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御旗のお話(5)

 ボロ布を突き破って、枯れ枝が飛び出している。そんな風にも見えただろう。

 だが、そのボロ布には目玉が有るし、裂け目からはだらりと舌も垂れ下がり、舌を伝って血がこぼれ落ちている。

 薄汚れて痩せこけた体とは言え、それを力強く運んでいた四肢も、今は振り子のように揺れるばかり。

 首と前足のへし折れた、子犬の亡骸。

 それを狭霧蒼空は、右手に掴んでいた。


「な――」


 手で押さえた口から、村雨は呻き声を零した。


「何言ってるの、あなた」


 丁度、嘔吐を堪えて喉に登る呻きと、喉が引きつって発する裏声の混ざったような響きであった。


「壊れた」


 その声も、声の裏にある村雨の感情も全く斟酌せず、蒼空は子犬の亡骸を、村雨の手に押し付ける。

 邪気の無い瞳だ。

 自分の行為に後ろめたさを感じていない人間だけが見せる、澄み切った目であった。


「無理に決まってるでしょっ……!?」


 亡骸を奪うように抱いた村雨は、自分の腕の中の小さな肉塊が、とうに冷え切っている事を感じていた。

 尤も、触れずとも既に、鋭敏な鼻が、ほんの僅かに漂い始めた死の香りを嗅ぎつけている。

 こうなった生き物は、二度と、呼吸をする事はない。

 遡及はならぬ現実がそこに有る。


「…………?」


 蒼空は、目の光を変えないままで首を傾げた。そして、部屋が暗いから〝荷〟が見えていないとでも思ったか、村雨に近づき

顔の高さまで〝それ〟を持ち上げた。


「〝その子〟は、どうしたの」


「動かない……これ、変」


「何処から、何で連れてきた!?」


 村雨は、人の姿のまま、獣の如き響きを伴って吠えた。

 理性が有るものならば、幾許かの怖気を呼ぶ、天性の捕食者の声――ともすれば敵意とさえ取られてもおかしくはない、凶暴な声であった。

 だが、激昂と言うには、鋭さが足りないかも知れない。むしろ癇癪だとか、悲鳴に近い叫びでもある。

 それは、わけがわからぬものに相対した獣が、尾を腹に巻き込みながら牙を剥き出す構図に似ていた。


「……っ」


 そして、その時に初めて、蒼空の表情は強張った。

 自分が何をしたのかは、未だに分かっていないだろう。だが――戦場での敵意とは別種の、〝なにかよくないもの〟を感じ取ったのだ。

 いいや――更に言うなら、蒼空は怯えていた。

 自分が知らぬ感情が、目の前で轟々と燃えている――それが恐ろしくなったのだ。


「……ぁ、え、っと……」


 蒼空は、村雨を正面に置いたまま、後ずさりして部屋を出て行こうとする。

 一歩、行く。

 すると村雨が、それを追った。

 また逃げるように一歩

 追いかけて一歩。

 次第にその両輪が早回しになって――た、たん、たんっ、と小気味良い音を鳴らし始める。


「ぅ、うーっ……!」


 何時しか蒼空は、村雨に背を向けて走り始めていた。そして村雨は、その蒼空を、子犬の亡骸を抱いたままで追いかけていた。

 その何れもが尋常ならざる健脚である。雹が降り注いだが如くけたたましい音が廊下に響き、忽ちに遠ざかって聞こえなくなった。

 余韻が失せれば、重苦しい静寂ばかりが其処に有る。

 軽口で紛らわすには、あまりに――


 ――あまりに、〝なんだ〟?


