群れのお話(4)
さて、また日が変わり、村雨が大立ち回りを演じた翌日となった。
詰所代わりの大部屋には、小さな机が一つ運び込まれている。村雨が、自腹で買い求めた机である。
その前に朝から座って、村雨は何やら、紙に筆で示していた。
「ねえ、こんな感じでいいの?」
「問題は無い、と思われるが……」
その文面を横から覗き込む者が居る。
先程まで、いやその表現は改めるのが良い、いやその字は間違っていると、あれこれ校正に口出していた者でもある。
「そう? 良かったー……じゃあ、これで行って見る?」
「……然し、何故拙者を呼んだ」
なんとその男は、巨体の鬼であった。
身の丈は一丈二尺八寸、体重二百四十七貫。座っていても、村雨が立つよりまだ巨体――白槍隊の隊長、波之大江三鬼である。
清廉潔白の精兵部隊である白槍隊と、狭霧兵部の私兵として専横する赤心隊は、決して仲が良くはない。為に、赤心隊隊員の目は、かなり刺々しいものが有った。
「政府軍の人で、知り合いがいないんだもん。あなたは二回会ってるし……それに、親切だったからね」
「親切、とな」
「あの時は助けてくれてありがとうございました」
冴威牙に捉えられた折、村雨は三鬼に助けられている。礼も言わぬままであったと思いだし、仕上げた書状を畳みながら、数か月遅れで村雨は感謝を言葉にした。
「……礼には及ばぬよ。こやつらの蛮行、拙者には些か思う所が有ってな」
赤心隊の隊舎の中に居ながら、三鬼は堂々と、彼等への悪感情を口にする。その裏には、彼等全員が敵に回ろうと、己一人で捻じ伏せられるという自信も有るのだ。
だが、無双の剛力を誇る鬼であろうと、あまり正面から好意を向けられると気恥ずかしくなるものか、顔を横へ背けながらの謙遜であった。
「……それに、打算も少し」
三鬼が首を向けた方へと回り込みながら、村雨は言葉を続ける。
「ほう、申してみぃ」
「あなたの口添えが有ったら、この申請が通り易かったりしないかなーって」
片目を瞑り、悪戯っ気を押し出すような表情を、村雨は作ってみせる。
その言葉は、三鬼には余程の不意打ちであったのだろう。言葉の意を取ろうと、暫し間抜けな顔のままで居た。
「……口添え?」
「そう。私だとまだ実績も無いしさ、通らないんじゃないかなーって思って。あなただと、ほら、ちょっと怖い顔したらなんでも通りそうじゃない?」
邪気無く、村雨はそういう事を言った。
子供が上手い事を思い付いて、それを父親に自慢しているような口ぶり――とでも言えば良いのだろうか。自身も父親である三鬼には、堪らない声音である。
村雨が作っていたのは、赤心隊の兵員増強に関する申請であった。
羽織などの軍装に加え、月給、賄いなど、現隊員と全く同等の待遇を得られる者を、幾人か。
だが、追加する人員の名前は空欄。これから村雨が、己の目で選ぶという事であるらしい。
数十や数百という規模では無く、たかだか十数人の枠が欲しいという内容では有るが――成程、ただ村雨が提出したのでは、あっさりと却下されるだろう。
「ねー、もう一回だけ手伝うと思ってさー」
「……子供と思えば、とんだ悪党にござった」
「悪党上等、これでも『錆釘』でやってきたんですー。これが通れば、いろんな事が出来ると思うからさー」
額に手を当て、厄介な子供に捕まったと呻く三鬼だが、村雨は殊更に明るい声を保って、その顔を更に覗き込む。
江戸に居た頃から、中年の男には受けが良い村雨である。自分の取り柄を最大限理解して、三鬼に強力をねだるのであった。
「〝いろんな〟とは、どういう」
頭を抱えたまま、三鬼は問う。
「例えば、戦争を止めたりとか?」
その問いに村雨は、何も気負う事なく、軽く投げるように答えを出した。
あまりに軽く発された為、何一つ聞き逃しはしなかったというのに、三鬼は己の耳を疑った。
顔を上げて見れば、村雨は何か特別な顔をするでも無く、ただ、中年受けが良くなるように朗らかな顔を保っているばかりであった。
「……その言、真実にござるか」
「具体的な方法は、まだ何も見つけられてないけれど……でも、私一人より、人手が多い方がいいでしょう?
