死戦(4)
高虎眼魔なる老人を前にして、冴威牙は静かに、獲物の品定めを始めた。
眼光、強靭。
戦を愉しむ狂気も、老獪さも同時に宿した眼だ。
獣というより、人として良く仕上がった化け物の一匹――それが冴威牙の見立てであった。
「大将首はもっと老けた顔と聞いておったが、本当におのれか?」
「今日はな。そういうてめぇこそ、大概老けてんじゃねえの……それだけ生きたら悔いはねえよなぁ?」
「言うてくれるわ、わっぱ」
雪の上を草鞋と足袋で歩く高虎は、右手を胸の前に浮かせたままで、じりじりと冴威牙に迫る。
間合いは――腕や脚より長い事は確かだ。
刀を抜く迄は、その正確な長さは分からない。一寸を争う近接戦闘に於いて、間合いは勝敗を分ける重要な要素である。
抜く手も見せぬ高虎の居合は、それを欺き惑わせる。
じゃっ。
と、高虎が踏み込んだ。それに合わせて冴威牙は、両手足を雪に付け、後方へ一間も跳ね退く。
「臆病者め」
「賢いと褒めてくれよ、じいさん」
軽口を叩き合って、それから殺し合いが始まった。
ざうっ、と高虎が踏み込めば、合わせて冴威牙が後方へ飛び退く。間合いは一間以上埋まらず、傍目に見れば、追う高虎と逃げる冴威牙で、膠着が続いているようだ。
然し、冴威牙には〝見えて〟いる。
踏み込む毎に高虎は、冴威牙の首目掛けて居合を放っている。
目にも留まらぬ、どころではない。常人の目には、影さえ映さぬ剣速である。刀を抜き、振るい、納め、右手がまた胸の前に戻るまで、並の剣客では反応も儘ならぬだろう。
冴威牙とて、まだ間合いを図りかねている。
迂闊に手足を出せば、それを切り落とされる。鎧は身につけているが、然程の役には立つまい。
牽制、ものは試しと、冴威牙は歩幅も狭く踏み込み、左の爪先で、高虎の脛を狙う蹴りを放った。
膝から下を鞭のように振るう、挙動は小さいが重い蹴り――然し之が、空中で引き戻される。やはり常人には見えぬ速度だが、高虎の刀が、冴威牙の脚を切り落とさんと抜かれていたのである。
「ちっ!」
「遅い、遅いわっ!」
――近付けない。
冴威牙は歯噛みをしながらも、追われ、逃げ回るばかりである。
技量の高低も有るだろうが、絶望的に戦術の相性が悪い組み合わせであった。攻防何れを取っても、刃と四肢をぶつける形になってしまうのだ。
ざうっ、と、夜に刀が鳴る。
尾を引く光に触れたなら、その時には首は落ちている。
捕まらぬように、届かぬように、冴威牙は只管に後方へと逃れ続けた。
「ふん、大将首と名乗る割には、対した度胸の持ち主じゃのう! 何処まで逃げる、唐まで行くか、和蘭にでも行くか!」
「………………」
「老い先短い爺に怯えて尾を丸めるとは、赤犬は味以外にとんと強みが無いと見えるのう!」
高虎は罵倒を繰り返しながら、逃げる冴威牙を追って行く。おおよそ老人とは思えぬ健脚は、冴威牙の懐まで入りはせずとも、引き剥がされもしない。付かず離れずを保ったままだ。
「何やってんだ、隊長! みっともねえぞ!」
「普段デカい口叩いてんのはなんなんだよ!」
自分の上官が追われているというのに、赤心隊の面々は、助けに入るどころか野次を飛ばすばかりである。彼らにとって、主従の絆などという綺麗なものは、そも存在さえ知らぬものなのだ。
何処までも、高虎は冴威牙を追った。
踏み込み、刀を振るった。
刀は何時しか、舞い上がる雪に濡れ、本来の白銀より尚も鮮やかに、夜闇に光を撒き散らす。
それを冴威牙が避け、或いは具足の曲面を合わせて受け流し、防ぎ続けるのを、紫漣はじっと見守っていた。
