ってくるや、引っくり返るように眠り始めて、今まで全く目を覚まそうとしなかった、村雨である、

 堀川卿が軽く頬を叩いても、寝返りを打つばかりで、声一つ上げなかった村雨だが――

 うなされている原因は、ろくでもない悪夢であった。

 巨大な城が倒壊し、自分の上にのしかかってくるという、珍妙な夢を見ているのだ。

 夢の中で村雨はぺたんと潰されて、まるで和紙か何かのようになって、ひらひらとはためいている。

 すると、そこに何故か、火が近付いて来る。

 どういう道理であるかは夢の事ゆえに分からぬが、紙のように薄くなっている村雨は、紙のように良く燃えた。


「あつい~……」


 時折、手足をもぞもぞと動かして熱から逃げようとするのだが、熱源はがっちりと村雨を捕らえて離さない。

 兎に角、重いわ暑いわ、おかげで呼吸も苦しいわ喉も渇くわで、いかに春とて、これ以上も惰眠を貪れぬようになった頃合い、


「暑いわーっ!」


 村雨は、髪から顔に滴る程の汗を掻きながら、熱源を思い切り蹴り飛ばしつつ起床した。

 蹴り飛ばされた熱源は、未だにすうすうと寝息を立てている。

 隣に眠っていた雪月 桜が、両手でがっしりと、村雨を抱き締めていたが為の悪夢であった。


「はー、はー……ったくもう」


 酷くすっきりしない目覚めを迎えてみれば、その元凶はまだ、春のまどろみに浸っている。不公平を感じた村雨は、桜を蹴り起こそうとし――やめた。

 汗の滲む服――着替えずに寝たが為、返り血も酷い――を脱ぎ、用意されていた寝間着に着替えた村雨は、とことこと軽快な足音で歩いて行き――

 暫くして戻って来た時、村雨が抱えていたのは、大きな湯たんぽであった。

 厨房で、沸かしたての湯をたんと入れてもらった湯たんぽを、布団と、自分の着ていた服で包み、そうっと桜の横へ置くと、

 がしゅっ。

 と、まるでとらばさみのような勢いで、桜はその布団を、両腕で抱き締めた。

 熟睡している桜の横に、何か手頃な大きさの物を置くとこうなる――熟知している村雨は、その様を見届けるや、笑い声を押し殺してまた部屋を出て行く。

 雪月 桜が、火の番よりも酷く汗を掻いて跳ね起きたのは、それから暫くしての事であった。











「任官式?」


「うん」


「誰の?」


「私達を含む大勢の」


「何故」


「何故って言われても」


 さて、風呂で寝汗を流し、代えの衣服に袖を通して、ようやく人心地ついた二人である。

 二日絶食した分を取り戻すように、大量の朝食を喰らいながら、二人はこれからの予定について話していた。

 というのも、先に目を覚ました村雨が受け取っていたのだが、書簡が届いていたのだ。

 曰く――

 先の戦で功を上げた者に、政府より恩賞を与える。ついては何時何時の日の、どの時間に、どこへ来い、と――兎に角、そういう内容の書簡であった。

 ここ数十年、日の本では大きな乱も無かった。この機に恩賞を与えぬでは、何時、政府は恩を大々的に売るのかと、何を置いても盛大に任官式をやりたいのだろう――等と村雨に入れ知恵したのは、堀川卿である。