正直ね、私は運が良かったと思う。良い人にばっかり出会えたし、強くなれた――三鬼さんにだって助けて貰えたしね。だからこそ、〝運が良かっただけ〟で終わらせたくない。折角の運を全部使い果たすのが、私のやるべき事だって思うの」
「願いが通ったならば、まず、何をする」
「もっと、もっと人を集める」
三鬼は座り、村雨は立ち――これで顔の高さが、やっと同じ。額を突き合わせて、二人は話している。
肉の重量ならば、三鬼は村雨の十倍も、二十倍も有る。それに比例するだけの重圧も備えている。
だが、この時、会話の主導権を握っているのは村雨であった。村雨が、鬼を、意気で呑んでいた。
「人に会うと、その繋がりが、また別な人に合わせてくれる。そうやって繰り返して行けば、何時か、手がかりが見つかるかも知れない。
兵部卿より偉い人に会えて、その人から戦争を止めてくれるように命令してもらえるかも知れない。何処かの凄い軍を持ってる人に会えて、比叡山の包囲網を突き破れるかも知れない。
どんな方法が有るかは分からないけど――とりあえず、動いてみたいの、その為に」
三鬼は、最後までその言葉を聞かなかった。ぬぅと立ち上がり、天井に頭を擦らせながら、障子を開け放つ。
二条城の庭園は、雪の為にその造形美は隠されているものの、広さと白さが眩い。その上を、鬼灯の如き目で睨んで、三鬼は暫し立っていた。
「……娘御。改めて問う、名は」
「村雨」
「良い。村雨、拙者に着いて参れ」
ずん、と重い足音を立てて歩き始める三鬼。その腕に飛び付くようにして、
「ありがとう、おじさん!」
「……おじさんは止めてくれぬか」
村雨は最後まで、子供のような振る舞いを忘れなかった。
目的の為なら、少々の良心の呵責は押し殺す。
厚かましく図太く、成長したものであった。
「さーって、と。こっちは終わったしー……ルドヴィカ、そっちはどう?」
書類を提出し終えた村雨は、休みもせず、練兵場まで走った。
練兵場――政府軍の兵士達が、集団行動や武器術を学ぶ為の場である。
二条城から見て北に、広い土地を確保して作られているが、多い時には数千の兵士が一度に集まり、調練に励む。
ルドヴィカ・シュルツは写真機を首から下げて、手に何枚もの写真を持っていた。
「終わってるわよ! ……ったく、私を雑用係みたいに使いやがって」
「上司だからねー。私のおかげで犯罪者じゃなくなったんだから感謝するように」
ルドヴィカも立場上は、赤心隊の隊員である。赤い羽織が支給され、それを常の衣服の上に重ねている。
元々、政府の公認誌として文章を書いていた所が、政府の――というよりは狭霧兵部の意向に背いた文章を書き、為に追放されていたのがルドヴィカである。追放後も洛中に潜み、取材と称して非合法の瓦版を売り歩いていたが、村雨が持ちかけた計画に乗ったのだ。
即ち、政府の中から、内乱を見る事。
村雨は、戦を止める為。そしてルドヴィカは、戦を己の目で見て、文献として残す為。その為に、白昼堂々と、政府の目の届く所を歩ける立場が欲しかったのだ。
そして、今の所、その計画は上手く行っている。上手く行っている間はルドヴィカも、文句は言いつつも、村雨に協力はするつもりであった。
「……それが?」
「ええ、動きが良い奴って注文だったから、これくらい撮っておいたわ」
「ふぅん……ちょっと貸して」
ルドヴィカは村雨に、手に持っていた白黒の写真を渡した。
写真は何れも、かなり近くから撮影したものである。
訓練の最中と見えて、手足は動き、ぶれているが、顔だけは確りと映っている。
併せて数十人分――成程、精悍な顔立ちの男、或いは女ばかりである。
「ん、ありがと! この人達、どの辺に居るか分かる?」
「……あんた、まさかあの人数の中を探して回るつもり? 別に呼んであるわよ」
「あれま」
あの人数――今日は少々少ないが、それでも千人近くが鍛錬に励んでいるのだ。そこから、白黒の写真を頼りに探すのは一苦労だろう。