「――見えた」
戦う二人が移動するのを、空に羽ばたきながら追いかけ――だが紫漣は、遂に戦いへ介入はしなかった。
代わりにたった一言、冴威牙の勝ちが定まったと告げて、付かず離れず追い続ける。
雪降り積もる斜面を駆け降る冴威牙は、未だに息を切らす様子も見せなかった。
「ぬぐっ……どういう事だ、どういう采配だ!?」
比叡城壁・西門の正面。精兵部隊の副将を務める八重垣久長は、己の理解が及ばぬ戦場に、苦悶の唸りを上げていた。
雪中を、足を取られながらも駆け回る伝令が届けてくる報告が、何れも芳しくないものばかりなのだ。
既に東側、南側に布陣した部隊が、城壁から大きく後退し、山の中程で待機しているという。現状で戦闘を継続しているのは、西門を攻める自分達、波之大江三鬼率いる部隊のみだというのだ。
有り得ぬ。そう呟いて八重垣は地団駄を踏む。
どれ程の精兵を集めようが、五百数十で比叡は落とせぬ。多方面での同時攻撃によって敵を振り回し、急所を炙り出さねばならない。だのに現状では、西門以外は完全に開けてしまっているのだ。
比叡山の兵力は如何ばかりか。二千の住人の内、体の動く者に無理に武器を持たせて、千以上は確保しているだろう。
雪に脚を取られ、平野に立つ五百。
城壁の上から、弓や銃を構える千。
何れが有利で何れが不利か、幼子の目にも明白である。
「伝令を飛ばせ! 冴威牙殿を問い質し、一刻も早く全軍を動かすのだ! このままでは我等は見殺しも同然ぞ!」
左手の爪を噛みながら、八重垣は幾度も幾度も伝令を放つ――最初に放った伝令が戻る前に、もう四度も兵を走らせている。
八重垣は、有能な男である。然し有能であったが故に、己の思うようにならぬ局面を知らない。
よもやこの戦の総大将が、敢えて兵を後方に下げた挙句、敵の老将と一騎打ちに勤しんでいるなど予想も付かぬ事である。何故味方が動かぬのか、その問いばかりが頭を埋め、八重垣は身動きが取れなくなっていた。
弓兵が、弩兵が、矢を城壁目掛けて打ち上げている。低地から高みへ、それも暗い城壁の上へ打ち上げる矢は、どうしても正確性を欠く。
一方で城壁の上からも、矢はざあざあと降り注ぐ。後方の森を焼く炎が灯りとなり、白い衣の白槍隊は、月の薄い夜にも良く映える。
兵の練度では大きく勝りながらも、撃ち合いでは勝てぬ。ならば後は、城壁を打ち破り、正面から城内へと突入するばかりなのだが――
「ああ、三鬼殿……! そのように殺し合いを愉しまれては、我等は気が気でなりませぬぞっ……!」
その城門の前に、雪月桜が立っている。そして八重垣の上官たる波之大江三鬼は、それと一騎討ちを――恐らくは日の本で最高峰の一騎討ちを繰り広げていた。
それを例えるなら、二つの暴風であった。
城門の前で、矢も押し流される程の風が吹き荒れているのである。
鬼の首を狙って振るわれる刀が、雪を遥か上空まで撒き上げる。
八咫の頭蓋を叩き割らんと振り下ろされる大鉞が、雪の下で氷塊と化した地面を粉砕し、跳ねあげる。
そして得物二つが衝突すれば、微細な塵が摩擦熱で燃え、瞬間的には狂獣二頭を照らす灯りとなる。
「ぬぅおおおおおおぉっ!!」
「かあああああああぁっ!!」
三鬼と桜は、破顔しながら殺し合っていた。
何れも致命の一撃を、全力で敵へ向けながら、其処に憎しみは一片も無いのだ。
有るとすれば義務感――この敵は殺さねばならないと、それだけ。だのに二人は、戦いを心から愉しんでいる。