 わからぬ。

 今の光景はなんであったのか――それが、取り残された者達の思いであった。

 起こった出来事を言葉にしてみれば、〝物を知らぬ子供が子犬を殺した〟というだけだ。

 悲劇ではあろう。幼稚が故と、非難も容易かろう。

 だが、そういう事では無いのだ。


「……ひっでえ」


 蛇上が、ぽつりと、腹に溜めた息を細く吐きながら零した。

 誰も、肯定も否定もしなかった。それ以外に形容する言葉を持ち合わせなかったからだ。

 たった今、目撃した光景が、己の腹中に生んだ思い――それを正しく言葉に出来ず、彼らは沈黙を続けた。


「酷いとは、あの娘が、か」


 その静けさを破って、嫌悪感に満ちた声を鳴らしたのは、〝男〟であった。






 夕刻の街を、二つの影が馳せてゆく。

 人の姿をしながら、その二つは、人の域を明らかに超えた速度であった。

 先を行くのは狭霧 蒼空、それを追うのが村雨である。

 夜が近づいたとは言え、未だに人が多く出歩いている洛中を、南西に突っ切る二人――


「はっ、はぁっ……!」


 その内、肩で息をするのは、村雨だけであった。

 走ろうと思えば、一夜中を走り続ける事さえ叶う健脚の村雨である。だが今は、蒼空を見失わぬように追うのがやっとなのだ。

 速い。

 人の隙間を抜けて行きながら、その速度は一時たりと緩む事が無い。

 動きの方向を変える時、生物は必ず、一方向の運動に於いては減速を必要とする。例えば突き出した拳を引き戻す瞬間、例えば左にやった手を右へ払う瞬間は、それまでに動いていた向きと、別な方向へ加速を行わねばならぬのだ。

 いや――これはもはや、生物に限らず、物体全てに適用される法則である。

 その世界の中でたった一人、狭霧 蒼空だけが、加減速の過程を省略している。

 眼前に障害物が現れた時、蒼空は、その直前で瞬時に静止する。そして、静止したと認識が及ぶより先、真横へ一歩だけ走り、再び静止。正面へまた走り出すのだ。

 人の隙間を縫うように、減速と方向転換を繰り返す度、村雨は少しずつ、蒼空に引き離されて行く。

 然し恐るべきは、それ程の絶技を為して尚、蒼空には余力が有るという事だった。

 蒼空はただ、目的地へ村雨を誘導しているだけだ。何かから逃げている訳でも、何かと戦っている訳でもない――全力を尽くす理由が無い。その蒼空に、渾身の力を振り絞る村雨でさえが追い付けぬのだ。