「どうせ、引き抜きでも掛けるんでしょ。たっぷり赤心隊の特権乱用して、教官から命令させて、そっちに待ってて貰ってるわよ」
「ルドヴィカ、やるねー。ありがと、ちょっと行ってくる!」
「はいはい、私は適当にぶらついてるわよー」
ルドヴィカが指さした方向――屋根もある、休憩所のような場所である。
本来は、練兵を視察に来たお偉方が休む為に設けられた場所だが、その為にやたらと広い。百人ばかりは収容できそうな空間である。そこに兵士達が、数十人ばかり待機していた。
「こんにちはー、集まって貰ってごめんなさいね」
村雨がその部屋へ入って行くと、兵士達は無言で姿勢を正す。
一つ一つは小さな足音が集まって、ざん、と大きな音になって、村雨を叩いた。
「……うわお、格好良い」
規律正しい、真っ当な兵士――数日ばかり赤心隊のちんぴら崩れを相手にしていた村雨には、新鮮に感じられるものである。
一糸乱れぬ彼等の佇まいを、心地良いものと見ながら、村雨は彼等の間を歩いた。
「ちょっと、失礼するね」
兵士達の間を擦り抜けて、左から、右へ。
それからもう一度、右から左へと、抜ける。
全ての兵士の横を、一度は必ず通るようにして、村雨は歩き――三人の肩を叩いた。
「ん、良し。皆、訓練の邪魔してごめん、ありがとう。もう戻ってくれて大丈夫だよ」
そう言って村雨は、休憩所を出る。
兵士達も、何故集められたのかは分からぬのだが、良しと言われた以上、留まっている理由も無い。皆、ぞろぞろと休憩所を出て、また練兵場へと走って行った。
村雨は、彼等を見送ってから、また休憩所へと戻る。
其処には、村雨に肩を叩かれた兵士が三人、思い思いの恰好で残っていた。
一人は、床に胡坐を掻いている。
一人は、寝そべっている。
そして残る一人は、壁に寄り掛かって立っている。
彼等三人は、村雨が戻って来るや、分かり易く好奇の目になった。
「や、悪いね、残ってもらって」
村雨はそう言いながら、片手を上げるだけの、肩肘張らない挨拶をする。それから、胡坐を掻いている一人の前に、同じ格好で腰を下ろした。
「なんであなた達を選んだかは、まぁ……多分、分かって貰えてると思うんだ。だから用件なんだけど――」
そこまで言うと、村雨の正面に座る兵士が、手を伸ばして言葉を静止した。
「待遇次第だ。働く場所はどうなる?」
「赤心隊の隊員、かつ私の直属の部下。……まぁ、あの兵部卿の直下の部隊って事だから、割と大事にされるんじゃないかな?」
「赤心隊か……」
「前は本陣守護だったし、平時はどれだけ休んでても起こられないし。休日取り放題、勤務時間に外出し邦題だよ」
「ひっでえ」
座る兵士は、提示された待遇を笑い飛ばしながら、制止の手を引っ込める。
胡坐を解き、正座に変えて頭を下げた――村雨の言を受け入れたのである。
「お給料は?」
次に訊ねたのは、壁によりかかった男だった。
「うちの娘が育ちざかりで、可愛い着物を着せてやりたくって」
「お給料は良いみたいだよ……というより、兵士のお給料が安すぎるだけかも」
「頭も技術も無い輩が、最後に稼げる手段がこれなんだって。嫁さんに逃げられちゃってさー……」
「あちゃー……うん、今の倍くらいにはなるんじゃない? 赤心隊、正直貰い過ぎな所もあるからね」
「気に入った!」
その男は立ったまま、左の掌で、右手の拳を包んだ。
大陸風の礼ではあるが、こちらも良しと認めたのである。
さて――残るは一人、寝そべったままの男。
村雨は、寝そべる男の近くにまで赴き、膝を曲げて屈んだ。
「……どおらっ!」
「わっ!」
するとその男は、いきなり両脚を振り回して、村雨の頭を狙ったのである。
村雨は咄嗟に飛び退くも、何か身構えるというような事はしない。両手をだらりと垂らして、ただ、立っているだけである。
「……あなたの望みは、聞かなくても分かっちゃった気がする」
「そうだ、強い奴に俺は従う」
「やっぱり? あなた、〝熊〟なのに気性が荒いんだね」
男は立ちあがり――姿を変えた。