「ふーむ……私達に官職を、本気で与えようという腹積もりだと……思うか?」


「違うだろうねー、貰っても困るし」


「だなあ。片田舎の警察長官なぞ任されたとて、勅使を打ち据える程度しか出来んぞ」


「勅使が全部、督郵みたいな人間だと思うのはやめた方が良いと思う」


 白米をかっ込む速度は尋常を遥かに超えているが、のんびりとした会話であった。

 書簡は数枚の組になっていて、仰々しい文章で任官式への出席を要求してきたのが、まず一枚。

 残り数枚に、どこの誰それにはどういう官職を与えるだの、その官はどういう権限を持ち、任地は何処であるだのと、あれこれ記されている。

 桜は、右手に箸、左手に書簡と行儀悪く構えて、任官表の中から、知った名前を探していた。


「……この、一番上に書かれている名、中大路とは誰だ」


「新しい兵部卿だってさ、政府のお偉いさんだよ。……顔は見てるじゃない、堀川卿に全部任せてた、本陣の」


 興味の無い人間を詳しく覚えていない桜は、暫く眉を寄せて、中大路とはどんな人間かを思い出そうとし――


「ああ、あの髭の?」


「あの髭の」


「……あいつ、本陣に籠っていただけではないか」


 思い出した桜は、なんとも気の抜けた顔になった。

 例えるなら、算術の難題を突きつけられた、寺子屋の子供のような顔と言おうか――何を何処から理解すれば良いのか分からぬという、そんな顔である。


「そういうもんなの」


 村雨は、その問題を深く考えず、自分も食事を続けながら、桜が持つ任官表を覗き込む。

 二人の知っている名は、あちこちに有った。だが、そのいずれもが重役でなく、名ばかりの小さな役職か、或いは体良く働かせる為の、下っ端に過ぎない官職か。

 名乗れば堂々と箔がつくような職には、二人がまるで知らぬ名前ばかり並ぶ。

 きっと、その中に並ぶ名前の誰一人、戦場で、前線に立ち、敵と斬り合ってはいないのだろう。

 冬の山城で寒さと飢えに耐え、味方が少しずつ減っていく恐怖に耐えながら、援軍を待ち続けた者とていないのだろう。

 そういう人間は――もう、要らぬのだ。


「……そうか。終わったのだなぁ」


「まあねえ。うちの師匠みたいな人ばっかり、お役人になってても困るしさ」


 『錆釘』の面々や、村雨の部下の亜人達は、それこそ肩書きと、一度の報奨金を得られるだけの名誉職を授けられるらしい。

 堀川卿だけが、上手く根回しでもしたものか、海外諸国を真似て制定された〝爵位〟なるものを授けられている。

 桜と村雨の名は、それぞれ全く切り離されて、任官表の真ん中の辺りに乗っていた。


「私達は、運が良かったのだな」


「……そうかもね。こんな古臭い戦なんか、この国はもう、やるつもりは無いんだろうから」


 その後、暫くの間、しんと静まり返った部屋の中で、二人は黙々と飯を食った。

 眠っていようが、起きていようが、生きているなら腹は減る。

 満足行くまで喰ってから、ようやく桜は、


「洛中の見納めだ。出向くとするか」


 小袖も袴も真っ黒の、平常と何も変わらぬ姿で、まるで散歩をするように歩き始める。

 荷は――愛用の刀達と、懐に入れた胴巻きくらいのもの。

 村雨もまた、平服に籠手だけを身につけて、殆ど身一つで『錆釘』の宿舎を出る。

 見送りに出て来る者も無い。

 出立の挨拶に回る事も無い。

 思いつきのように、ふらりと、行くのであった。






 任官式の場は、御所であった。

 日の本で最も尊い者が住む、神聖な場所。

 本来ならば、立ち入る許しを得る事さえ、市井の者には夢また夢の空間に、人間がすし詰めにされていた。

 無論、建物の中ではない。

 如何に許しを得て訪れた者とて、御所の庭に立つ事を許されても、本殿に上がるまで許されている者は僅か――加えて、本殿に押し込もうとすれば、手狭に過ぎる人数でもある。

 式の次第は、学の無い者にまで理解が及ぶよう、極めて単純化されていた。