 ――これには、絶対に届かない。


 村雨は、直感的にそう悟った。

 投げ上げた石が落ちるように、鉛が水に沈むように、それは当然の事と、村雨には認識された。

 或いは、ただ真っ直ぐに走るだけであれば、何時かは追い付けるようになるのかも知れない。

 だが、世界の法則を裏切った方向転換だけは、生涯を賭しても得られる筈が無いのだ、と。

 生物が心身を鍛え上げる事で到達する領域と、一線を画した天上の技――それが蒼空の疾走であるのだ。


 ――届かないなら、せめて。


 村雨は跳び、家屋の屋根に乗り、足場とした。

 これならば、人を避けて右往左往する必要は無い。ただ真っ直ぐ走り、隣家に飛び移れば良いだけの事だ。

 地を行く蒼空と、高所を行く村雨。

 追い付けぬまでも見失わぬように走り続けて――やがて、洛中では些か、賑わいの少ない所へと辿り着いた。

 少し南に歩けば、直ぐに茂みや川の支流の有るような、街の外れ。蒼空はそこで、ようやく立ち止まった。


「ひー……ちょ、いきなり走って、なんなの――」


 それに遅れる事、数十ばかり数えてか、村雨が息を切らしながら追い付く。

 額から目にかかる汗を拭い、空を仰いで、呼吸を整えようと息を吸い――


「――……!」


 嗅ぎ取ったのは鉄の臭い。

 然しそれ以上に鋭く、敵意を――殺気を村雨は感じ取った。

 あまりにあけすけに、方々へ撒き散らすような強い感情――咄嗟に身構えた村雨を、然しその殺気は素通りした。


「う、わああああ、あああああぁっ!」


 決死の叫びと共に物陰から、蒼空へ向けて走り出したのは、三人の子供だった。

 彼等は手に手に、何処から見つけてきたものか、刃も半ば錆びた短刀を握って――それを振り翳し、蒼空へと迫るのだ。

 あまりに、遅い。

 子供の脚でもあるし、距離も開き過ぎていた。何より――相手が、狭霧 蒼空であった。

 蒼空は、彼等が自分に近づいてくる間、じっと留まって、彼等の顔を見ていた。

 見慣れた顔――敵意が、憎悪がそこに在った。


「――――――」


 一時、蒼空は困惑した。

 彼等は確か、自分に笑顔を向けた者達であった筈なのだ。

 同じ顔、同じ体型、動作の特徴も同じ。だのに表情が変わっただけで、蒼空へ与える印象はまるで異なる。

 笑顔を見せていた時の彼等は、蒼空にとって、〝言い知れぬ幸福感を与えるもの〟だった。

 だが、今の、蒼空が見なれた顔をしている彼等は――


「……むぅ」


 〝要らないもの〟であった。

 己の異能を振るうまでもない。ゆったりと腰の刀に手をやり、蒼空は三人の子供を――その先頭に立つ、最年長の一人を迎えるべく、踏み出した。

 怒りに顔を歪ませた彼が、叫びと共に突き出した刃は――あまりに、あまりに遅い。

 その軌道をしかと目で追った蒼空の、左手の指が、鯉口を切った。


「馬鹿っ!」


 その時、村雨が、蒼空の右手を抑えつつ、子供を突き飛ばすように、二人の間に飛び込んだ。

 咄嗟の事ゆえに加減をしくじったか、子供が三尺も後ろにつっ転ぶ勢いであったが、その様を村雨は見届けていない。

 村雨は、背後に子供達を置き、蒼空と正対するように飛び込んだのだ。


「なにやってんの、この馬鹿っ!」


 それは、或いは双方に、全く同時に掛けられた言葉であったのだろう。

 勝てる筈も無い相手に刃を向けた、その愚。

 振るうまでも無い相手に刃を振るおうとした、その愚。

 何れをも村雨は、大喝した。

 胸に抱いていた子犬の亡骸は、数間離れた草の上に横たえられている。


「た――たろ! たろっ!」


 尤も年少の子が、短刀を投げ捨て、その骸に駆け寄り、掻き抱いて慟哭する。

 嘆きの強さは、まるで肉親を失ったかの如くであったが――きっと、そうなのだろうと、村雨は思った。

 彼等の素性は知らぬし、何があったかの仔細も知らぬ。

 だが、三人の衣服のみすぼらしい事が、安穏とした生き方を許されぬ身であると語る。

 そういう彼等にとって、きっとあの子犬は、肉親と同様であったのだ。


「何をしたの、蒼空」


 村雨は、敢えて蒼空の名を呼んだ。


「……遊ぼうとしたら、噛もうとした。驚いて叩いたら、ちょっと壊れて……」


 こんな風に、と言いながら、蒼空は幾度か、左の平手で空を切る真似をして――


「それでも、まだ噛もうとするから……こうした」


 右手を一度、虫を叩き潰すかのように、上から下へと振り下ろした。

 獣の命に貴賤は無いと、そう説く者も居るが――実際に、虫を殺すのと獣を殺すのと、同じように出来はしない。犬猫を蹴り飛ばす事も躊躇う善人が、腕に止まる蚊を、眉一つ動かさずに殺す事も有る。

 その時の蒼空の目は、丁度、そういう顔――目の前の存在に価値を見出さず、己へ不利益を与えるものを、無感動に損壊する人間の目であった。


「壊したら、駄目そうだった、から……直してもらおうと思った。……けど、もういい。それ、もう直さなくていい、要らない」


「う、ううっ……! ぐううっ……!」


 子供達は、再び刃を向けようとはしないながら、怒りに打ち震え、涙を流しながら歯軋りをした。

 家族同様に愛したものを、例え子犬であろうと、殺された。全く価値のないものであるように、引っ叩いて殺されたのだ。

 それも、何処までも無理解のままに。

 蒼空は子犬の〝命〟が奪われた事さえ、或いは気付いていないのかも知れない。

 彼女にとっては、うっかり玩具を壊してしまい、今となってはその玩具の未練も消えたと、それだけの事だ。それだけの事だと伝わってしまうから、子供達は皆、奥歯も軋む程に泣き、悔しがるのだ。


「……蒼空、あんたは」


 然し――彼等の怒りを吹き消す程、瞬間的に吹き荒れたのは、それ以上の怒気。


「あんたは……頭沸いてんのかぁっ!!」


「――っ!」


 腰程の高さから、殆ど垂直に顎を打ち上げんとする、奇怪な軌道の拳が奔った。

 村雨の、不意を突く奇拳の一つである。

 下手な武道家なら顎を割られるこの拳を、蒼空は身を仰け反らせ、拳をやり過ごす。

 村雨の拳を、蒼空は目で追った。

 高く天頂目掛け振り上げられる、丸く固められた拳――殴りつけられれば、さぞや痛いだろう。

 そういう武器を、自分に振るったという事は、つまり目の前に居るのは敵なのだ。蒼空は、そう認識して――分からなくなり始めた。

 自分へにこにこと愛想の良い顔を向けていた者が、何と分からぬうちに、次々に敵へと変わって行くのである。

 燕の羽ばたきよりも鋭利に、空気との擦過音ばかり残して、村雨は拳を引く。

 一発は感傷に任せて振るった拳だが、その後は腰の右側に、刀の鞘に見立てたが如く置かれている。

 何時でも抜ける形――敵意は緩んでいない。

 何故?