男の肩と腕が、倍程にも膨れ上がり、体を針金の如き体毛が覆う。
体毛の色は、黒。下手な刃物なら弾いてしまいそうな、分厚く硬そうな毛である。
手も変わる。ごつく、節くれだち、爪は長く鋭く、そして湾曲する。
亜人――熊の亜人である。
一般的に熊の亜人は温厚かつ臆病な者が多いが、この男はそうでは無いらしかった。
「ぅうおおおおぉっ!」
巨木の如き腕が、村雨の胴体目掛けて薙ぎ払われる。
直撃すれば、家の柱でさえ圧し折りかねない腕である。
また、速度も恐ろしい。
あまりにとんでもない速度で振り回されたが為か、爪が笛のように、ひぃと音を鳴らした程だ。
「ほぉおおお……熊、すごい」
だが――村雨はそれを、感嘆しつつも避けていた。
「……んが!?」
村雨は、振り抜かれた腕の上に飛び乗り、爪先を、男の顔の手前で止めていたのである。
靴の爪先が、眼球に触れる一寸手前――まさに寸止め。
お前の目を奪えていたと、暗に警告する一手であった。
「へー、あんたは熊か。その図体だと、腹も減るでしょ?」
壁に寄り掛かっていた男が、動けずに居る熊亜人の後ろまで歩いて行き、そう言った。
日の元の人間、特にある一定の線より上の年齢層は、亜人を好まない者が多い。
然しこの男は、寧ろ朗らかになって話しかけるのである。
「ちなみに俺は、こういう感じ。嫁さんもそうだったんだけどねー……なんで逃げられたんだろ」
寄り掛かっていた男が口を開くと、その奥から、二股の舌が顔を覗かせた。
見れば、瞳孔の形状も何時しか変質し、縦に長く化けている。
手の甲に浮かぶ緑のものは、鱗であろうか――この男は〝蛇〟であった。
「……やっぱそういう事か。なら、俺達の大将は何なんだ?」
正座に切り替えてそのままだった男は、全身がぐうと巨大に膨れ上がる。
どうにも、人と獣の間の姿というものが、かなり獣に近い性質であるらしい。
腕の形状はさておき、手首から先は完全に前足に化け、また衣服の隙間から尾が伸びた。首から上は完全に、虎のそれに変わってしまった。
「冴威牙の事? あいつは多分――」
「違う、違う。あれが亜人だってのは知ってるんだよ、有名だ。そうじゃなくて、俺達の大将」
「つまり、お嬢ちゃん。あ、お嬢様ってお呼びした方が良い?」
虎男が言い掛けた言葉を、蛇男が冗談めかして繋ぐ。
この二人は既に、村雨の提示した条件下で働くつもりでいるらしく――
「俺達ばっかり種明かしはねぇだろ……だろ?」
熊亜人も、腕に村雨を乗せたままだが、重そうな顔一つしないでそう言った。
三人に促された村雨は、にぃと笑ってみせると、服の袖を捲り上げる。
その腕が、灰色の体毛に覆われる。
首も、衣服に隠れて見えないが背中も脚も、同様に変わっているのだ。
眼球強膜の変色、瞳孔拡大、歯列の形状変化、関節可動域の拡大――冴威牙に言わせれば〝美人に化けた〟姿で、
「私は村雨、狼。人狼なんて呼ばれ方の方が多いかもね」
「……ひゅう。思ってたより怖いお嬢様でございました」
蛇男が茶化すように口笛を吹いた。
村雨の計画の一段目――それは、亜人を集める事であった。
兵士が数千も居るならば、その中に何人かは混ざっているだろうと、村雨は推測していた。
果たして推測の通り、臭いが明らかに違うものは居たし、それは容易く嗅ぎ分けられたのである。
ルドヴィカに、兵士の中でも動きが良いものを選別させる。
その中から村雨が、更に亜人だけを選び、部下とする。
何故、亜人だけを選ぶのかは――これも幾つか、理由が有る。
大なり小なり、亜人は、人間社会で疎外感を覚えている者が多い。だから、同じ亜人である自分に与する者は多いだろうというのが、一つ。単純に身体能力が高い者が多いのも、一つ。加えて、臭いが独特である為、村雨が後から探そうとする時、人の群れに混ざっても見つけやすいというのが一つである。
もう暫く村雨は、この選別を繰り返すつもりで居た。
練兵場は、全ての兵士が、少なくとも五日に一度は訪れる。つまり五日間張り込めば、洛中方面に居る、全ての政府軍兵士を見られる事になる。