 読み上げの男が居て、誰かの名を呼ぶ。

 呼ばれた者が、何をするでもなく、ただそれを聞く。

 また、誰かの名前が呼ばれる――そんな調子である。

 名を呼ばれた者が、其処にいようが、いるまいが、何が変わるでもない。

 名を呼ばれた者に、着任の意思が有ろうと無かろうと、それは後々に確かめれば良い事であり、この日は事情を斟酌されない。


「……なんともまあ、大雑把なやり方を」


 桜は、半ば呆れ、半ば面白がりながら、御所の庭をふらふらと歩いていた。

 ?き集められた者達も、ひとところで立ち続けるような、律儀な者はそう多くない。思い思いに歩き回り、見知った顔と集まって話し込んでいる。

 女としては長身の桜だが、これだけの人間がいると、背伸びをしても全体は見渡せない。時折、ちょんと小さく飛び跳ねては、見知った顔を探した。

 探して、見つけたとて、それでどうしようという考えも無い。ただ、知った顔が自分と同じように、退屈そうな表情で立っているのを見ると、なんとなく落ち着くのであった。

 桜の交友関係は、極めて狭い。

 江戸ではまだ、幾らかの人付き合いがあったが、それもひと月やふた月で生まれた関係では無い。

 元々、人とあまり馴染まぬ性質なのだろう。

 利害であったり、道であったり、そういうものが一致しない相手と、無条件で親しくなるという事が苦手なのだ。

 桜は、少し遠くに、松風 左馬を見つけた。

 左馬は、旅支度を済ませた格好で其処に居た。

 片手に持つのは、普段飲んでいるのより上等の、舶来の酒瓶。麦や稲の穂のような、艶やかな酒が、瓶に収まっている。


 ――少し、たかりにゆくか。


 その時、人の群れを掻き分けて行こうとした桜が、まだ数歩と行かぬ内、別な方向から、左前の前に、村雨が駆け寄っていた。

 人の群れの喧騒で、左馬と村雨の声は、桜の元まで届かなかったが――

 まず、村雨が、人の群れの中からにゅっと生えるように、左馬の前に現れたのが見えた。

 左馬は、あまり動じていない風を装っていたが、視界の外から村雨が現れた瞬間、軽く仰け反ったのを、桜は見逃さなかった。

 口の動きを見るに、村雨ばかりが長く喋って、左馬は二つか三つ、短い言葉を返しているだけのようだったが――


 ――おや、珍しい。


 亜人嫌いの左馬だと言うに、その顔が、少し楽しそうに、桜には見えたのだ。

 村雨が何か失言でもしたか、拳が村雨の頭に振り落とされ、痛みで村雨がしゃがみ込む。その隙に、左馬は、村雨に背を向けて、何処かへと歩き始めた。

 何処へ行くのか――走り寄り、呼び止めて聞こうかとも思ったが、止めた。

 珍しく、穏やかな笑みを浮かべている友人を邪魔したくないと――桜は、そう思ったのである。

 生きていれば、何処かで出くわす言葉もあるだろうと、そんなあっさりとした別れであった。

 村雨は、また人の波を掻き分けて動き回る。

 その間に、知った顔を幾つも見つけたようで、すれ違う度に手を挙げ、朗らかな笑みを振りまいている。

 楽しげであった。

 人と触れ合い、人と語らう事を楽しめるのが、村雨という生き物である。

 それを見ている桜は、知らず知らずの内に、自分の口元まで緩んでいた事に気付いた。


 ――私は、笑っていたのか。


 桜には、ちょっとした驚きであった。

 誰かが楽しんでいる姿を見ているだけで、自分が退屈であろうとも、手持ち無沙汰であろうとも、それだけで幸せであるなどと――自分がそんな、慎ましい人間だとは思っていなかったのだ。

 村雨といると、自分が幸福であるから、楽しい。そういうものだと思っていた。

 桜は、自分を弁えている。

 自分が善良な人間ではなく、法や道理より自分の感情を優先する、結局は身勝手な人間であると知っている。

 だから、自分が、自分の楽しみなどどうでも良いのだと達観している、その事に驚いたのだ。


 ――心が老いたか?