 蒼空にはそれが分からなかった。


「う……」


 四つ、敵。敵で無かった筈のもの。

 その目が――目玉八つが、蒼空を睨め付けている。

 我の一挙手一投足、見逃すまいと、敵意と共に注がれる視線は、今の蒼空には、実体の刃より尚も――


「なんで……そんな顔するの」


 悍ましいやら、


「なんで、怒るの……っ」


 恐ろしいやら、


「だから直してって、直してって言ったのにぃっ!!」


 然し何よりも、悲しく突き刺さった。

 蒼空は村雨へ、己が持ち得る最大の――戦場に於いてのみ解放する最大速度を以って、飛び掛かっていた。

 迎撃は、左掌。

 蒼空の右肩にそれは触れたが、その衝撃も妨げとならず、蒼空は村雨の懐へ――〝徒手〟で、飛び込んでいた。


「っ、ぐうっ!?」


 体当たりの衝撃で、村雨と蒼空は、縺れ合いながら草地に倒れ込む。

 受け身を取った村雨の腹の上に、蒼空が跨って、右手を拳骨に作っていた。


「うううぅっ!」


 その拳を、癇癪に任せ力一杯、蒼空は村雨の頭目掛けて振り落とした。


「おわっ!?」


 上を取られているとは言え、起き上がれぬような工夫も無ければ、拳とて児戯の如く、大きく弧を描いて振り下ろされる。

 然し、速度だけは尋常でないのだ。

 初動を見る前に、恐らく狙われるだろう箇所を防ぐ――勘に任せて村雨は、まず初段を肘で受けた。

 ごきっ、と、鈍い音がした。


「あっ、ぁ――ぁあ、う、ううっ……!」


 村雨の肘ではない。蒼空の、握りの甘い拳からである。

 人を殴るにも技量は要求される――なまじ速度に長けるが為、却って手に戻る衝撃も大きかったのだ。

 その痛みも合わさって、尚更に蒼空の顔が歪み、また村雨は、隙を見逃さずに上体を起こすと、蒼空にぴたりと体を貼り付けるようにしながら、器用に体勢の上下を入れ替えた。

 蒼空の両脚に、村雨の胴が挟まれている――これで相手が松風左馬だとか、そうでなくとも柔術の心得が有るものならば、村雨も胆を冷やそうものだが、相手は大きな童であった。


「……っ!? 痛、ちょっ、痛い、いたぁっ!?」


「うーっ、ううううぅっ! あー!」


 言葉も無くして泣き喚きながら、なんと蒼空は、村雨の髪を右手で掴みながら、顔に左手の爪を立てたのである。

 まだこれならば、殴られる方がやりやすいというものだ。

 顔へ伸びてくる手を払い、手首を掴んで抑えながら、頭で蒼空の胸を押し込むようにして、大暴れする童子から逃れようとする。

 爪が届かねば平手打ちに、足をばたつかせて靴をぶつけても見たり、正しく握られぬままの拳で、肩やら背中やらを構わず打ったり――その何れも、村雨を揺るがすに足るものでは無いのだが、煩わしいし、痛い。


「ぐぐ……いーかげんにしろーっ!!」


 仕返しと、村雨も拳でなく平手を作って、思い切り蒼空の頬目掛けて振り抜いた。

 普段なら決して命中せぬ一打であろうが、涙で視界も定かでない蒼空は、避ける事もままならず、すぱんと小気味良い音が響く。


「ひっ、ひぐ――ぅあああああ、あああああああぁあん!!!」


 そうすれば、より喧しく、蒼空が泣く。

 いよいよ少女二人の取っ組み合いは、幼児が玩具でも取り合うかの如き様相を呈し始めて――


 ずしん。


 と、その時に音が鳴った。


「――あれ」


 村雨の周囲が、突然に暗くなる。

 元より日は傾いていたが、それで山際から差し込んでいた光を、更に遮った者があるのだ。

 それは、村雨の背後に居た。

 というより、背後にそびえ立った、とする方が適当であろう。

 臭いを探るより、振り向くより、その影の長さを見る事が、それが何であるかを知る最良の術であった。

 だが、村雨が悟るより一寸早く、巨大な拳が二つ、ぬうと持ち上がり、

 ごっ、と蒼空の頭に。

 ごずんっ、と村雨の頭に、それぞれ落ちたのであった。


「何をしているかっ!!!」


 寺の鐘もかくやという大音声は、一丈二尺八寸の巨体より発せられたもの。

 波之大江三鬼が、少女二人に拳骨を落とし、怒鳴り付けたのであった。

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