そこからの一次選別は、ルドヴィカの目に全てを任せる――人を見て値付けする事に慣れた目だ。
最終的に、十数人も集まれば良いと、村雨は考えている。
それ以上では、今の自分には扱い切れない。少なすぎれば力を発揮できない。きっとその線が限界であろうと考えていた。
「で、俺達はどうするんだ。赤心隊って言われても、なんか気に入らないぞ」
「じゃあ、村雨組はどうだ。いかにも悪党みてえでいいんじゃねえかな」
「え……なんかやだ。私は正義の味方でありたいんだけど」
虎男がそう言うと、熊男が、思いついた案をそのままに口にする。残念ながらその案は、村雨によって一蹴される。
呼称はさておき、兵部卿の私兵である赤心隊の中に、更に村雨に傾倒する一派が、これから出来上がって行くのだ。
数日――僅か数日で、詰め所代わりの大部屋は様変わりするだろう。
その光景が楽しみでならず、村雨は、三人と硬い握手を交わした。
「……冴威牙様。どうして何も言わないでいらっしゃるのです!」
「だーかーらー、言っただろ? 買わなきゃねえ喧嘩も有るんだって!」
その大部屋の中では、寝そべる冴威牙を、紫漣が揺り動かしながら、強く訴えていた。
元は紫漣が、赤心隊の副隊長であった。
それが、狭霧兵部のたった一言で座を追われて、挙句後任の村雨は、何やら勝手に動いている。
村雨が上げた申請は、赤心隊の隊長である冴威牙の元へも、勿論知らされている。申請の書面さえ、原本に目を通しているのだ。
書面は、村雨と、波之大江三鬼の連盟で提出されていたが、冴威牙はそれに、自分の名まで書き加えて再提出したのである。
「信じられません……貴方が、冴威牙様が、私達の王なのです! それなのに、あんな小娘に好きにさせるなんて……」
紫漣は、もはや半狂乱という有様で、髪を振り乱し、冴威牙に縋り付く。
然し冴威牙の目は、紫漣も、他の隊員の誰をも見ず、何処にも焦点を合わせないで虚空を彷徨っていた。
――群れの長として、挑戦されている。
冴威牙は、犬の亜人である。
冴威牙は幼い頃より、群を為すのが好きだった。
種族の為も有るのか、そういう気性に生まれついてしまっただけなのか。数歳年上の子供まで、喧嘩で叩きのめし、従えて歩いたものである。
だが、日の本で、亜人は蔑まれる存在であった。周囲の子供が、そういう〝分別を弁える〟歳になると、冴威牙は生まれた土地を離れ、あちらこちらと彷徨い歩いた。
然し、生き方は変わらない。
力を見せ、叩き伏せれば、力に餓えた若者は、例え亜人にだろうと従う。生まれなど、力の前では霞んで消えるのだという確固たる信念が、冴威牙を支える柱となった。
狭霧兵部和敬の部下として、膝を屈している今も、何れ力で勝ってやろうという気概は衰えていない。
そういう男が、群の長としての力量で、勝負を挑まれたのである。
挑んできた相手は、まだ子供のような、然も雌の狼である。
それが、殴り合いの喧嘩の術を学んで、自分の部下をあしらって見せた。
最も信頼している側近まで一蹴して、今また、自分の群を作ろうとしているのである。
その動きを阻害するのは、村雨が作る群を恐れていると言うのも同じ事。
即ち、群の長として――従える者として、劣っていると認めるに等しい事なのだ。
少なくとも、冴威牙の価値観の中では、そうなっている。
「紫漣よぅ」
「………………」
「拗ねるなって。俺は、あのチビより良い男だろ?」
「当然ですっ! そもそも向こうは女ですっ!」
不貞腐れ、頬を膨らましながらでも、紫漣はそう言った。
――そうだろう、その筈だ。
群と群を比べて、勝つ。
兵士と兵士を、副官と副官を、そして大将同士を比べて、勝つ。
そういう喧嘩を売られてしまったなら、群の長として、退く訳にはいかない。
真っ向から受け止めてやろう――何も妨害などせず、ただ牙の鋭さだけを競うのだ。
冴威牙は何処までも獣として、獣である村雨の挑戦を受け切るつもりであった。