 僅か数ヶ月。

 されど、数ヶ月。

 戦は確かに、桜の心の在り方を変えたのだ。

 それが、老いと呼ぶものか、成長と呼ぶべきものかは定かでは無いが――桜は、物分りの良くなった自分を皮肉って、老いたと言葉を選んだのである。

 心の老いを自覚すると、不思議と桜は、体が軽くなったような心地になった。

 人の波を、誰にぶつかる事もなく、ゆるゆるとすり抜けて歩き、村雨を追う。

 村雨の足にはとても追いつけない、のんびりとした速度である。

 桜の視線の先で、村雨は沢山の人間と笑い合い、桜はたった一人、それを遠目で見て微笑み続けた。

 式の次第は進み、読み上げの男が、端の役人の名を呼び終えて、拍が付く程度の官位授与者の名を呼び始めた頃合いである。

 この辺りからはもう、桜の知っている名前など、殆ど出てこない。そろそろ村雨と合流するかと、足を速めようとした時――桜は、背後に誰かが立ったのを、気配で感じ取った。


「……ね、ね」


「おっ――」


 背後の声は、耳打ちをするような距離にまで近づいて来る。

 周囲から浮いて見えぬよう、自然な速さで振り向くと、そこには狭霧 蒼空が、町娘のような安布の振袖を着て立っていた。

 昼夜を問わず人目を惹く白髪は、頭からかぶった被衣かつぎで隠しているものの、あんまり当たり前のような顔をしてそこにいるので、桜も面食らった。


「お前、少しは隠れるという事をだな……」


 何せこの狭霧 蒼空、今はお尋ね者の身の上なのだ。

 二条城の戦の後、狭霧 和敬の首は、三条河原に晒された。

 誇張無しに並べられた無法の度合いでさえ、世に例を見ぬ大罪人よと、衆人が口極めて罵る中、当の本人の首だけは、不敵に笑ったまま、台座に乗せられていた。

 その左右に、他の誰かの首は無い。

 世が世なら、そして狭霧和敬に親族が居たのなら、和敬の首の隣には、ずらりと連座の打ち首が並んだ事であろう。

 狭霧和敬の親族は、公的には二人の娘のみ。

 その内の片方、姉の狭霧 紅野は、比叡山城にて大将を務めた事と、二条城決戦に於いては和敬の首級を挙げた事を手柄とし、罰せられはしなかった――が、任官表の中に、名前を載せてもいない。

 そして、妹の狭霧 蒼空は、和敬の命の侭に幾人をも斬ったと、これまた大罪人として賞金を掛けられていた。

 仮に蒼空を役人に差し出したのなら、その先十年は飢えを知らずに生きられるだろう大金である。

 差出す形が、体全てであるか、首だけであるかで、付けられる値は変わらない。

 つまり狭霧 蒼空は、捕えられれば直ぐにでも首が飛ぶ身の上であり、そうでありながら堂々と、白昼に御所にまで出向いているのだ。


「然し、なんだ……お前も、中々に大変だな」


「……?」


 桜の言葉の意図が分からぬのか、蒼空は首を傾げる――頭の上で、被衣が斜めに垂れた。


「これからどうするつもりだ。……先に行っておくが、逃げるというなら、この国の中はあまり勧めんぞ。西国から船に乗れば、その後はどうにでもなろう」


 孔雀が日の本の山中に居たら、何時までも隠れ潜んでは居られないのと同じだ。いかに蒼空の剣の腕が神域とて――或いは神域の技量があるからこそ――日の本の中で、隠れ潜んで生きて行く事は出来ぬだろうと、桜は感じていた。

 翻って海の外に目を向ければ、日の本なぞ、ちっぽけな小石にしか見えぬ程、広い世界が広がっている。

 そこへ行けと、桜は言うのである。


「案外な、剣の他に芸の無い身だろうが、その日の飯くらいはどうにでもなるものだ。私も昔は、山賊崩れから剥ぎ取った数打ち一振りを手に、あちらこちらと廻ったものだったが――お前の腕なら、そこは私より楽だろう」


「………………」


「まあ、三年か、五年か、そんなものだろうな。それですっかり世の中が、お前という人間を忘れる。その頃には、戻って来るか、戻って来なくても良いかも決まっているだろうて」


 まるで、寒村から江戸へ出稼ぎに行けと言うような口振りであったが、桜が蒼空を押し出そうとするのは、世界に対してである。

 蒼空は、首を傾げ続けるばかりであった。

 そもそも狭霧 蒼空という人間の世界は、洛中とその周辺ばかりなのだ。

 全く実感が湧かない――海の外へ出る自分、西国へ向かう自分が、想像もつかない。いつも通りの、浮世離れしたぼんやり顔のまま、首を斜めに傾けて固定してしまった。


「……難しいか?」


「ん」


 この問いには、いやにはっきりと答えつつ、蒼空は首を縦に振る。桜は思わず、両肩をがくんと落としてしまった。

 うなだれながらも、桜は笑う他にする事を選べなかった。

 狭霧 蒼空は、奇跡のように無垢な人殺しだ。

 この日の本で、おそらくは誰よりも優れた剣の技を持ち、幾百人と斬り殺してきた経験を持ちながら、心根は幼い子供――ものを知らず、理を知らず、だからこそ穢れも無い。

 案外、どうとでもなるのかも知れない。

 風に背中を押されるまま歩いていった先で、水の流れを追い掛けて走った先で、なんとなく気の向いたからと出向いた先で、どうにかこうにか、出会う物事を通り過ぎていけるのかも知れない。