大鉞が横薙ぎに、桜の胴を両断せんと振るわれる。三鬼の周囲、半径二間に割り込むものは、例えそれが兵士十人であったとしても、全て一撃で鎧ごと引き潰されるであろう。
それを桜は、刀と脇差の二振りを以て、敢えて正面から受け止める。
衝撃で弾かれた体勢を、雪を蹴り付けて強引に立て直し、低く馳せて鬼の懐へ踏み込んで行く。
二刀の斬撃。大腿を狙う太刀筋。
大鉞の柄が、二刀を纏めて弾く――いや、完全に弾いてはいない。
あと僅かで指から刀が抜けるという刹那、桜は上体を捻り、衝撃をいなしながら、更に三鬼へと接近した。
迎撃は、膝。家屋の天井をも突き上げる、打点の高い膝蹴り。
前腕を盾に、更に前へ――防いだ腕毎、桜の体が浮いた。
「ふんっ!」
好機。
三鬼は、浮きあがった桜の体目掛け、大鉞を振るった。大雑把に狙いを付けて、力に全てを注いだ一撃であった。
何処に当たろうが切断できる。この鬼にとっては〝当てる〟事だけが肝心で、〝何処へ〟というのは些細な問題であった。
人の上半身程もある巨大な刃は、空中、逃れる術も無い桜目掛けて迫り――
ぴたり、と。桜は刃に張り付いたように、三鬼の力で振り回された。
「おっ――」
「おお、危ない危ない」
真剣白羽取り、なる技がある。振り下ろされる刃を、両の掌で挟み止めるというものだ。
桜はそれを、両腕を交差させ、拳二つで実行した。両手の甲で刃を挟み、己の体と刃の間に距離を固定したのだ。
三鬼が振るった大鉞は、城門が軋む程の突風を生みながら、正面から背面まで振り抜かれた。そして桜は、刃を拳で挟んだまま――大鉞と共に、三鬼の背後へ回っていたのである。
「――ふっ」
短く息を吸って、その内の半分だけを吐く。最も力を込めて、長く動ける状態になる。
そして――一歩。鬼の間合いから、己の間合いへと踏み込む。
斬。
三鬼が振り向くより先、桜の振るう二刀は、その背に縦に、二条の剣閃を走らせた。
分厚い鎧を引き裂いたというに、名刀二振りは何れも悲鳴を上げず、全く無音の侭に刃は通り抜け、赤々とした血を飛び散らせた。
「ぐおおっ……!」
苦痛に呻きながらも、三鬼は大鉞を横薙ぎに振り回し、桜との距離を開けようとする。
然し、いかな鬼の剛力であろうと、深手を負っていては桜の敵と成り得ない。鉞の柄は、脇差の峰に抑え込まれる。
そして太刀が振り上げられる。
完全に振り向き切っていない三鬼の横顔目掛け、頭蓋から足まで切り開かんばかりの、高速無比の斬撃が迫る。
鬼は目を瞑らない。己の死を察しながら、然し死の瞬間までを睨みつけんと、巨大な目を更に見開いて――
ざしゅっ、
と、血は吹き上がった。だがそれは、波之大江三鬼のものではなかった。
その血は〝大聖女〟エリザベートの頭蓋から、雪を染めるものであった。
「お――っ!?」
咄嗟に桜は刀を引き、転げるようにして後退した。一方で三鬼は、背の傷を庇いながらも立ち上がり、エリザベートの前に立とうとする。常人に倍する巨躯を、然しエリザベートは片手で押し留めて微笑んだ。
桜の渾身の斬撃で断ち割られた筈の頭蓋は、既に癒着し、一滴の血さえも零さなかった。
「良いのです、任せなさい」
すぅ、と音を立てて、エリザベートは息を吸った。
無防備。
目を閉じ、身を反らせ、あまりにも無防備な姿。
見逃す桜では無い――飛び掛かり、超絶の技巧を尽くし、存分に二刀を振るう。
腹から入り、背へ抜ける両断の斬。
眼窩を刺し、内側から頭蓋を切り開く斬。
肩から心臓へ、腹から股下へ、頭頂から胸へ――一切の加減斟酌無く、必殺の斬撃が振るわれる。
だが、倒れない。