 起用にやり過ごすのではなく、狭霧 蒼空そのもののまま、猫のような気紛れさで、引くも超えるも自由に生きる、そういう姿を桜は思い描いた――

 いや、見たくなったのだ。

 狭霧 蒼空が育ち、無双の剣技はそのままに、見事に人と成った姿を、桜は見てみたくてたまらなかった。


「――ふふっ」


 小さく、短い笑い声。

 やけに楽しそうな、心を惹く声だった。

 桜は、はっとした顔になって、蒼空を見ようとした。

 蒼空は、人の波の中をするすると、遥かに遠く先――任官式の読み上げ係の方へ歩いていく所だった。

 あまり大きくない体は、人の群れの中で消えそうにも見えたが、足取りに淀みは無い。

 

「おい――」


 何処へ行く、と、問おうとした。

 その声を聞くより先、蒼空は、桜の視界から消えるほどの速度を以て、人の群れを置き去りにし――


 ふわっ


 と、空を歩くように跳んで、集められた大勢の前に、被衣を捨てた姿を現した。

 眩い春の空の下に、真っ白の長い髪を――言葉より尚も明確な名乗りを叫んで。

 沈黙――

 そして、どよめく。

 誰かが、蒼空を指差して、名を叫んだ。

 その声に押されたように、蒼空は抜刀した。


「待っ――」


 読み上げ係の男は、命乞いの言葉を発しようとしたが、それより先に蒼空の刀は、男を全く傷つけぬままで、任官表をばらばらに切裂いていた。

 それから、また跳んだ。

 既に警備の兵士達が、蒼空を捕えようと集まり始めているところであったが、蒼空は敢えて、彼等へ向かって跳んだのである。

 槍が、さすまたが、蒼空へと突き出される。

 その全てを蒼空は、体に届く寸前で斬り落とした。

 切断された槍の穂先が落下し、地に触れるより先、兵士達の鎧だけを切り壊して蒼空は駆け抜ける。

 誰も、傷を受けてはいない――そうする必要など無いからだ。

 狭霧 蒼空は、圧倒的に強かった。

 御所の警護の兵は、次から次に繰り出される。

 任官式の為に集まった者達からも、何十人か、賞金首を捕えてやろうと欲を出す者が出る。

 蒼空を狙う人間が、狭い空間に何百人も集まって――

 蒼空はそれを、くるりと爪先立ちで回りながら、見た。

 数百の敵意を向けられながら、蒼空は子供のような顔をしたままで、


「もーいいよー」


 子供のように、声を張り上げた。

 大人になれば、もう声に出す事は無いだろう、懐かしい響きを――これから始まる遊びに胸躍らせながら、なんとも楽しげに、蒼空は言うのだ。

 それから蒼空は、平野を行くが如き気軽さで、御所の塀を飛び越えた。

 御所の南、開けた太い通りに降り立った蒼空はもう一度、高く声を張る。


「もーいいよー」


 すると、応じるように、蒼空の正面から声が返った。


「もーいいかーい」


 その声の主を見て、蒼空は眠たげな目を輝かせ、小躍りするように彼女に飛び付き、抱き締めた。

 抱き締められた少女は、物騒な得物を掴んだままの腕で、軽く蒼空を抱き締め返すと、


「もう、いいよな」


 煙草の匂いの息を思い切り吐いてから、蒼空と同じ顔をして、問うた。

 狭霧 紅野。

 蒼空の、双子の姉。

 それが、白絹を基調とした戦装束に身を包み、大鉞と大鋸を――あの日の戦場で得た得物をそのまま――携えて、待っていた。


「うん……もう、いいよ」


「そっか」


 同じ顔をした二人は、並んで歩き始めた。

 ゆっくりと、ゆったりと――まるで今日が、なんでもない日であるように。

 もし、明日も明後日も同じ日が来ると知っているなら、今日を急ぐ必要など無いと――彼女達の速度は、そう言っているようだった。

 無論、それは夢だ。

 彼女達にとって〝今日〟は、待ち望んだ日なのだから。

 御所から方々へ早馬が走り、援軍を呼ぼうとする――それを二人は、敢えて見逃した。

 御所の中の兵士や賞金稼ぎは、もうすぐにでも塀を乗り越え、二人に刃を向けるだろう。

 その全てを、二人は望んでいる。


「じゃ、行くかぁ」


「うんっ!」


 二人は、遊びに出かける。

 最期にたった一度、これから、全力で遊ぶのだ。

 それはどんなにか幸せな事だろう――その予感だけで二人は、誰よりも眩く笑い合った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