エリザベートは無抵抗に斬られるまま、斬られた端からその体は瞬時に修復され、何ごとも無いかのように――
「城内の将に問いたい! 狭霧紅野、そこにいるのですか!」
さして大きくも無い体から、戦場を揺らす程の声量を響かせた。
応える声は――無い。代わりとして、無数の銃声が轟く。比叡山軍が切り札として温存していた兵器が、十数丁、一斉に火を噴いたのである。
鉛玉がエリザベートの体を、脳天を貫く。その銃弾は、体に穿たれた孔からそのまま排出され、そしてすぐさま傷は埋められて消える。
本当にこの女は、死なないのだ。
一人を殺すには過剰な戦力を以て証明された事実に、〝両軍〟がどよめいた。銃弾を放った比叡山軍のみならず、その様を見ているだけであった政府軍までも、である。
こんな生き物が居る筈が無い。弾が届かない、刃が届かないならまだ理解も出来よう。だがこの女は、間違いなく殺されているというのに死なない。まるで死ぬ気配を見せない。
エリザベートは、戦場用に誂えたものか、普段より幾分か酷薄で、然し生来の人の良さを隠せぬ程度には柔らかい微笑を浮かべ、城壁の上を見る――睨むでなく、見る。
世界全ての人間へ、真実の愛を齎そうとする目に射竦められ、城壁上の兵士達は、もはや武器を持つ事さえ侭ならぬ震えを起こす。
これには勝てぬと、対峙した相手に信じさせる類の存在が有る。雪月桜や波之大江三鬼がそうで、それ以上に〝大聖女〟エリザベートは、〝人〟ではどうにもならぬ存在であると、他者に一方的に信じさせる力を持っていた。
「どうしました、居ませんか。ならば私から、貴女に会いに行きましょう」
緩やかに歩みながら、エリザベートは城門へと向かう。通り過ぎざま、三鬼の背にそうっと触れれば、三鬼の傷はそれだけで塞がる。
ただ歩くだけの敵――その前に、桜は立ち塞がった。
「……止まれ」
警告に応じる声は無い。エリザベートの首を、桜は斬り落とした。
首無しの体が、落下した頭部を拾い上げようとする。その体を蹴り飛ばし、頭部を拾い上げた桜は、それを城壁へ思い切り投げつけた。美しい女の顔は、ぶ厚い城壁に叩き付けられ、見るも無残な肉の破片と成り果て――首無しの体はそれでも、城門へ向かって歩き続ける。
「止まれっ!!」
今一度の警告と共に、桜はエリザベートの体へ刀を振るった。
二度の斬撃で四つに切り分け、更に脚は三つに切り分け、バラけた体を蹴り飛ばした。
すると――破片にされた肉が溶け、雪へ沁み込んで消え、代わりに雪上から小さな蛇が顔を出した。
何匹も、何十匹も、何百匹も――無数の蛇が顔を出し、桜の正面で寄り集まる。
そうして形を作ったのは、微笑みもまるで崩さぬ、エリザベートの姿であった。
「どうして無益に戦うのです、黒八咫よ。貴女の力は私の元で、人の為に振るわれるべきです」
「……生憎と、唯一神とやらが気に食わぬ性質でな」
「ユディト記を諳んじる貴女には、似合わぬ言葉です」
「宗教家は皮肉も通じぬのか?」
エリザベートは死なない。桜は道を譲らない。短く交わした言葉は、道が決して交わらぬ事を示している――決して理解し合えぬ二人なのだ。
百度殺して死なぬなら、千度でも殺そう。桜は飽かずに刀を構え――その背後で、硬く閉ざされていた城門が開いた。
「桜、下がってくれ。今は私の方がいいだろ」
煙管に煙草、火――籠城中故に禁じていた嗜好品を、今はたんと胸に吸い込んで、
「比叡山の大将、狭霧紅野だ。あんたの問答、受けて立つよ」
紅野は槍一振りを携え、エリザベートの前に立った。




